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全モブヒロインに幸あれ! —脇役を愛する勇者の異世界譚—  作者: 臂りき
第4章 学院の光と、その隅にいる者たち
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第20話 魔王たちの静かな均衡

 学院祭は、まだ続いていた。


 研究発表会の周辺で異変が起き、生徒の一部が昏倒し、講堂裏の導線がしばらく騒然としたにもかかわらず、広大な学院全体で見れば、それは『局地的な騒ぎ』として処理されつつあった。


 むしろ、祭りというものは、何かが起きたあとほど妙な昂ぶりを帯びる。


 有志による出店は相変わらず賑わっていた。

 商家の家柄の生徒たちが家族や使用人まで半ば総動員して、本格的な飲食店や服飾店を展開している。

 鍛冶師の家から来ている生徒の区画では、実家の職人が打った武器防具が並び、宝飾店には貴族の令嬢たちが群がる。

 外部から招かれた興行団の見世物も人を集めているし、隣国の学院教師と生徒による魔法学の公開演習――錬金術に近い体系を扱うもの――には、アルトなら本来かなり強い関心を示したに違いない。


 生徒たちは良家の紳士淑女らしく、上品さを崩しきらない範囲で、しかしだいぶ浮き足立っていた。


 ――その頃、東の魔王ヴァルジアの城では、別の静けさが落ちていた。


 城は重厚だった。


 人族の王城にあるような、見せるための過剰な煌びやかさとは違う。

 黒鉄と深い赤を基調にした、武人の居城らしい厚みがある。

 廊下は広いが、音が吸われる。

 柱は太く、壁面には華美な装飾の代わりに、戦勝や誓約の痕跡が刻まれていた。


 その城の応接間に、一報が届く。


 軍からの急報。

 遠方より、ほとんど休まず走らされた魔族の兵士が膝をつき、頭を垂れた。


 その場に居合わせていた者たちは、空気の質でそれを察した。


 ただならぬ報せだ、と。


 ヴァルジアは、応接間の奥で静かに座していた。

 武人らしい体躯。

 威圧はあるが、無闇に怒気を撒き散らす男ではない。

 その隣には、政務報告のために訪れていた東の魔王城の政務官カティア。

 さらに客として、西の魔王イゼルダと、その付き人たちがいた。


 イゼルダは、いかにも曲者らしい魔王だった。

 柔らかい。

 美しい。

 だが、その柔らかさは水ではなく毒に近い。

 声を聞くだけで、どこか心の足場がずれるような気配がある。

 知略、幻惑、精神干渉、罠、契約。

 そうしたものを得意とする西の魔王らしい、ひどく『嫌な』存在感だった。


 兵士は、額を床につけるようにして報告を告げる。


「ご報告、申し上げます」

 声が掠れている。

「幹部ゼルフィザ様……戦死、確認」


 応接間の空気が、そこで一度、止まった。


 臣下たちが息を呑む。

 カティアの指先が、わずかに強張る。

 イゼルダの付き人たちですら、露骨にはしないまでも目を伏せた。


 東の魔王の妹。

 高位の血族。

 対人族強硬派の要。

 それが戦死。


 信じがたい一報だった。


 そして、ヴァルジアは、すでにその気配の消失を感じ取っていた。


 血族の灯が、一つ消えた。

 報せが来るより先に、それだけは分かっていた。

 だが、分かっていたことと、言葉として突きつけられることの間には、どうしようもない差がある。


 ヴァルジアは、すぐには答えなかった。


 一拍。


 ほんの一拍だけ、沈黙が長くなる。


 その一拍の中で、妹の死が『推測』から『確定』へ変わった。


 それは怒りではない。

 咆哮でもない。

 武人としては、それらへ流れる方がむしろ浅いのかもしれない。


 ただ、確かに、堪えた。


 それでもヴァルジアは、次の瞬間にはもう顔を上げていた。


「ご苦労だった」

 兵士へ向ける声は、よく通り、揺れていない。

「よくぞこの場まで持ち帰った」


 その一言で、兵士の緊張がわずかに解ける。

 ヴァルジアは続ける。


「下がれ」

「はっ」


 さらに、周囲へ視線を流した。


「カティア、お前は残れ」

 臣下たちが一斉に頭を垂れる。

「この件は、ここでは終わりだ」


 応接間から人が引く。

 重い扉が閉じる。

 空気が少しだけ変わる。


 ヴァルジアは、ようやく静かに息を吐いた。


「……やはり、か」

 その呟きは、怒りより深い場所から出た声だった。


 カティアは、すぐには口を開けなかった。

 彼女は普段、かなり冷静だ。

 政務官として、動揺を表へ出さないようよく訓練されている。

