第14話 静かな熱と、まだ名のないもの
季節が巡る頃には、空気そのものが少し変わっていた。
誰か一人が大きな声を出したわけではない。
目に見える事件が起きたわけでもない。
それでも、人の視線や足の向き、話しかける時の間の取り方といった、ごく小さなものの積み重ねが、もう最初の頃とは明らかに違う。
アルト・ヴァレインを中心に、だ。
もっとも、アルト本人は『中心にいる』つもりなどほとんどなかった。
彼の中では、あくまで学院生活に励み、実技と理論を磨き、フィレイアへ祈り、リュシアン育成計画を秘密裏に進め、ついでにモブヒロインたちの輪郭を堪能しているだけである。
十分におかしい。
だが本人としては大まじめだった。
そして、その『主人公代役計画』が、もはや自分一人の脳内で完結する類のものではなくなっていることに、アルトはまだ半分ほどしか気づいていなかった。
それはたとえば、教室に入った時の空気に出ていた。
以前なら、アルトが来れば視線が集まる。
それだけだった。
勇者家系の嫡流。
強く、博識で、顔も良い。
要するに分かりやすく目立つ存在として見られていた。
だが今は違う。
アルトが入る。
すると視線は集まる。
集まったあと、その視線はさらに動く。
誰を見るのか。
誰に声をかけるのか。
どこに熱を落とすのか。
そこまで含めて見られている。
そしてそれはつまり、アルトそのものだけではなく、アルトが気にかける者たちまで含めて、教室全体の注目の構図ができ始めているということでもあった。
リュシアンは、その中に一番深く巻き込まれていた。
最初は戸惑いだった。
どうして自分なのか。
なぜ見つけられたのか。
なぜ、ここまで教えられるのか。
その問いは今も消えていない。
だが、もう『分からないから怖い』だけでは済まなくなっていた。
アルトはリュシアンを選んだ。
しかも気まぐれではなく、明確に『素質がある』と言った。
逸材だと。
土台があると。
跳ねると言った。
その評価は、リュシアンの中でかなり深いところに刺さっている。
兄姉と比べられ、綺麗だが頼りない末っ子として見られやすかった彼にとって、自分の『まだ形になっていない可能性』をそこまで強く信じられる経験は、ほとんど初めてだった。
しかも、その言葉はただの励ましでは終わらない。
講義があり、助言があり、理解があり、結果が出る。
教わった直後に、自分の中で何かがきちんと変わる。
信じるしかない。
そうなる。
そして信じた先に、リュシアンは少しずつ、感情の居場所を失い始めていた。
学院の講義中でも、アルトの声がすると反応してしまう。
放課後の予定を考える時、アルトと会う可能性があるかどうかを無意識に数えている。
休日の訓練のあと、部屋に戻っても、話した内容よりむしろ表情や視線の方を何度も思い出してしまう。
それは、もう憧れだけではなかった。
だがまだ、名前をつけるには少しだけ早い。
早いが、もう次に向けて十分すぎるほどの熱は育っている。
リュシアン自身にも分かっていた。
自分は、落ちているのだ、と。
慎ましく。
静かに。
だが確実に。
そしてその変化は、周囲にも見え始めていた。
シャルロッテは、かなり意識している。
それはもう否定しようがない。
最初は単純な対抗心だった。
魔法理論で張り合うなら自分だろう、という自負。
それなのにアルトがリュシアンを選び、しかもそこに真剣に知識を注いでいる。
面白くない。
気に食わない。
なぜあの子なのか。
そうして噛みついた先で、シャルロッテは見てしまった。
アルトの観察の深さを。
リュシアンをどう見ているかを。
そして、自分の研究にも容赦なく触れられるだけの莫大な理論の蓄積を。
だから彼女の感情は、もはや単純な苛立ちではない。
嫉妬。
対抗心。
興味。
認めざるを得ない敬意。
それらが入り混じって、だいぶ扱いにくい何かになっている。
今のところ、彼女はそれを理性で押さえている。
だが押さえているからこそ、次に崩れる時は少し深くなるだろう。
レオノーラもまた、静かに熱を深めていた。
彼女は、最初から自分が『主役の位置に立つ者』であることをよく知っている。
だから、中心へ向けられる視線には慣れている。
慣れているからこそ、アルトのズレが余計に引っかかる。
自分が距離を詰めようとする。
空気を整える。
香りや振る舞いにさえ少し工夫する。
それなのに、アルトの視線は結局ミレナに落ちる。
しかも、その理由が安い好みではないのがまた厄介だった。
ミレナの支え方。
自分を下へ置いてしまう感じ。
そばかす。
そうした、中心の美ではなく半歩外側の美点を、アルトは本気で価値として見てしまう。
その事実を理解したからこそ、レオノーラの嫉妬は明確になった。
まだ高潔さを失ってはいない。
むしろ失わないだろう。
だが、高潔であることと、嫉妬しないことは別だ。
彼女はもう、かなりはっきり面白くないと思っている。
ミレナは、いまだに『なぜ私なのか』の渦中にいる。
ただし、その問いの質は変わった。
最初の頃は純粋な困惑だった。
どうして自分のような者に視線が来るのか。
何かの間違いではないのか。
レオノーラや他の子たちではなく、自分に言葉が落ちる理由が分からない。
