第16話 血の役目と、塔の上の風
ルゼリアは、魔族の中でも高位の血筋に生まれた。
それは誇りであると同時に、呪いでもあった。
古く、濃い血。
魔力の質が違う。
人族のそれとは明らかに異なる、体の深部から脈打つように湧き上がる流れ。
その美しさと危うさを、幼い頃から一族は当然のものとして扱ってきた。
高貴であるということは、誰かに守られるということではない。
魔族の社会ではむしろ逆だ。
濃い血は、利用価値が高い。
つまり、権力に目をつけられやすいということでもある。
ルゼリアの一族は、東の魔王の軍勢の内でも、過激な思想を持つ一派に目をつけられた。
東の魔王ヴァルジアは、人族を征服し、取り込み、魔族側の秩序に組み込んで有効活用することを目指している。
侵略はする。
征服もする。
だが、滅ぼし尽くすわけではない。
それが、東の魔王の表向きの方針だった。
だが、軍の中には違う思想を持つ一派がいた。
人族を活かす価値などない。
征服より、滅亡を。
利用より、粛清を。
そういう手合いは、どこの世界にもいる。
秩序の名を借りて、破壊だけを愛する者たち。
しかも厄介なことに、その一派はヴァルジアの名を掲げながら、実際には独断で動くことが多かった。
ルゼリアの一族は、そういう者たちに捕まった。
直接、鎖で繋がれたわけではない。
もっと悪質だった。
役目を与えられる。
人族社会に溶け込めと命じられる。
情報を流せ。
貴族の屋敷に入れ。
書庫を覗け。
魔法学会の流れを探れ。
王都の重鎮の動きを掴め。
そして、もし一人が失敗すれば。
屋敷に残された誰かが傷つけられる。
血族は散らされ、役目を持たされ、互いに人質となった。
誰かが逃げれば、別の誰かが壊される。
誰かが命令を拒めば、残された者の指が折られる。
喉が潰される。
顔が焼かれる。
だから従うしかなかった。
ルゼリアの一族は、長く、人族社会の中で汚れ役を担わされてきた。
人族の情報を流す。
重要な家系の動き。
王都の仕組み。
学院や研究機関の流れ。
時には、人族社会でも重い地位にある貴族や重鎮を、事故に見せかけて消す手引きまでさせられた。
毒。
誤った道案内。
書類のすり替え。
寝所への侵入。
表には決して出ない汚い手段ばかりだった。
ルゼリア自身は今回が初めてだった。
学院に入り込む。
学院が催す大規模な行事に乗じて、軍の暗殺部隊を誘導する。
王都各研究機関、王族、魔法学の権威、各地の名家や貴族が集まる初日。
その場に、秘密裏に『穴』を開ける。
それが彼女に与えられた役目だった。
本来なら、禁書庫へ入るはずだった。
学院の内部情報。
警備の流れ。
要人の導線。
学院と貴族、研究機関との繋がり。
そうしたものを抜き出すために。
だが、失敗した。
いや、失敗と断じるには少し違う。
扉の前で止まった。
そして、アルトに見つかった。
あまりにも最悪な相手に。
あの時点で、ルゼリアは情報を得られていない。
得られないまま時間だけが過ぎた。
当然、過激派の幹部はそれを『失敗』と見なした。
そして、一族へと痛みが返った。
ルゼリアの胸の奥に、鋭い疼きが走る。
あれは自分のものではない。
血族の誰かの痛みだ。
遠くにいる誰かが傷つけられた時、血に刻まれた呪いのような術が、その苦痛の断片をこちらへ返す。
何度も経験した。
それでも慣れない。
胃の奥がひっくり返るような、冷たく、暗い痛み。
もう失敗は許されない。
行事の初日。
研究発表会。
各機関や王族、権威たちの集う場。
そこに合わせて、侵攻は秘密裏に進められる。
業者として紛れ込んだ者たち。
荷を運ぶふりをしながら、配置につく暗殺部隊。
すべては段取り通りだ。
ルゼリアも動くしかない。
だが、その胸の内には、別の言葉が残っていた。
何に大義を見出し、いかに死ぬか。
あの気持ち悪い少年が、禁書庫の前で言った一言。
血ではなく。
役目ではなく。
最後にどこに立つかは、自分で決めるしかない、と。
そんなことを誰かに言われるとは思っていなかった。
