第17話 研究発表会の裏で
学院祭初日の空気は、普段とはまるで違っていた。
浮き足立っている、という言葉が最も近い。
だが、それだけでは足りない。
学院という場所が本来持つ、閉じた秩序と若者たちの熱と、そこへ外から流れ込んでくる権威や期待や打算が、すべて一度に混ざり合っている。
要するに、かなり良い。
アルトは朝から、そう思っていた。
もちろん、健全な意味だけではない。
学院祭――正式名称はもっと長く、いかにも格式ばっているが、アルトの中ではやはり学院祭である――の初日は、研究発表会が主軸だった。
学院の上級生や、研究職を主として籍を置く教師たちが、魔法学に関する研究成果を公表する。
王都の研究機関も注目し、王族や魔法学会の権威、各地の名家や貴族も顔を出す。
講堂は広大だった。
段差状に組まれた客席。
正面には演台と、魔法図式を投影するための大型の術式板。
壁面には音響補助の魔法紋。
出入り口は表と裏で完全に分けられている。
表は来賓と発表者、裏は荷物と使用人、そして必要があれば警備のため。
アルトは、そうした構造をすでにほぼ把握しきっていた。
もともと、この手の大規模な催しでは動線がすべてだと分かっている。
誰がどこを通り、どこで滞留し、どこが死角になり、どこで物が詰まるか。
それは人の流れを観察するうえでも極めて美味しいし、同時に危機管理の要でもある。
平助の変態性は、こういう時だけ妙に実務に強い。
いや、普段から十分実務に強いのだが、本人が気持ち悪い方向へ注意深いせいで、結果として計画性や観察精度が異常に高まっているのだった。
朝の時点で、アルトはすでに段取りを組んでいた。
研究発表会の表側には、学院の視線が集まる。
レオノーラも、シャルロッテも、リディアも、他の主役候補たちも、だいたいそちらに気を取られる。
来賓の前で、誰がどう見えるか。
教師の研究がどう評価されるか。
生徒たちもまた、それぞれの形で祭りに浮かれている。
つまり、裏が手薄になる。
そして薄くなるからこそ、異物はそちらから来る。
アルトはそう見ていた。
見ていた、というか、そうなってほしいと少しだけ思っていた節すらある。
不穏がどこで滲みやすいかを、自分の予測で確かめたかった。
我ながらだいぶ性格が悪いが、そこはもう仕方がない。
研究発表会が始まる。
講堂には人が集まる。
来賓たちの衣擦れ。
控えめなざわめき。
教師たちの緊張。
発表者の高揚。
そこには確かに、魔法学を愛する者たちの熱もあった。
アルトはそれらが嫌いではない。
むしろかなり好む。
何しろ、魔法に真剣な者たちが、大勢一堂に会しているのだ。
発表の途中で眼鏡を押し上げる癖のある若い研究者もいれば、声の置き方がいちいち気取っている老教授もいる。
壇上で理論を語る教師の中には、緊張で喉が渇くたびに、ほんの少しだけ唇の端を舐める女教師もいた。
良い。
非常に良い。
平助は研究発表そのものをちゃんと拝聴しつつ、そういう細部までしっかり味わっていた。
気持ち悪い。
だが本人はいたって真面目だった。
そして、その一方で、講堂全体と裏手の導線に、かなり薄く意識を広げ続けている。
学院側の探知結界。
その外側に、アルトオリジナルのさらに薄い探知。
搬入路。
通用路。
裏方の気配。
そこで動く異物。
来た。
アルトは、発表の途中でほんのわずかに視線を下ろした。
通用路側。
荷の搬入に使う細い裏導線。
そこに、数人。
いや、もっといる。
人数を少なく見せて動いているだけで、分散している。
魔族の暗殺部隊だ。
確信に近かった。
見た目は業者や使用人に紛れている。
だが、歩く音の『消し方』が生者のそれではない。
荷を運ぶふりをしていても、重さの置き方に実務の癖がない。
