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すべてのモブヒロインたちに幸あれ! —脇役を愛する勇者の異世界譚—  作者: 臂りき
第1章 図書館の司書お姉さんと、最低で最高の最期
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第2話 見守る者と、見つめる獣

 出芭平助は、自分が常識人であるなどと、一度たりとも思ったことはない。


 そこまで図々しくはなかった。


 少なくとも彼は、自分が一般的な恋愛観からだいぶ外れた場所に立っている自覚くらいは持っている。

 好みの女性の話をしている最中に「主役になれなさそうなところがいい」と真顔で言ってしまう男が、まともな分類に入るわけがない。

 ましてや、図書館の司書のお姉さんを一年かけて静かに観測し、利用者導線と返却台の位置と閉館時刻の人の流れまで頭に入っている時点で、どこをどう切り取っても健全とは言い難い。


 だが。


 それでも。


 あの男とは、違う。


 平助は雑誌棚の陰から、何食わぬ顔で館内を見渡した。

 視線だけを動かす。首は動かしすぎない。棚の端に映るガラスの反射も使う。

 こういう時、観察とは技巧だ。愛は対象への理解を深めるが、理解には訓練が要る。平助はこの一年、その訓練を……いや、もうやめよう。この方向に思考を進めると、自分が本当に何者なのか改めて直視する羽目になる。


 とにかく、男はまだいる。


 雑誌を手にしてはいるが、ページはほとんど進まない。

 視線は一定間隔でカウンターへ戻る。

 いや、戻るというより、吸い寄せられている。

 獲物の位置を見失わないために。


 獲物。

 その言葉に、平助は自分でぞっとした。


 貸出カウンターでは、小学生くらいの女の子が司書のお姉さんに絵本を返していた。

 返却手続きのあと、女の子が何かをもごもご言い、彼女が少しだけ腰を折る。声はここまでは聞こえないが、たぶん「次はどこにありますか」だとか「これ、おもしろかった」だとか、そういうたぐいの可愛らしい報告だろう。


 その時。


 彼女が、ほんの少しだけ笑った。


 大きくではない。

 口角が一ミリ、いや二ミリ。

 眼鏡の奥の目元が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 子ども相手の時にだけ出る、業務の外周にかろうじて残っている私的な表情。


 平助は危うくその場に崩れ落ちそうになった。


 やめてくれ。


 それは反則だ。


 あの人の魅力は、基本的には無表情と事務性に支えられている。

 無駄に笑わない。媚びない。利用者一人ひとりに平等な温度で接し、必要以上の感情を混ぜない。

 だからこそ、そこにごく稀に混じる人間らしい柔らかさが、もう、本当に、心臓に悪い。


 子どもにだけ見せる微笑み。

 大人には基本、貸さない表情。

 そういう限定公開の破壊力を、もっと自覚してほしい。いや、自覚されても困る。自覚されてメインヒロインみたいな運用を始められたら終わりである。あの人があの人であるためには、あくまで無自覚で、日々の端で、不意に零れてしまう程度でなければならない。


