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すべてのモブヒロインたちに幸あれ! —脇役を愛する勇者の異世界譚—  作者: 臂りき
第1章 図書館の司書お姉さんと、最低で最高の最期
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第3話 カウンター越しの距離

「次の方どうぞ」


 司書のお姉さんの声は、今日も変わらず平坦だった。


 その声音の安定ぶりが、いまの平助にはほとんど残酷にすら思える。

 世界は何も知らないまま進んでいる。

 館内の空気も、本の匂いも、冷房の風も、すべてがいつも通りだ。

 なのに、その『いつも通り』の中心へ、ひどく異質なものが滑り込んでいく。


 男がカウンターの前へ立った。


 姿勢は自然だった。

 背筋も丸まっていない。

 必要以上に挙動不審でもない。

 手ぶらではなく、一冊だけ本を持っている。文庫ではない。単行本。表紙を見るに、館内から適当に抜いてきたものではなく、本当に借りるつもりなのかもしれない。


 そこが余計に質が悪い。


 不審者というのは、もっと分かりやすく不審でいてくれればいい。

 目つきが危ないとか、声が大きいとか、距離感がおかしいとか、何か一つでも露骨に社会性を失っていてくれれば、周囲は簡単に警戒できる。

 だが、こういう男は違う。

 一見すると何の問題もない。

 むしろ、何なら少し愛想がよく見える瞬間すらある。

 社会の内側に擬態することに、慣れているのだ。


「貸出をお願いします」


 男は言った。


 声は低すぎず高すぎず、耳障りでもない。

 おかしなところは何もない。


 司書のお姉さんは会員証の提示を求め、男はそれに応じた。

 バーコードが読み取られる。

 貸出処理。

 ここまでは普通だ。


 平助は新刊棚の陰から、半ば本を開いたまま様子を窺っていた。

 文字はまったく頭に入ってこない。いま目の前で展開しているのは海外文学の新訳ではなく、もっと粘着質で、もっと現実的で、もっと胸くその悪い種類の物語だった。


 男は、貸出処理が終わってもすぐには引かなかった。


 ほんの一拍。


 それだけの、しかし無視しきれない微妙な長さ。


 司書のお姉さんが視線を上げる。

 次の対応へ移る前の、確認の目だ。

 男はそれを待っていたかのように、口元へ薄い笑みを浮かべた。


「このあたりの棚、やっぱり詳しい方が選んでるんですか」


 世間話だった。


 少なくとも、言葉だけを拾えばそう聞こえる。


 司書のお姉さんは僅かに目を瞬かせ、営業用でも愛想笑いでもない、ただの事実確認の顔になる。


「新着棚の選書につきましては、担当ごとに分かれております」


「へえ。じゃあ、あなたが選んだ本もあるんですね」


 平助のこめかみが、ぴくりと動いた。


 まずい。

 非常にまずい。


 別に、その会話自体が即座にアウトなわけではない。

 図書館で司書へ本のことを尋ねるのは自然だ。新着や推薦の話をすることもあるだろう。平助だって、頭の中では一万回くらいしている。実際にはしないが。しないからこそ誇れる部分だってある。誇れるのか、それ。


 問題は、男の言い方だった。


 内容ではなく、温度。

 情報を得るための問いではない。

 話を続けるための問いだ。


 司書のお姉さんも、それを感じ取ったのかもしれない。

 彼女は少しだけ姿勢を正し、声の温度をさらに均した。


「複数の担当で調整しておりますので、特定の者だけの判断ではございません」


 完璧だった。


 素晴らしい切り返しである。


 自分個人へ話を寄せさせず、業務全体の枠組みへ戻す。

 距離を詰めさせない。

 だが、あくまで丁寧。

 拒絶ではなく、線引き。


 ああ、好きだ。


 こういうところが、本当に、どうしようもなく好きだ。


 平助は危うく感動しかけて、すぐに自分の胸ぐらを内側から掴み直した。いま感心している場合ではない。

 だが正直、感心するだろう、これは。

 業務で培われた線引きの上手さ。

 馴れ合いに流されず、無碍にもせず、しかし境界だけは絶対に越えさせないあの感じ。

 あれは高度だ。

 高度で、実務的で、地味で、そして――


 男は引かなかった。


「そうなんですね。でも、なんとなく分かる気がします。落ち着いた本、多いですよね。雰囲気に合ってる」


 平助は本を閉じた。


 静かに。音を立てずに。

 指先が少し白くなる。


 だめだ。

 それはだめだ。


 褒め言葉の顔をした侵入だ。

 相手の仕事ぶりや空間を褒めることで、そのまま本人へ接続しようとしている。館内の雰囲気、棚の落ち着き様、選書の傾向。そういう『公的なもの』を入り口にして、少しずつ個人の印象へ寄っていく。

