表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
65/70

第10話 不可視の男、東の魔王

 サラドレイクを討伐した直後から、アルトの胸の内には小さな棘のような違和感が残っていた。


 対峙した群れの中でも最も大きく、赤みの強い個体。

 あれだけが、どこか本体とは別の気配を薄くまとっていた。


 魔力の残り香、と言えば近い。

 だが、単純な主従契約や刻印とも違う。

 もっと執着が強く、しかし線は細い。


 他の個体は、その大きな個体に付いてきただけだと推測できた。

 ならば、妙なのはその一頭だけだった。


 調べるべきだ。


 そう思った時点で、アルトの中ではほとんど決まっていた。

 王都に戻り、ギルドへの報告は終えた。イルナの家へ挨拶に向かう前に、一度だけ確かめる。

 すぐ済ませるつもりだった。


 だから今回は、イルナを王都に残してきている。


 もちろん、誤魔化しはしなかった。


 実家に寄るだとか、王都周辺の確認だとか、そういう曖昧な嘘で済ませることもできた。

 けれど、平助は思ったのだ。

 これからも共に行動する仲間に、不要な誤魔化しは重ねたくない、と。


 だから正直に言った。


 サラドレイクの群れがいた森林地帯へ、もう一度向かう。

 違和感が残っている。

 確認しておきたい。


 それを聞いたイルナは、不安そうな顔こそしたが、止めなかった。

 止められるとも思っていなかったのだろう。

 ただ、無事に帰ってきてください、とだけ小さく言った。


 アルトはその言葉を思い出しながら、転移で一気にサルメア村の上空に出た。


 高い。

 かなり高い位置。

 そこから村を見下ろす。


 良い村になった。


 たった半年で、という言い方は少し違う。

 もともと地力のある村だった。

 だからこそ、少し手を入れれば形になった。

 それでも、ここまで生きた共同体になるとは、アルト自身も思っていなかった。


 満足だ。


 そう思って眺めていると、不意に村の一角の建物から、ひどく見覚えのある女が飛び出してきた。


 サルメアだ。


 辺りを見回し、上空を仰ぎ、何かを探している。

 当然ながら、目視できるはずはない。

 高度もある。

 しかもアルトは高度な隠蔽魔法をかけている。


 だが、それでも彼女は上を見た。


 まるで本能が、そこにアルトがいると告げたみたいに。


 アルトは、思わず少しだけ目を細めた。


 相変わらず、良い村長だと思う。

 色々な意味で。


 その時、遠方の上空で爆炎が上がった。


 転移直後から、何かしら強い魔力の兆候は感じていた。

 だが、いま見えたそれは、もう見過ごしていい規模ではない。


 しかも方向は、まさに自分が向かおうとしていた場所だった。


 アルトの身体が考えるより先に動く。


 全力で飛ぶ。


 風が裂ける。

 大気が歪む。

 目的地へ近づくにつれ、魔力と殺気と熱が複雑に混じり合っているのが分かった。


 眼下には、騎士風の装備をした者たち。

 空と地を行き来しながら彼らを一方的に攻撃しているサラドレイク三体。

 そして、その中心にいる竜人族の男と、応戦する一人の女騎士。


 まずい。


 全体がまずいが、その中でも女騎士の状況が最悪だった。


 アルトは即座に判断した。


 隠蔽魔法。

 姿。

 音。

 魔法の気配。

 そのすべてを遮断する。


 さらに幻影魔法を重ね、隠蔽によって生まれる不自然な空白を埋める。

 『そこに何もない』というより、『そこには当然あるはずの空気しかない』と世界に錯覚させるような高度な馴染ませ方だ。


 そのまま、女騎士――エレノアが背にする岩の横へ滑り込む。


 ヴォルガンの次の一撃に合わせる。


「人族らしく、無様に死ね」


 刺突。


 その爪が、甲冑へ触れる寸前で止まった。


「なんだ!?」

 ヴォルガンの声が、初めて明確な苛立ちを帯びる。


 未知の介入。

 しかも、自分の感覚でさえ掴み切れない。


 ヴォルガンは反射で上空へ飛び上がり、エレノアから距離を取った。


 エレノア自身も、何が起きたのか理解できなかった。

 ただ、死ぬはずだった一瞬が、何者かに奪われたことだけが分かる。


 死を覚悟していた。

