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第1話 夜明け前に見る地獄

 学院を卒業し、王都で冒険者登録を済ませる前のほんのわずかな期間だけ、アルトはヴァレイン家へ戻っていた。


 表向きには、卒業の報告のため。

 旅立ちの準備のため。

 名門勇者家系の嫡流として、家を発つ前に最低限の顔を見せるため。


 どれも間違ってはいない。


 だが、それだけではない。

 もっと正確に言えば、それだけで済ませたかった。


 学院に入ってからというもの、アルトはほとんど家へ帰らなかった。

 何かと理由をつけた。

 訓練。

 研究。

 王都での用事。

 学院祭の準備。

 友人との時間。

 いくらでも理由は作れた。


 誰も、本当の理由を知らない。


 知るはずもない。


 家の自室が、未来視を使った場所だったからだ。


 幼い頃。

 まだ力も、耐性も、精神の器も足りなかった頃。

 平助であり、アルトであった彼は、未来を見た。


 見えてしまった、という方が近い。

 世界と自分の境界を曖昧にして、まだ起きてもいない無数の可能性へ意識を散らした結果、その中の最悪だけが、あまりにも鮮明に脳に焼きついた。


 あれから『未来』は間違いなく書き変わっている。


 当時の自分は幼く、弱く、状況も何も知らなかった。

 学院での数年で、アルトはさらに途方もない量の知識と技術と経験を積み上げた。

 出会った人間も違う。

 救った者たちもいる。

 魔王軍の幹部をすでに一体、未来視にはない形で下してすらいる。


 だから、あの未来はそのままではない。


 そのはずだ。

 理屈では、そう分かっている。


 それでも。


 見たものは消えなかった。


 夜ごと、夢に出る。

 夢というより、再演に近い。

 視界も、音も、匂いも、痛みも、手の震えも、その場にいた者たちの顔も、何もかもが、いまだに鮮烈だった。


 だからアルトは、眠る前に必ず準備をする。


 今夜もそうだった。


 自室の床、壁、天井へ、何重にも結界魔法を張る。

 音を閉じ込めるため。

 無意識のうちに放つ魔法を抑えるため。

 自分の叫びを、家の者に届かせないため。


 さらに、自分自身へ呪縛の魔法を施す。


 魔力で練り上げた光の鎖。

 手首。

 足首。

 胸元。

 首。

 寝台に身体を半ば縫い付けるような形で固定する。


 眠っている間に、自分がどれほど暴れるかを知っているからだ。


 学院寮でもずっとそうしてきた。

 それでも何度も鎖を千切り、結界を砕き、朝になって部屋じゅうの血痕を見下ろす羽目になった。


 家に帰ってきてからは、なおさらだった。


 この部屋そのものが未来視と結びついている。

 壁の位置。

 窓の形。

 夜気の入り方。

 幼い自分が息を詰め、世界へ意識を散らしたあの時の気配を、身体が覚えてしまっている。


 だから帰りたくなかった。


 学院に入ってから一度も本格的に帰らなかった本当の理由は、それだ。


 今夜も、眠るのが怖かった。


 未来視は有能だ。

 それは嫌というほど分かっている。

 分かっているからこそ、もう一度使えば、もっと多くを変えられるかもしれないと頭のどこかで囁く声もある。


 だが駄目だ。


 もう一度深く潜れば、たぶん精神が持たない。

 崩れる。

 壊れる。

 ただでさえ、いまなおこうして毎晩削られているのだ。


 だから、使えない。


 使えないまま、見た地獄だけが残り続けている。


 アルトは結界の最終確認を終え、ようやく寝台へ身を沈めた。


 目を閉じる。


 呼吸を整える。


 眠れ。

 せめて少しだけでも。

 明日から先の旅のために。


 そう思う。


 だが、眠りはいつもやさしく降りてはこない。

 気づけばもう、引きずり込まれている。


      *


 最初に見えたのは、武だった。


 荒野。

 砕けた大地。

 遠くに狼煙。

 空は広く、乾いている。


 その中央に、王がいた。


 武人。

 それ以外の言葉がいらないほど、まっすぐに武で立つ男。


