第2話 勇者と、受付嬢と、狼耳の少女
王都の冒険者ギルドは、朝の早い時間からそれなりに賑わっていた。
学院とは空気が違う。
同じ王都の中にありながら、ここにはもっと直接的な生活の匂いがある。
鉄と革。
汗。
古い木材。
酒の残り香。
薬草。
インク。
乾いた血の気配すら、注意深く嗅げばどこかに残っている。
学院にも当然、実戦や魔法の匂いはあった。
だがあそこは、なんだかんだで『守られた場所』だった。
研究棟での失敗も、演習場の流血も、すべては制度と教師と結界の内側にあった。
ここは違う。
ここでは依頼が生活になり、失敗がそのまま傷になり、そしてしばしば死に繋がる。
魔物の素材も、薬草採集も、用心棒も、護衛も、討伐も、全部が金額に換算される。
仕事としての戦い。
それが、この場の空気だった。
アルトはその入り口に立った瞬間から、別種の緊張を感じ取っていた。
いや、緊張というより、異様な空気だ。
扉をくぐった瞬間、ざわつきがほんのわずかに止まる。
視線が集まり、しかし正面からぶつけられはしない。
避けるように散る。
妙に空間が開く。
おかしい。
アルトが何者であるかを、ここにいる者たちはかなり知っている。
学院とギルドは深い関わりがある。
学院の卒業生が冒険者として登録する例も多く、実習や依頼の仲介もある。
ならば、アルトという存在がすでに話題になっていても不思議ではない。
だが、知られ方が妙だった。
人づて。
噂。
学院関係者の口々。
教師の抑えた評価。
それを勝手に増幅する在校生。
さらに外で尾ひれがつく。
結果、ギルド内で流れているアルト像は、だいぶろくでもないものになっていた。
ヴァレイン家の勇者。
学院最優の魔法師。
高位魔族を学院祭の最中に下した影の立役者。
模擬戦では、宮廷魔法師を裕に凌ぐリュシアンを片手間であしらった。
研究棟の教師ですら理論で負ける。
学院の上空から幻影魔法で花吹雪を降らせて去った。
実力は白金級以上、いや神鉄級に届くのではないか。
最後のあたりは、もう噂としてかなり雑だった。
アルト本人からすれば、白金だの神鉄だのという評価もよく分からない。
そもそも、まだ登録すらしていない。
だが、周囲はそうは思わないらしい。
しかも悪いことに、その誇張された噂は、尊敬や期待より先に『委縮』を生んでいた。
怖いのだ。
強すぎる。
勇者として立ちすぎる。
近寄っただけで人生が変わりそうだ。
そのうえ、もし万が一にも声をかけられパーティに誘われたら、その使命ゆえに断れないかもしれない。
そんな空気が、ギルド全体にじっとり広がっていた。
アルトはそれを数秒で理解した。
理解したうえで、特に気にしなかった。
気にしても仕方がない。
いま必要なのは登録であり、依頼を受けられる立場になることだ。
自分はこれから勇者として、魔王軍と魔王からの支配を退けるための旅へ出る。
目的は明確だ。
ならば、さっさと話の通るところへ行くべきだ。
視線を巡らせる。
受付は複数ある。
だが、不自然なほど前が空いている場所が一つあった。
他の受付には、そこそこ人が並んでいる。
軽い依頼の相談。
素材の換金。
報酬の受け取り。
それなりに流れている。
なのに、そこだけが空いていた。
座っているのは、眼鏡をかけた女性だった。
疲れ気味の三白眼。
顔立ちは地味に寄せられて見えがちだが、実際にはかなり整っている。
実務的な美しさ、とでも言えばよかった。
派手さではなく、机と書類とインクと帳面の横でこそ映えるような整い方。
髪も、動きの邪魔にならないようきっちりまとめられている。
服も地味だ。
だが、そこがいい。
それに加えて、まだ仕事の経験が浅いのか、自信がなさそうにしている。
というより、自己評価が低そうだった。
アルトはそこに、妙な既視感を覚えた。
ああ、こういう人はいる。
本人が思っているよりずっと良いのに、どこかで自分の評価を低く置いてしまう人。
しかも周囲からは、他の受付嬢と比べて魅力がないと雑に見なされている節がある。
そのせいか、客足が偏る。
加えて彼女は、時々大きめの実務上のミスを呼び込みやすいらしい。
明らかにランク違いの依頼を承認してしまったり、受理の段階で詐欺師に騙されたり。
おそらく、悪気はない。
ただ押しに弱く、自分の判断に自信を持ちきれないのだろう。
かなり良い。
アルトは、ほとんど迷いなくその受付へ向かった。