だが今は、その問いが自己認識の根へ入っている。
私は本当に、ただ支えるだけの側なのだろうか。
私の気遣いや立ち位置は、本当に『ついで』みたいなものなのだろうか。
あの人があそこまで拾うなら、私の中にも何かあるのだろうか。
それは、ミレナにとって少し怖い問いだった。
自分を低く、穏当に、納得しやすい位置へ置くことで保っていた安定が、少しずつ崩れていくからだ。
だが、その崩れ方は悪いことばかりでもない。
自己肯定感の芽でもある。
だから彼女は困惑しながらも、アルトの言葉を無視しきれない。
セラフィナは、比較的分かりやすかった。
彼女は熱が表に出る。
悔しさも、嬉しさも、負けたくない思いも、顔と声に乗る。
最初は、変な褒め方をする気持ち悪い男、くらいの認識だったはずだ。
だが、剣を本気で交えたことで変わった。
アルトは、セラフィナの剣をきちんと見ていた。
努力の痕跡を。
徐々に『惜しい』域から抜けていく様子を。
届かなさの質を。
それを『良い』と言った。
しかも、ただの気持ち悪い褒め方で終わらせず、改善点も示した。
高みに届く可能性を、真顔で告げた。
それはセラフィナにとって、かなり強く効いている。
悔しい。
追いつきたい。
認められたい。
そして少しだけ、あの気持ち悪い賞賛を、次も聞きたい。
好意は、もうかなり育っていた。
それは剣士としての憧れと、少女としての熱が、きれいに混ざり始めた種類のものだ。
ルゼリアは、もっと静かに変わっていた。
彼女の中にある最初の感情は、ほとんど警戒だった。
魔力の異常さ。
視線の気持ち悪さ。
隅にいる自分を、正体ではない別の角度から見てくる危うさ。
だが図書室でのやり取りと、禁書庫の前での一件が、その警戒に別の色を混ぜた。
アルトは不気味だ。
それは変わらない。
だが、ただ暴こうとするのではない。
本好きとしての理解があり、在り方に触れてきて、血よりも何に大義を見出すかが大事だと言った。
それはルゼリアにとって、無視できない一言だった。
彼女はいま、アルトを『危険な相手』としてだけではなく、『自分の在り方を揺らす相手』として認識し始めている。
それはかなり大きい。
リディアは、少し違う位置にいた。
彼女は恋に近い揺れ方ではない。
むしろ理解者としての温度だ。
アルトが隅にいる者たちへ向ける眼差し。
その少し気持ち悪いほどの深さ。
自分もまた、助けを求める前に自分を引いてしまう人々に、放っておけない感情を向けてしまう。
その共通点が、聖堂での会話を通じて、かなりはっきりした。
だからリディアにとってアルトは、『変な人だけれど、分かる人』になっている。
それは今後、他の誰とも違う種類の関係に育つ可能性があった。
そして、その全部の中心にいるアルト本人はといえば。
相変わらずズレていた。
リュシアン育成計画は順調。
ミレナの支え方はかなり良い。
セラフィナの惜しさは順調に抜けつつある。
ルゼリアは本好きとして誇れる存在になれそう。
リディアとは愛でる対象について深く語れた。
だいたいそんな認識である。
つまり、『人の心をかなり巻き込んでいる』という最も重要な点だけ、まだ解像度が甘い。
もっとも、それを完全に理解してしまうと、逆にアルトらしさが少し減るのかもしれない。
彼はやはり、見えてしまうものを見て、良いと思ったものに熱を注ぎ、その結果として周囲の空気をひっくり返す男なのだ。
夕暮れ時、学院の回廊を歩きながら、アルトは窓の外へ目をやる。
空は少し赤い。
王都の屋根が連なり、その向こうに光が落ちていく。
学院の中も、どこか静かだった。
静かだが、冷めてはいない。
むしろ、静かだからこそ熱が見える。
視線。
ためらい。
言いかけて飲み込まれた言葉。
近づきたいのに近づき方が定まらない足。
そういうものが、いま学院のあちこちにある。
そしてそれらのかなり多くに、自分が関わっていることを、アルトはようやく少しだけ意識し始めていた。
……面倒だな、と思う。
思うが、嫌ではない。
むしろ、この面倒さの中にこそ、自分が見たかった輪郭がある気もする。
主役候補。
その半歩外側。
押しやられた側。
支える側。
熱だけが先にある者。
自分を低く置く者。
そして、それらすべてを巻き込みながら、ひとつの『物語の中心』が少しずつ形になっていく感じ。
リュシアン育成計画は、もう単なる計画ではない。
人の感情を巻き込み、視線を引き寄せ、周囲の立ち位置まで変え始めている。
つまりこれは、だいぶ物語だ。
アルトはそこで、ふと笑った。
フィレイア。
見ているか。
そちらから見ればたぶん、私はまた余計なことばかりしているのだろう。
だが、どうやら少しずつ、主役とモブと、その隙間の美しさが整ってきている。
そう心の中で報告しながら、アルトは歩く。
静かな熱を抱えた学院の夕暮れの中を。
そしてその背を、まだ名をつけきれない感情で見送る者たちが、もう一人や二人ではなくなっていることを、この時の彼は、やはり半分ほどしか理解していなかった。
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