第20話 魔王たちの静かな均衡
学院祭は、まだ続いていた。
研究発表会の周辺で異変が起き、生徒の一部が昏倒し、講堂裏の導線がしばらく騒然としたにもかかわらず、広大な学院全体で見れば、それは『局地的な騒ぎ』として処理されつつあった。
むしろ、祭りというものは、何かが起きたあとほど妙な昂ぶりを帯びる。
有志による出店は相変わらず賑わっていた。
商家の家柄の生徒たちが家族や使用人まで半ば総動員して、本格的な飲食店や服飾店を展開している。
鍛冶師の家から来ている生徒の区画では、実家の職人が打った武器防具が並び、宝飾店には貴族の令嬢たちが群がる。
外部から招かれた興行団の見世物も人を集めているし、隣国の学院教師と生徒による魔法学の公開演習――錬金術に近い体系を扱うもの――には、アルトなら本来かなり強い関心を示したに違いない。
生徒たちは良家の紳士淑女らしく、上品さを崩しきらない範囲で、しかしだいぶ浮き足立っていた。
――その頃、東の魔王ヴァルジアの城では、別の静けさが落ちていた。
城は重厚だった。
人族の王城にあるような、見せるための過剰な煌びやかさとは違う。
黒鉄と深い赤を基調にした、武人の居城らしい厚みがある。
廊下は広いが、音が吸われる。
柱は太く、壁面には華美な装飾の代わりに、戦勝や誓約の痕跡が刻まれていた。
その城の応接間に、一報が届く。
軍からの急報。
遠方より、ほとんど休まず走らされた魔族の兵士が膝をつき、頭を垂れた。
その場に居合わせていた者たちは、空気の質でそれを察した。
ただならぬ報せだ、と。
ヴァルジアは、応接間の奥で静かに座していた。
武人らしい体躯。
威圧はあるが、無闇に怒気を撒き散らす男ではない。
その隣には、政務報告のために訪れていた東の魔王城の政務官カティア。
さらに客として、西の魔王イゼルダと、その付き人たちがいた。
イゼルダは、いかにも曲者らしい魔王だった。
柔らかい。
美しい。
だが、その柔らかさは水ではなく毒に近い。
声を聞くだけで、どこか心の足場がずれるような気配がある。
知略、幻惑、精神干渉、罠、契約。
そうしたものを得意とする西の魔王らしい、ひどく『嫌な』存在感だった。
兵士は、額を床につけるようにして報告を告げる。
「ご報告、申し上げます」
声が掠れている。
「幹部ゼルフィザ様……戦死、確認」
応接間の空気が、そこで一度、止まった。
臣下たちが息を呑む。
カティアの指先が、わずかに強張る。
イゼルダの付き人たちですら、露骨にはしないまでも目を伏せた。
東の魔王の妹。
高位の血族。
対人族強硬派の要。
それが戦死。
信じがたい一報だった。
そして、ヴァルジアは、すでにその気配の消失を感じ取っていた。
血族の灯が、一つ消えた。
報せが来るより先に、それだけは分かっていた。
だが、分かっていたことと、言葉として突きつけられることの間には、どうしようもない差がある。
ヴァルジアは、すぐには答えなかった。
一拍。
ほんの一拍だけ、沈黙が長くなる。
その一拍の中で、妹の死が『推測』から『確定』へ変わった。
それは怒りではない。
咆哮でもない。
武人としては、それらへ流れる方がむしろ浅いのかもしれない。
ただ、確かに、堪えた。
それでもヴァルジアは、次の瞬間にはもう顔を上げていた。
「ご苦労だった」
兵士へ向ける声は、よく通り、揺れていない。
「よくぞこの場まで持ち帰った」
その一言で、兵士の緊張がわずかに解ける。
ヴァルジアは続ける。
「下がれ」
「はっ」
さらに、周囲へ視線を流した。
「カティア、お前は残れ」
臣下たちが一斉に頭を垂れる。
「この件は、ここでは終わりだ」
応接間から人が引く。
重い扉が閉じる。
空気が少しだけ変わる。
ヴァルジアは、ようやく静かに息を吐いた。
「……やはり、か」
その呟きは、怒りより深い場所から出た声だった。
カティアは、すぐには口を開けなかった。
彼女は普段、かなり冷静だ。
政務官として、動揺を表へ出さないようよく訓練されている。
だが今は、その均衡が少しだけ乱れていた。
眼鏡へ手が伸びる。
位置を直す。
それは彼女が平静を保とうとする時に出る、癖だった。
