第11話 禁書庫の扉の前で
アルトは図書室によくいた。
これは別に、学院生活へ馴染もうとする健全な努力というわけではない。
いや、健全と言えなくもないのだが、理由がだいぶ偏っている。
まず単純に、本が好きだった。
それもかなり極まっている。
司書お姉さんから始まり、フィレイアの蔵書で完全に熟成され、もはや『知識を得る』という目的だけでは説明しきれないところまで来ている。
本が置かれている空気。
本棚の並び。
紙の匂い。
綴じ方。
誰がどの棚の前で立ち止まり、どんな迷い方をするか。
そこまで含めて、本という存在を愛している。
そして今のアルトには、図書室へ通うもう一つの実利的な理由もあった。
リュシアン育成計画である。
アルトの中にある膨大な蔵書知識は、正直この世界の教育水準からすればだいぶ暴力的だ。
しかもそのまま使うと、リュシアンが『主役級の魔法使い』では済まず、何か別のもの――たとえば学会が解剖台に載せたくなる研究対象か、あるいは世界の理屈そのものに噛みつく災害予備軍みたいなもの――へ変貌する危険がある。
それは困る。
いや、少し面白そうではある。
だが困る。
主役候補として仕上げたいのであって、いきなり神話側へ滑り込ませたいわけではない。
だからこそ、アルトは『この世界のやり方から逸れすぎないための枠』として、学院図書室の参考書や理論書を見繕っていた。
実際のところ、彼がそれをどれほど参考にしているかと言えば、かなり怪しい。
読んではいる。
敬意もある。
だが、説明の土台へ自然に混ざる理屈の密度が、すでにこの世界のそれを大きく超えてしまっている。
それでも、本がある方がいい。
世界の常識の位置を確認するために。
そして何より、『リュシアンがまだ主役級の枠に収まっていられるように』するために。
そんなわけで、アルトは休み時間や授業のちょっとした合間にも図書室へ顔を出した。
顔を出す、という言い方は少し穏やかすぎるかもしれない。
時には亜空間魔法を軽く噛ませ、ほとんど抜け出すみたいに移動している。
本人の中では『時間を無駄にしないための合理的な近道』なのだが、まともな学院生の生活とはたぶん少し違う。
そして、そのたびに、アルトの意識の片隅にはルゼリアの存在があった。
図書室の隅。
棚の影。
窓際。
休み時間にはかなりの頻度で、彼女はそこにいた。
つまり、アルトの中ではいつの間にか、図書室へ行けばルゼリアもいる、という前提ができてしまっていたのである。
だいぶ気持ち悪い。
本人も、もし言語化されたらさすがに少しは引くだろう。
だが、現実としてそうなっているのだから仕方がない。
その日もアルトは、いつものように図書室へ来た。
リュシアン用の参考書を数冊引き抜く。
基礎理論の記述が素直なもの。
位階魔法を階段ではなく構造の連続として読み替えやすいもの。
詠唱と魔力回路の関係について、まだ致命的にズレていないもの。
棚を見終えた時点で、アルトは気づいた。
ルゼリアの気配がある。
だが、いつもの位置ではない。
アルトは、もはや探知というより空間感覚に近いレベルで、人の位置を察していた。
魔力探知を無意識にごく薄く広げ、そこへ匂いや空気の重み、気配の流れまで混ぜて、曖昧な空間情報の束から『誰がどこにいるか』を拾う。
変態的なレベルである。
探そうと思えば、相手がどこへ隠れていても、仮に亜空間でも、だいたい見つけられる。
そこまで来ると便利というより執念だが、アルトの中ではもうだいぶ自然な感覚になっていた。
その感覚が、ルゼリアの位置を示す。
生徒向けに開かれた棚ではない。
もっと奥。
図書室の裏手。
普段は資料室か閉所管理室のように扱われている、鍵のかかった扉の前。
アルトはそこで、少しだけ目を細めた。
禁書庫か。
表向きは何でもない扉だ。
だが、空間把握の感覚でなぞれば分かる。
あれは地上階のごく一部に繋がるだけではない。
さらに地下深く、重厚な本と記録が大量に眠る空間まで続いている。
実を言えば、アルトはもう中に入ったことがある。
しかも一度や二度ではない。
亜空間魔法で位置をずらし、扉や鍵そのものを正面から開けることなく侵入し、中の気になる本や資料はだいたい読んでしまっている。
その中には学院内部の情報も多かった。
学院と縁の深い血筋の致命的な記録。
どの家系が、どの段階で魔族の混血になったか。
領内でも秘匿された住居の位置。
魔王と裏でどう契約し、侵攻や従属を免れてきたか。
