第26話 星下祭
交流会の大広間には、整えられた美しさがあった。
磨かれた床。
高い天井。
王都の楽団が奏でる、格式ばった静かな舞踏曲。
来賓たちの会話はほどよく抑えられ、笑みも礼節の範囲に収まっている。
それは確かに、美しい。
だがアルトには、その美しさが少しだけ窮屈に見えた。
踊りの輪の中にいても、皆どこか本気で楽しみきれていない。
相手との距離。
家柄。
作法。
見られ方。
貴族であればあるほど、一歩の重みが増す。
その結果、本来ならもっと自由に、もっと無邪気に輝ける者たちが、自分を抑え込んでいた。
エルミナと婿候補の男もそうだ。
せっかく同じ場にいるのに、互いに歩み寄りたい気持ちがあるのに、場の格式が邪魔をしている。
ミレナもそうだった。
ドレス姿で、いつもよりはっきりとした美しさを纏いながら、それでも自分を『前へ出てはいけない側』に置いている。
レオノーラを見つめる視線には、友誼より一段深い熱があるのに、それを形にする方法を持てない。
貴族でない家の生徒たちは、踊ることそのものをためらっている。
舞踏の作法に疎ければ、それだけで輪へ入る理由を失ってしまう。
シャルロッテのような少女ですら、堂々と見えて、その実どこまで自分から行くべきかを測っている。
セラフィナのような真っ直ぐな娘でさえ、この場では力の向け先を少し見失う。
リディアは表面上こそ穏やかだが、この『美しく整えられた不自由さ』に気づいている顔をしていた。
ルゼリアもまた、まだ新しい世界へ足を踏み入れたばかりの者として、この場の空気に完全には馴染みきれず、しかし拒絶もできずにいる。
これでは、駄目だとアルトは思った。
少なくとも、自分は嫌だった。
祭りなら、もっと祭りであるべきだ。
人が、ただ今ここにいることを、もう少し素直に楽しめる場であってほしい。
平助の変態的倫理観は、こういうところで妙に真っ当に働く。
本来輝ける者が、いらない縛りのせいで曇ることを、彼はどうにも許せない。
それがモブヒロインであろうと、メインヒロインであろうと、あるいは名もない学院生であろうと同じだった。
だから、やる。
アルトは静かに、会場へ張っておいた術を起動した。
大広間の床下、柱の影、壁沿いの装飾、そのすべてに、事前にごく薄く仕込んでいた結界魔法がある。
その結界へ、いま亜空間魔法を巡らせる。
密度は濃い。
だが、荒くない。
むしろ一点の隙間もないように、丁寧に、丁寧に張り巡らせていく。
対象は人間だけではない。
卓も。
椅子も。
灯りも。
大広間の一角にある飾り布や酒器に至るまで、この場を構成している『交流会の空気』ごと持っていく。
転移先は、王都の外れにある丘だ。
高く、風がよく通り、夜には満点の星が降るように見える場所。
アルトのお気に入り。
木陰にはひそかに机や椅子まで常備してある。
読書に使ったり、思考を整理したり、時にはひとりでだいぶ満足げにぼんやりしたりしていることは、もちろん内緒だ。
その丘へ。
交流会を、そっくり移す。
王都の楽団がちょうど一曲を終え、次の静かな舞踏曲へ移ろうとした、その切れ目だった。
空気が、ほんの一瞬だけ薄くなる。
気づいた者はほとんどいない。
だが、次の瞬間にはもう、景色が変わっていた。
高い天井はない。
代わりに、夜空がある。
壁は消え、満天の星がひらける。
窓ではなく、遠くまで続く闇と光の粒が、視界の端まである。
足元はしっかりしているが、空気は広い。
風がある。
草の匂いがある。
遠くで鳴く夜の虫の気配さえ、音楽の外側にある。
そして丘の中央には、いつの間にか大きな火床があった。
木材と岩を組んで作られた即席の囲い。
そこに、煌々と火が燃えている。
炎。
月明かり。
星々。
大広間の灯りを持ったまま、しかし世界だけが一気に外へ開いたようなその光景に、誰もがしばし言葉を失った。
最初に歓声を上げたのは、生徒たちだった。
「え……?」
「な、何これ……!」
「外!?」
「星が……」
「綺麗……!」
次いで、ざわめきが波みたいに広がっていく。
