第28話 最終試験の前に
卒業が近づくにつれて、学院の空気は少しずつ薄くなっていくようだった。
それは寂しさ、というほど露骨なものではない。
もっと静かな変化だ。
同じ廊下を歩いていても、どこか『いまのうちに』という感じがある。
同じ教室で講義を受けていても、『これもあと何回だろう』という視線が、誰の中にも少しずつ混ざる。
終わる。
だからこそ、いまの時間が急に輪郭を持ち始める。
アルトは、そういうものを見ていた。
見て、分かって、それでもあまり湿っぽく受け取りすぎないようにしていた。
だが、リュシアンのことに関してだけは、そう簡単に片づけられなかった。
育成計画は完成した。
その認識は、いまだに変わらない。
魔法理論。
制御。
体術。
近接との連携。
未知の事態への対応。
周囲の期待に呑まれず、それでもちゃんと応えようとする心の持ち方。
どれを取っても、もう『守って育てる素材』の段階ではない。
むしろ、ここから先は自分の足で歩かせた方が伸びる。
だからアルトは、少しずつ距離を調整してきた。
直接の訓練を減らし、個別指導を減らし、あとは自分で積み上げろと促した。
その判断自体に迷いはない。
なかった、はずだった。
それでも、何かが引っかかっている。
リュシアンが未だに『教えられる側』の顔をしてしまう時があること。
自分自身もまた、彼を完全に『もう手を離してよい存在』として割り切れていないこと。
友人としての付き合いは続ける。
そのつもりだ。
だが、友人として続けるだけでは、どこかで曖昧さが残る気がした。
アルトの中には、変な美学がある。
人との関係も、何となくずるずる曖昧にしておくより、どこかで『かたち』を与えたがる。
それは優しさというより、平助由来の気持ち悪い几帳面さに近いのかもしれない。
区切りが必要だ、と思った。
リュシアンに、一人前の魔法師としての自覚を強く持たせるために。
そして何より、自分自身が『師弟関係の終わり』を受け入れるために。
そこまで考えて、アルトはようやく認めた。
これはリュシアンのためだけではない。
自分の弱さでもあるのだと。
そう思った時にはもう、提案する言葉はほとんど固まっていた。
その日、二人は訓練棟の裏手にいた。
広くはない。
だが、いつも何となく足が向く場所だ。
木陰があり、少し風が抜ける。
学院の喧騒も届くが、正面からは見えない。
リュシアンは、最近では珍しく自分から話を振っていた。
宮廷魔法師の進路が固まりつつあること。
研究機関からもまた話が来たこと。
でも、最終的には現場に近い形で魔法を扱える場所へ行きたいと思っていること。
アルトはそれを聞きながら、やはりもう十分だと思った。
「リュシアン」
名前を呼ぶ。
「ん?」
「一回」
「……?」
「本気でやるか」
リュシアンは最初、その意味をすぐには取れなかった。
「本気で……?」
「模擬戦」
アルトは言う。
「魔法で」
「……」
「一回だけ」
空気がわずかに変わる。
リュシアンの顔から、さっきまでのやわらかい会話の色が引いた。
ただし、不快や拒絶ではない。
もっと別の、静かな衝撃。
「どうして」
問いは、ごく自然に出た。
「……」
「急に」
アルトは、その問いに対して、全部を説明するつもりはなかった。
できない、という方が近い。
自分の弱さ。
手を離すための儀式みたいなものだということ。
師弟関係の終わりを、自分自身も必要としていること。
そんなものは、さすがに口に出せない。
「実力を見たい」
だから、言葉は短くなる。
「ちゃんと」
「……」
「いまの君が、どこまで行けるか」
嘘ではない。
だが、全部でもない。
リュシアンはその言葉を聞いて、胸の奥がひどく冷えるのを感じた。
分かってしまったからだ。
これはただの思いつきではない。
遊びでもない。
たぶん、『区切り』なのだと。
最終試験。
そういう言葉が、すぐに頭に浮かぶ。
アルトはそこまで明言していない。
だが、言われなくても分かってしまう。
これを越えたら、もう『教えられる側』ではいられない。
いや、いてはいけないのだろう。
アルトはたぶん、そういう場所へ自分を立たせようとしている。
目の奥が熱を持つ。
やめてほしい、と思う。
思ってしまう。
まだ終わりたくない。
まだ、教えてほしい。
まだ、この距離のままでいたい。
そんな弱い願いが、一瞬だけ本気で胸を占めた。
それでも、リュシアンは泣かなかった。
泣きかけはした。
だが、目の前のアルトの表情が、あまりにも真剣だったからだ。
そこに冗談はない。
軽さもない。
少なくとも、この提案そのものは、アルトにとっても本気なのだと分かる。
ならば、自分がここで半端に崩れることは、むしろ侮辱になる。
「……分かった」
どうにかそれだけ言う。
「受ける」
アルトは、少しだけ表情を緩めた。
「そうか」
「うん」
「じゃあ」
一拍。
「出し惜しみはなしだ」
その言葉に、リュシアンは喉の奥をきゅっと締めつけられる。
出し惜しみなし。
つまり本当に、本気でやるのだ。
