第8話 休日の訓練と、甘い氷菓
休日まで一緒にいるというのは、案外大きい。
授業の延長ではない。
義務でもない。
誰かに言われたからでもない。
それでも時間を割き、同じ場所で過ごし、同じことを考え、同じものを見る。
それはたぶん、学院に集う若者たちにとって、ごく自然に親密さを育てる時間なのだろう。
だから、周囲がざわつくのも当然だった。
勇者家系のアルト・ヴァレインと、名門の末っ子リュシアン・アルヴェール。
放課後だけでも少し距離が近いと思われていた二人が、休日にまで一緒にいる。
しかも、ただのお茶や散策ではない。
部屋へ入り浸り、魔法談議に沈み、時には学院の外まで並んで歩く。
それを『健康的な学院生活』の一言で済ませるには、少しだけ密度が高すぎた。
とくに、シャルロッテの胸の内はだいぶ穏やかではなかった。
魔法について深く語り合うべき相手。
理論の先を行くなら、自分がそこへ立つべきだ。
そういう思いは、彼女にとってほとんど当然の自負だった。
なのにアルトは、そんな彼女を振り返りもせず、休日にまでリュシアンに魔法を叩き込んでいる。
意味が分からない。
いや、意味はあるのかもしれない。
だが、その意味が自分ではなくリュシアンへ向いていることが、面白くない。
レオノーラもまた、違う角度からその『濃さ』に気づいていた。
ミレナも、ルゼリアも、セラフィナも、それぞれの場所から、あの二人は最近やけに一緒にいる、と思っている。
そして当のリュシアンは、その視線を薄く感じ取りながら、終始ふわふわとした高揚感に包まれていた。
休日。
誰かと過ごす休日。
それ自体が、彼にはあまり経験のない種類の時間だった。
家にいた頃の休日は、『次の学びや訓練がない日』ではあっても、『誰かが自分のために時間を使ってくれる日』ではなかった。
兄姉は忙しい。
家の者も、彼を可愛がりはしても、そこまで深くつきあうわけではない。
だから、アルトがごく当然のように「今日も来い」と言うことが、リュシアンにはいまだに少し信じられない。
しかも、その時間の中心にあるのが『自分をもっと上へ押し上げようとする意志』なのだから、なおさらだ。
その休日も、アルトの部屋から始まった。
朝から。
容赦がない。
いや、アルト本人にその自覚は薄い。
彼の中では、休日にまとまった時間が取れるなら、その分だけ土台へ手を入れるのが合理的というだけの話だ。
「今日は位階の話をする」
開口一番、それだった。
リュシアンは机の前に座り、まだ少しだけ眠気の残る頭で瞬いた。
「位階?」
「うん」
アルトは紙を一枚広げる。
「この世界だと、魔法ってだいたい位階で考えるだろ」
「……そうだね」
「初級、中級、上級、さらにその上、みたいに」
「うん」
「でも、あれ」
アルトはさらりと言った。
「本当は全部つながってる」
リュシアンはそこで、眠気を完全に忘れた。
アルトの言葉には、こういうところがある。
さらりと言う。
だが、その内容はとんでもない。
「つながってる……?」
「位階って、皆そこに段差があるみたいに考えるだろ」
アルトは紙に線を引く。
「見えない層があるみたいに」
「……うん」
「でも実際は、全部地続きだ」
「……」
「下位魔法と高位階魔法で、根本の構造が別物になってるわけじゃない」
「そんな……」
「違うのは、器と回路と構造把握の精度」
アルトは、線を階段ではなく、なだらかな地面のように描き直す。
「どれだけ流せるか」
「……」
「どれだけ支えられるか」
「……」
「どれだけ崩さず理解できるか」
リュシアンはそれを見つめた。
学院でも、家でも、位階とは『上へ登るもの』として教わってきた。
隔たりがあり、壁があり、ある段階の者には次の位階はまだ遠い。
そういうイメージだ。
だがアルトは違うことを言う。
全部つながっている。
遠いのではなく、深いだけだと。
「方法次第では」
アルトは続ける。
「どんな魔法師でも、高位階魔法に触れられる」
「……本当に?」
「もちろん難しい」
アルトはそこで、少しだけ目を細めた。
「すごく」
「……」
「魔法がない世界から来た人間でも、それくらいは分かる」
「……え?」
「いや」
アルトは軽く首を振る。
「何でもない」
何でもなくはない。
だが、リュシアンはそこへ踏み込まなかった。
代わりに、アルトが『難しさ』そのものへ敬意を払っていることに気づく。
魔法は特別なものだ。
理解しようとするだけでも大変だ。
そのことを、アルトはちゃんと分かっている。
だからこそ、『君ならできる』という言葉が、ただの空疎な励ましではなく聞こえるのだ。
「ぼくには……」
リュシアンが小さく言う。