 だが今は、その均衡が少しだけ乱れていた。


 眼鏡へ手が伸びる。


 位置を直す。

 それは彼女が平静を保とうとする時に出る、癖だった。


 ヴァルジアはそれに気づいていた。

 だが、指摘はしない。

 ただ見ている。


「ゼルフィザ様は」

 カティアがどうにか声を整える。

「……確かに、近年は独断が過ぎておりました」

「ああ」

 ヴァルジアは短く応じた。

「ほとほと、呆れ果ててもいた」

「……」

「正面の戦場で死ねたなら、まだましだ」

 その言葉には、武人としての真実があった。

「頭を冷やすには、数百年はちょうどよい」


 カティアは、その言葉に安堵するべきかどうか、一瞬迷った。


 ヴァルジアは怒っていない。

 少なくとも、衝動では動かない。

 それは東の魔王城にとっては救いでもある。


 だが同時に、妹の死をここまで静かに受け止めるその在り方が、逆に彼の中でどれほど深く整理されているのかを思うと、胸の奥が落ち着かなかった。


 その揺れを、イゼルダは見逃さない。


「まあ」

 柔らかな声が落ちる。

「東はさすがね」

 付き人へ向けて話しているふうでいて、その実、部屋全体に聞かせている。

「血族が殺されたというのに、報復のひとつも考えないのだもの」

 付き人が、いかにも気遣うような声を返す。

「ヴァルジア様ほどの方ともなれば、そのような些事に心を乱されることはないのでしょう」

「そうかしら」

 イゼルダが小さく笑う。

「それとも、乱したくても乱せないのかしら」


 空気が冷える。


 ヴァルジアは、すぐには返さない。

 それがイゼルダには、ますます面白かったらしい。


「ねえ、カティア」

 今度はあからさまだった。

「妹君が殺されたというのに、報復のひとつもできない魔族なんて、どうなのかしらね?」


 その問いを向けられた瞬間、カティアの心臓が跳ねた。


 最悪だ、と思う。

 答えたくない。

 答えれば、どちらへ転んでも角が立つ。

 しかもイゼルダは、それを知っていて振っている。


 カティアは努めて平静を装った。


「……東の魔王城の政務として申し上げるなら」

 声を整える。

「性急な報復は、情勢を見誤る危険もございます」


 言葉自体は間違っていない。

 だが、その最中にも眼鏡へ指が触れる。


 癖が出ていた。


 ヴァルジアは黙ってそれを見る。


 もしアルトがここにいたなら、その眼鏡をいじる仕草と、そこへ出る微細な動揺に、たぶん歓喜していた。

 幸い、いない。


 イゼルダは、にこやかに続ける。


「まあ、そうでしょうね」

「……」

「でも、少し寂しいわ」

「……」

「血族の死にすら、熱くなれないなんて」


 そこで、ヴァルジアが初めて正面から口を開いた。


「武人ならば」

 低い声。

「戦地で死せることは本望だろう」


 イゼルダの目が細くなる。


 ヴァルジアはそのまま続けた。


「……まあ、魔法師崩れの輩共には分からんか」

 静かな侮蔑だった。

「血族の誇りというものが」


 一瞬で、イゼルダの空気が変わる。


 柔らかな笑みが、剥がれる。

 それまでの優雅な距離感が、音もなく消える。


 魔法師崩れ。

 しかも、その言葉には西の魔王の血族ごと見下す響きがあった。


 イゼルダの指先に、即死系統の魔法が生まれかける。


 早い。

 詠唱に近いものすらない。

 彼女の周囲の空気が一瞬だけ黒く沈み、部屋の温度が落ちる。


 カティアの背が凍る。


 ヴァルジアは動かない。

 動かないまま、真正面からその殺意を受ける。


 次の瞬間。


 その魔法が、消えた。


 まるで、最初からそこになかったみたいに。


 空間が、ほんの一瞬だけ折れたように見えた。

 応接間の一角が薄く歪み、そこへ即死魔法そのものが滑り落ち、消失する。


 ノルンだ。


 北の魔王ノルンの亜空間魔法。


 まだ姿は見えない。

 だが、その力だけはここに届く。


「……やめて」


 少し幼さを残した声が、遅れて響いた。


 そして、応接間の中央寄りの空間が静かに開く。

 そこから、ノルンが現れた。


 小柄。

 まだ少女の輪郭を残している。

 だが、その足元の空間が『普通』ではないことを、いる者は皆知っている。


 北の魔王。

 亜空間魔法の血族。

 均衡そのものを繋ぎ止める、幼い要。


 ノルンはイゼルダを見る。

 怒っているというより、本気で止めに来た顔だった。


「こんなところで、だめ」

 イゼルダは数秒、その幼い魔王を見つめていた。

 それから、ふっと口元をやわらげる。