 やり方がうますぎる。

 慣れている。

 それが、気持ち悪い。


 司書のお姉さんは一瞬だけ沈黙した。

 たぶん、返答の種類を選んでいる。

 流すか。

 短く受けるか。

 それとも、会話の終点を先に示すか。


「ありがとうございます」


 結局、彼女は最短距離を選んだ。


 礼だけ。

 そこに乗らない。

 会話を膨らませない。


 完璧だ。

 好きだ。

 いや本当にいまそういうのは――


「いつも、ここにいらっしゃいますよね」


 男が言った。


 その一言で、平助の中の何かが、明確に冷えた。


 来た。


 ついに、来た。


 司書のお姉さんの指先が、ほんの僅かに止まる。

 止まったのは一瞬だ。

 おそらく、周囲の利用者には分からない。

 だが平助には見えた。見えてしまった。


 やめろ。


 それ以上は業務の外だ。


 やめろ。


「勤務時間中は、こちらのカウンターにいることが多いです」


 彼女の返答は変わらず冷静だった。

 しかしさっきまでよりも、ほんの少しだけ声が薄い。

 温度を均したまま、一段引いた声。

 警戒している時の声だ。


 平助は知っている。


 いや、知っていてどうするという話だが、知っているものは知っている。

 苦情対応の時。

 妙に馴れ馴れしい利用者が来た時。

 館内で子どもが走り回って保護者が注意を聞かない時。

 彼女は決して露骨に表情を変えない。

 だが、声だけが、ほんの少し薄くなる。


 男は、その変化に気づいていないのか、あるいは気づいた上で楽しんでいるのか、さらに口角を上げた。


「いつも。帰り、遅いですよね」


 平助の視界から、色が一段階抜けた。


 静かな図書館だった。

 誰も大声を出していない。

 誰も走っていない。

 けれどその一言は、館内の空気に似つかわしくない、ぬめった異物としてはっきり存在していた。


 司書のお姉さんの目が、眼鏡の奥でわずかに細まる。


 その表情は、怒りではない。

 困惑でもない。

 理解だ。


 この男は、ラインを越えている。


 その理解が先に来る顔。


「申し訳ありませんが」


 彼女は言った。

 声はまだ平らだ。

 だが、今度は明確に拒絶の角度があった。


「業務と関係のないお話はご遠慮いただいております」


 その瞬間、平助はほとんど泣きそうになった。


 なんて立派なんだ、この人は。


 怖いだろうに。

 気持ち悪いだろうに。

 それでも声を荒らげず、相手を刺激しすぎず、しかし境界だけははっきり引く。

 社会人として、美しすぎる。

 こういう時のために接客業というものは、必要以上に人を大人にしてしまうのだろう。本人の望みとは関係なく。


 そして、それがたまらなく痛々しい。


 男は、ふっと笑った。

 今度は隠しもせずに。


「怒らせるつもりじゃなかったんですけど」


「怒ってはおりません」


「でも困ってるでしょ」


 平助の足が勝手に動いた。


 一歩。

 新刊棚の陰から、外へ出る。


 まだ遠い。

 カウンターまでは二メートルちょっと。

 間に利用者はいない。今この瞬間、男の後ろに並ぶ者がいないことが逆に最悪だった。列という緩衝材が消えている。


 司書のお姉さんは視線をわずかに下げた。

 それは怯えではない。

 相手を真正面から煽らないための処理だ。

 だが平助には分かってしまう。彼女の肩が、ほんの僅かに固くなっている。


 男はカウンターに肘こそつかなかったが、体重をほんの少し前へ預けた。

 近い。

 近すぎる。


「こっちだって、ずっと見てたんですよ」


 平助の喉の奥で、何かが焼けた。


 終わった。


 もう駄目だ。


 それは、冗談でも世間話でもない。

 向こうが先に、関係の形を言語化したのだ。

 おまえを見ていた。

 ずっと見ていた。

 そう告げた。


 しかもカウンター越しに。

 逃げ場の限られた勤務中の相手に。

 業務の延長に擬態したまま。


 平助は知っていた。

 こういう男は、自分がどれほど相手を気持ち悪がらせているか、薄々分かっている。

 その上でやる。

 拒絶されても「そこまで言うことないでしょう」と被害者面をするためだ。