「そんなところまで、届く気がしない」
「届く」
アルトは即答した。
「君なら」
「……どうしてそこまで言えるの」
「素地があるから」
「……」
「努力もする」
「……」
「しかも、ちゃんと吸う」
アルトは少しだけ口元を緩めた。
「かなり優秀だよ、君」
リュシアンは、そこで強く否定しかけた。
そんなことはない、と。
自分は兄姉ほどではない。
教室の主役候補たちみたいに強くも賢くもない。
言い慣れた否定が、喉元まで上がる。
だが、それを言えなかった。
アルトの目が、偽りなく真っ直ぐだったからだ。
慰めでも、励ましでもなく、本当にそう見ている目。
それを前にすると、軽々しく自分を卑下することの方が、むしろ恥ずかしく思えた。
リュシアンは口を閉ざし、その代わり、ほんの少しだけ頬へ熱が集まるのを感じた。
アルトは気づいていない。
いや、気づいていても、それを別の意味で処理しているのかもしれない。
彼の目はいま、完全に『育てる側』の熱を帯びている。
その熱が、リュシアンには苦しくて、嬉しかった。
講義は続く。
位階を連続として捉えること。
術式を『届かない上位のもの』として恐れるのではなく、いま自分が扱える構造の延長として見ること。
詠唱は階段を登る呪文ではなく、連続した流れに輪郭を与えるための足場だということ。
アルトの説明は、相変わらず恐ろしく分かりやすかった。
一つの教えが下るたび、リュシアンの中で解釈が枝分かれしていく。
十を拾う。
いや、もっとだ。
彼は教わったことを、そのまま覚えるのではなく、自分の中で何度も組み替えて理解する。
その吸収効率の良さが、アルトをかなり興奮させた。
「君、本当にいいな」
ぽろり、と漏れる。
「……え?」
「いや」
アルトは咳払いした。
「理解の伸び方が」
「……」
「見てて面白い」
「……それ」
リュシアンは耳まで少し赤くなった。
「褒めてるのかな」
「褒めてる」
アルトは真顔だ。
「かなり」
その『かなり』が、妙に深く響く。
そして、講義が進んだところで、アルトはさらにまずいものを見せた。
「たとえば」
彼は机の上にあった小さな金属のペン先を摘まむ。
「いまの理屈で、空間をずらすとする」
「空間……?」
「うん」
「そんなの、高位階どころじゃ――」
言い終える前に、アルトの指先で、金属のペン先がふっと消えた。
リュシアンの目が、見開かれる。
「……え」
次の瞬間、ペン先はアルトの反対の手に現れた。
何でもない顔で。
いや、本人の中ではたぶん本当に『初歩中の初歩』なのだろう。
だが、この世界の常識で言えば、それは明らかに最高位の領域に近い。
空間操作。
転移に似た挙動。
伝説扱いされつつある魔法の、あまりにも軽い片鱗。
「これはまだ走りだけど」
アルトは平然と言う。
「構造は単純だ」
「どこが!?」
リュシアンの声が裏返った。
「いや、ほら」
「ほら、じゃないよ!?」
アルトは本気で不思議そうだった。
そこが恐ろしい。
これを見せてなお、自分を平凡だと言ってやまないのだから。
「僕なんて」
アルトはさらりと言う。
「平凡な方だし」
「……」
リュシアンは一瞬、本気で反論しかけた。
だが、アルトの目があまりにも偽りなかったので、言葉が飲み込まれる。
この人は、本気でそう思っている。
自分を特別視していない。
だからなおさら、怖くて、すごい。
*
休憩を兼ねて、二人は午後から王都の街へ出た。
ずっと部屋で魔法談義を続けていると、さすがに頭が熱を持つ。
それに、アルトにはもう一つ見せたい場所があったらしい。
並んで歩く二人の姿は、端から見るとだいぶ危うかった。
アルトは整った少年で、リュシアンはもはや美少女じみた美少年だ。
制服姿で王都の通りを歩けば、どう見ても目を引く。
しかも距離感が近い。
片方は熱心に話し、片方は真剣に聞いている。
交際風景と誤解されても、まあ仕方がない。
当人たちはそこへ無頓着だったが。
アルトが案内したのは、小さな店だった。
王都の表通りから少し外れた場所。
看板は控えめ。
だが、人の出入りはある。
若い女性や子どもたちが働いていて、店の奥には教会の紋章がさりげなく置かれている。
「ここ?」
リュシアンが首を傾げる。
「うん」
アルトは頷いた。
「氷菓子の店」
「氷菓子……?」
この世界にも、甘く冷たいものが皆無というわけではない。
砂糖と乳を固めた氷菓に近いものは、他国に存在する。
だが、この店のものは少し違った。
濃厚で、滑らかで、舌触りが異様に細かい。
乳の甘さと、果実の香りと、冷たさの質が違う。
ジェラート。
もちろんこの異世界では、そう呼ばれていない。
