第9話 なぜあの子なのか
学院の講義にはときどき、思いがけず幸福な時間が紛れ込む。
それが高度な魔法理論の講義であり、なおかつ担当が、眼鏡をかけ、少しタイトな装いをきっちり着こなし、つり目ゆえに若干怒って見える女教師であれば、なおさらである。
平助は、そういう種類の『若干怒って見える女教師』に弱かった。
別に本気で怒られたいわけではない。
たぶん。
少なくとも本人の申告としてはそうだ。
ただ、理知的に張った声と、感情を大きく揺らさずに場を制御する所作と、そこへ少しタイトな衣装が加わると、どうしても視線がそちらへ行く。
もちろん、講義内容そのものも興味深かった。
その日の題材は、属性魔法の相対性と、異なる属性同士の連続性。
火と風、水と氷、土と金属、光と熱、そうした『別物とされがちな属性』が、実際にはどこで連続し、どこで位相的に分かれるのか。
この世界の魔法学としては、かなり良い講義だった。
女教師は黒板に属性円環に近い図式を書きながら、言葉を積んでいく。
「火と風は補完関係にあるとされがちですが、それは現象面から見た話です」
眼鏡の奥の目が、教室を軽く走る。
「構造把握の段階では、むしろ両者は『媒質への干渉率』に差があるだけで、術式上の橋渡しは難しくありません」
いい。
とてもいい。
声の抑え方がいい。
断定の置き方もいい。
そして、指で黒板を示す時、やや肩より先に手首が出る癖がある。
理論を自分の中で一度完全に組み立ててから人へ渡すタイプの人間に見られる、あの無駄のない手首の返しだ。
良い。
しかもほんの少しだけ、黒板へ向き直る時の足運びが速い。
たぶん本人はせっかちなのだ。
知識を外に出す時だけ、そのせっかちさを『講義の進度』として上品に変換している。
たまらない。
もちろん平助は、その女教師の立ち居振る舞いだけを味わっていたわけではない。
ちゃんと講義も聞いている。
それどころか、かなり熱心に聞いていた。
属性の連続性。
相異なるものを、分断ではなく相対的な傾斜として見ること。
それはアルト自身の魔法観とも相性がよかった。
世界の側が『位階』や『属性』として切り分けて認識しているだけで、実際には多くのものは連続した構造の上にある。
その感覚は、彼の中ではかなり深いところで自然なものだった。
女教師も、その熱心さには早い段階で気づいていた。
アルトは分かりやすい。
無表情に近い時でも、興味のある講義では目が熱を持つ。
それは教師として見れば、ひどく好ましい反応だった。
しかもこの学院で何かと話題の男子生徒である。
勇者家系の嫡流。
入学早々、やたらと注目を集めている。
そのアルトが、講義の最中だけは本当に素直な顔でこちらを見ている。
少し、意見を聞いてみたくなった。
「では」
女教師がそこで黒板から身を離す。
「アルト・ヴァレイン」
教室の視線が集まる。
「あなたは、いまの話をどう受け取ったかしら」
名指し。
教室の空気がわずかに動いた。
さすがに少しざわつく。
教師が、生徒へ。
しかも初等講義の場で、あえて意見を求める。
それ自体はありえないことではない。
だが、相手がアルトだと、そのざわつきは少し特別なものになる。
アルトは立ち上がった。
自然に。
気負いもなく。
その立ち方がすでに妙に整っている。
「相対性の話として聞くなら」
彼は淡々と言った。
「属性の切り分けそのものが、人間側の理解の都合に寄りすぎてると思います」
最初の一言で、何人かの生徒が息を呑んだ。
大きい。
しかも、ただ目立つための言い方ではない。
論の入口としてかなり正しい。
「火と風」
アルトは続ける。
「あるいは水と氷を、別の属性として認識するのは、現象が違って見えるからです」
「……」