 よかった。

 今日も世界はぎりぎり均衡を保っている。


 平助は胸の前で本を抱え直し、呼吸を整えた。

 危ない。こんな時にいつもの発作を起こしてどうする。いま重要なのは鑑賞ではなく警戒だ。

 あの男から目を離すな。

 彼女の一瞬の笑みに魂を抜かれている場合ではない。


 だが、そう思えば思うほど、逆に妙な焦りが増していく。


 彼女は普段通りに働いている。

 誰も異変に気づいていない。

 気づいているのは、自分だけだ。


 その事実が平助を少しだけ高揚させ、同時にひどく気持ち悪い気分にもさせた。


 嫌だな、と彼は思う。


 こういう時の自分が、一番嫌だ。


 世界の危機を察知しているのは自分だけ。

 彼女を守れる位置にいるのも自分だけ。

 そんなふうに物語の主人公じみた顔をし始める自分が、たまらなく嫌いだった。


 おまえは主役じゃない。

 わきまえろ。

 そういうところだぞ。


 心の中で何度も自分を引っぱたく。

 だが一方で、もし本当に何かあったら、誰かが動かなければならないのも事実だった。


 誰か。


 たまたま、ここにいる誰か。


 たまたま、館内の構造を把握している誰か。


 たまたま、あの男の視線の質を見分けてしまった誰か。


 そして、たまたま、一年間ずっと彼女を見てきてしまった誰か。


 最悪だ。

 条件にぴったり当てはまりすぎている。


 平助は本の背を指で撫でる。

 借りるつもりだった文庫本。海外文学の新訳で、前から気になっていた一冊だ。カバーの手触りは悪くない。帯文はやや大仰だが、あの司書のお姉さんが新着棚に並べたと考えると一気に信頼度が増す。あの人は、たぶん棚づくりに性格が出る。派手すぎる本だけを前に出さない。流行と定番をきちんと混ぜる。手堅く、しかし媚びすぎない。大衆性を否定せず、かといって安易でもない。つまり、棚にも報われなさと実務性の美がある。


 ……いかん。


 本当にいかん。


 脳が現実逃避を始めている。


 平助は小さく息を吐き、視線を戻した。

 男はまだ雑誌コーナーの近くにいた。

 位置が少し変わっている。ほんの少しだけ、カウンターに近い。


 その時、別の利用者がカウンターへ並んだ。

 四十代くらいの男。返却本をどさりと置く。

 司書のお姉さんが対応する。

 雑誌コーナーの男の視線が、そこで一度、平助のほうへ滑った。


 また、目が合う。


 今度は一瞬ではなかった。


 男は平助を認識している。

 しかも、偶然に目が合った相手を見る目ではない。

 知っている。見ている。把握している。

 その上で、面白がっているような、嘲るような、妙な余裕まである。


 なぜだ。


 平助の喉が、ひくりと引きつる。


 まさか、自分のことも見られていたのか。


 当たり前の話ではある。

 一年間、こっちはこっちで図書館に通い、司書のお姉さんの近辺を気にしてきたのだ。利用者の中には顔を覚えている者もいるだろうし、あの男が彼女を長く見ていたなら、平助の存在を認識していても不思議ではない。


 だが、それを理解した瞬間、胃のあたりにどろりとした嫌悪が落ちた。


 同類だと思われている。


 違う、とは言い切れないのが、なおさら最悪だった。


 平助は思わず本を持つ手に力を入れる。

 表紙が少し鳴った。いけない。本に罪はない。彼は慌てて力を緩める。こういう時でも本への礼は忘れない。それが彼の数少ない美点の一つだった。


 カウンターの列が少し流れた。

 司書のお姉さんは返却処理を終え、予約本の受け渡しへ移る。利用者に対して、必要最小限の説明をして、バーコードを読み、受領の確認をする。

 その一連の動きが、今日も美しい。


 ふと、彼女が眼鏡の位置を直した。


 左手ではなく右手。

 人差し指で、軽く。

 あの仕草は疲れている時に出やすい。


 平助は知っている。


 いや、知っていて何になるという話だが、知っているものは知っているのだ。

 閉館一時間前を切るあたりから、彼女は少しだけ目元を触る回数が増える。たぶん日中の貸出対応や資料整理で、目が乾くのだろう。コンタクトではなく眼鏡を選んでいるのも、そこに理由があるのかもしれない。