受付嬢セルマは、アルトがまっすぐこちらへ来るのを見て、本気で一瞬だけ固まった。
知っている。
もちろん知っている。
学院を卒業したばかりのヴァレイン家の勇者。
王都でもっとも話題の卒業生の一人。
いや、一人どころではない。
今後の王都の戦力図すら変えかねない存在として、ギルド内部でもかなり噂されている人物だ。
セルマは、冒険者ギルドの事務員になった時、ひそかに夢見ていたことがある。
いつか、自分の受付で、彼のように本当に有能な冒険者を担当できたら、と。
ただの華やかな人気者ではなく、ちゃんと中身のある実力者。
そういう人と、実務の面から関われたらいいな、と。
まさかこんな形で叶うとは思っていなかった。
しかも相手が、いきなり勇者である。
心臓がうるさい。
だが仕事はしなければならない。
セルマは背筋を伸ばした。
「え、ええと……っ」
出だしから少し危うい。
「ご、ご用件を……」
「登録を頼みたい」
アルトが短く答える。
「冒険者の」
「は、はい! はい、もちろんです!」
声が少し裏返った。
その瞬間、周囲の何人かがあからさまに気の毒そうな目をセルマへ向けた。
やめろ。
そういう目が余計に本人を追い詰めるのだ。
アルトは内心でそう思いながら、表には出さない。
セルマは慌てて書類を整え、眼鏡の位置を直した。
「ええと、冒険者ギルドは登録制で、基本的には依頼達成に応じて報酬が支払われる形式になっています」
早口だった。
「受けられる依頼はランクごとに区分されていて、下位から順に、銅級、青銅級、黒鉄級、銀級、白銀級、金級、白金級、霊銀級、天金級、神鉄級となっており――」
「うん」
「通常、初回登録者は銅級からのスタートになります、た、ただし、学院推薦や騎士団・研究機関・教会などの保証がある場合、例外的に初期ランクの調整が行われる場合もありまして……!」
焦っている。
かなり焦っている。
アルトは、少しだけ心地よくなっていた。
よくない。
たぶん、よくない。
だが、この『自分を押し出すのが苦手なのに、仕事だからと必死に説明を詰め込んでくる感じ』は、かなり刺さる。
セルマは続ける。
「た、例えば学院卒業生でも、実績や推薦内容によっては黒鉄級や銀級から始まることがありまして……今回、セラフィナ様などは学院卒業時点での実績と学院内の推薦から銀級相当で承認されています」
「セラフィナが」
「は、はい」
セルマは頷く。
「ただ、冒険者としての実務経験はまだ浅いため、高ランク依頼を即時に自由受注できるというわけではなく、しばらくは経験確認も兼ねて低ランクの依頼をこなす形になるかと……」
「なるほど」
セルマはその『なるほど』に、少しだけ安堵した。
会話が成立している。
ちゃんと聞いてくれている。
「また、王都の研究機関が管理する転移石についてですが、こちらはかなり高額ではあるものの、一定条件下で冒険者も使用権を申請できます。長距離移動、遠征、討伐、緊急帰還などで――あ、ええと、これは今すぐ必要ではないかもしれませんが」
「いや」
アルトが言う。
「助かる」
「……」
「知っておきたかった」
セルマはそこで、ほんの少しだけ目を見開いた。
余計なことを言った。
蛇足だった。
そう思っていたのに、感謝された。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「そ、それから」
また眼鏡を直す。
「勇者様――」
「アルトでいい」
「……あ、はい。アルト様」
完全には崩せない。
「ヴァレイン家の勇者というお立場も承知しておりますので、パーティ編成に関する規定も念のためお伝えしておきます」
「うん」
「高位の討伐や、魔王軍関連の依頼に関しては、単独行動が認められない場合があります」
「……」
「いえ、個人の実力を疑う趣旨ではなく」
「分かってる」
アルトは頷いた。
ヴァレイン家が勇者に課す、単独不可のルール。
それは本人の力量不足を疑うものではない。
むしろ、歴史の中で血に刻まれた誓いに近い。
強大な魔王は、倒すたびに転生を経てさらに強くなる。
ならば、個の強さだけでは、いつか対応しきれない不測の事態が必ず来る。
仲間。
補助。
判断の分散。
想定外への余白。
アルト自身にそれが本当に必要かどうかは別として、ルールとしては残る。
「そのため、アルト様ほどのお立場ですと、登録後すぐにでも固定のパーティ編成を求められる可能性が……」
