第3話 銅級の勇者と、狼耳の新米冒険者
狼耳が露わになった瞬間、ギルドの空気は二重に固まった。
一つは、獣人がこの場の中心へ引きずり出されたことに対する反応。
もう一つは、そんな少女を、よりによって貴族のアルトが抱き留めているという状況そのものへの反応だった。
イルナは、完全に硬直していた。
フードは半ば外れ、耳は隠しようがなく、依頼書を持った手は中途半端な高さで止まっている。
倒れそうになったところを支えられているせいで、距離まで近い。
目の前にいるのは、学院祭で自分を助けてくれた変な少年。
なのに、周囲の空気はあの時とまるで違う。
張り詰めている。
皆がこの人を見ている。
しかも、どこか怖がっている。
イルナには、その理由がまだよく分からなかった。
「あ、あの……」
ようやく喉から出た声は、ひどく小さかった。
「立てるなら離す」
アルトはいつもの調子で言う。
「……た、立てます」
「うん」
あっさり手が離れる。
その手離れのよさに、イルナは少しだけ寂しいような、でもほっとしたような、よく分からない気持ちになる。
アルトは、そこで彼女の手元を見た。
依頼書。
粗末な紙。
銅級向けの印。
最低ランク依頼の一つだ。
内容まで一瞬で把握する。
薬草採取+灰牙ネズミ討伐。
王都近郊の薬草群生地に灰牙ネズミが住み着き、採取人が危険だから間引いてほしい、という類の依頼だった。
悪くない。
初手としてはかなり悪くない。
その横で、セルマは目の前の状況を必死に飲み込もうとしていた。
勇者アルト。
登録。
獣人の少女。
最低ランク依頼。
周囲の空気。
そして、自分がいま勇者に提示すべきランク。
セルマは一度だけ深く呼吸をした。
こういう時こそ実務だ。
混乱しても、手続きを止めてはいけない。
「ええと」
眼鏡の位置を直す。
「まず、アルト様の初期ランクについてなのですが」
周囲の耳が、さりげなくこちらへ向く。
ギルド職員も、冒険者たちも、明らかに気にしている。
セルマとしては、本当なら銀級より上を提示したかった。
学院推薦。
勇者。
実績。
噂の盛られ具合を抜きにしても、銀級は最低ラインに近い。
本来なら白銀級以上でもおかしくないと、彼女個人としては思っていた。
だが、銀級より上になると、さらに面倒な手続きが必要になる。
上席確認。
追加資料。
場合によってはギルド長判断。
ここでそれをやり始めると、余計に場がざわつく。
だから断念した。
「学院からの推薦、およびお立場、過去の実績評価を踏まえまして」
セルマはできるだけきちんとした声を出す。
「初期ランクは銀級での登録が妥当と考えます」
その瞬間、周囲にまたざわめきが走った。
当然だ。
初回登録で銀級。
普通ならありえない。
だがアルトは、提示された瞬間にそれを拒否した。
「いや、銅級で」
あまりにも即答だった。
セルマが本気で固まる。
「……は、はい?」
「銅級」
「い、いえ、しかし」
「初心者だし」
「……」
「まずは地盤を固めたい」
「……」
「実績も、下から積みたい」
言っていることは、ものすごくもっともらしい。
だが、いまこの場にいる者たちの大半は、その理屈を額面通りには受け取れなかった。
銀級を蹴って銅級を取る勇者。
意味が分からない。
セルマも、かなり分からなかった。
「で、ですが」
どうにか反論を試みる。
「銀級からでも、低ランク依頼を受けること自体は可能です。わざわざ銅級へ下げなくても……」
「いや」
アルトはそこで、ちらりと横を見た。
イルナの胸元。
革紐に下がった、銅級のプレート。
それを見たせいで、余計に銅級以外の選択肢がなくなっていることを、本人だけが自覚していない。
「銅級がいい」
きっぱりと言う。
「初心者なんだから」
「……」
「銅級で」
セルマは、そこで数秒だけ黙った。
この人、本気だ。
しかも、たぶん言い出したら動かない。
理由はどうあれ、『自分は銅級がいい』という一点において、すでに完全に決まっている。
そしてセルマは、実務の人間だった。
こういう時、『なぜそうしたいのか』を掘っても意味がない場合がある。
必要なのは、通せる形に整えることだ。
「……かしこまりました」
ついに折れる。
「ご本人の希望により、初期ランクは銅級で登録します」
周囲の冒険者たちが、目に見えてざわついた。
勇者が銅級。
意味が分からない。
何の冗談だ。
いや、冗談には見えない。
