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第9話 黒翼の影、天槍雷下

 サラドレイクの遺骸は、調査団が想定していたより遥かに重かった。


 いや、重いという言葉だけでは足りない。

 質量そのものが、こちらの常識に悪意を持って寄りかかってくるような重さだった。


 頭部だけでも巨大である。

 角の一本ですら、人の足ほどの太さがある。

 それを運搬用の綱と滑車でどうにかしようと試みた騎士たちは、途中で顔色を変えた。


「……無理です」

 と、ひとりが言う。

「この人数では」

「運べても速度が出ません」

「夜までに林を抜けきれない」


 十人で編成された小規模の調査団。

 機動力を重視した人数だ。

 つまり、重量物を引きずることには最初から向いていない。


 副団長エレノアは、それを即座に見切った。


 残念そうな顔をする者はいた。

 遺骸そのものを王都へ持ち帰れれば、これ以上ない証拠になっただろうからだ。


 だが、できないものはできない。


「頭部の角だけを持ち帰る」

 彼女は迷いなくそう告げた。

「一本でも十分に証拠になる」

「……」

「むしろ、これを確実に王都へ届けることの方が重要よ」


 騎士たちはすぐに動いた。


 角を根元から切り離す。

 重い。

 見た目以上に、ずっしりしている。

 それでも二本なら、十人で役割を分ければ運べる。


 問題は、それを運ぶあいだもこの森が安全とは限らない、という点だけだった。


 出発の準備が整い、調査団は再び王都へ向けて馬を出した。


 空にはまだ日がある。

 森の色は濃く、紅葉の混じり始めた葉が風に擦れるたび、乾いた音を立てる。


 時間だけを見れば、サルメア村にもう一度立ち寄るという選択肢がないわけではなかった。


 実際、団員の何人かはそのことを思った。

 副団長エレノアも。

 レオノーラも。

 口にはしないが、誰もが少しだけ残念だった。


 あの村は、ひどく印象に残る場所だったのだ。


 灰牙ネズミの料理。

 センバの工芸。

 村人たちの心意気。

 そして、あそこに濃く残っていたアルトの痕跡。


 だが、騎士団の責務を前に、その未練は静かに胸の内へ沈められる。


 優先すべきは、王都へ知らせを持ち帰ること。


 レオノーラは、馬上でそう自分に言い聞かせながらも、今度は休日にミレナを連れて来ようと本気で考えていた。


 あのカツレツをミレナに食べさせたら、どういう顔をするだろう。

 あのセンバの縫物を見たら、きっと目を輝かせる。

 そう思うだけで、少し胸がやわらかくなる。


 ――その穏やかな想像は、不意に断ち切られた。


 大きな影が調査団の上を横切った。


 最初に異変に気づいたのは、馬の方だった。

 耳を伏せ、鼻を鳴らし、脚を乱す。


 次の瞬間、過ぎ去った影に遅れて突風が落ちてくる。

 若木がなぎ倒され、枝葉が一斉に鳴った。


 騎士たちは反射で上を見た。


 サラドレイクの遺骸が残された地点、その上空。

 そこに、人影が浮かんでいた。


 黒い。


 いや、ただ黒いのではない。

 漆黒の鱗を、まるで武装のようにまとった竜人族の男だった。


 大きな翼。

 それでいて、羽ばたきに無駄がない。

 空を掴んでいるのではなく、空そのものに重さを預けているような飛び方だ。


 首をほとんど動かさず、目線だけで下界を舐めるように見渡している。

 その様子だけで、ひどく高圧的だった。


 騎士たちは、思わず固唾をのんだ。


 男が口を開く。


「よもや」

 低い。

 金属が軋るような声音だった。

「貴様らがやったのではあるまいな?」


 その一言で十分だった。

 何者か、という細部はさておき、少なくとも人族に友好的ではない。

 そのことだけは、誰にでも分かった。


「応えろ」

 男の視線が、運搬用の荷へ落ちる。

「魔王軍が幹部、ゼルフィザ様に手を掛けた不届き者はどこだ」


 その名に、レオノーラの背筋が冷えた。


 ゼルフィザ。

 学院祭の襲撃に関わっていた高位魔族の名だ。

 つまり、この男は。


 次の瞬間、また風が吹いた。

 今度は上空に三体のサラドレイクがいた。


 あまりにも最悪だった。


 竜人族の男だけでも、明らかに上位存在だ。

 圧が違う。

 しかも『魔王軍』と『幹部』の名を口にしている。


 それに加え、一頭だけでも大軍を要すると言われるサラドレイクが三頭。

 騎士たちの何人かは、その時点で心が折れかけていた。


 逃げる?

 無理だ。

 馬では空の竜に追いつかれる。


 交渉?