 一撃で貫かれると同時に、全魔力を投じた第二撃の雷撃を叩き込むつもりでいた。

 その緊張が切れた瞬間、膝から力が抜ける。


 倒れかけた体を、すぐに誰かが支えた。


 腰に腕が回る。

 かなりしっかりと。

 支えられたと分かるより先に、回復魔法が走った。


 砕けていた腕が治る。

 流血が止まるどころか、失われた機能そのものが戻る。

 しかも、異常な速度で。


 エレノアの息が詰まる。


 こんな回復魔法は見たことがない。

 いや、魔法という枠に収めていいのかすら分からない。


 そこで、耳元に男の声が落ちた。


「大丈夫か?」

 低い。

 だが冷たくない。

 ひどく落ち着いた声だった。


 その一瞬だけで、エレノアの心は射抜かれた。


 早すぎる。

 だが仕方がない。


 今まで、彼女は年頃の女性として優しく扱われる経験に乏しかった。

 騎士の家に生まれ、鍛えられ、武を身につけてからはなおさらだ。

 命を懸けた極限状態。

 死を覚悟した瞬間。

 そこに現れた、姿の見えない男。

 腰を抱き、命を救い、なおかつ声まで良い。


 少女趣味だと、自分でも分かっている。

 分かっているが、どうしようもなく憧れていた状況に類似していた。


 落ちるなという方が無理だった。


 だが、そこで隙を見逃すほどヴォルガンは甘くない。


 上空から、何かが存在すると判断した空間へ、爪を振り下ろす。


 アルトは片手で受けた。


 受け止める。

 沈み込んだ地面の上で、そのまま立っている。

 ダメージを吟味するように、わずかに眉を動かしただけだった。


「あ、あの……」

 腰に腕を回されたままのエレノアが、ようやく我に返る。

「わ、私は――」

 離れようとする。


 だが、アルトは腰に回した腕に少し力を込めた。


「じっとして」

 囁く。


 それだけで、エレノアの胸の内がひどく熱くなった。


 もちろんアルトにそういう色気の意図はない。

 回復直後の女騎士が魔力酔いを起こしている可能性。

 その安全確保。

 そして、自分が動く際の効率の問題。

 ただそれだけだ。


 しかし、エレノアにとっては十分すぎた。


 危ない。

 いけない。

 でも、心が跳ねる。


 その一方で、アルトは冷静だった。


 サラドレイク側も限界が近い。

 このままヴォルガンとだけ悠長に遊んでいれば、他の騎士たちに死人が出る。


 だから、片づける。


 アルトはヴォルガンの体表へ、薄く結界魔法を展開した。


 外から見れば、ほとんど何も起きていない。

 だが、結界は体表に張りつき、動きを封じる。

 さらに、呪詛系の魔法を警戒し、その内側の空気まで遮断した。


 ヴォルガンは声を上げることもできない。

 呼吸もできない。

 魔力の動きだけで破壊を試みるが、遅い。


 やがて、無音のまま窒息死した。


 敬愛する幹部ゼルフィザを下した相手から、同じ系統の魔法を受けたことすら知らぬまま。


 不意に落下を始め、地面に叩きつけられる。


 それを見たエレノアは、状況の意味が分からなかった。

 ただ、これすらも不可視の男の仕業なのだと理解した時、かえって心が躍ってしまう。


 だが、すぐに現実が戻る。


 レオノーラたちの方へ向かったサラドレイク。

 あちらが危ない。


 エレノアは走ろうとした。

 しかし、アルトの懸念通り、強すぎる回復魔法の反動で魔力酔いを起こしていた体は言うことを聞かない。


 足が震える。

 力が入らない。


 その間にも、アルトは残る二頭を落としにかかっていた。

 結界。

 落下。

 処理。


 だが、三頭目には間に合わない。


 そこでアルトは飛ぶのをやめた。

 今から追っても遅いと判断したのだ。


 その場に止まり、馬で全力移動を続ける三人に向けて結界魔法の展開を集中させる。


 レオノーラの頭上では、すでにサラドレイクの爪が振り下ろされようとしていた。


 その瞬間。


 木陰から、不意に塊が飛び出す。


 爪にぶつかる。

 辛うじて一撃が逸れる。

 反動で弾かれた塊は、レオノーラとぶつかり、彼女もろとも地に転がった。


 アルトはその塊を一瞬で見抜いた。


 イルナだ。


 だからこそ、レオノーラと同時にイルナへも結界を張った。

 二人とも無傷で済む。


 続いて、サラドレイクも地面に落とす。