 あるいは、相手が仕事中だから大きくは出られないと見越している。

 どちらにせよ、最悪だった。


「他のご利用者方のご迷惑になりますので、お下がりください」


 司書のお姉さんの声が、さらに一段薄くなる。


 だが男は引かなかった。


「迷惑って。そんな大げさな」


 平助の足が、もう一歩進んだ。


 理性が止める。

 まだだ。

 まだ店員でも警備でもない一般利用者が口を挟む段階じゃない。

 図書館には図書館の対応がある。下手に割って入れば、むしろ彼女を困らせる。

 自分がやることは、最終手段のはずだ。

 そうだろう。

 そうじゃなきゃ、本当にただの――


 その時、司書のお姉さんが、ほんの一瞬だけ視線を上げた。


 平助のほうを見た、ように思えた。


 確信はない。

 視線の先にいたのがたまたま自分だっただけかもしれない。

 助けを求めたわけでもない。求めるはずがない。彼女は平助を何者とも知らないのだから。


 それでも。


 たった一瞬、その眼鏡の奥に浮かんだのは、客観的に見ればごく小さな揺らぎだった。

 だが平助には、それがあまりにも大きく見えてしまった。


 困っている。


 当たり前だ。

 あれだけ踏み込まれて、困っていないわけがない。


 男がさらに言葉を継ごうとした、その瞬間だった。


「すみません」


 平助の口が勝手に開いていた。


 男と司書のお姉さんが、同時にこちらを見る。


 平助は自分でも笑ってしまいそうになった。


 ああ、終わった。


 終わったぞ、出芭平助。

 おまえはいま、自分で決めていた『絶対不可侵』を破った。

 話しかけない。

 踏み込まない。

 彼女の業務へ自分を混ぜない。

 その全部を、たった今、自分で壊した。


 だが、壊してしまった以上、もう行くしかない。


 平助は手に持っていた文庫本を少し持ち上げた。

 自然に。

 あくまで自然に。

 ただの利用者として。

 ただの、面倒くさい常連ではない、一般の利用者として。


「貸出、お願いしたいんですが」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


 男が、はっきりと顔をしかめる。

 その反応で十分だった。

 やはりこいつは、こちらの存在を分かっている。

 邪魔された、と認識している。


 司書のお姉さんは、ほんの一拍だけ止まり、それからすぐに業務の顔へ戻った。


「……はい。お預かりします」


 その「はい」が、いつもよりわずかに柔らかく聞こえたのは、たぶん平助の願望だろう。

 願望であってほしい。

 そこで余計な意味を感じ取り始めたら、本当にもう戻れない。


 平助は男の横へ立つ形になる。

 距離は近い。

 肘が触れるほどではないが、互いの気配が分かる近さだ。


 男の体から、香水とも整髪料ともつかない、妙に甘い匂いがした。

 嫌な匂いではない。

 だが、場に合わない。

 この古紙と木の匂いがする図書館に、必要のない甘さだった。


「並んでるんですけど」


 男が低く言う。


 平助は視線を向けない。

 司書のお姉さんへ貸出カードを差し出す。

 自分の手が、思っていたより震えていないことに少し驚いた。

 たぶん、いまは緊張よりも、別の感情が勝っている。


「会話、終わってるみたいだったので」


 自分でも驚くほど、感じの悪い返しだった。


 だが仕方がない。

 いま平助は、愛想の良い一般市民を演じる余裕を完全に失っていた。

 男が舌打ちする気配がした。実際に音になったかは分からない。けれど空気がわずかに荒れる。


「……常連さん?」


 男が、今度ははっきり平助へ向けてそう言った。


 平助はそこで初めて顔を向けた。


 近くで見ると、男の顔はやはり平凡だった。

 平凡で、よくある顔立ちで、だからこそ一度不気味さを感じると、二度と安心できない種類の造形だった。

 目だけが妙に粘る。


「ええ、まあ」


 平助は答える。


「本、好きなんで」


 本当だった。

 少なくとも、いまの平助にとってそれは嘘ではない。

 彼は本を読む。

 司書のお姉さんをきっかけに気づいただけで、たしかに本も好きなのだ。