そういった、洒落にならない情報には何重にも封印が施されている。
つまり、ルゼリアがいま立っている扉の向こうは、かなりまずい。
アルトはそこで、完全に魔力を遮断した。
呼吸も気配も落とし、ギリギリまで背後から様子をうかがう。
理由は二つあった。
一つは単純な探求心だ。
ルゼリアがどんな本を読みたがるのか。
あれほどの本好きが、ついにどこまで手を伸ばすのか。
それを知りたい。
もう一つは、リスペクトである。
急に話しかけて図書室ライフを邪魔したくない。
本の前の人間には、本の前の時間がある。
そこを乱暴に断ち切るのは、フィレイアの蔵書で育った者として、あまりにも野暮だ。
そうして静かに見ていると、ルゼリアは一瞬だけ周囲を確認した。
警戒。
慣れている。
しかも、ただ『怒られたくない』といった警戒ではない。
もっと深い。
逃げ道と、気配の死角と、反応の遅い時間を測る目だ。
そして彼女は、袖の内側から一枚の札を取り出した。
解呪符に見えた。
だがアルトの知識と感覚では、それは単純な解呪ではなかった。
もっと危うい。
魔法そのものの構造を少し改変し、鍵に施された術式へ無理やり別の意味を上書きするタイプの呪具に近い。
使えば、扉は開くかもしれない。
だが同時に、学院全体へ薄く張り巡らされた探知結界に、確実に引っかかる。
それは常人には知覚不能なほど微弱で、しかも高度だ。
下手にいじれば、必ずどこかに波が立つ。
もし今ルゼリアがそれを使えば、表向きには『本が好きすぎて禁書庫へ手を出してしまった可哀そうな少女』で済むかもしれない。
済むが、それで終わるとも思えない。
アルトは複雑な気持ちになった。
禁書庫へ手を出した本好き。
身に覚えがありすぎる。
正直、気持ちは分かる。
かなり分かる。
だからこそ止めなければならないのが、また辛い。
嫌われるかもしれない。
というか、たぶん嫌がられる。
だが、これは学院生的にまずい。
アルトはそこで、ため息を飲み込み、声をかけた。
「それ」
ルゼリアの肩が跳ねた。
「使うと、たぶん面倒なことになる」
今までで一番、彼女は鋭く振り返った。
目が違う。
警戒というより、反射的な臨戦態勢に近い。
さっきまで静かに本を求めていた少女の顔ではない。
アルトは内心で少しだけ焦った。
まずい。
思った以上に強く出た。
やはりこれは、ただの図書室破りではない。
「……何をしているの」
ルゼリアの声は低かった。
「何って」
「あなた」
彼女は札を袖の中へ戻しながら、しかし体勢は解かない。
「ずっと見ていたの?」
「いや」
アルトは少し言葉に詰まる。
「最後の方だけ」
嘘ではない。
『最後の方』がどの程度を指すかはだいぶ怪しいが。
「……何の用」
「いや、その」
アルトは珍しく、本気で少し弁明めいた声になった。
「本が好きなのは分かるけど」
「……」
「それはさすがに学院生として危ないだろ」
「……は?」
ルゼリアはそこで、ほんのわずかに表情を止めた。
あれ。
この男、何を勘違いしている?
警戒の中へ、一瞬だけ別の戸惑いが混じる。
アルトは続けた。
「禁書庫だろ、そこ」
「……」
「本好きが講じて手を出したくなる気持ちは、まあ、分からなくもないけど」
「……」
「学院全体の探知に引っかかると思う」
「……あなた」
「だから」
アルトはやや早口になる。
「別に咎めるつもりじゃなくて」
「……」
「ただ、やるならもうちょっと――」
そこで自分で気づいて、口を止める。
やるなら、は良くない。
「いや、やらない方がいいけど」
「……」
ルゼリアは、そこで初めて、彼が本気で勘違いしていることに気づいた。
この男は、自分が禁書庫へ侵入しようとしている理由を、『本が好きすぎるから』だと思っている。
もちろん、それはそれで図星の一部ではある。
ルゼリアは本が好きだ。
知識に飢えている。
この扉の向こうにあるものを読みたい気持ちも、本物だ。
だが、それだけではない。
それを知られたら終わるはずなのに、アルトはそこに一切触れていない。
ただ、本好きの同志を止めに来たみたいな顔をしている。
少しだけ、警戒が緩んだ。
「……あなた」
ルゼリアは静かに言う。
「何を知っているの」
「禁書庫だってことくらい」
「……それを、どうして」
「まあ」
アルトは曖昧に言葉を濁した。
「分かるだろ」
分かるわけがない。
ルゼリアはそう思う。
だが、彼がそれより踏み込んでこない以上、問いを深めるのも危うかった。