 ようやく片づいた。


 アルトは地上へ降りる。


 そこでは、レオノーラを支え、不器用に「大丈夫ですか?」と声をかけるイルナの姿があった。


 レオノーラは、まだ頭が追いついていない。

 竜種の一撃と落馬と地面への転倒。その全部を受けたはずなのに、自分が無傷で立っている事実に、思考が追いついていない。


 その混乱の中で、目の前の少女を見る。


 狼耳。

 あまりに突然のお姉さんからの視線と接触に戸惑っている、慎ましい顔。

 頬は赤い。

 伏し目がち。

 しかも、この子が身を挺して自分を救った。


 それがようやく理解に追いついた時、レオノーラの中の何かがほどけた。


 たまらなく愛おしい。


 そう思った瞬間には、もう両手で抱き込んでいた。


「ああ……!」

 声が漏れる。

「ありがとう……!」

 抱きしめる。

 頬へ、ほとんど無意識に口づける。


 イルナは完全に固まっていた。

 何が起きているのか分からない。

 命を助けた。

 抱きしめられた。

 頬に口づけされた。

 情報量が多すぎる。


 レオノーラはそこで、改めてイルナの顔を間近に見た。


 駄目だ。

 これは駄目だ。


 こんな愛らしい少女が存在するなんて。

 しかも、自分を守るために飛び出した。

 それだけでなく、震えながらも気遣ってくれている。


 母性が、完全にやられた。


 ああ、良い。

 すごく、良い。


 アルトはその光景を見て思った。

 非常に良い。


 申し訳ないが、本当に良い。

 レオノーラにこういう一面があることも、イルナがこうして受け止めきれず(とろ)けるのも、だいぶ良い。


「なんて……!」

 レオノーラの声が震える。

「もう、なんて愛おしいんでしょう……!」


 なおも抱きつき、口づけまで続けるレオノーラを前に、イルナの限界は近かった。

 頬だけでなく、耳も尻尾もおかしくなっている。


 アルトはさすがに可哀想になって、ひとつ咳払いをした。


 そして、隠蔽魔法を解く。


 何気なくレオノーラが振り向く。


「――な、な、な、な、な――!」


 そこには、さらに予想外の男が立っていた。


「久しぶり」

 アルトは言う。

「ずいぶん立派になったね」

「な、な、な、なぜ、あなたが、ここに!?」

 レオノーラの顔が一気に熱を持つ。


 見られていた。

 全部。

 少なくとも、かなりいったところまで。


 それだけで、騎士としての冷静さが半分以上吹き飛ぶ。


 アルトはそれには答えなかった。

 代わりに、今にも崩れ落ちそうなイルナを抱き上げる。


「向こうの方に」

 淡々と言う。

「他の騎士たちがいる」

「……」

「戦闘は終わったようだよ」

 それだけ告げて、レオノーラのもとを離れる。


 イルナは、アルトの腕の中でまだ呆けていた。


 レオノーラから向けられた熱が、そのまま残っている。

 頬も耳も熱い。

 何をされたのか分かっているのに、整理ができない。


 ようやく我に返ると、途端に慌て始めた。


「ア、アルトさん!」

「ん」

「これは、その、ちがくて、ですね!」

 何を弁明したいのか、自分でも分かっていない顔だ。


 アルトは、そんなイルナの頭を優しく撫でた。


「よく彼女を守ってくれた」

 それだけ言う。


 イルナは、その一言で少しだけ落ち着いた。

 褒められた。

 しかも、ちゃんと見ていてくれた。


 それだけで十分だった。


 少しして、アルトは改めて訊ねた。


「どうしてここに来た?」

 イルナは、そこでようやく本題に戻される。


 だが、彼女自身も、その問いに対して明確な答えを持っていなかった。


「……わからないんです」

「わからない?」

「でも」

 胸元を押さえる。

「どうしても、アルトさんのそばにいかなきゃいけない気がして」

「……」

「いても立ってもいられなくて」

 セルマの権限を使い、転移石を借りた。

 それも、かなり高い費用がかかる代物だ。

 イルナが単独で判断して動くには、以前なら考えられないことだった。


 だが、彼女は動いた。


 サルメア村まで来た。

 そこから、凄まじい交戦の気配がある場所を見つけた。

 それがアルトの目的地だったから、怖かったけれど近くの木陰へ潜み、様子を見ていた。