 そしてこの図書館の空気も、棚の並びも、彼女の手つきも、全部込みで好きだった。


 男は平助を見て、薄く笑った。


「へえ」


 その一音に含まれたものを、平助は説明できない。

 侮りか、警戒か、同類認定か。

 たぶん全部だ。


 司書のお姉さんは何も言わず、貸出処理を進める。

 だが、さっきまでより手際がほんの僅かに速い。

 平助にはそれが分かった。

 早くこの場を終わらせようとしている。


 そのことが、胸に痛かった。


 本来、彼女はこんな気遣いをする必要がないのだ。

 ただ仕事をしていればいい。

 貸出と返却を処理して、棚を整えて、閉館までの時間を過ごして、家へ帰ればいい。

 誰かの湿った執着にも、誰かの勝手な守護欲にも、巻き込まれる理由なんてない。


 なのに今、彼女はその両方の間で、声を荒げずに立たされている。


 最悪だ、と平助は改めて思った。

 自分も含めて最悪だった。


「はい、こちらお返しします」


 司書のお姉さんが貸出カードと本を返してくれる。

 指先が触れないように、いつも通りきちんと距離を保った受け渡し。


 平助はそれを受け取り、ほんの一瞬だけ迷った。


 ここで去るのが正しい。

 用件は終わった。

 一般利用者としては、終わりだ。


 だが、男はまだいる。


 このまま自分が引けば、また彼女と男が一対一になる。

 いまは自分が割り込んだことで、流れが途切れただけだ。

 男にとっては、この程度の妨害は想定内かもしれない。むしろ、こちらがどの程度動くか見極める材料にされた可能性すらある。


 平助は貸出カードを財布へ戻すふりをして、その場に半歩だけ留まった。


 男が言う。


「あなたも、よく来るんですね」


 やめろ。

 馴れ馴れしく輪を作ろうとするな。

 この場に『よく来る者同士の連帯感』など存在しない。


「そうですね」


 平助は短く返した。


「静かなんで」


 男は笑った。


「静か、ねえ」


 その言い方に、平助は本気で殴りたくなった。

 もちろん殴らない。そんなことをしたら彼女の職場が地獄になる。

 だから殴らない。

 殴らないが、その欲求が湧いた時点で、もうかなり限界だった。


 男は司書のお姉さんへ向き直る。


「また来ます」


 言い方が、最悪だった。


 ただの挨拶ではない。

 予告だ。

 こちらが嫌がっても、また来る。

 そういう種類の「また」。


 司書のお姉さんは、少しだけ間を置いてから言った。


「ご利用をお待ちしております」


 業務文句としては完璧だった。

 ただし声は、氷みたいに薄かった。


 男は満足したように頷き、その場を離れた。

 だが出入口へ向かう前に、一度だけ振り返る。

 視線は司書のお姉さんではなく、平助へ。


 笑っていた。


 あれは、勝ったと思っている顔ではない。

 始めた、という顔だ。


 平助の背中を、遅れて冷たい汗が流れた。


 男が館内を出ていく。

 自動ドアの開閉音。

 外気が一瞬だけ入り、また閉じる。


 ようやく空気が戻る、はずだった。


 だが戻らない。

 平助の中では、もう完全に何かが変わってしまっていた。


 司書のお姉さんは、一拍だけ目を伏せ、それから次の利用者がいないことを確認して、カウンター奥の端末へ視線を落とした。

 顔色は変わっていない。

 業務の姿勢も崩れていない。

 だが、さっきよりも少しだけ呼吸が浅い気がした。


 声をかけるべきではない。

 そんな資格はない。

 むしろ、いま自分が何か言えば、彼女にとっては余計な負担だ。

 大丈夫ですか、なんて、何様だ。

 怖かったですよね、なんて、分かりきったことを確認して何になる。


 平助は立ち尽くす。


 帰れ。

 帰るべきだ。

 借りた本を持って、今日のところは引け。

 せめてこれ以上、この人の職場に自分という厄介を増やすな。


 だが、その時。


 司書のお姉さんが、小さく息を吐いた。


 本当に小さく。

 たぶん誰にも聞こえないほどの、仕事の隙間に零れただけの呼吸。

 それでも平助には、妙にはっきり聞こえた気がした。


 疲れている。


 当然だ。

 あんなやりとりを平気な顔で受け流したのだ。

 疲れないわけがない。


