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すべてのモブヒロインたちに幸あれ! —脇役を愛する勇者の異世界譚—  作者: 臂りき
第1章 図書館の司書お姉さんと、最低で最高の最期
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第4話 静かな追跡、あるいは愛の終わり

 その日から、出芭平助の生活は、さらに一段階だけ終わった。


 終わった、というのは比喩である。

 社会的な意味ではまだ終わっていない。出勤はするし、会議にも出るし、上司に雑な修正依頼を投げられれば舌打ちを飲み込んで対応する。昼休みにはコンビニのおにぎりを二つ買い、たまに三つ目を迷って諦める。ごく普通の社畜だ。


 ただ、そのすべての合間にある思考の優先順位が、完全に入れ替わっただけである。


 図書館の閉館時刻。

 職員用出入口の有無。

 司書お姉さんが退勤する曜日ごとの傾向。

 雨の日の傘の扱い。

 荷物が多い日と少ない日。

 閉館後、まっすぐ駅へ向かう日と、途中でコンビニへ寄る日。

 その時の歩く速さ。

 信号待ちで立つ位置。

 後ろを気にする癖があるかないか。


 ここまで来ると、もう『観察』という言葉にも少し無理があった。


 平助にもそれは分かっている。


 分かっているからこそ、彼は自分の中で、いくつかのルールを増やした。


 一定以上は近づかない。

 帰宅先までは追わない。

 あくまで駅まで、あるいは人通りの多い通りまで。

 話しかけない。

 触れない。

 助けを求められていない限り、直接介入しない。

 警察に通報すべき状況なら、まずそちらを考える。


 増えたルールが、彼の良心の証明になるわけではない。

 むしろルールを増やさなければいけない時点でだいぶ危うい。

 だが、人は崖の縁に立った時、そこでようやく柵の大切さを知るものなのだ。


 平助は数週間、図書館へ通い続けた。


 いや、通い続けたという表現は正確ではない。

 以前も通っていた。

 問題は、その質だった。


 前までは館内で完結していた。

 新刊棚を眺め、郷土資料コーナーを冷やかし、閉館前に二冊か三冊借りて帰る。必要に応じて雑誌コーナーから貸出カウンターの様子を確認しつつも、あくまで『図書館利用者』の顔を守っていた。

 だが今は違う。


 閉館五分前の空気の変化まで、意識が向く。


 利用者が減る。

 館内放送が入る。

 返却台の本が片づけられ始める。

 児童書コーナーの椅子が静かに整えられる。

 司書お姉さんの動きも、貸出対応中心から、締め作業を意識した端正なリズムへ変わっていく。


 そこがまた、よかった。


 閉館前の彼女は、昼間よりさらに美しい。

 無駄口を叩く利用者も減り、残るのは本当に本が好きそうな客か、時間感覚の薄い学生か、あるいは少し困った常連くらいだ。そんな薄まった人の流れの中で、彼女は静かにカウンターを整えていく。

 返却済みの本を揃える指。

 端末へ落ちる視線。

 肩の力が抜けて、けれど気は抜いていない姿勢。

 疲れているはずなのに、最後まで雑にならない仕事ぶり。


 良い。


 実に、良い。


 昼間の彼女が『働く人』の美しさなら、閉館前の彼女には『今日を終わらせる人』の美しさがあった。

 それは派手さの対極にある魅力で、主役の照明が当たる場所とは真逆の、照度の低い職場の片隅でしか育たない種類の色気だった。


 平助はそんなことを考えながら、毎回ちゃんと本も借りた。

 ここは重要である。

 彼は追跡のついでに図書館へ来ているのではない。図書館へ来た結果として追跡が発生しているだけだ。

 たとえば現代文学の短編集を借りた日もあった。民俗学の入門書を借りた日もある。海外ミステリに手を出して、翻訳の癖の強さに一瞬ひるみつつ、でも彼女が棚に入れている以上読み切るべきだと謎の責任感を発揮したこともあった。