 そして、竜に狙われている人がいたから、飛び出した。


「……それだけです」

 イルナは言う。

「それだけ、なんですけど……」

 それで十分だった。


 獣人としての勘か。

 アルトの魔力や気配と、イルナの感覚が妙に結びついているのか。

 世界の脈絡そのものに、彼女が少し引かれているのか。


 今の時点では分からない。


 けれど、理屈に落ちる前に飛び出したその行動は、称賛に値した。


 しかも、セルマをどうにか説得し、使用権限も費用の高い転移石も使ってここまで来ている。

 あの引っ込み思案だったイルナが、だ。


 アルトの胸は少し熱くなった。


 だから、もう一度だけイルナの頭を撫でる。


 そして心の中で決める。

 彼女が使った資金分は、あとでこっそり埋め合わせよう、と。


「まだ用事がある」

 アルトは言う。

「向こうの騎士たちを」

「……」

「サルメア村まで案内してやってくれ」

「え」

「回復はしてある」

「……」

「でも、魔力酔いで動けない者もいる」

 イルナは、少しだけ不安そうにした。

 だが、すぐに頷く。


「わ、わかりました」

 アルトはそれを確認し、再び飛ぶ。


 その頃、交戦地から少し離れた森の中では、レオノーラたち三人と、副団長エレノアたちが合流していた。


 エレノアは、イルナの姿を見て最初に問うた。


「そちらの方は?」

 レオノーラが、まだ少し頬を紅潮させたまま答える。


「私たちを救ってくださった命の恩人、イルナさんです」

「い、いえっ、そんな……!」

 慌てるイルナの背に、レオノーラはそっと手を添える。


 そして、誇らしげだった。


「あ、あの、村までご案内、します……」

「本当にありがとう、イルナさん」

 レオノーラは他の騎士たちにも向けて言う。

「彼女は私たちを守ってくれたのです」

 騎士たちが口々に礼と称賛を向ける。

 イルナはもう、耳も尻尾もぴくぴくさせながら曖昧に応じるしかない。


「わ、わたしではなくて」

 そして、つい言ってしまう。

「アルトさんが……!」

 その瞬間、エレノアの表情が変わった。


 柔らかい笑みが、一気に熱を含む。


「その『アルト様』とは」

 一歩詰める。

「もしや、途方もなく腕の立つ方でしょうか?」

「は、はい」

「しかも、先ほどまでこちらにいらっしゃった?」

「……は、はい」

 イルナは、やや押されながらも頷く。

「『アルトさんは神鉄級』だと、セルマさん……いえ、受付嬢のお姉さんも言っています」

「……」

「もちろん、わ、わたしもそう思います」

 エレノアの中で、何かが完全に火を吹いた。


 レオノーラが、その横顔を見て悟る。


 遅かった。


 副団長は、すでに恋する女の顔をしている。


 アルトが会ったら刺さる。

 副団長もまた、アルトにやられる。

 その出会いが、もう成されている。


 おそらく、両想いに近い種類の危険性がある。


 最悪だ。

 いや、冷静に考えれば最悪でもないかもしれないが、少なくともレオノーラにとってはよろしくない。


「エレノア様」

 思わず声が硬くなる。


 だがエレノアは、そこでイルナの言葉を咀嚼しながら、ひどく静かに呟いた。


「……そう」

 一拍。

「あの方が、あなたの思い人なのね」

 レオノーラの肩が跳ねた。


 いまのは、誰に向けた言葉だったのか。

 自分か。

 それとも、副団長自身か。

 どちらにせよまずい。


 レオノーラは、そこではっきり理解する。


 アルトは確かに女性の魅力に感動しやすい。

 だが、自分からそこへ踏み込みきることは少ない。

 きっとエレノアのことも、一瞬心を奪われたとしても、何かと理由をつけて距離を取るだろう。


 だが、それでも問題は残る。


 いま目の前にいるこの副団長は、完全に熱を持ってしまっている。


「はぁ……」

 人知れず、しかしレオノーラには聞こえるように、エレノアがため息を漏らした。

「またお会いしたいわ」

 駄目だ。

 やはり駄目だ。


 レオノーラが本格的な焦りを覚えていると、エレノアはそんな彼女の様子を面白そうに横目で見た。


 それから、イルナを馬に乗せる。

 自らもその後ろに跨る。


「案内をお願い、イルナさん」

「は、はい……!」

 イルナはまだ落ち着かない。