 そしてその疲れを、彼女は濃い化粧で隠したりしない。

 隠さないまま、眼鏡一枚で業務へ戻る。


 ああ、だめだ。

 やっぱり好きだ。


 どこまでも実務者で、生活者で、無理をしたまま働いていて、なのに余計な救済を求めない感じが、どうしようもなく刺さる。


 平助が勝手に胸を押さえている間にも、男は少しずつ位置を変えていた。

 動きに無駄がない。

 急がない。

 ただ、確実に彼女の近くへ寄れる導線を選んでいる。


 閲覧席の横を通り、新聞台のほうへ流れ、そこからカウンター前へ向かう客の影に紛れる。


 まずい。


 平助は棚の陰を出た。

 自然に歩く。

 急ぎすぎない。

 だが位置は詰める。


 自分でも、いよいよ何をしているのか分からなくなってきていた。

 これは何だ。

 監視か。尾行か。護衛か。

 全部違うし、全部当たっている気もする。


 新刊棚の前を通り過ぎるふりをして、平助はカウンターから三メートルほどの位置に陣取った。

 一般利用者としては少し不自然だが、本を立ち読みしている体裁なら成立しなくもない距離。

 雑誌コーナーの男も、そこから見える。


 男は新聞台の近くで立ち止まり、紙面を眺めるふりをした。

 だが指先が落ち着かない。

 表面だけをなぞるように動いている。

 紙を読む人間の指ではない。何かのタイミングを測る指だ。


 平助の耳に、自分の鼓動がうるさく響いた。


 やめろ。

 頼むから、今日はやめろ。


 別に彼は勇者ではないし、警察でもないし、正義感で生きているわけでもない。

 ただの社畜だ。

 たまたまモブヒロインへの偏愛が人より深く、たまたま観察眼が悪い方向へ育ち、たまたま今日ここにいるだけの男だ。


 だから、本当にやめてほしい。


 この静かな図書館で。

 この人のいる場所で。

 彼女の生活の一部であるこの空間で。


 物語みたいなことを、起こさないでくれ。


 その時だった。


「すみません」


 聞き覚えのない男の声が、カウンターへ向けて発せられた。


 反射的に平助は顔を上げる。


 新聞台の男ではない。

 別の利用者だ。中年の女性で、予約棚の場所を尋ねているだけだった。

 司書のお姉さんが案内し、ことは何事もなく済む。


 平助は肺の中の空気を細く吐いた。

 情けない。

 神経がささくれすぎている。


 だが、気を抜いたのはほんの一瞬だった。


 新聞台の男が、その一瞬の隙に、さらに一歩前へ出た。


 カウンターから二メートル弱。

 利用者の列に自然に混ざれる距離。


 平助の脳裏に、警鐘のようなものが鳴る。


 並ぶ気か。

 話しかける気か。

 それとも――


 男が、ちらりと平助を見た。


 笑ってはいない。

 だが、目だけが笑ったように見えた。


 試しているのだ、と平助は直感した。


 こちらがどこまで反応するか。

 どこで動くか。

 どれほど本気で彼女を見ているか。


 吐き気がした。


 知っている。

 ああいう目を知っている。


 対象そのものではなく、対象をめぐる周囲まで含めて、自分の舞台だと思い込む目だ。

 誰が邪魔か。誰が脅威か。どの順番で片づけるか。

 そんなことを平然と考えていそうな目。


 平助の手のひらに汗が滲む。


 まずい。

 本当に、まずい。


 館内の端では、児童書コーナーから子どもの笑い声が一瞬だけ漏れて、すぐに親にたしなめられた。

 閲覧席の学生が参考書に線を引く。

 新着棚の前では老婦人がゆっくり本を選んでいる。

 何も変わらない。

 何も変わらないまま、危険だけがこの場に馴染んでいる。


 その時、司書のお姉さんが不意に顔を上げた。


 平助は息を止める。


 こちらを見た、気がした。


 いや、正確にはこちらではない。館内全体へ視線を巡らせただけだろう。カウンター担当として、次の利用者の動きや、館内の様子を確認する、いつもの目配りの一つに過ぎない。

