第5話 図書室の隅にいるもの
アルト・ヴァレインが学院の図書室を訪れないわけがなかった。
むしろ、来ない理由がない。
前世の平助は、図書館の司書お姉さんを起点に、自分の変態性をかなり自覚的な形で発酵させた。
さらに死後は、知識の女神フィレイアの蔵書を百年かけて浴びるように読み、もはや『本を読む』という行為そのものが、知識欲と偏愛と生活の全部を内包する行為へ変質していた。
だから、学院に図書室があると知った時点で、アルトの内側にはかなり危ない種類の期待が生まれていた。
知識の内容は、頭にある。
それはそうだ。
フィレイアの蔵書は、単に膨大だっただけではない。
異世界をまたいで理論ごと整理された知識の海だった。
この学院の蔵書が、その質と量で敵うはずもない。
だが、それはそれでしかない。
その場にある本には、その場にある本の良さがある。
棚の並び。
紙の質。
誰が何をどこへ戻し、どの本が多く手に取られているか。
背表紙の擦れ。
栞代わりに挟まれたメモ(たまに顔を覆いたくなるほどポエミーなものもある)。
閉じた時の音。
紙へ移った手の熱。
それを読む者たちの動き。
そういう『知識ではない部分』を、平助はどうしようもなく愛していた。
図書室というものは、本を読む場所である前に、本と人間の関係が可視化される場所でもある。
どの本が大事にされ、どの本が乱暴に扱われ、どの人間が本へ触れる時だけ少し慎重になるか。
そこに出る生活の癖まで含めて、アルトにとって図書室はかなり危険な空間だった。
放課後の学院図書室は、ひどく良かった。
夕方へ傾く光が高い窓から斜めに差して、棚の上へ細い線を作っている。
静かだが、無音ではない。
誰かが頁をめくる音。
椅子がわずかに軋む音。
司書の教師が遠くで本を戻す音。
そして、紙と木と、長く閉じられていた知識の匂い。
良い。
かなり良い。
知識の女神の白い書庫にはなかった、『人間の生活の残滓が染みついた本の匂い』がある。
これはこれで素晴らしい。
フィレイアの蔵書が完璧に近い静謐さを持っていたなら、ここの本はもっと生身だ。
少し手垢があり、少し日焼けし、少し傷んでいて、その分だけ『読まれてきた』温度がある。
アルトは図書室へ入った瞬間から、だいぶ幸福だった。
まず棚を見る。
配列。
分類の仕方。
魔法史はここ。
地誌と各国史はその隣。
神話と宗教は奥。
詩や物語はやや窓側へ寄っている。
面白い。
この学院では、知識をどう並べているのか。
何が中心で、何が周辺なのか。
棚ひとつで、その組織の価値観が少し見える。
そしてそれを一通り堪能したあと、アルトの目は、図書室のさらに奥、窓際に近い一角へ向いた。
ルゼリアがいた。
静かだった。
もともと教室の隅に馴染む少女だ。
図書室の端でも、その在り方はほとんど変わらない。
だが、変わらないからこそ、この空間では余計に際立つ。
棚の影。
斜めの光。
その少し外れた位置で、彼女は一冊の本を手にしていた。
その姿を見た瞬間、アルトは思った。
ああ、駄目だ。
これはかなり良い。
良い、というのはもちろん、本の内容だけではない。
ルゼリアが本を手に取る、その一連の所作がだ。
まず手の伸ばし方が静かだ。
焦りがない。
だが、何を選ぶかは曖昧ではない。
最初から、その本へ向かっていたみたいな無駄のなさがある。
指先もいい。
慣れている。
だが、雑ではない。
重みを知っている手つきだ。
そして何より、彼女が『なぜその本を取ったのか』が、立ち姿から少しだけ見えるのが危険だった。
ルゼリアが手にしていたのは、地方史と古い魔法伝承をまとめた本だった。
派手な理論書ではない。
人気が出る類でもない。
読まれるとしたら、物好きか、何か切実な理由がある者か、そのどちらかだ。
ルゼリアは、その本を『消去法で取った』のではない。
ちゃんと選んでいた。
それも、内容だけでなく、『今この場で自分がそれを持つことに意味がある』と思って選んでいる感じがあった。
そこまで見えてしまうと、もう駄目だ。