「でも、術式構造の側から見れば、差はたいてい『どこまで干渉するか』と『何を媒体に選ぶか』に寄る」
「……」
「つまり、属性は絶対的な箱じゃなくて、世界へ触れる時の指の角度の違いみたいなものだと思います」
教室が静まり返る。
平助はこの時点で、すでに宮廷魔法師も顔負けの理論を、息をするように話していた。
本人にその自覚は薄い。
ただ講義の続きとして、見えている構造を素直に言葉にしているだけだ。
だが、聞いている側は違う。
教師も。
生徒たちも。
とくに魔法に自負のある者たちは、いま目の前で行われていることの異常さを、本能的に察していた。
アルトはさらに続ける。
「だから、異属性の複合が難しいのは、属性が別物だからというより」
黒板の図を見ながら、
「術者の側で『別物だ』と固定しすぎてるからだと思います」
「……」
「固定が強すぎると、連続部分が見えなくなる」
「……」
「さっき先生が仰った『媒質への干渉率』の差、あれはかなり本質的です」
「……」
「たぶん、そこをもっと押し広げれば、相反属性扱いされてるものの一部も、実際には連続として扱えるはずです」
女教師の眼鏡の奥の目が、ほんの少しだけ揺れた。
理解している。
しかも、表層ではない。
構造の手前から。
それも、この年齢で。
教室の生徒たちは、もはや呆気にとられていた。
アルトが博識なのは、なんとなく感じていた。
だが、ここまでとは思っていない。
理論の深さ。
弁舌。
整理された言葉。
そして何より、魔法知識を『覚えたもの』ではなく『構造から把握している』話し方。
その裏付けを、いま初めて真正面から見せられていた。
そして悪いことに、アルトはここで止まらなかった。
「それに」
彼は女教師の方へ視線を戻した。
「先生の解説は、その連続部分を『理論として』じゃなく、『感覚として飲み込めるところ』まで落としてるのがすごくいいです」
女教師がわずかに瞬いた。
「……そうかしら」
「はい」
アルトは真顔だ。
「属性を切り分ける理由を先に否定しないで、でもその境界が曖昧になる瞬間だけをちゃんと拾ってる」
「……」
「その話し方、多分ですけど」
「……」
「先生自身、理論を一回全部骨組みで理解してから、人に渡す時だけ言葉の温度を下げてますよね」
「――っ」
さすがに、女教師の頬が赤くなった。
言われた内容そのものもそうだが、そこに『話し方の癖』まで言及されたのがいけなかった。
しかもアルトは止まらない。
「黒板へ戻る時、少しだけ歩幅が速くなるのも」
「アルト・ヴァレイン」
女教師が、やや強めに名を呼ぶ。
だが声の張りには、怒りより明らかに照れが混じっていた。
「それ以上は講義と関係ないわ」
「でも、関係はあると思います」
「ないの」
「……はい」
そこで引くあたり、一応の理性はあるらしい。
だが、教室の空気は完全に妙な方向へ転がっていた。
教師は赤面している。
生徒たちは口を開けている。
アルト本人だけが、ああやはり今の赤面も良いな、と内心でかなりよろしくない満足感を抱いている。
平助の変態性は、今日もまた健在だった。
講義が終わると、女教師はアルトを呼び止めた。
教壇の脇。
まだ余韻の残る教室。
周囲の生徒たちが、荷物をまとめるふりをして耳をそばだてている。
「ヴァレイン」
「はい」
「あなた、王都の研究機関に興味はない?」
教室の何人かが、はっきりと反応した。
当然だろう。
それはかなり具体的な推薦の匂いだった。
しかもまだ学院に入ったばかりの段階で。
女教師は、眼鏡の位置を軽く直しながら続ける。
「今の年齢で、あそこまで構造から話せる子は珍しいわ」
「……」
「実技だけでなく、理論研究の方へ進めば、早くから道が開けると思う」
アルトは、一瞬だけ考えるふりをした。
実際には、答えはもう決まっている。
「ありがたいですけど」