 通じる気配がない。


 戦力差は歴然だった。


 ――だが、だからといって、エレノアは止まらない。


 副団長はすぐに決断した。


 レオノーラへ視線を走らせる。

 若い。

 実力はある。

 だが、この場で使い潰すにはまだ早い。


 近くの中堅騎士二人へ、ほとんど耳打ちの速度で命じる。


「レオノーラを連れて王都へ」

「副団長」

「急ぎなさい」

「ですが――」

「命令よ」


 それだけで、二人は観念した。


 残る六人に声を張る。


「私に続け!」

 その声音に、折れかけていた騎士たちの意識がどうにかつなぎ止められる。


 エレノアは馬腹を蹴り、竜人族の男――ヴォルガンの真下へ向かう。


 走りながら、すでに詠唱が始まっていた。


 長い。

 通常の戦闘魔法より、はるかに長い。

 だが無駄がない。

 一語一語が、空気の密度を変えていく。


「天を裂く銀槍よ、我が剣先に応じ」

 馬が駆ける。

 蹄が土を叩く。


「雲を越えし轟きよ、地へ堕ちる道を得よ」

 剣の切っ先に、淡い光が纏わり始める。


「流れし光を束ね、裁きの形をここに示せ」

 頭上の空気が変わる。

 雲がなくとも、そこに巨大な魔方陣が組み上がっていく。


「穿て、貫け、逃すな」

 エレノアの目は、もうヴォルガンしか見ていない。


「《天槍雷下》――!」


 次の瞬間、天と剣とが繋がった。


 眩むほどの白。

 視界を埋める雷光。

 轟音が森そのものを揺らし、上空は一瞬で爆炎に包まれる。


 六人の騎士たちは、その光景に勝利を確信した。


 知っていたからだ。

 エレノアが扱う最大級の魔法であることを。


 いや、知っていたつもりだった。

 だが、これほどまでに巨大な《天槍雷下》を見た者は、一人もいない。


 それだけこの相手が危険だと、彼女は瞬時に判断したのだ。


 ――けれど、エレノア本人だけは、まったく勝利を信じていなかった。


 彼女は最初の雷槍を放った瞬間から、もう次を組んでいた。

 止まりかけた騎士たちへ、散れ、と叫ぶ。


「散開!」

「副団長!」

「早く!」

 残るサラドレイク三頭の注意を引きつけるよう指示を飛ばし、自身は第二撃へ向けて魔力を練る。


 勝てない。


 その可能性が高いことを、彼女は最初から理解していた。


 それでも、若い騎士を逃がすためなら、自分がここで死ぬことは許容できる。


 煙が散る。


 ヴォルガンは、そこにいた。


 無傷だった。


 焦げてもいない。

 鱗の端ひとつ、焦げ跡らしいものすらない。

 ただ上空で、相変わらず見下ろしている。


 その光景だけで、何人かの騎士は完全に血の気を失った。


 次の瞬間、ヴォルガンの姿が消えた。


 エレノアは反射で剣を上げる。

 爪が振り下ろされる。


 重い。


 剣で受けた瞬間、腕が抜けるかと思った。

 馬ごと地へ沈む。


 土が爆ぜる。

 苦鳴すら上げる暇もなく、次の刺突が正面から来る。


 流し切れない。

 剣が、まるで小枝みたいに折れた。


 エレノアの体は吹き飛び、近くの岩へ叩きつけられる。


 右腕が砕けていた。

 胸の奥も焼けるように痛む。

 視界が飛びかける。


 だが彼女は、そこで痛覚遮断の武技を使い耐えた。

 ぎりぎり意識を繋ぎ止める。


 折れた腕を垂らしたまま、残った片手で短剣を抜く。


 それを見たヴォルガンは、初めて軽く口元を曲げた。