 黒と深紅を基調にした戦装束。

 重い威圧。

 巨体ではない。

 だが、そこに立っているだけで周囲の空気が『この男を中心に戦場を定義する』とでも言うように張り詰めている。


 十日間、アルトはその男と戦った。


 昼も夜も曖昧になるほどの死闘だった。

 魔法。

 体術。

 剣撃。

 身体強化。

 知っている限りの理論と、現場でねじ伏せてきた応用を積み重ね、それでも、少しずつ押されていく。


 単純な戦力差があった。


 アルトは健闘している。

 むしろ人の身でよくここまで、と称してもよいほどに。

 だが、決定的に届かない。


 それでも食らいつく。

 勝てなくても、負けるわけにはいかないと、何度も立ち上がる。


 そして最後。


 アルトは、その男の振るう理解不能な一撃を前に、はじめて遅れた。


 違う。


 あれは、男の一撃ではなかった。

 なにかが介入した。

 別の理。

 別の力。


 だが、その時のアルトには、もうそれを識別する余裕すら残っていなかった。


 ただ、致命だけが来る。


 視界が暗転する寸前、武人の王はひどく静かな顔をしていた。

 怒りでも嘲りでもなく、ただ、真正面から来た敵を真正面から下した者の顔。


 そこで場面が裂けた。


      *


 次に来たのは、幻惑だった。


 湿った香。

 笑い声。

 やわらかいのに、どこか気持ち悪いほど整った室内。

 壁。

 天井。

 床。

 どこを見ても美しい。

 なのに、何ひとつ信じられない。


 女王がいた。


 やわらかい。

 優しい声を紡ぐ唇。

 穏やかな笑み。

 けれど、その目だけが深いところで何も信じていない。


 強力な幻惑だった。


 一つの現実の中で、対象を生かし続ける。

 殺さない。

 壊しきらない。

 だからこそ、延々と削り続けられる。


 アルトは何度も自分がいまどの位相にいるのかを見失う。

 目の前に見えるリュシアンは本物か。

 血の匂いは。

 床に落ちているのは誰の肉片か。

 自分の内臓が焼けるように痛むのは呪詛か、幻覚か、それとも本当に蝕まれているのか。


 答えがない。


 そして、そのまま、体だけが確実に壊れていく。


 未知の呪詛が、血管と神経と骨髄に染み込んでいた。

 回復魔法を通しても追いつかない。

 浄化の理屈が通らない。

 治すたびに、別の場所が腐る。


 その先に、リュシアンがいた。


 瀕死だった。


 美しい顔が血に濡れ、かろうじて息をしている。

 目は開いているのに焦点が合わず、それでもアルトを探している。


 アルトは手を伸ばす。

 だが、届かない。


 届いたと思った手が、次の瞬間にはどこにもいない。

 リュシアンの喉から漏れたはずの声が、次には女王の笑いに変わる。


 アルトはそこで、力尽きた。


 助けられないまま。

 目の前にいるはずの大切なものへ、最後まで手を届かせられないまま。


 また場面が裂ける。


      *


 冷たい。


 静かだ。

 静かすぎて、逆に狂いそうになる。


 何もない。

 いや、何もないように見えるだけで、ここは世界のどこより狭い。


 亜空間。


 身動きが取れなかった。


 腕も。

 足も。

 呼吸の向きすら拘束されているみたいに、アルトはそこに縫い込まれていた。


 目の前にいたのは、幼い顔の支配者だった。


 少女。

 そう言ってしまいたくなる顔立ち。

 だが、その奥には、血と責務がある。


 涙を流していた。


 それが余計に恐ろしい。


 泣いているのに、手は緩まない。

 疑心と恐怖を抱えたまま、アルトという未知の怪物を絶対に逃がすまいとしている。


 一瞬だけ、彼女もまた、彼と分かり合えるかもしれないと思っていた。

 その気配だけが、かえって生々しく伝わってきた。


 だが、その期待を自分が踏み潰し、復讐心に変えたのだとも分かる。


 彼女の両親に代わり、不器用に面倒を見てくれた誰か。

 彼女にとって大切な誰かをアルトが奪った未来が、そこにはあった。


 名前は知らない。

 だが、その涙の意味だけは分かりすぎるほど分かった。