 平助は、唇を噛んだ。


 もう駄目だ。


 もうこれは、『なんとなく嫌な予感がする』では済まない。

 男は彼女を見ている。

 見ているだけではない。

 勤務時間や帰りの遅さにまで言及した。つまり、館の外も見ている。

 そして、自分の存在まで認識している。


 最悪中の最悪だった。


 平助はゆっくりとカウンターから離れ、新刊棚へ戻る。

 戻りながら、自分の思考が、嫌になるほど冷静に動き始めているのを感じていた。


 閉館時刻。

 職員動線。

 裏口の有無。

 駅までの距離。

 人通りのある道とない道。

 コンビニの位置。

 交番。

 防犯カメラ。

 見通しの悪い角。

 雨の日に人が減る場所。


 やめろ。


 脳内の自分が何度も言う。

 やめろ。

 それ以上は、本当に終わる。

 おまえは何を始める気だ。

 どこまで行くつもりだ。

 それはもう、身辺警護などという可愛い言い換えで済む領域じゃない。


 だが別の自分が、ひどく冷めた声で返した。


 じゃあ、誰がやる。


 警察か。

 まだ何も起きていないのに?

 図書館か。

 勤務中の不快な客として報告できても、外での尾行までは止められない。

 彼女自身か。

 あの人はきっと、大ごとにしない。職場に迷惑をかけたくないと思うタイプだ。

 そういう人だからこそ、ああいう男はつけ込む。


 平助は、新刊棚の前で立ち止まった。


 本の背表紙が並んでいる。

 整然としている。

 誰かが整えた秩序だ。

 彼女もきっと、こういう秩序の一部として毎日働いている。


 守りたい、と思った。


 その感情を、平助はずっと『愛でたい』という言葉で誤魔化してきた。

 遠くから見ているだけでいい。

 触れなくていい。

 関わらなくていい。

 この人の日常がそこにあると知って、それを静かに眺めていられればいい。

 そう思ってきた。


 だが、いまは違う。


 あの男の視線を知ってしまったから。

 彼女がほんの一瞬、困っているのを見てしまったから。

 そして何より、自分の存在が、もう向こうにも知られてしまったから。


 見ているだけでは済まない場所へ、世界の方から踏み込んできた。


 平助は目を閉じる。


 図書館の静けさの中で、ひどくゆっくりと、自分の中の何かが形を変えていくのが分かった。


 誓いはまだ捨てたくない。

 彼女の生活を壊したくない。

 だが、その誓いを守ること自体が、彼女を危険に晒すのだとしたら。


 もはや守っているのは彼女ではなく、自分の良心の体裁だけではないのか。


 目を開く。


 貸出カウンターの向こうで、司書のお姉さんは、もういつもの顔に戻っていた。

 戻ってしまっていた。

 何事もなかったみたいに。


 それが平助には、どうしようもなく痛かった。


 だから彼は、その場で決めた。


 今日だけではない。

 もうしばらく、仕事帰りだけではなく、可能な限り時間を作る。

 閉館までいる。

 退館後の導線を見る。

 少なくとも、あの男が何をどこまで知っているのかを確かめる。

 直接話しかける気はまだない。

 まだない。

 だが、遠くから見ているだけの一年は、ここで終わった。


 平助は借りた本を抱え直した。


 胸の中にあるのは高揚ではない。

 使命感なんて格好いいものでもない。

 もっと粘ついた、厄介で、みっともなくて、それでも無視できない種類の決意だった。


 この人を見ているのは、自分だけじゃなかった。


 ならば、自分ももう、見るだけではいられない。


 貸出カウンターの向こうで、司書のお姉さんが別の利用者へ「返却は以上でよろしいですか」と言う。

 いつも通りの、静かな声。


 その声を聞きながら、出芭平助は、自分が引き返せない側へ一歩踏み出したことを、ようやく認めた。



ええ。気持ちが悪いのは自覚しております。

しかしながら、この出芭平助という男の本性を立たせるために、敢えてこの気持ちの悪い『ストーカー合戦』を強行します。


異世界への転生はもう少しだけ待ってください。

どうか、もう少しだけご容赦ください。


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