ヴァルジアはそれに気づいていた。
だが、指摘はしない。
ただ見ている。
「ゼルフィザ様は」
カティアがどうにか声を整える。
「……確かに、近年は独断が過ぎておりました」
「ああ」
ヴァルジアは短く応じた。
「ほとほと、呆れ果ててもいた」
「……」
「正面の戦場で死ねたなら、まだましだ」
その言葉には、武人としての真実があった。
「頭を冷やすには、数百年はちょうどよい」
カティアは、その言葉に安堵するべきかどうか、一瞬迷った。
ヴァルジアは怒っていない。
少なくとも、衝動では動かない。
それは東の魔王城にとっては救いでもある。
だが同時に、妹の死をここまで静かに受け止めるその在り方が、逆に彼の中でどれほど深く整理されているのかを思うと、胸の奥が落ち着かなかった。
その揺れを、イゼルダは見逃さない。
「まあ」
柔らかな声が落ちる。
「東はさすがね」
付き人へ向けて話しているふうでいて、その実、部屋全体に聞かせている。
「血族が殺されたというのに、報復のひとつも考えないのだもの」
付き人が、いかにも気遣うような声を返す。
「ヴァルジア様ほどの方ともなれば、そのような些事に心を乱されることはないのでしょう」
「そうかしら」
イゼルダが小さく笑う。
「それとも、乱したくても乱せないのかしら」
空気が冷える。
ヴァルジアは、すぐには返さない。
それがイゼルダには、ますます面白かったらしい。
「ねえ、カティア」
今度はあからさまだった。
「妹君が殺されたというのに、報復のひとつもできない魔族なんて、どうなのかしらね?」
その問いを向けられた瞬間、カティアの心臓が跳ねた。
最悪だ、と思う。
答えたくない。
答えれば、どちらへ転んでも角が立つ。
しかもイゼルダは、それを知っていて振っている。
カティアは努めて平静を装った。
「……東の魔王城の政務として申し上げるなら」
声を整える。
「性急な報復は、情勢を見誤る危険もございます」
言葉自体は間違っていない。
だが、その最中にも眼鏡へ指が触れる。
癖が出ていた。
ヴァルジアは黙ってそれを見る。
もしアルトがここにいたなら、その眼鏡をいじる仕草と、そこへ出る微細な動揺に、たぶん歓喜していた。
幸い、いない。
イゼルダは、にこやかに続ける。
「まあ、そうでしょうね」
「……」
「でも、少し寂しいわ」
「……」
「血族の死にすら、熱くなれないなんて」
そこで、ヴァルジアが初めて正面から口を開いた。
「武人ならば」
低い声。
「戦地で死せることは本望だろう」
イゼルダの目が細くなる。
ヴァルジアはそのまま続けた。
「……まあ、魔法師崩れの輩共には分からんか」
静かな侮蔑だった。
「血族の誇りというものが」
一瞬で、イゼルダの空気が変わる。
柔らかな笑みが、剥がれる。
それまでの優雅な距離感が、音もなく消える。
魔法師崩れ。
しかも、その言葉には西の魔王の血族ごと見下す響きがあった。
イゼルダの指先に、即死系統の魔法が生まれかける。
早い。
詠唱に近いものすらない。
彼女の周囲の空気が一瞬だけ黒く沈み、部屋の温度が落ちる。
カティアの背が凍る。
ヴァルジアは動かない。
動かないまま、真正面からその殺意を受ける。
次の瞬間。
その魔法が、消えた。
まるで、最初からそこになかったみたいに。
空間が、ほんの一瞬だけ折れたように見えた。
応接間の一角が薄く歪み、そこへ即死魔法そのものが滑り落ち、消失する。
ノルンだ。
北の魔王ノルンの亜空間魔法。
まだ姿は見えない。
だが、その力だけはここに届く。
「……やめて」
少し幼さを残した声が、遅れて響いた。
そして、応接間の中央寄りの空間が静かに開く。
そこから、ノルンが現れた。
小柄。
まだ少女の輪郭を残している。
だが、その足元の空間が『普通』ではないことを、いる者は皆知っている。
北の魔王。
亜空間魔法の血族。
均衡そのものを繋ぎ止める、幼い要。
ノルンはイゼルダを見る。
怒っているというより、本気で止めに来た顔だった。
「こんなところで、だめ」
イゼルダは数秒、その幼い魔王を見つめていた。
それから、ふっと口元をやわらげる。