 そして場面は、また別の地獄へと落ちていく。


      *


 熱い。


 世界が、まず熱かった。


 砂ではない。

 もっと赤い土。

 乾いた風。

 肌に張りつく熱。

 空気が生き物みたいに脈打っている。


 南。


 土地の色がすでに違う。


 祭礼の飾り布が揺れている。

 鮮烈な色。

 金。

 紅。

 橙。

 極彩色の果実。

 焼いた肉の匂い。

 香辛料。

 汗。

 笑い声。

 酒。

 勝敗に沸く闘技場。


 人々は生をむき出しにしていた。

 この地では、熱も欲も歓声も、隠すものではなく撒き散らすものらしい。


 その先に、王座の広間がある。


 開放的だった。

 南国の太陽をそのまま室内に引き込んだみたいに、明るく、煌びやかで、堂々としている。


 そして、その王座にいたものは、まさにこの土地の権化だった。


 女。


 いや、魔王。


 太陽のように開けた笑み。

 褐色の肌。

 筋肉はしなやかで、しかしただの飾りではない。

 煌びやかな布と金具で構成された衣装は、露出を恐れず、それでいて王の風格を失っていない。

 解放感。

 強靭さ。

 生命力。

 そのすべてが、あまりにも眩しい形で肉体に宿っている。


 南の魔王。


 アルトはまだ名前を知らない。

 だが、その存在だけで分かる。

 あれは戦士であり、暴君であり、同時に祭礼そのものみたいな王だと。


 同行していたのは、イルナ、セラフィナ、シャルロッテ。


 イルナはまだ若く、獣人特有の感覚でいち早くこの土地と魔王の異常性を察している。

 セラフィナは冒険者として実力をつけたが、それでも目の前の『本物』に半ば絶望していた。

 シャルロッテは本来依頼主だった。

 研究機関の権限と莫大な資金を投じ、素材採集のため自ら南方大陸に同行している。

 その責任感が、いまは逆に彼女をこの場に縛り付けていた。


 そして戦いが始まる。


 絶望的だった。


 南の魔王は常に回復していた。


 いや、『回復している』と認識するのが遅れるほど速い。


 物理攻撃。

 魔法。

 切断。

 貫通。

 破砕。

 どれも入っている。

 それなのに、次の瞬間にはもう繋がっている。


 無効化ではない。

 受けている。

 確かに受けている。

 だが、あまりにも回復が速すぎるせいで、見ている側には『効いていない』と錯覚させる。


 それだけではない。


 武技のすべてを持っていた。


 剣。

 槍。

 拳。

 蹴り。

 組み付き。

 投げ。

 回避。

 間合い。

 重心移動。

 呼吸。


 魔王サルウェナは、挑んできた勇者や強者たちの動きのすべてを、自分の肉体に取り込んでいた。

 しかもただ模倣するのではない。

 自己流でさらに研ぎ澄ましている。


 アルトが次々生み出す未知の身体操作すら、戦いの最中に取り込み、さらに凌駕する威力と手数で押し返してくる。


 ありえない。


 そう叫びたくなるほど、戦闘そのものに対するセンスが異常だった。


 イルナが半ば絶望した目で見ている。

 セラフィナも剣を構えながら、こんな相手をどうやって越えればいいのか分からなくなっている。

 シャルロッテは、理屈を並べる暇すらない。


 アルトは彼女たちを守りながら、それでも正面から応戦し続けた。


 互角以下。


 それが現実だった。


 そしてアルトは、そこで初めて、実戦で呪法を使う決意をする。


 自身のダメージを、相手へ転写する呪法。


 理論上は可能だと知っていた。

 準備もしていた。

 だが、使うには自分の肉体を躊躇なく壊さなければならない。


 アルトは迷わなかった。


 自分の胸に手を当てる。

 風穴を開ける。

 心臓を握り潰す。


 イルナ、セラフィナ、シャルロッテの顔から、血の気が引く。


 理解できない。

 理解できるはずがない。

 目の前で自分たちを守っている男が、自分で自分の胸を破壊したのだから。


 当然、痛い。

 だがアルトは、痛覚麻痺と回復魔法で自己修復を加速させていた。


 転写。


 その瞬間、南の魔王が血を吐く。


 苦しむ。