そういう顔が、あちこちに浮かぶ。
イルナは、そのやり取りを呆然と聞いていた。
銀級。
自分がようやく手にした銅級の、ずっとずっと上。
しかも、彼はそれを提示されていた。
やっぱり、この人は自分とは違う。
学院祭で助けてくれた時から、何となく分かっていた。
でもいま、改めてそう思い知らされる。
そんな相手が、どうして自分を見ているのか。
イルナにはまだ分からなかった。
その答えを、アルトはわりとすぐに出した。
「で」
イルナへ向き直る。
「パーティを組まないか」
ギルド内の空気が、明確に揺れた。
「は?」
「何?」
「今、あの獣人に……?」
「まさか……」
声を潜めているつもりでも、ざわめきは漏れる。
予想外すぎた。
白金級以上、いや神鉄級に届くとか届かないとか、そんな噂で語られる勇者が、よりによって銅級の獣人少女へ声をかける。
しかも、この場にいるほとんどの者が、一瞬だけ別の意味も察してしまう。
人族社会では、獣人は蔑まれやすい。
表立って排除まではしなくても、『わざわざ自分から関わる相手ではない』という空気がある。
だからなおさら、この声かけは異常だった。
中には、イルナへ憐れみの視線を向ける者もいる。
可哀想に。
断れないだろう。
勇者の使命に巻き込まれるのでは。
そんな、勝手な憐憫だ。
イルナ本人は、もっと単純に混乱していた。
「え」
喉が詰まる。
「わ、わたし……?」
「他にいないだろ」
「で、でも」
「依頼、受けるんだろ」
「は、はい……」
「これ」
アルトは彼女の依頼書を指で示す。
「薬草採取と灰牙ネズミの討伐」
「……」
「こういうのは、複数人でやると効率がいい」
かなり理屈っぽく言う。
「採取は手分けできるし、ネズミは群れる」
「……」
「一人より二人の方が早い」
「……」
「あと」
一拍。
「こっちも、パーティ候補を探してる」
ルールは守らなければならない。
ヴァレイン家の勇者は単独不可。
ならば、誰かを組み込む必要がある。
アルトの中では、そこへイルナを引き込む理屈はすでに完成していた。
イルナは、しばらく口を開けたまま固まっていた。
誘われている。
パーティ。
自分が。
そんなことはありえない、とずっと思って生きてきた。
だから反応が遅れる。
「……む、無理です」
ようやく出た言葉がそれだった。
「無理?」
「だ、だって」
イルナは依頼書を握りしめる。
「わたし、銅級で……」
「うん」
「まだ、ぜんぜん」
「うん」
「……アルトさんは」
そこでようやく、名前を呼ぶのが少し自然になる。
「銀級を、出されてたし……」
そこを見ていたか、と思う。
イルナは控えめだが、意外とちゃんと見ている。
アルトはそこで、かなり雑な理屈を口にした。
「あれは気のせい」
「……え?」
「銀級のプレートを見たかっただけだ」
「……」
「ちょっと気になった」
「……」
「ほら、銀ってきれいだろ?」
イルナが本気で意味不明な顔をする。
周囲も同じ顔をしていた。
セルマだけが、かろうじて『この人はいま雑に誤魔化している』ことを理解していた。
だが、それ以上にイルナは混乱してしまう。
「い、いや……でも……」
「俺も初心者だ」
「……」
「だから銅級」
「……」
「同じだな」
どこがだ、と周囲の大半が思った。
だが、アルトは本気で押し切る気らしい。
イルナは、何度か視線をさまよわせた。
断るべきか。
受けるべきか。
自分なんかでいいはずがない。
でも、この人はたぶん、本気で言っている。
しかも、学院祭のあの日、自分を助けてくれた。
聖教会を頼れと言ってくれた。
あのあと、自分の生活は本当に変わった。
その恩がある相手に、『嫌です』とは言いきれない。
そして何より――少しだけ、嬉しかった。
必要とされることが。
「……その」
イルナは、小さく、小さく言う。
「わ、わたしで……いいなら」
アルトは、わりと満足そうに頷いた。
「いい」
即答。
「じゃあ決まり」
これでルールは守られた。
かなり強引だったが。
セルマは、そこでようやく現実に追いつき始めた。
「え、ええと」
咳払いを一つ。
「では、パーティ仮登録の手続きを」
実務へ移る。
それがセルマの強さだった。
「イルナさんは銅級、アルト様もご希望により銅級。初期の共同行動であれば、同格依頼の受注は問題ありません」
「うん」
「ただし、実績評価は別個に記録されますので」
「うん」