 だが、その視線が平助の位置をかすめた瞬間、彼は奇妙な感覚に襲われた。


 もしかして。


 自分の顔、覚えられているのではないか。


 いや、覚えられていたところで何だと言うのだ。常連利用者の一人として、顔くらい認識していても不思議ではない。問題はそこではない。

 ないはずなのに、その可能性が一瞬よぎっただけで、平助の胸はありえないほど騒がしくなった。


 もし覚えられているなら。

 どんな印象だ。

 真面目な利用者か。

 本をちゃんと借りる人か。

 それとも、少し来すぎている人か。

 いや最悪、気味の悪い常連として認識されていたらどうしよう。


 それは困る。


 非常に困る。


 なぜなら平助は、彼女の平穏を守りたいのであって、彼女の日常に不快として刻まれたいわけではないからだ。いや、ここで『守りたい』などと主語を大きくするのもやめた方がいい。そういうところだぞ、本当に。


 彼が内心で自分を殴り続けている間に、男がついに列の最後尾へ立った。


 平助の視界が、すっと狭くなる。


 終わった。


 いや、終わってはいない。

 まだ何も起きていない。

 ただ、起きる可能性が、いま、現実の導線に乗っただけだ。


 男の前には二人。

 一人は受験生らしい男子で、貸出冊数が多い。

 もう一人は文庫本を一冊だけ持った女性。

 進みは遅くない。数分もすれば、順番が来る。


 どうする。


 平助は自分へ問うた。


 どうする?


 何もしない。

 それが一番いい。

 ただの思い過ごしかもしれない。

 列に並んだだけかもしれない。

 話しかけるだけなら、利用者としては自然だ。内容次第では、ただの問い合わせで終わる。


 だが、もし違ったら。


 もし、問いかけではなく、踏み込みだとしたら。

 もし、彼女が嫌がっても、周囲がそれを『よくある困った客』程度にしか認識しなかったら。

 もし、もっと先があるのだとしたら。


 平助は自分の足が、ほんの少しだけ前へ出るのを感じた。


 やめろ。

 まだだ。

 まだ、誓いを破るな。


 直接関わらない。

 触れない。

 壊さない。


 それが自分のルールだろう。


 だが、そのルールは、今日ここで、誰を守るためのものなのか。


 彼女を守るためか。

 それとも、自分がただの最低野郎だと確定する瞬間から逃げるためか。


 列が一人分進む。


 男が、また平助を見た。


 今度ははっきりと、挑発するみたいに。


 理解した。


 こいつは知っている。

 自分が何を見ているかも、こっちが何を見ているかも。

 知った上で、あえて彼女の前へ出ようとしている。


 胸の奥で、何かがきしんだ。


 気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 こんなのは、気持ち悪い人間同士の、縄張り争いみたいなものじゃないか。


 だが、その気持ち悪さを引き受けなければ届かない場所があるのだとしたら。


 司書のお姉さんは、次の利用者へ向けて顔を上げた。

 いつも通りの声で、「次の方どうぞ」と言う。


 その穏やかで平坦な一言が、ひどく遠く聞こえた。


 男の順番が来る。


 平助は、知らず、文庫本を脇へ抱え直していた。


 動ける形。

 いや、本当に何をする気だ。

 自分でも分からない。

 分からないまま、体だけがわずかに熱を持ち始めている。


 カウンターの前に、男が立つ。


 司書のお姉さんが顔を上げる。


 平助の中で、何かが決まる音がした。


 それは勇気とか覚悟とか、そんな立派なものではない。

 ただ、自分が一番嫌いな種類の気持ち悪さを、今日だけは引き受けるしかない、という諦めに近かった。


 男が口を開く。


 その瞬間。


 平助は、生まれて初めて、本気で思った。


 ――まさかあいつ、本当に、ストーカーか?


 どの口が言うのかという話である。


 だが、そんなもっともなツッコミすら追いつかない速度で、事態はゆっくりと、しかし確実に、平助の誓いを食い破ろうとしていた。


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