 たしかに、苦しんでいる。


 だが、その表情は戦闘開始から変わらなかった。


 余裕。

 いや、それ以上だ。


 恍惚としていた。


 口角から涎を垂らし、焦点の定まらない目で、まるで絶頂の瞬間みたいな顔をしている。


 戦闘そのものを本気で楽しんでいる。


 致命傷すら快楽へ変換してしまう類の狂気が、そこにはあった。


 当然のように、その傷すら回復していく。


 見て、アルトは決意した。


 ならば、もっと徹底的に壊すしかない。


 魔力の一時固定。

 自己修復。

 脳には結界を張る。

 意識の核だけを残して、他は爆ぜても構わない。


 アルトは自身の魔力回路に走る無限に近い魔力の一端を、回路ごと起爆するイメージを作った。


 自爆。


 躊躇いはない。


 次の瞬間、アルトの肉体は木っ端微塵に爆ぜた。


 肉片。

 血。

 骨。

 爆圧。


 イルナ、セラフィナ、シャルロッテの周囲には防御結界が展開されている。

 だから肉片が凶器となって三人を傷つけることはない。


 ない。


 だが、透明な結界越しに自分たちを守っていたはずの男が木っ端微塵になる光景を見せつけられた結果、三人はほとんど発狂した。


 南の魔王も同時に爆ぜる。


 転写が成立している。

 肉片が散る。

 ようやく動きが止まる。


 アルトはその隙を逃さなかった。


 再生より早く、結界を展開。

 肉片ごと圧縮し、消失させる。


 やれる。

 いける。

 そう思った。


 だが、遅かった。


 肉片のひとつが、すでに結界の外にあった。


 サルウェナは、アルトの自壊より早い段階で自身の指を切り落とし、遠くへ飛ばしていたのだ。


 分かるか。

 そんなもの。

 戦闘の最中に、自分の一部を先んじて逃がしておくなど。


 結界外の指がうごめく。

 背後から、再生し始める。

 アルトの喉を刺し貫く。


 揺らいだ。


 結界が。


 その一瞬の綻びをつき、サルウェナは内部から結界を破壊し、飛ばしておいた指と合流する。


 再接続。


 再臨。


 魔王はそこで息を荒げていた。


 最初、誰もがダメージゆえだと思った。

 違った。


 ただ興奮しているだけだった。


 股間を濡らし、口元を歪め、瞳孔の開いた目で、まるで愛しい玩具を見つけた子どものようにアルトを見つめる。


 そして何気なく、背後の三人へ目を向ける。


 シャルロッテが、地面を濡らしていた。

 恐怖と混乱で、密かに失禁していたのだ。


 それを見て、サルウェナは本気で言った。


「ほう。その女も、悦に入っておるではないか」


 狂っている。


 だが表向きの余裕に反して、彼女の内側では焦りがあった。


 一度、死を迎えた。

 魔王は複数の命を持つが、無限ではない。


 しかも、自動復活の反動で魔力が不安定になっている。

 良質な魔力補給が必要だ。


 アルトに直接手を出すのは危険だった。

 だから視線は、その後ろへ向く。


 養分がいる。

 高純度の魔力を持つ者たちが。


 次の瞬間、サルウェナは自身を二つに分けた。


 一体はアルトの相手を続ける。

 もう一体は、分裂の勢いそのままに、悍ましい魔物へと変形する。


 回避と移動力に特化した未知の魔物。

 発達した手足が、地面に触れる場所の至るところから生えている。

 体中に目がある。

 頭部から尾部にかけて縦に裂けた亀裂が巨大な口となる。


 それがシャルロッテへ飛ぶ。


 アルトは弱体化した分身を一時的に退け、すぐにシャルロッテのもとへ向かった。


 だが、遅い。


 生きたまま捕食される。


 シャルロッテの叫びが辺りに響く。


 アルトは絶え間なく回復魔法を流し込んだ。

 癒せ。

 繋げ。

 血を戻せ。

 臓器を保て。

 痛みを散らせ。


 だが、癒えない。


 分身の歯には呪詛が練り込まれている。

 唾液にも同様の効果がある。

 噛みつかれ、流し込まれ、傷は回復魔法を拒絶した。


 シャルロッテの目が虚ろになる。


「殺して……」


 そう漏らす。


 その声を聞いた瞬間、アルトの中で何かが折れかけた。