 読んだ。ちゃんと読んだ。

 そして翌日、少し寝不足になった彼女の目元を見て、「昨日は棚替えかイベント準備でもあったのだろうか」と推理してしまうあたりで、自分が順調に終わっていることも理解していた。


 男は、いたり、いなかったりした。


 だから余計に厄介だった。


 毎日現れるなら、まだ分かりやすい。

 図書館側も顔を覚える。警戒もしやすい。

 だがその男は、間を空けた。二日来ないかと思えば三日目に来る。平日に現れたかと思えば、土曜の混んだ時間帯にも紛れる。雑誌棚にいたかと思えば新聞台にいて、次は普通に文芸書の棚を歩いている。


 そして決まって、司書お姉さんのいる場所を見ていた。


 露骨な時もあれば、ほとんど分からない時もある。

 だが平助には、もう見分けがついてしまっていた。


 目の止まり方が違うのだ。


 本を探している人間の視線は棚の背表紙へ散る。

 待ち合わせの人間の視線は入口や時計へ戻る。

 なんとなく暇を潰している人間の目は、焦点を失って漂う。

 けれどあの男の目は、いつも一点の周囲を円を描くように滑る。

 中心があって、その周辺情報を拾う目だ。

 つまり、対象を見失わない目。


 最初の一週間で、平助はそれを確信した。


 二週間目には、さらに嫌なことが分かった。


 男は、館内だけを見ていない。


 ある日の閉館後。

 司書お姉さんはいつも通り、閉館作業を終えたあと、数人の職員と一緒に裏口ではなく一般の通用に近い職員出入口から出てきた。シフトや業務内容によって出る場所が違うことは、平助もこの時点でなんとなく掴んでいた。いや、そこまで把握していてなお『自分はまだギリギリだ』と思い込める人間の脳はずいぶん都合がいい。


 その日は小雨が降っていた。

 司書お姉さんは黒に近い紺色の折り畳み傘を差し、肩に大きすぎないトートバッグを掛けていた。濡れた舗道を、少しだけ歩幅を狭めて進んでいく。

 雨の日の彼女はよくない。

 髪の毛先の癖が少しだけ強く出るし、眼鏡のレンズに細かな水滴がつかないよう、顔の角度をわずかに下げて歩く。その仕草に生活が出る。最悪だ。好きにならない方が無理だろう、という話である。