「……お嬢ちゃんがやめろと言うのなら」

 声はまた柔らかい。

 だが、目の奥は冷えたままだ。

「今回ばかりは引こうかしら」

 一拍。

「大人気ないものね、私」


 最後のその一言に、どれだけ嘲りが混じっているかは、誰にでも分かった。


 付き人がすぐに魔道具を起動する。

 転移。

 西の魔王とその一行は、あからさまにヴァルジアを小馬鹿にした空気だけを残して、その場から消えた。


 応接間に、静けさが戻る。


 それは先ほどまでの静けさではない。

 いったん殺意を通ったあとの、冷えた静けさだ。


 ノルンは、そこでようやくヴァルジアへ向き直った。


「……ごめんね」

 まず出たのは謝罪だった。

「巻き込んでしまった、か」

 ヴァルジアは自嘲気味に首を振る。

「ううん」

 ノルンは小さく首を横に振る。

「でも、来るのが遅かった」


 その言い方に、幼さが残る。

 完璧に大人ではない。

 死と衝突に敏感な年齢のまま、魔王の座に置かれている者の声音だ。


 ヴァルジアは、そんなノルンをしばらく見てから、低く言った。


「……気にするな」

 それだけだった。

 だが、ノルンには十分だった。


 彼女はヴァルジアの顔を見て、そこにある静かな疲れを読む。


 気丈に振る舞っている。

 怒りも、嘆きも、表へは出していない。

 だが、妹の死が何も効いていないわけがない。


 ノルンには、その痛みが少し分かった。


 五百年前。

 魔王同士の争いの中で、彼女は両親を失っている。

 幼かった。

 だからこそ、死の痛みだけは、今も生々しいままだ。


 それでも彼女は北の魔王でいなければならない。

 この均衡の要で。


 その均衡を支えているのは、単に彼女個人の実力ではない。


 ノルンの血族が持つ絶対的な亜空間魔法。

 そして、先代――彼女の父が最後に残した強大な呪法。


 契約魔法に近い。

 だが、亜空間魔法を絡めた複雑さゆえに、実質的に解くことができない。

 魔王同士が直接、決定的に争うことを封じる停戦の縛り。


 だからこそ、先ほどイゼルダの即死魔法も、ノルンの亜空間によって遮れた。


 だが。


 ノルンはそれを知っている。

 その呪法には期限があることを。


 五百年。

 早すぎず、遅すぎず。

 自分がある程度、亜空間魔法を扱えるようになるであろうと、両親が見積もった年数。


 その期限が、近い。


 いや、もう『弱まりつつある』のだ。


 それをノルンは誰にも言っていない。

 言えば均衡が崩れる。

 だから言えない。


 その秘密を胸に抱えたまま、彼女は今回の報告を聞いていた。


 ゼルフィザを下した人族がいる。


 それが、怖かった。


 ただ人族の強者が現れた、という意味ではない。

 均衡が揺らぎ始めたこのタイミングで、魔王の妹を落とせるような異物が、人族側にいる。

 それが、あまりにも悪い。


 ノルンはそれを悟られないように、顔を上げた。


「……ヴァルジア」

「何だ」

「少し、気をつけて」

 ヴァルジアは、彼女の言葉の奥にあるものを読みきれはしなかったが、その真剣さだけは受け取った。

「言われるまでもない」

「……うん」


 カティアは、そのやり取りを黙って見ていた。


 眼鏡をもう一度だけ直す。

 先ほどより、動きは少し落ち着いている。

 だが心はまだ静まりきっていない。


 ゼルフィザの死。

 イゼルダの挑発。

 ノルンの介入。

 東の魔王が、ほんの少しだけ感情を表に漏らしたこと。


 そして何より、『人族側に異常な何かがいる』という事実。


 応接間の空気は、もう元には戻らなかった。


 やがて、ノルンは窓の方へ目をやった。


 遠い空を見る。

 東の魔王城より、はるか向こう。

 学院のある方角。

 もちろん、実際に見えるわけではない。

 だが、そこにいる何かを思わずにはいられなかった。


 ゼルフィザを下すほどの人族。


 それが、どんな顔をしているのか。

 どんな理で魔法を使うのか。

 次に均衡へ触れる時、何を壊すのか。


 怖い。


 ノルンは、そう思う。


 北の魔王でありながら、まだ幼さを残した心が、その事実を押し殺しきれない。


 それでも彼女は、静かに立っていた。


 均衡が弱まりつつあることも。

 その先に何が待つかも。

 全部、胸の内へ沈めたまま。


 応接間の窓の外では、東の空がひどく静かだった。


 しかし、静かであることが、かえって不安だった。


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