アルトの変態性は、本を手にする人間の在り方に対しても、たいへんよろしくないほど敏感である。
ただ本を読むのではない。
なぜその本か。
いまなぜそれか。
一時的とはいえ、なぜその本を愛でるのか。
その理由へ、どうしても踏み込みたくなる。
しかも相手がルゼリアである。
教室の隅にいて、明らかに何かを隠し、周囲と完全には馴染まないまま、それでも逃げてもいない少女。
そんな彼女が、図書室の隅で選ぶ本。
興味を持たない方が無理だった。
アルトは、しばらく声をかけずに観察していた。
ルゼリアは本を開く。
頁をめくる速度は速すぎない。
かといって、初見のものに怯む遅さでもない。
必要なところだけを拾う目だ。
読書そのものを楽しむというより、『今の自分に必要な断片を抜き出す』ための読み方。
なるほど。
その読み方にも、彼女の立場が出ている。
長く座り込んで本へ沈む余裕はない。
ここはたぶん、彼女にとって完全に安全な場所ではないのだろう。
だから、読む。
だが、いつでも閉じて離れられるように。
必要なものだけを、できるだけ速く。
その切実さが、アルトの胸にかなり深く刺さった。
これはもう、無理だ。
見ているだけで済ませられる対象ではない。
そしてその時点で、ルゼリアの方も、視線に気づいていた。
最初は無視しようとした。
だが、視線が消えない。
それどころか、ただ『見ている』だけではない気配がある。
本へ。
手つきへ。
選び方へ。
何か妙なところまで見られている感じ。
ぞわり、と、また小さな寒気が背を撫でた。
教室で感じた、あの説明のつかない違和感に近い。
だが、今回はもう少し限定的だ。
魔力の異常さだけではない。
この男はたぶん、『見る目』自体がだいぶおかしい。
ルゼリアはそこで顔を上げ、まっすぐアルトを見た。
警戒。
かなり明確なそれ。
アルトは、そこで初めて声をかけた。
「その本、いいですよね」
ごく自然な入り方だった。
少なくとも本人はそう思っている。
だが、内実はかなり危うい。
数分間も人の本の持ち方と選び方を観察したあとで放たれる一言としては、だいぶ気持ち悪い。
ルゼリアはもちろん、即座には返さなかった。
「……」
「地方史の記述が雑なところもありますけど」
アルトは続ける。
「伝承の扱い方は嫌いじゃないです」
「……そう」
ようやく返ってきた声は、細くて低い。
「ええ」
アルトは一歩までは踏み込まず、しかし立ち去りもしない距離で止まる。
「その本、あまり人気はないですけど」
「そうね」
「だから、残ってるのはありがたいです」
「……」
「ちゃんと必要な人のところへ行く本って感じがするので」
ルゼリアはそこで、ほんの少しだけ表情を変えた。
大きくではない。
目元がわずかに揺れた程度。
だが、それで十分だった。
この男は、本当に本を見ている。
少なくとも今この瞬間だけは、変な口説きでも、単なる接触の口実でもなく、本そのものに対して熱を持っている。
それは分かった。
そこが、少しだけ厄介だった。
ただの軽薄な男なら、警戒だけしていればいい。
だが、本を愛する者は、本を手にする自分の方まで見てくることがある。
そしてアルトは、明らかにそちら側の人間だった。
「あなたも、読むの」
ルゼリアが訊く。
かなり慎重な聞き方。
半歩引いたまま、しかし完全には閉じない。
アルトはそこで、少しだけ笑った。
「かなり」
即答する。
「内容も好きですけど」
「……」
「本がその場にある感じ自体が、かなり好きです」
ルゼリアの眉が、ほんの少しだけ寄る。
「……どういう意味?」
「棚の並びとか」
「……」
「紙の匂いとか」
「……」
「誰がどの本をどう持つかとか」
「……」
「日焼けしてる背表紙とか」
気持ち悪い。
言いながら、自分でも少しそう思う。
だが、これが本音だった。
そして本音である以上、アルトはそこをあまり誤魔化せない。
ルゼリアは数秒、完全に無言だった。
この男、やはりだいぶおかしい。
そう思う。
思うが、同時に、本好きとしての熱量だけは嘘ではないことも分かる。
