第1話 モブヒロインを愛する男
人にはそれぞれ、人生を踏み外す瞬間がある。
大抵は進学とか、就職とか、結婚とか、もう少し社会的で体裁のいい言葉で飾られるのだろうが、出芭平助にとってその瞬間はもっと単純で、もっと救いがなく、そして本人にとってはあまりにも神聖だった。
――市立中央図書館、貸出カウンター前。
ただ、それだけである。
平日の夕方。
仕事帰りの会社員や学生、暇を持て余した老人たちが、それぞれの速度で館内を漂っていた。
冷房はよく効いているのに、古い紙とインクと棚板に染みついた木の匂いが、どこか乾いたぬくもりを残している。館内放送は必要最低限。私語は少なく、靴音すら遠慮がちだった。
その静けさの中心で、彼女は立っていた。
貸出カウンターの向こう側。
司書の女性。
年齢は二十代後半、あるいは三十に差しかかっていてもおかしくない。美人かと問われれば、もちろん美人だった。だが、平助が愛したのは、世間一般の雑な評価で切り取れる『美人』という単語ではない。
もっとこう、構造の問題だった。
髪は丁寧に整えているつもりなのだろうに、毛先にだけ僅かな癖が残っている。
流行から外れすぎてはいないが、前を歩く女子大生が選ぶ服ほどあか抜けてもいない。
化粧は薄い。いや、薄いというより、たぶん必要以上に隠していない。寝不足気味の目元は眼鏡の奥で静かに沈み、けれどその眠たげなジト目が、事務的な声音と合わさることで得も言われぬ完成度を誇っていた。
眼鏡。
いい。
ものすごく、いい。
黒縁ほど自己主張せず、銀縁ほど洒落込みすぎない、実用性を優先したような細いフレーム。
おそらく本人は顔の印象をどうこうしようなどとは、夢にも思っていない。ただ目が悪い、あるいは目を酷使しているからかけているだけだろう。
そこがいい。
そして、服装である。
司書らしい落ち着いたブラウスに、暗めのタイトスカート。過度に女を主張するつもりはないのだろう。むしろ逆だ。体の線が出ないよう、仕事の邪魔にならないよう、地味に見えるよう気を配っている節すらある。
だが残念ながら、いや、平助にとっては大変に喜ばしいことに、日々の立ち仕事と事務仕事で鍛えられた下半身の安定感までは隠しきれていなかった。
あの、必要以上に何も語らない腰回り。
あの、ひたすら本を運び、書類を整理し、立って歩いて座ってを繰り返した結果として形成された、実務者の肉体。
誇示ではない。媚びでもない。
生活だ。
労働だ。
言い訳の余地なく、日々を働いて生きている人間の輪郭だった。
完璧だった。
平助はその日、返却期限を三日も過ぎた文庫本を胸に抱えたまま、貸出カウンターの前で人生を終えていた。比喩ではなく、概念として。
「……返却処理をいたしますので、貸出カードをお願いします」
彼女が言った。
その声がまた、よかった。
明るくはない。
愛想がないというのとも違う。
必要な温度だけを守って、それ以上は踏み込まない事務的な声。だが冷たいわけでもない。淡々としていて、平等で、そこに余計な期待を抱かせない。
平助はその瞬間、世界のどこかで本来鳴るはずのない鐘の音を聞いた。
あ、好きだ。
と、思った。
それは一目惚れなどという、安っぽくて陳腐で、主役にだけ許された言葉で処理していいものではなかった。
もっと深刻で、もっと手遅れで、もっと構造的なやつである。
この人は、メインヒロインではない。
そう、平助は悟った。
メインヒロインでは、ないのだ。
もちろん、容姿は整っている。十分に整っている。むしろ現実の尺度で見ればかなり上等である。街を歩けば普通に振り返られる程度には美人だろうし、少し髪型を変え、服を見繕い、笑顔の練習でもすれば、そこらの恋愛ドラマなら十分メインに立てる。
だが、それをしていない。
しないまま、カウンターの向こうにいる。
主役の少し隣。
物語の照明が一段だけ弱く当たる位置。
「綺麗だな」と思われても、「でも本命は別かな」と雑に仕分けされる、あの絶妙な立ち位置。
そこにこそ、価値がある。
出芭平助は、生まれつきそういう男だった。
主役は強すぎる。
完成されすぎている。
物語に守られすぎている。
だが、モブヒロインは違う。
ちゃんと可愛い。
ちゃんと綺麗だ。
ちゃんと優しい。
にもかかわらず、作者都合とか場の空気とか、読者の期待とかいう理不尽の集合体によって、『ほんの僅かにだけ』報われない位置へ押しやられる。
その理不尽のなかで、それでも脇に立ち続ける。
笑う。
支える。
時に身を引く。
時に、何も始まらないまま終わる。
ああ。
なんということだろう。