もっと直接的に言えば、殺しのための足だ。
アルトはそこで、ごく自然な顔で席を立った。
この『ごく自然』がいけない。
普段から平然とどこかへ抜ける男なので、周囲も完全には不審がらない。
それどころか、むしろ『また何か妙なものを見つけたのだろうか』くらいに思っている者すらいる。
実際、その通りなのだが。
講堂の裏へ回る。
通用路へ下りる。
光が少し落ちる。
人目が薄くなる。
そこから先は、速かった。
アルトはもともと、派手に始末する気はなかった。
というより、この段階では『始末』という発想自体が薄い。
制圧し、縛り、表に影響を出さずに排除する。
それが最優先だった。
変態的な計画性は、こういう時に真価を発揮する。
まず、視線の切れ目を読む。
次に、物音が反響しにくい位置を選ぶ。
通用路の石壁と積まれた木箱の間。
僅かな間隙。
影。
足音の消える床材。
全部、もう把握済みだった。
一人目の首筋に、ごく短い睡眠魔法。
そのまま極小の結界を間接部に展開して沈める。
二人目は気づきかけたところで視界へ薄い錯乱。
膝裏を払う。
三人目は短剣を抜こうとした瞬間、指ごと結界で巻き込んで固定。
四人目の詠唱は、声帯の前で空間を少しずらして音を逸らす。
圧倒的だった。
速度も。
手数も。
判断も。
しかもアルトの中では、まだ『少し急いだ』程度でしかない。
気づけば、暗殺部隊は皆、声も上げられぬまま床に伏していた。
身体を縛られ、魔力回路まで仮留めされ、ほとんど抵抗不能な状態に落とされている。
そのうえで、アルトは亜空間へ軽く指を差し入れた。
転移。
だが、彼のそれはこの世界の転移魔法のような、大きな術式や目立つ歪みを伴わない。
位置を知っている場所へ、要らないものを静かにずらすだけだ。
王都の衛兵詰所に隣接した牢。
以前の悪徳貴族領絡みで、位置も内部構造もだいたい把握している。
そこへ、縛り上げた暗殺部隊をまとめて落とす。
手紙は要らない。
あの牢へ突然魔族の暗殺者が落ちてくれば、さすがに衛兵も仕事をするだろう。
そこでようやく、アルトは少し息を抜いた。
手際としては完璧に近い。
表の研究発表会にほとんど影響も出ていない。
予定通りだ。
――だが、その『過程』を見てしまった者がいた。
「……何を、しているの」
少女の声だった。
振り向くと、そこにいたのはシャルロッテだった。
最悪である。
いや、最悪というほどでもない。
彼女ならいずれ、どこかでアルトの理不尽さの片鱗を目にするだろうとは思っていた。
だが、今この場は少々よろしくない。
シャルロッテは発表を聴きながらも、ずっとアルトの様子を窺っていたらしい。
あまりにも熱心に。
しかも、気づけば付いてきてしまっていた。
彼女自身、そのことに半分も自覚していないだろう。
ただ、アルトが席を立った瞬間、その動きを追わずにいられなかったのだ。
そして、見た。
暗殺部隊を圧倒的な速度で制圧し、亜空間じみた異質な魔法で、まとめてどこかへ消したところを。
シャルロッテの中で、先ほどまで胸を満たしていた研究発表会の熱は、一瞬で吹き飛んだ。
代わりに、別の熱が立ち上がる。
理解したい。
知りたい。
何だ今のは。
何をどうした。
どういう構造だ。
いつもの澄ました表情が崩れる。
呼吸が少し速い。
目が、明らかに興奮している。
「今の魔法」
一歩、詰める。
「何?」
「……」
「転移じゃない」
さらに一歩。
「でも、空間が」
「……」
「何をしたの、あなた」
ここまで来ると、もはや詰問ではなく懇願に近い。
アルトは、少しだけ困った顔になった。
シャルロッテの記憶を書き換える。
一時的に眠らせる。
そういう案が、頭をよぎらないわけではない。
だが、記憶の改ざんは気が引ける。
眠らせても一時しのぎにしかならない。