 だが折れている暇がない。


 気づけば、大型の分身に似た小型の魔物が無数に周囲を囲んでいた。


 アルト。

 イルナ。

 セラフィナ。


 一斉に飛びついてくる。


 アルトは切る。

 潰す。

 焼く。

 だが一匹、腕に食らいついた。


 呪詛が回る前に、左手の短剣で右腕を切り落とす。


 迷いはない。

 それくらい、この未来のアルトは、すでに自分の肉体を資材として扱うことに慣れきっていた。


 だがその一瞬で、イルナとセラフィナの防御が間に合わなくなる。


 だから、自分の回復より先に、二人に強力な結界を張った。


 二人とも、すでに発狂していた。

 正気を失っている。


 その一瞬にも満たない隙を、サルウェナは逃さない。


 本体がアルトの首筋に食らいつく。


 呪詛が血と神経に一気に回る。


 視界が狭まる。


 そこで、サルウェナはアルトを褒めた。


 身体能力。

 魔力量。

 技量。

 執念。

 すべてが凄まじいと、心から称えた。


 そして、だからこそ伴侶に相応しい、と。


 南の魔王は朦朧とするアルトを押し倒し、その股間にまたがる。

 艶めかしく腰をうねらせる。


 アルトは自分の意思とは無関係に、下腹部が熱くなるのを薄っすら感じた。


 屈辱。

 嫌悪。

 呪詛。

 生理。

 すべてが混ざって、もう何が何だか分からない。


 そこで意識が落ちる。


      *


「ッ――あ、ああああああああッ!!」


 叫びとともに、アルトは目を覚ました。


 未明だった。


 朝ではない。

 夜はまだ残っている。

 窓の外は黒く、地平線の一部だけが、ようやく白みを帯び始めている。


 息が乱れている。

 喉が痛い。

 胸が焼けるようだ。

 首筋に手をやる。

 何もない。

 だが、食らいつかれた感触だけが消えない。


 自室はひどい有様だった。


 何重にも張っていた結界は、無意識のうちに破壊されている。

 眠る前に自分を縛り付けていた光の鎖は、千切れ飛んでいた。

 鎖を引き千切った勢いで抉れた傷の痕が、まだ身体の表面に残っている。

 自己修復で肉体そのものは戻っている。

 だが、寝台のシーツにも、床にも、壁にも、血の跡が散っていた。


 毎度のことながら、ひどい。


 アルトはしばらく、その場で荒い呼吸を繰り返した。


 夢だ。

 だが、ただの夢ではない。


 いまもなお、自分はあの未来の断片に引きずり込まれている。

 そして毎回、身体を現実ごと壊すところまで行ってしまう。


 使えない。

 やはり未来視は、もう使えない。


 どれだけ有能でも。

 どれだけ先回りのために有効でも。

 もう一度あれに意識を沈めたら、自分は本当に崩れる。


 アルトはふらつく足で窓へ向かった。

 開ける。

 外気が入る。

 冷たい。


 そのまま屋根へ飛ぶ。


 瓦の上に立ち、息を整える。

 ようやく白み始めた地平線を見た。


 夜明け前。


 いちばん静かで、いちばん何かが始まりそうで、いちばん何も約束されていない時間だ。


 これから冒険者としての日々が始まる。

 勇者としての旅が、本格的に始まる。


 その先に、何が待つのか。


 見た。

 もう一度、嫌というほど見た。

 東。

 西。

 北。

 南。

 未知の存在。

 そして、そのどれもが、自分と誰かの破滅に繋がっている。


 だからといって、立ち止まれるわけでもない。


 逃げられない。

 見たからこそ、なおさら逃げられない。


 アルトは白んでいく空を見つめたまま、しばらく動かなかった。


 熱い決意があるわけではない。

 胸を張って未来へ挑めるような、清々しさもない。


 ただ、行くしかないのだと知っているだけだった。


 見た地獄は消えない。

 傷も癒えない。

 それでも、行くしかない。


 夜明けは容赦なく来る。


 その光を前に、アルトは静かに目を細めた。


 冒険は、希望ではなく、まず一つの悪夢の続きから始まった。


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