それを愛さずに、何を愛せというのか。
「……お客様?」
司書のお姉さんが、ほんの少しだけ眉を寄せた。
しまった。
思考が深まりすぎていた。
「あ、す、すみません。貸出カード、はい」
平助は慌てて財布から貸出カードを出した。
指先が少し震えていた。仕方がない。神前で手が震えるのは礼儀だ。
彼女はカードを受け取り、バーコードを読み取った。
その仕草もまたよかった。無駄がなく、かといって機械的すぎもしない。何万回も繰り返した動作の中に、本人だけの癖がほんの僅かに残っている。親指の位置。視線を落とす角度。返却本を揃える時、表紙の端を傷めないよう軽く添える指先。
やばい。
この人、たぶん本当に本が好きだ。
あるいは好きだった時期がある。
いまは仕事として割り切っていても、その手つきのどこかに、まだ本を雑に扱えない人間の癖が残っている。
終わりである。
平助はそこで、さらに深い沼へ沈んだ。
「返却は以上でよろしいですか」
「はい。あ、いえ、今日も借ります」
「そうですか」
良い。
実に良い。
その「そうですか」である。
喜びもしない。嫌がりもしない。常連客への特別扱いも、顔見知りめいた馴れもない。
だが、追い出そうともしない。
館内の静けさと同じように、ただ一定の距離を保ちながらそこにいてくれる。
これだ。
平助は確信した。
この人は、ただ美人なだけではない。
ただ地味で眼鏡で眠たげなお姉さんなだけでもない。
モブヒロインとしての完成度が、異様に高い。
それからだった。
社畜・出芭平助の生活は、図書館中心に再編された。
元々、彼は特段に面白みのある人生を送っていたわけではない。
都内の中堅企業に勤め、残業と理不尽と雑な上司と微妙な会議に時間を削られ、コンビニ飯とスーパーの値引き惣菜で延命する、ごくありふれた社会人男性だった。友人は少ない。恋人はいない。趣味はそこそこあるが、人生を変えるほどの熱量を持てたものは、それまで一つもなかった。
だが今、ある。
図書館通いである。
退勤後、できる限り寄る。
休日は開館とほぼ同時に入る。
読みたい本は本当に読む。これは大事だ。彼は決して、司書のお姉さん見たさだけの不届き者ではない。いや、見たさは大いにあるが、本もちゃんと読む。
なぜなら、彼女は本に敬意を払う人間だからだ。そんな人の勤務先で、本を雑に扱うなどありえない。愛は対象だけでなく、その周辺世界へも礼節を要求する。
もっとも、その礼節は時に妙な方向へ発展した。
たとえば、館内の不審者チェックである。
明らかに視線が妙な男。
必要以上にカウンターへ通う学生。
やけに話しかけたがる老人。
大声を出しそうな親子。
返却台に乱暴に本を置く無神経な人間。
すべて、チェック対象だった。
もちろん、平助本人は内々にやっているつもりである。
館内を歩きながら、自然なふりで位置関係を確認し、司書お姉さんの周囲に不穏がないか観察する。棚の陰からではない。堂々とだ。棚の陰からやると本当に終わるからである。平助にもその程度の理性はあった。
あったのだ。
少なくとも、本人の中では。
彼には彼なりの誓いがあった。
話しかけすぎない。
勤務外を追わない。
触れない。
つきまとわない。
生活圏を壊さない。
彼女の物語に土足で入り込まない。
それが、平助なりの『絶対不可侵』だった。
だからこそ、彼は自分をストーカーだとは認めていない。
やっていることはかなり黒に近い灰色でも、本人はあくまで、静かな観測者であり、必要があれば身辺警護も辞さない無名の守護者であるつもりだった。
要するに、かなり面倒くさい男だった。
その日も、平助は仕事終わりに図書館へ来ていた。
館内は平日らしい静けさに満ちていて、児童書コーナーの方で紙芝居イベントの告知ポスターが少し傾いている。新刊棚には話題作が並び、郷土資料コーナーには今日も人がいない。閲覧席には参考書とノートを広げた学生が数人。
貸出カウンターには、あのお姉さんがいる。
いた。
今日もいる。
それだけで一日が救われる。
平助は、あからさまにならない角度でその姿を確認し、まずは新着文庫棚へ向かった。これはカモフラージュではない。読む。ちゃんと読む。今日も二冊借りるつもりだ。もしかしたら三冊かもしれない。社会人に読める分量には限界があるが、愛に支えられた読書は案外進む。
ふと、視線を感じた。
反射的に平助は顔を上げる。
雑誌コーナーの近く。
一人の男が立っていた。
歳は三十代半ばくらいか。
背は平均的。服装は取り立てて目立たない。どこにでもいそうな、だからこそ人混みに紛れやすい顔をしている。