来賓の中には混乱する者もいた。
教師の中には「誰がこんなことを」と青ざめる者もいる。
だが、それを上回る勢いで、この異様な転移は『祭りの延長』として受け入れられていった。
理由は簡単だった。
気持ちがいいからだ。
空気が広い。
呼吸がしやすい。
上を見れば星がある。
堅い壁の中で保っていた姿勢が、少しだけほどける。
そして、興行団が待っていた。
事前にアルトが仕込んでいた、粗削りで、庶民の生活に根差した祭りの音楽。
格式ばった舞踏曲ではない。
もっと体へ入ってくる音。
手拍子と足踏みと、素朴だが腹の底が温まるような旋律。
それが、火床の炎の前で鳴り始めた。
もう、作法は要らない。
決まった型もいらない。
家柄も、男女の別も、誘う順番も、細かい礼も、とりあえずは脇へ置ける。
ただ手を取って、輪に入り、踊ってしまえばいい。
その変化を最初に理解したのは、エルミナだったかもしれない。
彼女は星空の下で、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
そのあと、婿候補の男の方を見た。
男の方も、同じように見ている。
今なら。
この場なら。
そういう空気が、もうそこにあった。
先ほどまで大広間の格式に押されていた距離が、ここでは半歩だけ近い。
男は意を決したように、一歩出た。
エルミナも、逃げない。
火の色を受けた彼女の横顔は、驚くほどやわらかく、そして強かった。
アルトはその様子を見て、内心でかなり複雑になった。
良い。
すごく良い。
だが、少し複雑だ。
それでも、エルミナが幸せそうならいい。
いや、本当にいいのか。
いや、よくなければ困る。
でもやはり若干複雑だ。
そんな兄とも弟ともつかない感情を抱えつつ、アルトはどうにか平静を保った。
一方で、ミレナとレオノーラの間にも変化があった。
レオノーラは本来、場を制する側の娘だ。
だが大広間では、その役割が逆に彼女自身を固くしていた。
ここでは違う。
火床の明かりと、星の下では、彼女の高潔さが『壁』ではなく『輪の中心へ人を呼び込む軸』として機能する。
その横で、ミレナはまだ少し戸惑っていた。
だが、先ほどまでのような『私はここにいてはいけない』という縮まり方が、ほんの少しだけ薄れている。
レオノーラが何か言う。
ミレナが笑う。
それだけで、アルトには十分だった。
良い。
非常に良い。
リディアはというと、珍しくはしゃいでいた。
あの穏やかな少女が、火床のまわりで音に乗り、やわらかながらもかなり積極的に人の輪へ混ざっている。
しかも、その隣にはルゼリアがいた。
「ほら」
とでも言うように、彼女はルゼリアの腕を引く。
ルゼリアは最初こそ戸惑っていた。
だが、大広間よりここがずっと楽なのは、本人にもよく分かる。
魔族であること。
人の目。
礼儀の場。
そうしたものを一瞬だけ忘れてしまえる。
リディアは、そういう緩みの中でルゼリアをますます面白がっていたし、ルゼリアの方も、それを完全には嫌がっていなかった。
シャルロッテは、こういう場に最も似つかわしくなさそうで、しかしその実、ちゃんと輪の内にいた。
むしろ、貴族ではない家の男子生徒から誘いを受けた時、いちばん戸惑ったのは彼女の方だっただろう。
「わ、私?」
という顔をした。
そして一瞬、逃げるかどうか迷った。
だがここは大広間ではない。
周囲もすでに、型を保つことを半ば諦めて、ただ楽しむ方向へ流れている。
シャルロッテは最終的に、その誘いに応じた。
戸惑いながら。
だが、どこか新鮮そうに。
その不器用さが、また妙に良かった。
セラフィナは、最初こそ『誰かを探している』顔をしていた。
もちろんアルトだ。
あの男が絶対どこかでこれを仕掛けていると分かるのに、姿が見えない。
面白くない。
そして妙に悔しい。
その苛立ちを誤魔化すみたいに、彼女は少しやけ気味に踊り始めた。
手当たり次第、というほど無秩序ではない。
だが、明らかに勢いがある。
笑っている。
楽しんでいる。
そのくせ時々、人混みの向こうを探すように目を上げる。
