第15話 祭りの前と、異物の気配
静かな熱は、いつまでも静かなままではいない。
学院という閉じた場で、視線と感情と立ち位置が少しずつずれていけば、いずれどこかで形になる。
誤解。
対立。
事件。
あるいは、その一歩手前の、嫌に乾いた不穏。
学院祭の準備が始まった頃には、そうした『形になる前の熱』が、もう学院全体に薄く満ちていた。
学院祭――と、アルトは勝手に呼んでいた。
正式な名称はもっと仰々しい。
他校の関係者、王都の各機関、周辺貴族、学院生徒の家族や従者、さらには魔法学会のお歴々に至るまでを招き、生徒主体の出し物や魔法演習の公開、研究成果の披露、交流会などをまとめて行う一大行事である。
祭りというには格式がある。
だが、浮き立ち方はどう見ても祭りだった。
普段より少し華やかな布が運ばれる。
廊下を行き交う足が速い。
誰がどの役を担うかで小さな揉め事が起き、しかしその揉め事すらどこか楽しげだ。
主役候補たちは当然目立つ役へ押し出され、支える側の者たちは裏方の配置を自然に引き受け、教師たちも普段より幾分気ぜわしい。
学院全体が、少し浮いていた。
そしてアルトは、そんな浮き立つ気配を、もはや半ばライフワークと化した気持ち悪い観察の対象としてきっちり味わっていた。
モブヒロインたちだけでは足りない。
最近では、宮廷魔法師への推薦を持ちかけてきたあの女教師が、祭りの進行表を手にした時だけわずかに眉間へ皺を寄せる様子や、名家の令嬢に付き従う侍女たちが、表向きは静かに、しかし準備の裏で誰より早く動線を整えている様子まで、だいぶ真面目に観察している。
ミレナやその友人たちのような『自然に支える者』たちはもちろん、ルゼリアのささやかな交友関係――数少ないが確かに存在する、言葉少ななやり取りの温度差まで、アルトの視界は容赦なく拾う。
本人としては、いたって真面目だった。
場が動けば、人の本質も少し動く。
ならば観察するのは当然である。
そこに何のやましさがあるのか、と本気で思っている。
もちろん、第三者の目から見ればだいぶ気持ち悪い。
その日もアルトは、学院の塔の上にいた。
上、と言っても生易しいものではない。
本校舎の屋上よりさらに上、二十階はある塔の天辺に近い。
学院全体を見下ろせる高さ。
石造りの手すりの向こうには、王都の街並みと、学院の中庭、演習場、渡り廊下、仮設の展示台、搬入される道具類まで一望できる。
風が強い。
高所の風だ。
だがアルトは気にしない。
いや、むしろこういう風を少し好ましく思う節すらある。
視界が開け、人の動きが立体的に見えるからだ。
見下ろせば、学院祭準備の空気があちこちにある。
レオノーラは、すでに中心的な役割を担っているらしい。
遠目にも、彼女の周りだけ人の流れが滑らかだ。
シャルロッテは展示用の魔法理論の整理に不満を抱えつつ、しかし顔を上げる時だけ完璧に澄ました顔をしている。
リディアは聖教会関係の出し物に絡む子どもたちや女性たちへ、柔らかな目線を向けていた。
ミレナは裏方側で、やはり誰にも気づかれない範囲で全体の詰まりを解消している。
セラフィナは、明らかに張り切りすぎて空回りしかけている者たちを、声の大きさだけで半ば押し切ってまとめていた。
そして、ルゼリアもいた。
相変わらず、少し引いたところに。
だが、完全に切れてはいない位置に。
祭りの気配に馴染みきらず、それでも確実にそこに立っている。
良い。
アルトはそう思う。
こういう『賑わいの中心には入らないが、周辺に完全に消えるわけでもない立ち方』は、かなり良い。
風の中でそんなことを思いながら、彼は一方で別の感覚も広げていた。
学院中に張り巡らされた、薄い探知魔法。
それ自体は学院の防備として自然なものだ。
生徒や教員の流れを完全に監視するような下品なものではないが、異物や大きな魔力変動を拾う程度の微細な結界が、校舎や塔や演習場の周囲に淡くかかっている。
そしてアルトは、その『さらに外側』に、自分だけのごく薄い探知結界を展開していた。
学院の結界を乱さない程度に。
触れれば消えるほど薄く。
しかし、自分にだけ分かるように。
それはもう、学院生のやることではない。
だがアルトの中では、当然の危機管理だった。
祭りは人を呼ぶ。
人が増えれば、気配も増える。
その分だけ、妙なものが紛れやすい。