だが平助の中では、だいたいその分類だった。
そしてこの店もまた、アルトが幼い頃に少しだけ手を入れたものだった。
悪徳貴族の領地から救い出された魔族の女性。
人族の中へどうにか馴染み、王都の知識の女神を祀るやや地味な聖教会へ身を寄せた彼女に、アルトは濃厚で滑らかな氷菓子の製法を教えた。
ついでに、教会が管理する農地と酪農の一部をどう活かし、そこで得た乳や作物へ付加価値をどう乗せるか、身寄りのない女性や子どもたちをどう『救われるだけの側』ではなく『自立へ向かう側』へ置くか、その仕組みも提案した。
その提案書は結局また別の誰か――婿候補の男あたりの手柄になっている。
だが、アルトはまったく気にしていない。
むしろ、自らを陰へ置きそうになっていた女性や子どもたちが、前向きに働き、少しずつ輪郭を得ていく様子を、だいぶ気持ち悪く観察していた。
モブヒロイン的な成長、と言ってもいい。
もちろん、その中から主役格が出ても構わない。
むしろその方が、周囲の影も濃くなるので悪くない、とアルトは不穏なことを少しだけ思っている。
そんな店へ、今日はリュシアンを連れてきた。
「食べてみて」
アルトが言う。
「……うん」
運ばれてきた乳のジェラートを、リュシアンは恐る恐る一口すくった。
次の瞬間、目が丸くなる。
「……なにこれ」
声が、完全に素だ。
「冷たいのに、やわらかい」
「うん」
「甘いのに重くない」
「うん」
「え、なにこれ」
「氷菓」
「説明になってないよ!」
その反応が、アルトには少し不意打ちだった。
無邪気だ。
講義中はあれだけ集中し、真剣で、知識を吸う速度も異様なのに、甘いものを前にした瞬間、年相応の少年らしい顔になる。
匙の持ち方。
少し早くなる食べる速度。
冷たさに一瞬だけ肩をすくめる仕草。
その全部が、ひどく無防備で、妙に可愛げがあった。
いけない。
アルトは一瞬だけ、思考の焦点がずれかける。
良いな、と思ったのだ。
いや、素材として。
たぶん。
きっと。
だが、そう思った時点で少し危ういことは分かっている。
「……アルト?」
リュシアンが不思議そうにこちらを見る。
「どうしたの?」
「いや」
アルトは咳払いした。
「思ったより、気に入ったんだなと」
「そりゃ気に入るよ!」
珍しく声が明るい。
「こんなの初めてだし」
それから、少しだけ照れたように視線を落とす。
「……君って、本当に何でも知ってるんだね」
その言葉に、アルトは少しだけ首を振った。
「何でもじゃない」
「でも」
「平凡だ」
「……」
リュシアンは、さすがにもう何も言わなかった。
言っても通じないのだろう、と理解し始めている。
代わりに、匙を持ったまま小さく笑う。
その笑みが、講義を受けている時よりもっと柔らかくて、アルトはまた少しだけ不意を打たれた。
よくない。
かなりよくない。
育成対象として面白い。
吸収が速い。
素材がいい。
主役候補として申し分ない。
そういう理屈の上に乗っていたはずの計画に、こういう無防備な仕草が混ざると、少しだけ話がややこしくなる。
もっとも、アルト本人はそこまでまだ自覚していない。
自覚していないまま、ジェラートの店の窓から見える街と、前向きに働く女性や子どもたちの様子を眺めつつ、また魔法の話へ戻っていく。
「努力次第で」
アルトが言う。
「大体のことは届く」
「……」
「位階も、回路も、器も」
「でも、さっきのあれは」
「亜空間の走り?」
「走りって言わないでよ……」
リュシアンが本気で困った顔をする。
「あれ、伝説の類じゃないの?」
「構造は単純だ」
「単純じゃない……」
「いや、ちゃんとつながってる」
「……そういうところ」
リュシアンが小さく息を吐く。
「君、本当におかしいよ」
その言い方が、ずいぶん柔らかかった。
おかしい。
でも嫌ではない。
むしろ、そういうおかしさごと信じたい。
そういう温度が、少しずつ混じり始めている。
アルトはその柔らかさを、まだ半分くらいしか理解していない。
ただ、休日訓練はうまくいっている。
リュシアンはよく吸う。
手応えは大きい。
主役育成計画は、かなり順調だ。
そういう意味で満足していた。
そして、そんな満足のすぐ横で、リュシアンの中では恋心の芽が、静かに、しかしはっきりと根を下ろし始めていた。
誰かと過ごす休日。
自分のために向けられる熱。
理解してもらえる感覚。
教わるたびに、自分の中の迷いがほどけていく心地よさ。
その全部が、彼の胸の奥を少しずつやわらかく揺らしていく。
それがどこへ向かう感情なのか、まだ彼自身にもはっきりとは分からない。
だが、もう『ただの戸惑い』だけではなかった。