まして人族の、それも学院の同級生に。
ルゼリアはその言葉を振り払えない。
それが不愉快なのか。
ありがたいのか。
怖いのか。
自分でもまだ分からない。
ただ、そのせいで、従うしかなかったはずの役目に、わずかな濁りが混じった。
そして、その濁りを見透かすように。
業者の列の中にいた女幹部が、一瞬だけこちらを見た気がした。
ただの錯覚かもしれない。
だが、ルゼリアは知っている。
あの女は、そういう目をする。
獲物が逃げるかもしれない時に向ける、静かな目だ。
ルゼリアは何でもない顔で立っていた。
学院生として。
祭りの準備に少し気を取られた、生徒の一人として。
だが、指先は冷えていた。
もう失敗は許されない。
それでも。
何に大義を見出し、いかに死ぬか。
その問いだけが、どうしても消えてくれなかった。
*
――そして、その頃。
アルトはまた、塔の上にいた。
学院を一望できる高さ。
風が抜ける。
日もよく当たる。
観察には便利だし、本人としてもこの風と光の具合を少し気に入っている。
他人が寄り付けない場所を気に入っている、という感覚がすでにだいぶズレている。
だが、アルトにとって高い場所は、座禅の場とは異なる種類の思考が整理しやすい。
下を見れば、学院祭準備のざわめきがある。
生徒たちの浮き足立った足取り。
教師たちの気ぜわしさ。
搬入される機材。
名家の従者や侍女の動き。
学院側の結界の補強。
その全部が、今日はいつもより少しだけ速い。
アルトはそれらを、相変わらずかなり気持ち悪い精度で見ていた。
ミレナは、やはり裏方の中でも綺麗に流れを整えている。
その友人たちの、主役に見えないようにちゃんと支えている感じも良い。
宮廷魔法師への推薦を口にしたあの女教師は、表情を崩さないのに、書類を送る手が少しだけ早い。
名家の侍女たちの中にも、疲れを隠すのが妙に上手い者がいて、その手首の角度までアルトは内心で評価している。
ライフワークである。
本人はいたって真面目だった。
だが、その一方で、探知結界も広げている。
学院の薄い探知魔法。
その外側に、さらに自分だけのごく薄い探知。
空間の歪み。
魔力の流れ。
人の流れに紛れた異物。
そしてやはり、いる。
業者風の一団。
搬入の列に自然に混じっている。
だが、薄い。
薄すぎる。
気配の整え方が、人間の仕事慣れとは別の方向で洗練されている。
その中の一人――女性。
見た目だけなら、機材搬入を仕切る少し気の強そうな女性だ。
服も地味で、顔立ちも雑踏に馴染む程度に抑えられている。
だが、その内側は違う。
硬い。
しかも、周囲を支配することに慣れている気配がある。
アルトは目を細めた。
何者か、までは分からない。
だが、異物だ。
その認識はほぼ確信に近い。
さらに視線を巡らせると、ルゼリアの気配が引っかかった。
彼女は平静を装っている。
だが完全には静かではない。
いつもより、わずかに張っている。
その二つが、いまはまだ線になっていない。
だが、同じ場面の中にいる。
学院祭準備。
業者。
異物。
ルゼリア。
薄い緊張。
アルトの中で、思考が静かに組み上がる。
すぐに動くべきか。
もっと見るべきか。
泳がせるならどこまでか。
風が吹く。
高い場所の、乾いた風だ。
アルトはそれを頬で受けながら、学院を見下ろす。
祭りの前というだけで、人はこんなに気が浮く。
だからこそ、その足下に不穏が忍び込みやすい。
フィレイアならこういう時、何と言うだろう。
たぶん、面倒そうに溜息をついてから、『あなたはまた、そういう厄介なものを拾うのね』とでも言うに違いない。
そう思いながらも、アルトの視線は逸れない。
学院祭の浮ついた空気の中で。
ルゼリアの揺れと、業者に紛れた異物の流れが、少しずつ噛み合い始めている。
まだ事件ではない。
だが、事件の前の静けさは、もう十分にあった。
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