第10話 香りと視線と、なぜ私なのか
学院に入ってしばらく経つと、人の視線というものは少しずつ質を変える。
入学時のそれは、単純な興味だった。
勇者家系の嫡流。
顔立ちの整った少年。
話題性のある新入生。
そういう、看板に対する視線。
だが、学院生活が進むにつれ、アルト・ヴァレインへ向けられる眼差しは、もっと具体的なものへ変わっていった。
魔法理論の異様な深さ。
実技で見せる、年齢に見合わぬ完成度。
教師ですら一目置く知識と弁舌。
そして何より、本人はまるで意識していないらしいのに、歩くだけで人目を引くあの妙な落ち着き。
羨望。
尊敬。
少しの畏れ。
そういうものが混ざり始める。
当然、レオノーラたちのような『主役の側に立つ者』も、それを意識しないわけがなかった。
とくにレオノーラは、かなりはっきりとアルトを意識し始めていた。
もっとも、それは決して露骨なものではない。
彼女はあくまで、正当で高潔な貴族の令嬢である。
不必要に着飾ることも、はしたなく媚びることも、本来の彼女の流儀にはない。
だが、そこは貴族でもある。
観察し、分析し、最も効果的な一歩を選ぶことはできる。
アルトが、あまりにも華やかに整えた女性を好まないらしいこと。
むしろ、少し控えめで、飾りすぎず、自然さの中に立ち居振る舞いの美しさが出る者へ目を向けやすいこと。
それは、ここまでの学院生活で十分見えていた。
だからレオノーラは、少しだけ香りを変えた。
強い香水ではない。
近くへ寄った時にようやく分かる程度の、清潔でやわらかな香り。
服装も、学院規定の範囲を崩さないまま、ほんの少しだけ硬さを抜く。
さらに悪いことに、ミレナを参考にするところまで行っていた。
庶民的というほど崩れない。
だが『いかにも名家の令嬢』と見える重さを、少しだけ引く。
慎ましさ。
支え方。
引き算の仕方。
それらを、レオノーラは高い品位を保ったまま、自分の中へ取り込もうとしていた。
かなり本気である。
しかし、そこまでしてなお、アルトの変態的審美眼にかなうのは、やはり本質的な『モブヒロインの立ち居振る舞い』だった。
つまり、意図して作られた慎ましさではなく、生活や自己認識の結果として滲み出る半歩引いた在り方。
そこを、アルトはどうしても見逃さない。
救いがない。
その日もそうだった。
きっかけは、食事会に近い交流の場だった。
学院内で、数人単位の共同課題が組まれ、その流れで昼食を兼ねた軽い打ち合わせが設けられる。
そこにはレオノーラ一派もいて、アルトも当然のように組み込まれていた。
以前なら、そこへ勇者家系の嫡流を招くこと自体が少し特別だっただろう。
だが今となっては、アルトがどこかの中心的な集まりへ顔を出すこと自体は、さほど珍しくない。
問題は、その場で何を見るかである。
学院の一室。
長机。
食事の包み。
課題用の紙束。
数人分の席。
そして、その空気の中心に、レオノーラがいる。
よく整えられていた。
香り。
姿勢。
言葉の置き方。
前へ出すぎない笑み。
以前よりほんの少しだけ柔らかくなった雰囲気。
アルトはそれに気づいていた。
気づいてはいたのだ。
だからといって、そこへ心が動くかというと、また別の話である。
レオノーラが課題の話題を切り出す。
誰がどこを受け持つか。
どう分担すれば効率がいいか。
その仕切り方も上手い。
押しつけがましくない。
けれど自然に場の主導を握る。
さすがだな、とアルトは素直に思った。
そして次の瞬間、その主導があまりにも滑らかに成立している理由の一端へ、またしても目が行ってしまった。
ミレナである。
ミレナは、今日も相変わらず『支える側』として優秀だった。
レオノーラが話し始めるよりほんの少し先に、必要な紙が行き渡る位置に置かれている。
水差しも、誰が手を伸ばしやすいかを考えた位置にある。
食事の包みの開きやすさまで、何となく整えられている。
しかも本人は、その全部を『自分がやっている』顔でやらない。
ごく自然に。
誰かの動きの隙間へ、自分の手を差し込むように。
気づけば場が楽になっている。
良い。
非常に良い。
どうして、そんなに自然に、主役の周囲の空気を整えられるのだろう。
しかもそのことを、自分の価値として数えていない感じが、また危険だった。
アルトは話を聞きながら、もう半分くらいミレナの手元を見ていた。
ミレナがそれに気づかないはずがない。
いや、気づきたくなかったと言うべきかもしれない。
また、だ。
また見られている。
しかもレオノーラと話している最中に。
どう考えても、自分よりレオノーラの方が見られるべき場面なのに。
ミレナは、正直かなり困っていた。
どうして私なのか。
それが、いまだに本気で分からない。
彼女は自分を『中央に立つ側』だとは思っていない。
むしろ、そうでないことをきちんと理解している。
華やかなのはレオノーラだ。
周囲の目を引くのも、言葉を拾うのも、中心にいるのは彼女だ。
自分はその隣で、できることをしているだけ。
それなのにアルトは、そういう『だけ』の部分ばかり見つける。
困る。
そして困ると同時に、そのせいで自分の中の何かが揺らぐ。
私は、本当にただの『だけ』なんだろうか。
そんな問いが、少しずつ生まれ始めていた。
課題の話は、一見すると順調に進んでいた。
レオノーラが提案する。
シャルロッテが理論面の補足を入れる。
リディアが抜けを補う。
アルトも、求められれば必要な意見は返す。
その『必要な意見』の精度が相変わらず高すぎるので、場の数人は軽く沈黙したりもする。
だが、それでも空気は保たれていた。