だから切り捨てきれない。
「……変わってる」
ようやく、そう言った。
「よく言われます」
アルトは素直に頷く。
それで少しだけ、ルゼリアの警戒が形を変えた。
消えたわけではない。
むしろ根本の警戒はまだ強い。
魔力に触れた時の、生理的な危うさは消えていない。
だが、『ただ正体を暴くために近づいてくる危険な男』という一色ではなくなった。
変な男。
でも、本に対してだけは本気の熱がある男。
その分類が、一時的に彼女の中に生まれる。
アルトはそれを感じ取り、つい気が緩んだ。
すると、この男はすぐに一歩余計に踏み込む。
「教室でも思いましたけど」
ルゼリアの目が少し鋭くなる。
「きみ」
「……」
「逃げる気はないのに、馴染む気もないんですね」
静まった。
図書室の空気が、さっきまでとは別の意味で止まる。
ルゼリアの中で、警戒が一気に跳ね上がる。
そこに触れるのか。
本の話をしていたはずだ。
その流れで、なぜそこへ来る。
しかも『魔族だから』ではない。
正体を暴くような聞き方でもない。
もっと曖昧で、もっと核心に近い。
教室の隅にいて。
誰とも馴染みきらず。
けれど、消えるわけでも逃げるわけでもなく、そこに立っている在り方。
それ自体へ言及された。
ルゼリアにとって、それはひどく不気味だった。
正体を見抜かれることも怖い。
だが、それ以上に怖いのは、『自分がここでどう立っているか』を先に見られることだった。
「……何の話」
声が少しだけ冷たくなる。
アルトはそこで、ようやく一線を越えかけていることに気づいたらしい。
ほんの少しだけ目を伏せる。
「別に、深い意味はないです」
たぶん半分は本当だ。
「ただ」
「……」
「本の選び方にも、そういうのが出てるなと思って」
ルゼリアはしばらく黙っていた。
不気味だ。
危険だ。
この男はやはりおかしい。
でも、嘘はついていない。
少なくとも、本のことを起点にこちらを見ていたのは本当だ。
だから余計に厄介だった。
「……あなた」
ルゼリアが言う。
「本当に、変ね」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「でしょうね」
そのやり取りに、ルゼリアはほんの少しだけ、理解できないものを見る目をした。
だが、できないままでも、興味は残る。
そしてその興味が残ること自体が、彼女にとっては少し不本意だった。
アルトは最後に、本棚の背表紙へ軽く視線を流し、それからルゼリアへ一度だけ頷く。
「その本」
「……」
「最後の章は、たぶん飛ばさない方がいいです」
「……どうして」
「雑ですけど」
「……」
「それを残した人の癖が出てるので」
そう言って、今度こそ離れていく。
ルゼリアは、その背をしばらく見ていた。
不気味な男だった。
気持ち悪い。
危険だ。
正体を暴かれかねない。
それなのに、彼が本当に本を愛していることだけは、どうしても否定できない。
そのことが、かえって心に引っかかった。
ルゼリアは無言で本に目を戻す。
そして、アルトが言った通り、最後の章を飛ばさずに開いてしまった時点で、もう少しだけ彼のことが気になり始めている自分に気づき、内心で静かに舌打ちした。
一方のアルトは、図書室を離れたあと、かなり満足していた。
やはり良い。
本を手にする人間の在り方を観察するのは良い。
しかも、あのルゼリアのような『隅に立つ異物』が図書室で醸し出す妙は、もはや艶に近い。
艶。
かなりいい意味での。
気配を消しきれない。
でも出たがりではない。
知識へ手を伸ばす。
その伸ばし方に切実さがある。
たまらない。
平助の変態性は、今日もまた留まることをしらない。
この話まで読んでる方っていらっしゃるんですかね?
だんだんと書いていることに強い不安を感じて参りました。
もし、こちらの話までお読みくださって、
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むしろそれだけがWebで書く意味ですので。