なら、別の形で誤魔化すしかない。
アルトはその場で判断した。
魔力酔いを起こさせる。
軽くでいい。
混乱と体調不良があれば、見たものの輪郭も曖昧になる。
しかも、ちょうど暗殺部隊の魔力残滓がある。
『魔族を前にした混乱と魔力酔い』で押し通せる。
アルトは限定的な結界を展開した。
薄い膜。
通用路の一角だけを包む。
その内側で、自身の魔力を一時的に二割ほど表に出す。
アルトにとっては、少しだ。
普段がほぼゼロに近いだけで、それでも常人よりは上。
一般的な上級魔法師程度の魔力を『平時の最低限』として保っている。
そこから二割表出――本人の感覚では、ちょっと強めに出した程度だった。
だが、その見積もりが甘かった。
あまりにも甘かった。
シャルロッテは、ほとんど即座に膝を折った。
顔色が変わる。
視界が揺れ、呼吸が乱れる。
魔力酔いとしては十分すぎる反応だ。
そこまではまだよかった。
問題は、結界に薄い箇所があったことだ。
漏れた。
アルトの魔力が。
それも、学院の中へ。
瞬間、学院内のあちこちで異変が起きた。
生徒の何人かが顔をしかめる。
ふらつく。
酷い者は、その場で昏倒する。
教師たちですら、空気の変質に気づいて顔色を変える。
やばい。
と、アルトは珍しく本気で思った。
さらに悪いことに、その漏れた魔力は、『様子見』のために身を潜めていた存在まで呼び寄せた。
女幹部だ。
学院祭に紛れ込んでいた、あの異物。
好戦的な、東の魔王軍の一幹部。
アルトはまだその正体までは知らない。
だが、何かがこちらに向かってくることだけは、嫌というほど分かった。
まずい。
シャルロッテをこの場に置くわけにはいかない。
アルトは倒れた彼女へ、ごく薄い回復魔法をかける。
同時に、身体強化を軽く重ね、完全な崩落だけは避ける。
その直後、通路の向こうから駆け込んできた気配がある。
レオノーラだ。
異変をいち早く察していたのだろう。
さすがである。
「レオノーラ」
アルトは彼女が来ると同時に、ほとんど押しつけるようにシャルロッテを渡した。
「預ける」
「――アルト!? これはいったい」
「あとで」
短い。
だが、その声にいつもの妙なズレはなかった。
それだけで、レオノーラは何かが普通ではないと理解する。
そして次の瞬間、通路の奥から魔法が飛び込んだ。
女幹部の攻撃魔法。
アルトはすでに動いている。
自身に隠蔽魔法をかけ、姿を消す。
同時に、自分が誘導すべき場所を即座に決めていた。
演習場。
広い。
人を散らしやすい。
学院全体から見ても、『実技の延長』として異変を吸収しやすい。
何より――
リュシアン育成計画の成果を、学院全体に見せる舞台としてちょうどいい。
ここでアルトは、かなり冷静に、かなり気持ち悪い計画性を発揮した。
異物が出た。
広い場へ誘導できる。
自分は姿を消せる。
リュシアンは近くにいる。
ならば、見せ場を作れる。
さすがに、ここでそんなことを考えるのはどうかしている。
だがアルトは本気でそう判断した。
実際、それが最も合理的でもあった。
敵を散らさず、被害を抑え、同時にリュシアンの実戦経験とお披露目を兼ねる。
ひどい。
だが見事だった。
アルトは念話を飛ばす。
(リュシアン)
離れた位置で異変に気づきかけていた彼の意識が跳ねる。
(アルト!?)
(来てくれ)
(え)
(実戦だ)
その一言だけで、リュシアンの心臓は一気に早鐘を打った。
次の瞬間、女幹部の攻撃が、演習場側へ向けて伸びる。
アルトはそれを少しずつ逸らし、引きつけ、リュシアンを広い舞台へ導いていく。
学院襲撃の幕は、こうして静かに、しかし決定的に上がり始めた。
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