彼は淡々と言う。
「僕は、たぶん冒険者志望なので」
また教室がざわつく。
女教師が眉を上げる。
やや怒って見えるその顔が、また少し良い。
と平助は思うが、さすがに口には出さない。
「研究より、実技を磨きたい」
アルトは続ける。
「それに」
「……?」
「多分、すぐに片鱗を見せる生徒がいます」
「……」
「その時は、その子に勧めてください」
女教師には、何のことだか分からない。
だが、アルトの顔に妙な確信がある。
しかもそれが安い大言壮語ではなく、何か深淵な考えの上にあるように見える。
彼女は結局、深くは問わなかった。
問わないまま、どこか機嫌のよさそうな、しかし少し困ったような顔で教室を去っていく。
その背を見送りながら、シャルロッテはついに我慢が利かなくなった。
彼女はアルトへ向かって歩み寄る。
まっすぐ。
迷いなく。
そこにあるのは、対抗心と興味と、少しの苛立ちだった。
「少しいいかしら」
アルトが振り返る。
「いいよ」
その返しがまた自然すぎる。
シャルロッテは内心で少しだけ歯噛みした。
もっと身構えてほしい。
あるいは、自分へ向ける視線に、もう少し特別さがあってもいいはずだ。
「さっきの理論」
彼女は言う。
「面白かったわ」
「そうかな」
「ええ」
少しだけ前のめりになる。
「あなたの見方は、少なくともこの学院の水準を超えている」
「……」
「私の研究にも、少なからず接続できると思う」
「そうかもな」
「なら」
ここで、彼女はほんの少しだけ声を落とした。
「意見を聞かせてくれない?」
「研究の?」
「そうよ」
「……」
「できれば、関わってもらっても構わない」
それは、シャルロッテなりの最大限だった。
魔法について語り合う相手。
自分の理論へ口を挟める相手。
本来なら、そういう位置に置くべきはリュシアンではなく自分だと、彼女はかなり本気で思っている。
アルトはそこで、少しだけ考えた。
シャルロッテの研究には、実際、多少の関心があった。
彼女の尖りは本物だ。
発想も悪くない。
だから、簡潔に意見を返す。
「君の研究、位相干渉を局所で閉じようとしてるだろ」
シャルロッテの目が見開く。
「……見ただけで分かるの?」
「方向性は」
アルトはさらりと言う。
「でも、閉じるんじゃなくて、半開きのまま別媒体へ逃がした方が多分安定する」
「……っ」
シャルロッテが一歩前へ出る。
「それは、どういう」
「構造がぶつかる前に」
アルトは指で空中へ軽く線を描く。
「ぶつかる予定の圧を、別の位相へ少しだけ寝かせる」
「……」
「完全遮断しようとするから歪む」
「……それ、でも」
「術者の回路側に余白がないと無理」
「……」
「君なら、たぶんいける」
そこまで言われて、シャルロッテは完全に前のめりになっていた。
知っている。
分かっている。
この男は、やはり自分が話すべき相手だ、と。
その確信が、胸の奥で熱を持つ。
「なら、なおさら」
シャルロッテは声を整える。
「研究に――」
「関われない」
アルトは静かに言った。
その一言で、シャルロッテの顔が止まる。
「……どうして」
「女教師にも言ったけど」
アルトは肩をすくめた。
「冒険者志望だから」
「……」
「研究を軽んじてるわけじゃない」
「……」
「でも今は、実技を磨きたい」
「……」
「それに」
そこでアルトは、ごく自然に言った。
「やることが、目の前にある」
シャルロッテは、その『目の前にある』が何を指すのか、すぐに察した。
リュシアンだ。
あの、綺麗で、少し頼りなく見える名門の末っ子。
先ほど女教師の推薦まで退けて、アルトが『すぐに片鱗を見せる生徒』とまで言った相手。
そこに繋がった瞬間、シャルロッテの中で何かが小さく震えた。
怒り。
あるいは、それに近いもの。
あまりにも小さい。