 だが、役目を与えられたことで少しだけ正気に戻る。


 そのまま一行は、サルメア村へ向けて動き始めた。


 アルトは、その様子を上空から見送っていた。


 騎士たちは村に着けばひとまず助かる。

 サルメア村なら、受け入れも、治療後の面倒も見てくれる。


 それを確認して、アルトは再び前を向いた。


 そこには、もう一つの圧がある。


「大したものだ」

 声が落ちてきた。

「危うく見落とすところだったぞ」


 夢の中で何度も見た、本物の武人の姿がそこにあった。


 東の魔王ヴァルジア。


 未来視で見てからというもの、アルトは数えきれないほどの夢を見てきた。

 十日間におよぶ死闘。

 勝つ夢。

 負ける夢。

 理解不能な介入で終わる夢。

 そのどこにも、これほど早い段階で彼と向き合う場面はなかった。


 違う。

 順番が違う。

 未来がずれている。


 だが同時に、目の前の男が夢の中のままの気配を纏っていることに、妙な納得もあった。


 アルトは、潔く隠蔽魔法を解く。


 ただし魔力は極限まで抑えたまま。

 気配も最小限。


 正面から東の魔王と対峙する。


 礼を知る男。

 そういう夢の感触が、まだ残っているからだ。

 そして、いま近くにイルナや騎士たちがいる以上、彼の機嫌を損ねて即時の戦闘に持ち込むのは避けたかった。


「そう硬くなるな」

 ヴァルジアは言う。

「いまはまだその時ではない」

 彼の腕には、先ほどアルトが窒息死させたヴォルガンの遺体がある。


「ただ――」

 そこで、アルトは思わず身構えた。

「臣下たちがうるさくてな」

 ヴァルジアは肩を竦める。

「幹部を二人も落とされ、それでも兵を挙げないおつもりですか、とくる」

「……」

「よい。その反応で察したわ」

 口元が僅かに上がる。

「こうしてこの場に来たのは、この目で戦況を見たかっただけのこと」


 アルトは黙る。


 ヴァルジアの腕の中にはヴォルガンの死体。

 その扱い方は、確かに武人のそれだった。


「この首を無下にすることがあれば」

 ヴァルジアは続ける。

「即刻始末してやろうとも思ったが」

 一拍。

「それほど野蛮でもないらしい」

「……報復しないのか?」

 アルトが問う。


 ヴァルジアは迷わなかった。


「しないな」

「……」

「個が武人として、戦の内に死ねたのだ」

「……」

「水を差すこともあるまい」

 その答えは、夢の中の彼と矛盾しない。


「しかし」

 ヴァルジアは続けた。

「近いうちに軍を動かす可能性はある」

「このまま」

 アルトは言う。

「人族から手を引くことはできないのか」

「できぬな」

 即答だった。

「我が望まずとも、もはや戦を止めることはできん」

「……どちらかが滅ぶまで」

「そうだ」

「しかも」

 アルトは目を細める。

「滅んでもなお、同種の内に火種は生まれる。同種で手を組み、互いに同じ敵の方を向いているだけ、いまはマシなのかもしれない」

「……」

「すべてが滅ぶまで、戦が尽きることはない」

 ヴァルジアが、そこで初めて目を見開いた。


 ここまで戦の本質を理解している勇者を前にしたのは初めてだった。

 しかも、この男を前にして、なぜか自身はいま、いつもより遥かに対話を好んでいる。


「よいな」

 ヴァルジアが笑う。

「武の試し合いなど、所詮は趣味にすぎん」

「同意だ」

 アルトも応じる。

「それも、人様にご迷惑を掛けない程度にな」

 そこで、東の魔王はとうとう心の底から笑った。


「ははっ!」

 実に愉快そうだった。

「我はヴァルジア。東の魔王だ」

「アルト・ヴァレイン」

 アルトは名乗る。

「駆け出しの冒険者をしている」

 ヴァルジアは、たまらずまた笑う。


 別の位相に隠した、世界を覆い尽くすほどの魔力を抱えながら、『駆け出し』。

 冗談としては上等すぎた。


「よいぞ、勇者アルトよ」

 ヴァルジアの目が輝く。

「貴殿に殺されるのなら本望だ」

「……」

「まずは我のもとへ来い」

「……」

「そして思う存分に、その力を振るうがいい!」

 その時、中空が裂けた。


 別の何者かによる亜空間魔法だ。

 アルトは一瞬で理解する。


 魔王然とした所作でマントを翻し、ヴァルジアはその裂け目に消えていく。


 同時に、もう一つの気配も遠ざかる。

 