保たれていたのだが、アルトが口を開いた瞬間、やはりズレた。
「その分担だと」
彼は紙に目を落としながら言う。
「多分、ここで一回詰まる」
「どこかしら」
レオノーラが自然に問う。
「たぶん」
アルトは顔を上げた。
「ミレナがいないと、途中で回らなくなる」
止まった。
またしても、である。
レオノーラでもなく。
シャルロッテでもなく。
リディアでもなく。
ミレナだ。
「……え?」
ミレナ本人が、見事に固まる。
「わ、私?」
「うん」
アルトは本気で不思議そうだ。
「今もそうだけど」
「……」
「全体が回ってるの、君が細かいところを拾ってるからだろ」
「……」
「紙の順番とか」
「……」
「話の流れが偏らないようにしてるのとか」
「……」
「そういうのが抜けると、たぶん途中で止まる」
あまりにも具体的だった。
見ている。
しかも、本当に細部まで。
ミレナが自分で『取るに足らないこと』として処理していた部分を、アルトは一つずつ価値へ変換してくる。
ミレナの胸が、妙にざわつく。
「そんな……」
否定しようとする。
だが、言い切れない。
実際にやっているからだ。
無意識に。
誰にも言われず。
勝手に。
アルトはそこで、やめればいいのにさらに踏み込む。
「君、たぶん」
「……」
「自分で思ってるより、場を支えるの上手いよ」
「……っ」
ミレナの頬が、また赤くなった。
嬉しいのか。
困っているのか。
恥ずかしいのか。
たぶん全部だ。
一方、そのやり取りを真正面から受けたレオノーラの胸の中では、ついに嫉妬がはっきり形になり始めていた。
また、だ。
またしても、アルトはミレナを拾う。
自分が距離を詰めようとしている場で。
香りも、振る舞いも、言葉の選び方も、かなり意識したこの場で。
それなのに視線は、結局ミレナの支え方へ落ちる。
面白くない。
今度は、かなりはっきりそう思った。
もちろん、レオノーラは品位を崩さない。
その場で顔をしかめたり、声を荒げたりはしない。
だが、手元のカップへ触れる指先が、ほんの少しだけ強くなる。
そして、微笑みを保ったまま、アルトに問いを落とした。
「あなたは」
声音は穏やかだ。
「本当に、よく見ているのね」
アルトはそれを、ただの感想として受け取る。
「まあ」
「……」
「見えるから」
その返しが、また腹立たしいほど自然だった。
ミレナはますます困る。
レオノーラはますます面白くない。
シャルロッテは横で、ああやっぱりこの男はどこかおかしい、と半ば確信している。
リディアは静かに空気の揺れを感じている。
周囲の何人かも、もう薄々理解し始めていた。
アルト・ヴァレインは、たぶん本当にこういう男なのだ。
分かりやすい華やかさや正面の中心より、その周囲を支えている者や、半歩引いた位置にある美点ばかり拾ってしまう。
ズレている。
だが、そのズレはたぶん偶然ではない。
それが、だんだん確信へ変わりつつあった。
その後、場はどうにか共同作業としての形を保った。
だがミレナの内側は、最初より確実に揺れていた。
どうして私なのか。
その問いは、少しずつ形を変えている。
どうして私なんだろう、ではなく。
私に、そんなふうに見られるものが本当にあるんだろうか、へ。
それは自己肯定感を少しだけ押し上げる問いでもあり、同時に、その土台を揺らす問いでもあった。
自分を『支えるだけの側』として安定させていた認識が、アルトの言葉によって少しずつ崩されていくからだ。
一方でレオノーラは、その揺れを見てしまった。
ミレナが、本気で困惑していることも。
困惑の中に、ほんの少しだけ嬉しさが混ざっていることも。
その事実が、余計に面白くない。
だから、帰り際、彼女はついにアルトへ直接、しかしあくまでそれとなく問うた。
「あなたは」
廊下へ出る直前。
「どうして、そこまでミレナを気にかけるの?」
それは、かなり直接的な問いだった。
アルトは足を止める。
少し考える。
だが、考えたからといって、平助の変態性がまともな答えを返すわけではない。
「気にかけるっていうか」
「……」
「かなりいいから」
「……何が?」
「支え方が」
「……」
「あと、自分を下に置いてる感じも」
「……」
「そばかすも、すごくいい」
ミレナが、その場で固まった。
レオノーラは一瞬、無言になった。
シャルロッテは横で顔をしかめ、リディアは少しだけ目を見開いた。
駄目だ。
本当に駄目だ。
止まることがない。
問いを向けられても、アルトの変態性はそこを抑制できない。
しかも全部本気だ。
本気だから余計に性質が悪い。
「……そう」
レオノーラは、どうにかそれだけ返した。
笑顔は保っている。
だが、今度ばかりはその奥にある嫉妬が、かなり明確だった。
ミレナは頬を真っ赤にし、もはやどこを見ればいいのか分からなくなっていた。
そんなところまで見られている。
しかも、それが価値として語られてしまう。
嬉しい。
困る。
怖い。
少しだけ、自分というものの輪郭が揺らぐ。
アルトはそこまでの感情の波は、きっちり読み切っていない。
ただ、今日もまた、見えたものをそのまま言葉にしただけだ。
それがどれほど周囲の空気を掻き回しているかを、半分くらいしか自覚しないまま。
そしてその無自覚さごと、周囲の少女たちは、ますます彼を意識せざるを得なくなっていく。
学院の中心は光っている。
だが、その中心へ向かうはずの少年は、徹底して半歩外側ばかりを見ている。
その異様さは、もう誰の目にも明らかだった。
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