そして実際、その探知に引っかかるものがあった。
妙な気配。
学院の結界に対しては、ごく自然に馴染んでいる。
いや、馴染みすぎていると言ってもいい。
搬入業者に見える。
祭りのための機材を運ぶ者たちの一部として、きわめて正しい位置を取っている。
だが、アルトの結界だけは、その気配の『質』に違和感を拾った。
人を装っている。
気配の消し方がうますぎる。
しかも、隠すことに慣れている。
業者風の服。
荷の扱い。
周囲に紛れる足運び。
見た目は完璧だ。
だが、その奥にいる何かは、学院の生徒でも、王都の商人でも、普通の裏方でもない。
アルトは目を細めた。
東の魔王の一派に属する、ある魔族の女性幹部。
その正体までは、さすがにまだ分からない。
アルトに分かるのは、『何か妙なものが入り込んでいる』という感触だけだ。
だがそれで十分、警戒する理由にはなる。
どうするか。
すぐに追うか。
学院側へ知らせるか。
それとも、もう少し泳がせるか。
アルトの中で、思考がいくつかの枝へ分かれる。
その時だった。
「アルト」
声がした。
振り返ると、そこにいたのはリュシアンだった。
彼は塔の上に来る途中で、かなり急いだのだろう。
息がほんの少しだけ上がっている。
だが、それを見せまいとして、むしろ余計に肩に力が入っていた。
「……こんなところにいたんだ」
「いた」
アルトは素直に答える。
「探したよ」
「そっか」
リュシアンは手すりの向こうを一瞬見て、それから少しだけ眉を寄せた。
「ここ、風も強いし」
「平気だけど」
「でも」
一拍。
「教室、戻らない?」
その言い方は、命令ではない。
お願いに近い。
だが、彼なりにだいぶはっきりしている。
アルトはそこで、ほんのわずかに思考を止めた。
妙な気配。
泳がせるかどうか。
追うかどうか。
だが今この瞬間、リュシアンはかなり真面目に自分を探してここまで来たらしい。
なら、とりあえず戻るか。
そう判断するあたり、アルトの中でもリュシアンの優先度はやはり高い。
「分かった」
あっさり言う。
「戻ろう」
リュシアンが、ほんの少しだけ安堵したように見えた。
二人は塔を下り始める。
石階段。
響く足音。
風の音が少しずつ遠ざかる。
アルトは表向き素直に従いながら、頭の中では別のことを考えていた。
どうすべきか。
あの妙な気配は、たぶん今すぐ危険を起こす類ではない。
だが、祭りの前から入り込む理由がある以上、何か目的がある。
しかも、学院の薄い探知を抜ける程度には手練れだ。
追うべきか。
観察を続けるか。
ルゼリアとの関連はあるのか。
いや、現時点ではまだ飛躍した思考だ。
だが、あの扉の前でのルゼリアの反応を思えば、無関係とも言い切れない。
変態的思考と危機管理が、いつものように混ざり合う。
教室に戻る頃には、アルトの顔はもう普段通りに静かだった。
だが内側では、細い警戒が続いている。
そして、その戻ってきたアルトを、密かに見ている視線があった。
ルゼリアだ。
彼女は教室の隅で、表向きは何でもない顔をしていた。
だが、アルトが戻ってきた瞬間、その視線がほんの少しだけ長く留まる。
塔へ上ったことも。
戻ってきたことも。
その間に何を見ていたのかも、彼女には分からない。
それでも、何かが少し動いたことだけは、彼女の感覚が拾っていた。
アルトも、その視線に気づく。
視線が交わる。
一瞬だけ。
それだけで、何かがまだ形になっていないまま、次に繋がる気配が生まれた。
事件になる。
と、アルトは思ったわけではない。
未来視を使ったわけでもない。
そこまで明確ではない。
だが、あの妙な気配と、ルゼリアの視線と、学院祭前の浮いた空気が、どこかで結びつく予感だけは、さすがに感じた。
静かな熱は、そろそろ形になる。
その一歩手前で、教室の中はいつも通りを装っていた。
話し声。
課題のやり取り。
祭りの準備の相談。
そして、その裏で細く張る緊張。
アルトは席に戻りながら、心の中でフィレイアへ報告した。
どうやら、また少し面倒なことが起きそうです。
たぶん彼女は、それを聞いたら、面倒そうに目を伏せるふりをして、結局は少しだけ楽しそうにこちらを見るのだろう。
そんなことを思いながら、アルトは教室の空気に溶け込む。
祭りの前の浮ついた空気の中へ。
まだ誰も、はっきりした名を持たない不穏と共に。