「その……アルト様の方が、早期に昇格対象となる可能性は極めて高いです」
「その時考える」
「……」
セルマは少しだけ眼鏡を押し上げた。
この人、本当に先のことを考えていない。
いや、考えてはいるのだろうが、いま必要な順番でしか動かない。
そういう合理性が、やや怖いくらいに自然だった。
手続きは滞りなく進む。
革紐。
銅級プレート。
仮パーティの記録。
依頼書の受理。
そうしてギルドを出た時、イルナはもうだいぶいっぱいいっぱいだった。
そのくせ、張り詰めたままだった緊張が少し切れたせいで、不意に腹が鳴った。
ぐぅ、と。
かなりはっきり。
イルナは耳まで真っ赤になる。
「……っ」
フードを掴み、体ごと隠したい勢いだ。
アルトは一瞬だけ、何でもない顔を保った。
保ったが、内心では少しだけ良いと思ってしまった。
いかにもイルナらしい。
慎ましくて、切実で、可愛い方向に転びすぎている。
「飯行くか」
あっさり言う。
「え」
「結成祝い」
「い、いえ、そんな……!」
「腹減ってるだろ」
「……」
「俺も減ってる」
それは事実だった。
イルナは何か言い返そうとして、結局言えなかった。
しかも、いまの音を聞かれていて否定できない。
アルトはそのまま、比較的居心地の良さそうな食堂へイルナを連れて行った。
王都の冒険者や運び屋、労働者が入るような店だ。
獣人が入っても目立たない。
木の卓。
煮込みの匂い。
塩気の強い肉。
少し濃いスープ。
そういう、ちゃんと腹に入る飯を出す場所だった。
席に座ると、イルナは相変わらず遠慮した。
「わ、わたし、そんなにたくさんは……」
「いいから」
アルトはあっさり注文する。
「あとこれ」
「え」
「これも」
「……」
「それと、肉」
「に、肉……」
「嫌いか」
「ち、違います」
「じゃあ食おう」
半ば強引だった。
だが、イルナは最終的に止めきれなかった。
料理が来る。
湯気。
パン。
煮込み。
焼いた肉。
野菜。
スープ。
イルナは最初こそ恐る恐るだったが、一口入れた途端、顔つきが変わった。
本当にお腹が空いていたのだろう。
噛む。
飲み込む。
そのたびに肩の力が少しずつ抜けていく。
アルトはその様子を見ながら、ようやく本題へ入った。
「学院祭のあと」
イルナが顔を上げる。
「どうだった」
「……」
「教会とか」
「……あ」
イルナの表情が少しやわらいだ。
それから、ぽつぽつと話し始める。
アルトと初めて出会ったあの日。
自分はまだ正式な冒険者ですらなかったこと。
ギルドが広く募った雑用の見習いの一人でしかなかったこと。
だから、本来なら最低ランクの依頼ですら受けられなかったこと。
「でも」
イルナはパンをちぎりながら言う。
「アルトさんに、あんなにたくさん……」
「ん」
「お金と、食べ物、もらって」
「……」
「それで、教会も教えてもらって」
知識の女神に祈る聖教会は、イルナたちを拒まなかった。
毎日のように家族全員が一食分以上の食べ物を確保できるようになった。
固いパン。
味の薄いスープ。
質素なものだ。
だがイルナや妹たちには、それでも十分すぎるほどごちそうだった。
そのおかげで、母の負担が少し減った。
自分も、食べ物を探して無意味に走り回る時間を減らせた。
空いた時間で、もっと確実な稼ぎ方を探せた。
つまり、冒険者登録をためらわなくて済むようになったのだ。
「だから、いまは」
イルナは胸元の銅級プレートに触れる。
「ちゃんと、登録できて……」
「うん」
「それで、少しずつ、やってます」
アルトはそれを聞きながら、悪くないと思った。
学院祭での気まぐれめいた施しが、ちゃんと生活に繋がっている。
自分の感覚では、あくまで『ちょっとした手当て』に近かった。
だが、イルナたちにとっては、それで十分に流れが変わったのだろう。
「母親は?」
イルナが少し目を伏せる。
「最初、すごく、泣いてました」
「……」
「夜に、急に、大金と食べ物、いっぱい持って帰ったから」
「そりゃそうだ」
「自分が……」
一瞬、言い淀む。
「自分が、ちゃんとしてないからだって」
「……」
「でも、少ししたら」
「うん」
「なんか……急に」
「……」
「だいじょうぶ、って顔になって」
アルトが少しだけ眉を上げる。
そこはよく分からない。
いや、正確には知るべき事実がまだ伏せられている。
イルナの母は、本来なら娘が危険なことをするのを激しく嫌う。