冗談ではなく。
訓練の延長でもなく。
ちゃんとした勝負として。
怖い。
そして、少しだけ嬉しい。
怖いのに嬉しいという感情が自分の中にあることに、リュシアンはまだ慣れない。
「……アルトも?」
そう聞くと、アルトは少しだけ不思議そうな顔をした。
「当たり前だろ」
その返答が、どうしようもなくアルトらしい。
後日、学院へ演習場の申請が出された。
貸し切りで。
しかも、最大規模の魔法演習場を。
通常なら、何グループも同時に抱えられるだけの広さがある場所だ。
個人同士の模擬戦で貸し切るような場所ではない。
だが、その申請は通った。
しかも、案外あっさり。
理由は単純だった。
信頼があるからだ。
教師陣の中で、すでに二人に対する認識は大きく変わっていた。
学院祭襲撃の一件。
研究発表会での異変。
日々の実技と講義。
積み重なったものがある。
特にアルトに関しては、どこまで把握されているかは別として、『ただの優秀な生徒』では済まない何かがあることを、多くの教師が察していた。
リュシアンに関しても、いまや学院の誇る有望株として扱われている。
学院長へ直接申し出るにあたり、複数の教師が署名を添えていた。
信頼と期待の署名だった。
だからこそ、この異例の願いは通った。
その知らせを受けた時、リュシアンはあらためて息が詰まる思いがした。
逃げ道が、きれいになくなっていく。
いや、最初から逃げるつもりはない。
だが、『本当にやるのだ』という現実が、外堀から埋まっていく感じがあった。
そして、その日までの時間は、不思議なくらい穏やかに過ぎた。
アルトは、必要以上にその話を蒸し返さない。
普段通りの会話もする。
食堂で顔を合わせれば普通に隣へ座る。
休日に少し街を歩くこともある。
その自然さが、かえってリュシアンには堪えた。
自分だけが、あの日の提案を胸の中心へ置いたまま、何度も何度も思い返しているみたいで。
だが同時に、その時間が愛おしくもあった。
もうすぐ終わるかもしれない『今の距離』を、ひとつでも多く覚えておきたかった。
演習当日の朝は、空が高かった。
雲は薄く、風も悪くない。
大きな戦いの前にしては、妙に穏やかすぎるくらいだ。
広大な魔法演習場に足を踏み入れた時、リュシアンは、あまりの静けさに少しだけ眩暈を覚えた。
広い。
普段なら複数の訓練が同時に行われてもまだ余るほどの空間だ。
今日、それが二人のためだけに空いている。
周囲には、すでに何重にも結界が張られていた。
普通の防御結界ではない。
魔力吸収。
衝撃分散。
視界遮断。
さらには外部への漏出を抑える層まである。
アルトがやったものもあるだろう。
教師側が足したものもあるはずだ。
その何重もの膜が、今日の模擬戦が『本気』であることを、嫌でも伝えてくる。
アルトは、演習場の中央付近に立っていた。
普段とそれほど変わらない顔をしている。
だが、その静けさ自体が、逆に本気を思わせた。
「来たか」
「……うん」
リュシアンも前へ出る。
少し離れて向き合う。
それだけで、もういつもの訓練ではないと分かる。
「確認」
アルトが言う。
「持てる力を全部出せ」
リュシアンは、そこで一瞬だけ目を伏せた。
ためらいは、まだある。
相手がアルトだからこそ、なおさらだ。
だが、そのためらいを持ったままここに立っていること自体が、もう答えに近い。
全力でやらなければならない。
ここで本気を出し切れないことは、これまで自分のためにあらゆるものを注いできてくれたアルトに対する、最大の裏切りになる。
それだけは、できない。
「……分かった」
リュシアンは顔を上げた。
「最初から、全力でいく」
「うん」
アルトが頷く。
「それでいい」
その返事の短さが、余計に胸に刺さる。
リュシアンは深く呼吸をした。
これまで教え込まれてきた通りに。
足の裏から。
魔力を内で練る。
呼吸へ繋ぐ。
怖さごと、回路へ通す。
演習場の空気が、少しずつ張り詰めていく。
まだ観客はいない。
教師たちも、表向きは距離を取っている。
だが、ここへ集まる気配は、すでに遠くで動き始めていた。
アルトはそれを感じている。
結界の外で、人が動く。
教師。
生徒。
敏感な者たち。
異変に反応している。
それでも、いまは構わない。
むしろ、どこかで思っている。
来るなら来ればいい、と。
隠蔽はしている。
だが、本気でやれば、その綻びはきっと出る。
それを分かった上で、なお手を止める気はない。
無粋だからだ。
本気で来る相手に対して、体裁のために熱を削ることを、アルトは嫌う。
しかも今回の相手はリュシアンだ。
ここで中途半端な加減や、外聞を優先した抑制は、侮辱に等しい。
ならば、やるしかない。
風が抜ける。
広い演習場の中央で、二人は向き合う。
育成する者と、育てられる者ではなく。
教える者と、教わる者でもなく。
それでもまだ、その名残を抱えたまま。
だが確かに、もう次の関係へ踏み出す寸前の二人として。
アルトは静かに構えた。
「来い」
その一言で、開戦の空気は完全に満ちた。