そこで、セルマは一瞬だけ言葉を止めた。
周囲の空気に気づいたからだ。
冒険者たちが、あからさまに視線を逸らしている。
だが、耳はこっちを向いている。
ギルド職員も、書類へ目を落としているふりをしながら、様子を窺っている。
誰も名乗り出ない。
そもそも、勇者が背負う使命は重すぎる。
割に合わない。
しかも命の保証がなさすぎる。
学院経由で伝わったアルトの異常な強さが、逆に周囲へ『自分など必要ないのでは』という委縮を生んでもいる。
白金級以上。
いや、噂では神鉄級ほど。
そんな怪物じみた勇者の隣に立つなど、普通の冒険者なら恐怖の対象ですらある。
セルマは、そこでほんの少しだけ唇を噛んだ。
困る。
このままだと、勇者の登録を担当しているのに、パーティの見通しすら立たないことになる。
だが、だからといって、誰かを無理に押し出せるわけでもない。
アルトはそんな空気を、淡々と眺めていた。
ああ、なるほど。
誰も入りたがらないのか。
理解はできる。
自分でもそうするかもしれない。
何しろ、噂の中の自分はだいぶ気持ち悪いほど盛られている。
とはいえ、ではどうするか。
アルトは、再びギルド内へ視線を巡らせた。
その時だった。
張り詰めた空気と、妙に広く空いた間の向こうから、不意に『何も知らない者』が入り込んでくる。
小柄な影。
フード。
控えめな足取り。
しかし、その歩き方に見覚えがあった。
イルナだった。
彼女はギルド内の異様な空気に、まだ完全には気づいていない。
いや、気づいてはいるのだろうが、その中心にアルトがいるとは思っていない。
いつもの習慣で、掲示板へ目を走らせる。
身の丈に合った、最低ランクの依頼を探すために。
今日食べるため。
家のため。
妹たちのため。
その切実さが、周囲の畏怖とはまったく別の現実を生きていることを示していた。
イルナはようやく、これなら自分でも手が届くという依頼書を見つける。
それを両手で持ち、いつも通り、受付へ向かった。
向かった先が、よりによってセルマのところだった。
セルマは、目の前のアルトと、近づいてくるイルナと、周囲の気配とで、軽く頭が追いつかなくなっている。
だがアルトは、もうその時点で少しだけ目を細めていた。
学院祭のあの日。
フードの奥の狼耳。
困っているのに、声を張ることもできない慎ましさ。
そして、ひどく健気な生活の匂い。
見間違うはずがない。
イルナは依頼書を胸元に抱えたまま受付へ近づき――そこでようやく、アルトの顔を認識した。
固まる。
信じられない、というふうに。
学院祭で助けてくれた人。
お金も食べ物も、氷菓まで押しつけてくれて、聖教会を頼れと言った、あの変な少年。
ずっと、お礼をしたいと思っていた。
いつか改めて会えたら、と。
まさか、こんなところで会うとは思っていなかった。
「……っ」
イルナは、思わずのけ反った。
後ろへ。
びくっと。
完全に予想外だった時の、小動物じみた反応で。
そのまま倒れそうになる。
アルトは反射でその体を支えた。
細い。
軽い。
あの時より少し血色はいい。
だが、やはり生活の無理が骨の近くに残っているような細さだ。
そして、支えられた拍子にフードがめくれた。
狼耳が露わになる。
ギルド内の空気が、一瞬だけ別の意味で止まった。
畏怖。
緊張。
好奇。
そして、『勇者アルトが、狼耳の獣人を抱き留めている』という状況の意味を、それぞれが勝手に測ろうとする気配。
セルマはその光景を前に、本気で息を呑んだ。
アルトは、そんな周囲より先に、倒れかけたイルナの顔を見ていた。
驚き。
羞恥。
助かったという安堵。
そして、思いがけずまた会えたことへの、ひどく控えめな喜び。
その全部が一気に出ている。
かなり良い。
と平助の一部が即座に反応する。
だが、さすがに今は抑える。
「久しぶり」
アルトがそう言うと、イルナの喉が小さく鳴った。
「……あ」
「立てるか」
「は、はい……っ」
耳殻まで赤い。
セルマはそこで、ようやく我に返った。
そして、目の前の勇者と、狼耳の少女と、自分の受付台の上の書類を見て、妙に確信めいたものを感じ始める。
ああ。
たぶん、何かが始まるのだ。
まだ形にはなっていない。
だが、目の前にいるのは、そういう始まりの気配を連れてくる人たちなのだと。
ギルドの朝はこうして少しずつ、ただの登録手続きでは済まない方向へと転がり始めていた。