だが、その視線がよくなかった。
真っ直ぐではない。
ぼんやりでもない。
何かを値踏みするように、執着を隠し損ねた視線。
向いている先は、貸出カウンター。
正確には――彼女だ。
平助の背筋を、ひやりとしたものが撫でた。
あれは、よくない。
直感だった。
この一年、平助は図書館へ通い続けた。
司書お姉さんを見てきた。
周囲の客も見てきた。
その過程で、善良な常連と、ちょっと面倒な客と、本当にまずい気配の人間の違いくらいは、嫌でも分かるようになっていた。
あの男は、まずい側だ。
平助は何気ない顔で棚の端に移動し、男の様子を窺った。
男は雑誌を見るふりをしている。
だが頁をめくっていない。
視線だけが、一定の間隔でカウンターへ滑っている。
やめろ。
見るな。
いや、おまえが言うのか。
脳内で即座に自分へツッコミが入った。
だが、違うのである。平助の視線には礼節がある。敬意もある。距離もある。
あの男の視線には、他人の生活へ爪を立てる湿り気があった。
平助は唇を引き結ぶ。
館内の時計を見る。
閉館までは、あと一時間弱。
今日の自分は残業を切り上げて来た。つまり、この時間にここにいられる。幸運だ。
いや、違う。幸運なんかじゃない。むしろ当然だ。こういう時のためにこそ、自分は――
そこで平助は、思考を止めた。
何を言っている。
何を当然みたいな顔で構えている。
まるで、自分だけは違うみたいに。
まるで、自分だけは彼女の味方だとでも言いたげに。
気持ち悪い。
いや、実際気持ち悪いのは知っているのだが、その上でなお、胸の奥でざわざわと嫌な予感が広がっていくのを止められなかった。
司書のお姉さんは何も知らず、返却本を処理し、利用者対応を続けている。
静かな声。
無駄のない動き。
少し疲れた目元。
そのすべてが、いつも通りだった。
いつも通りであることが、ひどく不安だった。
平助は、新着棚から本を一冊抜き取るふりをしながら、男の位置とカウンターまでの距離、出入口、人の流れ、閲覧席の埋まり具合を頭に入れた。
考えるな。
考えすぎるな。
自分はただの利用者だ。
ただの、利用者。
だが、男が少しだけ笑った。
目元ではなく、口元だけで。
まるで、何かの予定をなぞるように。
その瞬間だった。
平助の中の何かが、冷たく沈んだ。
――あいつ、やばい。
館内は静かだった。
本の匂いも、冷房も、紙をめくる音も、何も変わらない。
なのに平助にだけ、世界の輪郭が少しずれて見えた。
彼は、借りるつもりだった文庫本をそのまま手に持ち、雑誌棚の陰へと位置を変える。
司書のお姉さんと男、その両方が見える角度。
胸の中で、嫌な確信が形を持ち始めていた。
まだ何も起きていない。
起きていない、はずだ。
けれど平助は知っていた。
本当にまずいものは、大抵、起きてからでは遅い。
そしてその時、男がふいに顔を上げた。
目が合った。
たった一瞬。
それだけで分かった。
あちらも、こちらを知っている。
平助は凍りついた。
男の口元が、ほんの僅かに吊り上がる。
それは、同類を見つけた顔ではなかった。
むしろ逆だ。
邪魔者を見つけた顔だ。
ぞわりと、背中に嫌な汗が流れた。
その笑みの意味を、平助はまだ正確には理解できない。
だが本能だけが先に告げていた。
これは、自分が勝手に酔っていた『見守るだけの一年』では済まない。
何かが起きる。
起きようとしている。
そしてたぶん、その中心には、あの司書のお姉さんがいる。
平助は文庫本の表紙を握る指に力を込めた。
彼女へは触れない。
踏み込まない。
壊さない。
それが誓いだった。
けれどもし、
その誓いを守っているだけでは届かないところまで、何かが来ているのだとしたら。
静かな図書館の真ん中で、
出芭平助は初めて、自分の中の『絶対不可侵』が揺らぐ音を聞いた。
「頼むから眼鏡を外さないでくれェえええッ!!!」
そんな叫びを自室にこだまさせてきた変態紳士・淑女のみなさん、大変長らくお待たせいたしました。
ここに、みなさんの食指にかなうべく用意された物語があります。
ただの変態がこじらせた物語ではありません。
これは、すべての報われない運命を背負ったヒロインを救済すべく立ち上がった、異世界最強の力を手にした変態の物語であります。
どうか変態紳士淑女のみなさん。
この哀れな社畜の化身である男・出芭平助に、生温い視線と声援をお願いします!
変態としてはまだまだ未熟者であります故、どうかみなさんのお力をお貸しください。
ああっ! 女神よ!
どうか、無能で変態な私めに、最後まで書き切る力をお与えください!!!