 だがその日、平助の感想は途中で強制終了した。


 通りの向こうに、男がいた。


 傘を差して、コンビニの看板の下に立っている。

 雑に立っているようでいて、位置がいい。

 図書館の職員が出てくる導線と、駅へ向かう歩道の両方を見渡せる位置。


 偶然かもしれない。


 平助はそう思おうとした。

 思おうとはしたが、その直後、司書お姉さんが歩き出すと、男も数秒遅れて動いた。


 一定の距離。

 急ぎすぎず、離れすぎず。

 傘の角度で顔を半分隠しながら。


 平助はその瞬間、胃の奥が冷たくなるのを感じた。


 館内の客、ではない。

 終わらない。

 外まで来ている。


 それからの平助は、もうほとんど執念だった。


 もちろん、表向きの生活は続けた。

 会社で資料を作り、会議でどうでもいい話を聞き流し、残業を切り上げられそうな日は切り上げ、切り上げられない日は内心で発狂しながらも定時後の導線を脳内で計算した。

 あの男が来る日。来ない日。

 司書お姉さんの退勤時間が早い日、遅い日。

 職員が複数で帰る日、一人になる日。

 駅前が混む曜日。

 雨で人が減る時間帯。


 そして図書館では、相変わらず変態でもあった。


 館内を巡る彼女の歩幅。

 棚の高い位置へ手を伸ばす時、ブラウスの袖がわずかに引かれて手首が見える感じ。

 返却本をワゴンへ載せる際、表紙を痛めないよう角から揃える癖。

 昼より少し疲れた夜の声。

 利用者の質問が長引いたあと、眼鏡の位置を直して一度だけ小さく息を吐く瞬間。

 職員同士で短く交わす業務会話の、柔らかすぎない距離感。

 資料整理日に限って結ばれる髪。

 イベント準備の日にだけ履いている少し動きやすそうな靴。


 全部、好きだった。


 好きで、好きで、そのたびに平助は自分の頭がおかしいことを再確認した。

 再確認した上で、あの男の存在を思い出すたびに、感情の色が変わる。

 鑑賞では終われない。

 この人を好きでいることが、ただの気持ち悪い観測では済まなくなっている。

 それが嫌だったし、でももう戻れなかった。


 三週間目、男はさらに一線を越えた。


 図書館のすぐ近くではない。

 駅前でもない。

 その中間の、人通りがまだあるようでいて、夜になると妙に隙間ができる通りだった。ドラッグストアの明かりと、閉店後のクリーニング店のシャッター、その間に小さな駐車場の入口があって、歩道の幅がわずかに広い。

 司書お姉さんがそこを通るのは毎回ではない。だが、コンビニへ寄った日や、駅前の混雑を避ける日には使うことがある。


 平助はその日、少し離れた位置から彼女の導線を見ていた。

 見ていた、という表現はさすがにもう苦しい気もするが、追っていたと言い切るには自分の良心がまだ抵抗した。

 抵抗しているだけで、実態は大差ないのだが。


 司書お姉さんはその通りへ入った。

 男が、先回りしていた。


 背筋に、冷水を流し込まれたみたいな感覚が走る。


 後ろからつけるだけじゃない。

 前へ回っている。

 導線を知っている。

 待ち伏せだ。


 男は自販機の横に立って、スマホを見ているふりをしていた。

 彼女が近づく。

 男が顔を上げる。

 自然を装って、ほんの半歩だけ歩道の中央へ寄る。


 平助は息を止めた。


 司書お姉さんは、その動きに気づいた。

 気づいて、足をわずかに緩めた。

 それから、何もなかったみたいに歩道の内側へ寄って抜けようとする。


 男も、さりげなく同じ方向へ体をずらした。


 そこで初めて、彼女が露骨に立ち止まった。


 ほんの二秒。

 それだけだった。


 だが、もう十分だった。


 怖いのだ。

 当たり前に。


 男は何か話しかけた。

 距離があって内容までは聞こえない。

 ただ、その顔を見た瞬間、平助の中の理性がずるりと剥けた。


 笑っていた。


 あれは館内で見せる笑い方ではない。

 カウンター越しに社会性を取り繕う時の、薄い笑いではない。

 もっと剥き出しの、近づいてもいい距離まで来たと確信した顔。


 司書のお姉さんは小さく首を振り、そのまま男を避けて歩こうとした。

 男が、腕を伸ばしかける。


 その瞬間、平助の足が完全に前へ出た。


 だが、その前に、通りの向こうから自転車が二台続けて入ってきた。

 男は舌打ちするように手を引き、司書お姉さんはその隙に距離を取る。

 彼女は振り返らない。

 早足になる。

 男は数歩だけ追う素振りを見せて、やめた。


 平助は角の陰で立ち尽くした。


 心臓が痛いほど鳴っている。

 遅かった。

 いや、まだ間に合ったのか。

 そもそも自分は何をするつもりだった。

 叫ぶのか。

 飛び出すのか。

 男を殴るのか。

 警察を呼ぶのか。

 何も決めていない。

 何も決めていないまま、体だけが動いていた。


 そしてその日を境に、男の動きが変わった。


 頻度が増えた。

 館内でも外でも、距離を詰める試みが露骨になる。

 司書お姉さんはますます警戒しているようだったが、だからといって業務を休むタイプではない。図書館側へ相談している気配も、平助の位置からは読み取れなかった。いや、読み取れなかっただけで、していたのかもしれない。だが、少なくとも男は止まっていない。