いかにもセラフィナらしくて、アルトは少し笑いたくなった。
そして彼自身は、木陰に隠した椅子に腰を下ろしていた。
お気に入りの位置だ。
火床も見える。
人の輪も見える。
けれど少し外れている。
そこから見れば、会場全体がよく見えた。
皆、ちゃんと楽しんでいる。
身分も、作法も、いったんは忘れて。
ただ今ここにいる者として。
やはりこれでよかったのだ、とアルトは思った。
その時、視界の中にリュシアンを見つける。
彼は、人の輪の中にいながら、まだ少し落ち着かなさを残していた。
大広間よりはずっと楽そうだ。
それでも、どこかでアルトを探しているのが分かる。
アルトはそれを見て、ふと立ち上がった。
今夜の熱が、少しだけ自分にも移っていたのかもしれない。
普段より、ほんの少しだけ強引になれる程度には。
人の輪を抜けて、リュシアンのそばへ行く。
相手がこちらに気づくより早く、その手を取った。
「え」
リュシアンが目を丸くする。
「アルト?」
「踊るぞ」
「……は?」
「今なら」
一拍。
「いいだろ」
リュシアンの顔が、一気に熱を持つ。
何を言われたのか、理解はしている。
しているが、理解したことを心が追いきれない。
踊る。
アルトと。
この星空の下で。
皆がそれぞれ好きに楽しんでいる、この『祭り』の中で。
「ま、待って」
「待たない」
「いや、でも」
「嫌か?」
そう聞かれると、嫌だとは言えない。
言えるはずがなかった。
「……嫌じゃ、ない」
「ならいい」
アルトはそう言って、そのままリュシアンを輪の中へ引き込んだ。
最初の数歩、リュシアンは本気で戸惑っていた。
手の熱。
距離。
足運び。
周囲の音。
全部が一気に押し寄せる。
だが、ここには大広間の窮屈さがない。
決まった型もない。
間違っても構わない。
少しずれても笑って済む。
そして何より、相手がアルトだ。
リュシアンは次第に、ぎこちなさをほどいていく。
呼吸が合う。
足が合う。
笑っていい空気がある。
手を引かれて、くるりと一度回された時には、もう胸の奥の方から喜びが溢れていた。
こんな時間があるのだと、思う。
ただ、楽しい。
ただ、一緒にいられる。
それだけで、心に深く刻まれてしまう。
アルトの方もまた、そんなリュシアンの表情を見て、少しだけ内心でどきりとした。
これはまずい。
いや、良い。
いや、良いのだが、少しまずい。
何しろ、あまりにも無邪気に楽しんでいる。
さっき髪飾りを渡した時の顔もそうだったが、こうして祭りの熱にあてられているリュシアンは、普段以上に素直で、普段以上にきれいだ。
だが、そこで妙な意味へ行ってはいけない。
これは育成計画の一環。
戦いのあとの労い。
息苦しい交流会を、ちゃんと祭りに変えた結果としての、自然なひととき。
たぶんそうだ。
おそらく。
できればそうであってほしい。
平助はそうやってどうにか自分を整えながら、それでもリュシアンの手を放さなかった。
火床の炎が揺れる。
星が、頭上いっぱいにある。
楽団の代わりに、庶民的な祭りの音が夜へ弾ける。
丘の上には、もう誰も『大広間の中の役割』だけではいなかった。
エルミナは、ひとりの恋する女性として笑っている。
ミレナは、もう少しだけレオノーラの近くで呼吸できている。
リディアはルゼリアの手を引いて笑い、ルゼリアもまたその輪の中にいる。
シャルロッテは不器用なまま新しい熱へ触れ、セラフィナは探しものをしながらも全力でこの夜に混ざっている。
そしてリュシアンは、アルトと踊っていた。
それは、彼にとってたぶん、一生忘れない夜になる。
アルトもまた、そのことをどこかで理解していた。
理解してしまっているからこそ、少しだけ怖い。
だが、怖さごと込みで、この時間を悪くないと思っている自分も確かにいた。
祭りとは、本来こういうものなのだろう。
誰もが少しだけ自分の役割を外して。
誰かと手を取り。
いまここにいることを、ただ喜ぶ。
夜はまだ終わらない。
この星空の下で、交流会はようやく『本当の祭り』になっていた。