ただ、その警戒が少しだけ緩んだ瞬間、アルトはまた余計なことを言った。
「さっきの反応」
「……」
「やっぱり、人族と魔力の流れが違うな」
「――っ」
ルゼリアの警戒が、今度は一気に跳ね上がった。
しまった、とアルトもさすがに思った。
だが、もう遅い。
ルゼリアの瞳が、先ほどとは比べものにならない鋭さを帯びる。
逃げるか。
黙らせるか。
その一歩手前まで、反応が張る。
アルトは両手を軽く上げた。
「違う」
「何が」
「暴くつもりじゃない」
「……」
「ただ、綺麗だと思っただけで」
「……は?」
最悪である。
だが、アルトは本気だった。
「人族の魔力って、だいたい回路から先に整うだろ」
「……」
「でも君のは、もっと奥から湧く」
「……」
「構造が先にあるんじゃなくて、脈みたいに生まれて、それが後から形を取る感じ」
「……」
「かなり美しい」
「……」
「あと、少しだけ重い」
「……」
ルゼリアは、若干圧倒されていた。
言っていることの半分くらいは気持ち悪い。
さらに半分くらいは、妙に正しい。
しかも、『魔族だから危険だ』ではなく、魔力の流れそのものを理論として捉え、その上で美しいとまで言う。
そんな人族は、少なくともルゼリアの知る限り一人もいなかった。
アルトはそこで、ようやく少しだけ息を整えた。
「別に」
「……」
「血がどうとか、そういう話をしたいわけじゃない」
「……」
「人族社会で、そういうのが危ういのは分かってる」
「……」
「でも」
そこでアルトは、扉ではなくルゼリア本人を見る。
「大事なのは、自分が何に大義を見出すかだろ」
ルゼリアが、ぴくりと反応した。
アルトは続ける。
「血とか、出自とか」
「……」
「そういうのもあるだろうけど」
「……」
「最後にどこに立つかは、自分で決めるしかない」
「……」
「何を推して」
「……」
「何のために死ねるかの方が、たぶん大事だ」
最後の一言には、だいぶ平助が出ていた。
変態性由来の人生観である。
何を推し、そのためにどう死ぬか。
そこに美がある。
かなり危ういが、本人としては大まじめだ。
もちろん、アルトはルゼリアの家の事情など知る由もない。
高貴な魔族の血筋。
東の魔王ヴァルジアの名の下に、人族社会に紛れ込まされている間者。
人族の有効活用よりも、滅ぼすことを優先する過激派に目をつけられた一族。
そんなものは知らない。
知らないまま、ただ『この少女が何かに縛られている』気配だけを嗅ぎ取って、そこへ言葉を落とした。
だが、その無自覚な言葉は、ルゼリアの胸の奥にひどく深く入った。
まるで、自分の境遇を言い当てられたみたいだった。
血。
役目。
従属。
家。
東の魔王。
過激派。
そうした思考の濁流が、彼女の内側で一気に渦を巻く。
誰かにそんなことを言われるとは思っていなかった。
しかも、人族の少年に。
しかも、あまりにも変で、気持ち悪くて、それなのに本質だけを妙に掬うこの男に。
ルゼリアは、その場で立ち尽くした。
アルトはそれ以上は踏み込まなかった。
踏み込みすぎれば壊れる。
そこまではさすがに分かる。
だから、最後にごく軽く言う。
「本好きの同志として」
「……」
「誇れる存在であろう」
それだけ残して、彼は去った。
去り際も妙だった。
気配が軽い。
足音も薄い。
図書室へ戻るのか、別の場所へ移るのか、そのまま空気に溶けるみたいに離れていく。
しばらくして、ルゼリアはようやく自分の手元に意識を戻した。
そこにあるはずだった呪符は、なかった。
代わりに、一枚の小さな紙片が指の間に挟まっている。
王都で少し話題になっている氷菓の店の割引券だった。
ルゼリアはそれを見て、しばらく完全に無言になった。
何なんだ、あの男は。
不気味だ。
気持ち悪い。
警戒すべきだ。
なのに、いま自分の中に残っている感情は、それだけではない。
自分の在り方そのものに触れてきた。
血ではなく。
役目でもなく。
『何に大義を見出すか』。
それは、無視できない。
ルゼリアは割引券を見つめ、やがてそれをそっと袖の内へしまった。
禁書庫の扉は、もう見なかった。
代わりに、彼女の中で一つだけ確かなことが増える。
アルト・ヴァレインは、もはや『不気味なだけの相手』ではない。
自分の在り方そのものを揺らしに来る、無視できない相手だ。
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