それなのに、学院祭のあと持ち帰った物や服に残ったアルトの匂いで、彼女は『この人が近くにいるなら大丈夫』と本能的に判断したのだ。
十年前。
まだ幼かったアルトに救われた過去があるから。
だが、その真相が明かされるのはまだ先のことだ。
「それで」
イルナは続ける。
「冒険者になりたいって言っても」
「うん」
「前みたいに、危ないから駄目って……あんまり言わなくて」
「……」
「変だなって、思いました」
アルトは、その『疑問』を一旦そのまま受け取ることにした。
いまここで問い詰めても、イルナ自身はまだ全体を理解していない。
ならば、無理に言葉にさせる必要はない。
それよりもいまは、目の前の少女の現実を知る方が先だ。
「妹がいるんだよな」
「はい」
「何人?」
「二人」
「母親は三人を食わせてる?」
「……」
「四人家族か」
「……はい」
イルナは少しだけ俯く。
そこにある苦しさを隠しきれない。
アルトはそれを見て、やはり誘ってよかったと思う。
この子は一人で抱えすぎる。
だからこそ、初期の依頼くらいは横に並ぶ者がいた方がいい。
そして、アルト自身にも都合がいい。
パーティのルール。
獣人についてもっと知りたいという興味。
イルナの感覚が、今後の探索や索敵に使える可能性もある。
いくらでも実務的な理由は並べられる。
だが、その一番底には、学院祭で見た『助けを求める目』の記憶がまだ残っていた。
アルトはそれを口には出さない。
代わりに、卓の上に依頼書を広げた。
「これ」
イルナが、少し食べる手を止める。
「は、はい」
「明日受ける」
「……はい」
「薬草採取と、灰牙ネズミの討伐」
「……」
「ネズミの方はどんな感じか知ってるか」
イルナは、今度は少しだけ冒険者らしい顔つきになった。
「群れます」
「うん」
「犬と同じくらいで」
「うん」
「前歯が、すごく硬いです」
「木箱とかに穴を空けるってやつか」
「……知ってるんですか」
「噂くらいは」
実際は、こういう低級魔物に関する知識もアルトの頭には山ほどある。
だが、いまは『初心者の銅級冒険者』である。
「薬草は食うか?」
「食べます」
「だから群生地を荒らしてるんだな」
「たぶん……」
「採取人が危ないから間引きをしているとか」
「はい」
イルナはそこで、ふと現実に戻ったように顔を曇らせた。
「……でも」
「ん?」
「やっぱり」
一拍。
「わたしじゃ、足りない気がします」
「……」
「アルトさん、本当はもっと上の人なのに」
「気のせいだ」
即答だった。
「……」
「銀級の話も気のせい」
「……」
「銀のプレートを見たかっただけ」
「そんな人、いないです」
「いる」
「いません」
そこで初めて、イルナが少しだけ言い返した。
アルトはその反応に内心で少し満足した。
良い。
ちゃんと会話の中で反発できている。
それだけで十分に前進だ。
「とにかく」
依頼書を指で叩く。
「今は銅級だ」
「……はい」
「俺もイルナも」
「……」
「だから最初のうちは、これくらいがいい」
イルナはしばらく黙ってから、小さく頷いた。
「……はい」
その返事には、まだ不安がある。
でも、完全な拒絶ではない。
少しずつ、『一緒に行く』ことを飲み込み始めている。
食堂のざわめきは穏やかだった。
鍋の音。
皿の触れ合う音。
誰かの笑い声。
学院ではない。
ギルドでもない。
もっと生活に近い場所だ。
その卓で、勇者と銅級の獣人少女は、かなり歪な形で最初のパーティを組んでいた。
華やかさはない。
劇的でもない。
だが、たぶんこういう始まり方の方が、この二人には似合っていた。
アルトは最後にもう一度、依頼書に目を落とした。
薬草群生地。
灰牙ネズミ。
低級依頼。
銅級相当。
仕事としての冒険は、まずはその程度の規模から始まる。
それでいい。
むしろ、最初はその方がいい。
地盤を確かめるように。
これから先、本当に地獄へ踏み込む前の、最後の足慣らしみたいに。
「明日の朝」
アルトが言う。
「ギルド前で会おう」
「……はい」
「遅れるな」
「お、遅れません」
「ならいい」
イルナはそう返しながら、胸の奥でまだ少しだけ信じられずにいた。
本当に、自分がこの人と組むのだろうか。
だが、卓の上の依頼書と、胸元の銅級プレートと、食べかけの温かい料理が、それを現実だと告げている。
冒険はこうして始まる。
まずは薬草採取と、灰牙ネズミ討伐から。