「我の突きを二度も防いだか」

 低い声。

「人族とはみな詰まらぬものと思っていたが、これには骨がありそうだ」


 そこでようやく、エレノアは理解した。


 この男を最初、武人だと思った。

 強者であり、礼を重んじる類の。

 だが違った。


 舌なめずりをするその仕草。

 獲物を痛めつけることを面白がる目。


 あれはただの狂人だ。

 戦に狂った亡者だ。


 エレノアは、痛みを押さえ込みながら問いを投げる。


「あなた方は」

 少しでも時間を稼ぐために。

「なぜ、人族を(おびや)かすのですか」


 ヴォルガンは心底つまらなそうに鼻を鳴らした。


「ふん。人族ごときが口をきくな」

 そして、エレノアが落とした剣をつまみ上げると、手首だけで投げた。


 折れた剣先が飛ぶ。

 エレノアは短剣でどうにか弾く。


 それでも言葉を重ねた。


「東の魔王は」

「……」

「人族を支配しても、必要以上の殺戮は好まなかったはずです」

 その瞬間、ヴォルガンの目に濁った熱が宿る。


「偉そうなことを」

 声が低く軋る。

「ヴァルジア様は甘すぎるのだ」

「……」

「人族など生かして何になる」

 そこで、上空に控えていたサラドレイク三頭が、一斉に四方へ散った騎士たちに襲いかかった。


 火球。

 翼が生む風圧。

 爪。

 牙。


 騎士たちは翻弄され、逃げ、耐えるので精一杯だ。


「能のない魔物の方がましというものよ」

 ヴォルガンは嗤う。

「煩いばかりが取り柄の猿(もど)き共め」


 そのうちの一人が落馬した。

 間一髪で噛みつきを避けたものの、サラドレイクは勢いのまま向きを変え、レオノーラたちが走る方角へ飛んでいく。


 エレノアはそこで決断した。


 もうヴォルガンを倒すことは考えない。

 せめて一撃だけでも放ち、レオノーラたちの方へ向かった竜を止める。


 そう決めて距離を取ろうとした瞬間、ヴォルガンが間合いを詰める。


「人族らしく」

 爪が伸びる。

「無様に死ね」


 刺突。


 胸を貫くはずだった一撃は、しかし、甲冑へ触れる寸前で止まった。


 ヴォルガン自身が、微かに目を見開く。


「なんだ?」


 空間に、何かある。


 見えない。

 不確かな感触。

 それなのに、確かに刺突を阻まれた。


 その違和感に、エレノアもまた、息を止めた。


 何が起きたのか、分からない。

 だが、死ぬはずだった一瞬が、不自然に引き延ばされている。


 その間にも、レオノーラたちは走り続けていた。


 木々の密生する地点まで、あと少し。

 だが、サラドレイクは速い。


 頭上に影が差す。

 圧倒的な速度で、爪が振り下ろされようとしていた。


 レオノーラは、振り返った。


 竜。

 巨影。

 終わる。


 そう思った、その時。


 木陰から何かが飛び出した。


 塊のように見えた。

 だが、それは確かに意思を持って跳躍し、サラドレイクの爪にぶつかった。


 衝撃。


 竜の一撃は、辛うじてずれる。

 代わりに、その塊は弾かれ、馬上のレオノーラにぶつかる。


 馬から落ちる。

 地面に転がる。


 何が起きたのか分からないまま、レオノーラは衝撃だけを受け止めていた。


 そして、まだ目の前にはサラドレイクの影がある。


 森の中で、戦いはまだ終わっていなかった。


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