だが、本人には分かる。
指先の奥、あるいは息の止まり方に、はっきり出る。
「……アルヴェール家の末子、なのね」
ついに、口にしてしまった。
アルトは一歩、立ち去りかけて止まる。
振り返る。
「なぜ」
シャルロッテは、今度はごまかさなかった。
「なぜ、あの子なの」
教室の空気がまた少し張る。
まだ数人、残っている。
荷物をまとめながら、耳をそばだてている。
そして、廊下の角の向こうにも、もう一人いた。
リュシアンだ。
本当は戻るつもりだった。
忘れ物でもしたのか、あるいはただ少しだけ、アルトの方が気になって足が止まったのか。
そこまでは自分でも分からない。
だが、シャルロッテの問いが聞こえた瞬間、その場に凍りついた。
どうして、あの子なのか。
自分のことだ、と分かる。
アルトは、それに対して、あまり迷わなかった。
「素質があるから」
「……」
「逸材だよ」
「……どこが」
シャルロッテの声には、もうかなり明確な熱が混じっている。
アルトはそこで、軽く息を吐いた。
そして、やめればいいのに、語り始めてしまう。
リュシアンがいかに逸材かを。
「まず、吸収が異常に速い」
「……」
「一つ言うと十に伸びる」
「……」
「自己評価の低さで回路が細ってるだけで、土台はかなり綺麗だ」
「……」
「しかも、素直だ」
「……」
「変な自尊心で構造をねじ曲げない」
「……」
「詰まってる場所が明確だから、そこを抜けば跳ねる」
「……」
「あと、何より」
アルトの声に少し熱が乗る。
「自分で気づいてないのがいい」
シャルロッテは、一瞬、何も言えなくなった。
圧倒されたのだ。
そこまで見ているのか、と。
そこまで、細部を。
しかも、その観察が単なる好悪ではなく、ちゃんと理論と育成の目線で貫かれている。
気持ち悪い。
だが、否定できない。
この男は本気で、リュシアンをそう見ている。
一方、廊下の角でそれを聞いてしまったリュシアンは、もう限界だった。
しゃがみ込む。
その場で、床へ膝をつく。
両手で顔を覆う。
熱い。
恥ずかしい。
信じられない。
でも、嬉しい。
逸材。
素質。
土台が綺麗。
跳ねる。
そんなふうに、自分のことを見ていたのか。
涙が出た。
声は出さない。
出せない。
あまりにも恥ずかしくて、あまりにも嬉しくて、胸の奥が焼けるみたいに熱い。
どうしようもなく、落ちていく。
アルトの言葉の中へ。
その熱の中へ。
教室の方では、シャルロッテがようやく息を吐いた。
「……分かったわ」
悔しそうでもあり、納得しきれなくもあり、しかし完全には否定できない声。
「ひとまず、アルヴェールについては保留にする」
「そう」
「でも」
彼女はアルトを見た。
「あなたの考えは、無視しない」
「……」
「だからこそ、気になるのよ」
それだけ告げて、シャルロッテは引いた。
引いたが、完全に退いたわけではない。
むしろ、かなり意識し始めている。
アルト・ヴァレインという男のことを。
そして、自分の研究ではなく、リュシアンへ向けられたその熱のことを。
アルトはその背を見送り、少しだけ首を傾げた。
やはり、思ったより反応が大きい。
だがまあ、仕方がない。
リュシアンは良い素材なのだから。
その程度の認識で終わっているあたり、やはりズレている。
そしてそのズレた男の評価を、廊下の角で聞いてしまったリュシアンは、しばらく顔を上げられなかった。
涙を拭っても、胸の熱が引かない。
恥ずかしいのに、嬉しい。
嬉しいのに、苦しい。
その苦しさの中にあるものへ、彼はまだ明確な名前をつけられない。
けれど、もうただの憧れでは済まなくなっていることだけは、確かだった。
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