「……お嬢ちゃんがやめろと言うのなら」
声はまた柔らかい。
だが、目の奥は冷えたままだ。
「今回ばかりは引こうかしら」
一拍。
「大人気ないものね、私」
最後のその一言に、どれだけ嘲りが混じっているかは、誰にでも分かった。
付き人がすぐに魔道具を起動する。
転移。
西の魔王とその一行は、あからさまにヴァルジアを小馬鹿にした空気だけを残して、その場から消えた。
応接間に、静けさが戻る。
それは先ほどまでの静けさではない。
いったん殺意を通ったあとの、冷えた静けさだ。
ノルンは、そこでようやくヴァルジアへ向き直った。
「……ごめんね」
まず出たのは謝罪だった。
「巻き込んでしまった、か」
ヴァルジアは自嘲気味に首を振る。
「ううん」
ノルンは小さく首を横に振る。
「でも、来るのが遅かった」
その言い方に、幼さが残る。
完璧に大人ではない。
死と衝突に敏感な年齢のまま、魔王の座に置かれている者の声音だ。
ヴァルジアは、そんなノルンをしばらく見てから、低く言った。
「……気にするな」
それだけだった。
だが、ノルンには十分だった。
彼女はヴァルジアの顔を見て、そこにある静かな疲れを読む。
気丈に振る舞っている。
怒りも、嘆きも、表へは出していない。
だが、妹の死が何も効いていないわけがない。
ノルンには、その痛みが少し分かった。
五百年前。
魔王同士の争いの中で、彼女は両親を失っている。
幼かった。
だからこそ、死の痛みだけは、今も生々しいままだ。
それでも彼女は北の魔王でいなければならない。
この均衡の要で。
その均衡を支えているのは、単に彼女個人の実力ではない。
ノルンの血族が持つ絶対的な亜空間魔法。
そして、先代――彼女の父が最後に残した強大な呪法。
契約魔法に近い。
だが、亜空間魔法を絡めた複雑さゆえに、実質的に解くことができない。
魔王同士が直接、決定的に争うことを封じる停戦の縛り。
だからこそ、先ほどイゼルダの即死魔法も、ノルンの亜空間によって遮れた。
だが。
ノルンはそれを知っている。
その呪法には期限があることを。
五百年。
早すぎず、遅すぎず。
自分がある程度、亜空間魔法を扱えるようになるであろうと、両親が見積もった年数。
その期限が、近い。
いや、もう『弱まりつつある』のだ。
それをノルンは誰にも言っていない。
言えば均衡が崩れる。
だから言えない。
その秘密を胸に抱えたまま、彼女は今回の報告を聞いていた。
ゼルフィザを下した人族がいる。
それが、怖かった。
ただ人族の強者が現れた、という意味ではない。
均衡が揺らぎ始めたこのタイミングで、魔王の妹を落とせるような異物が、人族側にいる。
それが、あまりにも悪い。
ノルンはそれを悟られないように、顔を上げた。
「……ヴァルジア」
「何だ」
「少し、気をつけて」
ヴァルジアは、彼女の言葉の奥にあるものを読みきれはしなかったが、その真剣さだけは受け取った。
「言われるまでもない」
「……うん」
カティアは、そのやり取りを黙って見ていた。
眼鏡をもう一度だけ直す。
先ほどより、動きは少し落ち着いている。
だが心はまだ静まりきっていない。
ゼルフィザの死。
イゼルダの挑発。
ノルンの介入。
東の魔王が、ほんの少しだけ感情を表に漏らしたこと。
そして何より、『人族側に異常な何かがいる』という事実。
応接間の空気は、もう元には戻らなかった。
やがて、ノルンは窓の方へ目をやった。
遠い空を見る。
東の魔王城より、はるか向こう。
学院のある方角。
もちろん、実際に見えるわけではない。
だが、そこにいる何かを思わずにはいられなかった。
ゼルフィザを下すほどの人族。
それが、どんな顔をしているのか。
どんな理で魔法を使うのか。
次に均衡へ触れる時、何を壊すのか。
怖い。
ノルンは、そう思う。
北の魔王でありながら、まだ幼さを残した心が、その事実を押し殺しきれない。
それでも彼女は、静かに立っていた。
均衡が弱まりつつあることも。
その先に何が待つかも。
全部、胸の内へ沈めたまま。
応接間の窓の外では、東の空がひどく静かだった。
しかし、静かであることが、かえって不安だった。