 平助は数晩、ほとんど眠れなかった。


 読書量だけは増えた。

 眠れないなら本を読むしかないからだ。

 だが頭に入らない。

 頁をめくるたび、司書お姉さんの疲れた横顔と、男のあの手の伸び方が浮かぶ。


 会社ではコーヒーの量が増えた。

 会議中に「すみません、少し考えごとを」と口走りそうになって危うく社会を失いかけた。

 昼休みに図書館周辺の交番の位置を再確認した自分へ、本気で吐き気もした。

 だが吐き気がしたからといって、やめられるわけではなかった。


 そして四週目。


 その日は、空気が最初からおかしかった。


 図書館へ入った瞬間、平助は妙なざらつきを感じた。

 理由はすぐに分かった。男が、開館からいる。


 しかも今日は、本を持っていない。

 新聞も雑誌も手にしていない。

 ただ館内を回っている。

 回って、時々どこかで止まる。

 その視線の先には、必ず彼女がいる。


 司書のお姉さんのほうも、今日は明らかに硬い。

 利用者対応は崩れていない。

 崩れていないが、カウンターの端にいる同僚と短く言葉を交わす回数がいつもより多い。

 職員同士で視線を配っている。

 分かっているのだ。

 分かっていて、それでも『まだ警察を呼ぶほどではない何か』として処理せざるを得ない線上にいる。


 閉館が近づくにつれ、平助の喉の奥はずっと乾いていた。


 今日はまずい。

 理由は説明できない。

 だが、まずい。


 男の目が違う。

 妙に落ち着いている。

 何かを決めてきた人間の顔をしている。


 閉館十分前。

 男は館内から消えた。


 平助の背筋が凍る。


 帰ったのではない。

 これはたぶん、違う。


 先に出た。

 先に外へ回った。


 平助は借りる予定だった本を三冊まとめて腕に抱え、閉館直前の利用者を装ってカウンターへ向かった。

 司書お姉さんは対応する。

 いつも通りに。

 だが、その目元には隠しきれない疲れがあった。


 貸出処理のほんの一瞬、平助は思った。


 言うべきか。


 気をつけてください。

 あの男が外にいます。

 そう、言うべきか。


 だが言えない。

 言えるわけがない。

 どういう立場で、どこまで知っていて、なぜそこまで把握しているのか。

 説明がつかない。

 自分もまた彼女にとっては十分に不気味な側へ転がり落ちていることを、誰より平助自身が知っていた。


「……ありがとうございました」


 司書のお姉さんが言う。


 いつも通りの業務の声。


 平助は本を受け取り、喉の奥に貼りついた言葉を飲み込む。


「……どうも」


 結局、それしか言えなかった。


 閉館。

 館内放送。

 利用者が吐き出されるように外へ出る。


 平助は、少し離れた位置で待った。


 息がうまく吸えない。

 夜風は冷えているのに、手のひらだけが気持ち悪く汗ばむ。

 自動ドアの向こう、明かりの落ちた館内で職員たちが動く影が見える。

 数分後、出入口が開いた。


 司書お姉さんが出てくる。


 一人だ。


 その瞬間、通りの向こうの暗がりで、何かが動いた。


 男だった。


 立っていた。

 最初から。

 街路樹の影と、駐車車両の死角の間。

 明らかに、待っていた位置だ。


 平助の中で、何かが完全に切り替わる。


 男はもう迷っていない。

 館内の客では終わらない。

 世間話の延長でもない。

 次は、やる。


 今日だ。


 そう理解した瞬間、平助はほとんど反射で駆け出しかけた。


 だが男のほうが、先に動いた。


 司書のお姉さんの進行方向へ、一直線に。


 コートの裾が翻る。

 手が、懐へ入る。


 あの動きは、まずい。


 まずいどころではない。

 理解が現実へ追いつくより先に、平助の背骨を凶悪な確信が貫いた。


 刃物だ。


 次の瞬間には、もう間に合うかどうかの話になる。


 出芭平助は、借りたばかりの本を取り落としながら、地面を蹴った。



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