 北の魔王ノルン。


 アルトはそこで、ようやく辺り一帯を取り囲んでいた結界を解除した。


      *


「どうだった?」

 亜空間の中で、ノルンが尋ねた。


 ヴァルジアに茶を淹れながらのことだ。

 こういう時でも、彼女は手を止めない。

 止めると自分が不安になるのを知っているからだ。


 ヴァルジアは椅子に腰を下ろしたまま答えた。


「実に見込みのある男だった」

 ノルンはその返答に驚いた。


 あまりに素直だったからだ。

 しかも、その表情はどこか満足気ですらある。


「ヴァルジアがそこまで言うなんて、珍しい」

「……そうだな」

 茶を受け取りながら、彼は少しだけ目を細める。

「このような立場でなければ、是非とも酒を交わしたいところだ」

「いい人なんだね」

 ノルンは言った。

「でも、やっぱり戦うの?」

「やむを得ん」

 ヴァルジアはあっさりと言う。

「こうして生を受けた以上、定めと割り切るより他はあるまい」

「……勝てる?」

 ノルンは、そこを一番聞きたかった。


 ヴァルジアを亜空間に招き入れた直後から、彼女は異変に気づいていた。


 普段なら、茶を前にして『落ち着く』などと年寄り臭いことを言う男の身体が、いまだに微かに震えている。

 恐怖ではない。

 高揚だ。

 武者震いだ――そう、思いたい。


「十中八九、負けるだろうな」

 潔かった。

「いったいなんだ、あのバケモノじみた力は」

 一拍。

「武者震いが止まらぬわ」

 あまりにもあっさり負けを認める、その初めて見る姿に、ノルンは涙を浮かべながら懇願した。


「戦わないで」

 ヴァルジアは、少しだけ困ったように笑う。

「……すまん」

「……」

「しかし、ノルン」

 そこで声が柔らかくなる。

「お前は戦ってくれるなよ」

「自分勝手」

 ノルンは、努めて笑ってみせた。


 だがそれは、完全な冗談ではない。


 表向き、北の魔王の座にはまだノルンの父がいることになっている。

 両親はまだ生きていることになっている。

 そういう体裁だけが、かろうじて保たれているのだ。


 勇者と戦う宿命を負うのは『魔王』だけだ。

 魔王が討たれれば、人族側は支配から解かれる。


 その理が、いつの間にか世界に染みついていた。


「あの勇者は」

 ヴァルジアは茶を見つめながら言う。

「世界を変えるかもしれん」

「え?」

「人族対魔族という枠を壊し」

「……」

「その腕一つで世界を捻じ曲げるだけの力が、あの勇者にはある」

「それでも戦うの?」

「ああ」

 迷いはない。

「少なくとも、世界が変わるまでは、な」

 そして、彼は嬉しそうに続けた。

「再び転生した暁には、奴の配下に収まるのも悪くない」

 ノルンは、その言葉に少しだけ笑ってしまった。


 こんなふうに誰かを気に入ったヴァルジアを見るのは、悪くない。

 でも同時に、その相手と戦わなければならないのだと思うと、ひどく胸が痛む。


「ノルン」

 ヴァルジアは、ふと真顔に戻る。

「何度も言うようだが、イゼルダには気を付けろ」

「……うん」


 西の魔王イゼルダ。

 死と契約、幻惑を司る女。

 ノルン以外の魔王たちと同じく、先の魔王大戦を知る者の一人。

 そしてヴァルジアは、ノルンの両親に手を掛けたのも彼女だと疑っている。


 北の魔王の両親は、争いを止めるため、亜空間魔法を絡めた強制契約によって魔王全員を停戦状態に置いた。

 だが、イゼルダはそこに綻びを作った。

 あるいは見出した。

 停戦に応じたふりをしながら、最も厄介な相手から始末したのだ。


 そして、その結果として、ノルンの両親はいまだ転生していない。

 五百年経ってもなお。


「たとえあの女と戦うことがあっても」

 ヴァルジアの声が低くなる。

「正面からはぶつかるな」

「……」

「できることなら逃げろ」

「……」

「最悪の場合――」

「自ら命を絶つ、だね」

 ノルンが先に言う。


 幻惑の中でいつまでも生かされる地獄を見るくらいなら、一度死に、次の自分へ託す。

 それが、この世界で魔王が取りうる最悪時の選択だ。


 やがて、二人はそれぞれのあるべき場所へ戻っていく。

 それぞれの思いを抱えたままで。


 東の魔王は、勇者との未来を思い。

 北の魔王は、その勇者にまだ見ぬ希望と恐れを重ねながら。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