第7話 縁談の気配と、幼子の限界
人は、はっきり言葉にされる前から、だいたい察してしまう。
とくに平助のように、物事の中心よりも、その周辺に滲む温度差や、言いよどみや、視線のずれに敏感な人間にはなおさらだ。
エルミナの縁談は、最初はただの仮説だった。
年頃。
この家での立場。
期待ではなく処遇の目で見られている気配。
年配の侍女たちの、当たり障りのない言葉の断片。
そうしたものをつなぎ合わせた、平助の持ち前の勘ぐりに近い。
だが、生活の中でそれは少しずつ輪郭を持ち始めた。
はっきりとした会話を聞いたわけではない。
むしろ、聞こえないからこそ分かる、という種類の話だった。
たとえば、エルミナの衣服の見立てが、最近少しだけ『外向き』になっていること。
彼女自身は飾り気の強い人ではない。
もともとが慎ましく、家の中で目立つことをよしとしない性質なのだろう。
選ぶ色も落ち着いていて、動きやすく、過不足がない。
その装いは平助の審美眼にかなり深く刺さる。主張せず、しかし見ればきちんと整っていて、身を引くように生きてきた女性の慎みがそのまま外見に出ているからだ。
だからこそ分かる。
最近、ほんの少しだけ、生地の質が変わった。
色味も、屋敷の中だけで済ませるにはややよそゆきだ。
誰かが『見せる』つもりで整え始めている。
しかも、それをエルミナ本人が心から喜んでいる様子はない。
侍女が新しい布地を当ててきても、彼女は困ったように笑うだけだ。
断りはしない。
だが、嬉しそうでもない。
この『断りはしないが、前向きでもない』という半端な受け方が、いかにもエルミナらしかった。
たとえば、食卓での話題。
家の者たちは露骨ではない。
勇者の家だけあって、表向きの体裁を崩さない程度には皆よく訓練されている。
だが、その体裁の内側にあるものまでは消せない。
「落ち着いた方」
「悪い話ではない」
「年齢的にも、そろそろ」
「穏やかな家風で」
「気立てのよい娘なら」
そんな言葉が、父や母のいる場で、妙に柔らかく出るようになった。
名指しはしない。
けれど、そこに向けられる一瞬の視線がある。
食卓の端に座るエルミナへ、ほんの一拍だけ落ちる目線。
そしてエルミナは、そのたびに、まるで気づいていないみたいな顔で水差しへ手を伸ばしたり、皿を整えたりする。
気づいている。
絶対に気づいている。
なのに、そこへ触れない。
平助は、それを見て胸の奥がひどく重くなるのを感じた。
この人は、きっとこういう時、反射で『従う側』へ自分を置いてしまうのだ。
嫌なら嫌と、はっきり言える人ではない。
自分の希望を大きく主張する訓練も受けていない。
そもそも、この家の中でそういう立場に置かれてこなかったのだろう。
だから、何かが自分へ向けて決まり始めた時、それがよほど耐えがたいものでない限り、静かに受け入れる方向へ流れてしまう。
そこが、あまりにも危うかった。
エルミナが心の底から望む縁談なら、アルトは応援するつもりでいた。
本当に。
そこに嘘はない。
彼女が笑って、この人となら生きていけると思えるなら。
この家の不遇から離れた先で、ちゃんと自分の居場所を持てるなら。
平助はそのために、幼い身でもできる限りのことをするだろう。
だが、どう見てもそうではない。
嬉しそうではない。
浮き立ってもいない。
ただ、拒絶もしていないだけだ。
それは『望んでいる』ではなく、『受け入れる準備を始めてしまっている』顔だった。
最悪だった。
そういう顔は、平助にとって本当に良くない。
望まないまま飲み込もうとする女性。
自分の気持ちより先に周囲の都合へ身を滑り込ませようとする女性。
しかも、そのやり方が妙に穏やかで、誰も責めない。
刺さらないわけがない。
平助の変態性は、日に日に濃くなった。
もちろん本人としては『変態性を高めている』つもりはない。
あくまで、エルミナの状態を理解しようとしているだけだ。
ただし、その理解の解像度が高すぎるのだ。
笑う時の口元。
目元だけ少し動かない笑み。
話題が縁談寄りになった瞬間、わずかに浅くなる呼吸。
侍女が持ってくる外向きの衣服を、布地の端だけ撫でてから静かに離す指。
誰かに「よいご縁かもしれませんよ」と言われた時、一瞬だけ「そうですね」と返す前にできる、ほんのわずかな空白。
全部、拾ってしまう。
そして拾うたび、平助の胸の中では、愛情と偏愛と怒りに似たものが、ぐちゃぐちゃに混ざって膨らんでいく。
それを、幼いアルトの仕草で誤魔化すのが、だんだん難しくなってきていた。
最初の頃はよかった。
少し首を傾げる。
無邪気に見上げる。
語彙を幼くする。
それでだいたい何とかなった。
だが、いまのアルトは、エルミナのことになると反応が少し深すぎる。
ある日、廊下の角で、二人の侍女が話しているのを聞いた。
「先方は穏やかな家らしいわ」
「ええ、奥方様さえうまくやれれば」
「エルミナ様なら、ああいうお方は向いているかもしれませんね」
「目立つ方ではないものね」
その『目立つ方ではないものね』という一言で、アルトは反射的に足を止めた。
止まるだけならまだいい。
問題は、そのあとだった。
平助の中の何かが、かなり本気で苛立ったのだ。
目立つ方ではない。
だから向いている。
何だその理屈は。
静かで、引いてしまうから、どこかへ収めやすいという意味か。
この家の輪から少し外れているから、穏便にどこかへやれるという意味か。
そう聞こえてしまって、アルトはその場でかなり危険な目をしてしまったらしい。
「……アルト様?」
侍女の一人が気づいて、はっとしたように腰を折る。
その声で我に返る。
いけない。
いまのは幼児の目ではない。
完全に何かを理解した大人の、しかもだいぶ性格の悪い観察者の目だった。
アルトはすぐに、少しだけ眠そうに瞬きをして、幼い声を作る。
「エルミナはどこ?」
侍女たちは一瞬きょとんとして、それから安堵したように笑った。
「エルミナ様なら、お庭の方かと」
「そう」
アルトは頷き、そこでやっと事なきを得る。
だが内心では、かなり焦っていた。
まずい。
さすがに、限界が近い。
幼子の可愛らしい振る舞いで押し隠せる範囲を、自分の中身が少しずつ越え始めている。
エルミナのことになると、思考も感情も反応が速すぎて、時々『アルトらしさ』の仮面が遅れるのだ。
とはいえ、ここで急に賢すぎる子どもとして振る舞うのも危険だった。
周囲に警戒される。
下手をすれば、修練や観察の自由も削がれる。
そうなればエルミナを守るどころではない。
だから、耐えるしかない。
耐えながら、見る。
見て、理解する。
そしていざという時に動けるよう、計画を立てる。
それでも、エルミナ本人を前にすると、計画性より先に変態性が顔を出すから困る。
夕暮れ時、庭の小径でエルミナを見つけた時もそうだった。
彼女は一人、花壇のそばにしゃがんでいた。
庭師の真似事というほどではない。
ただ少し枯れかけた花を見ていたらしい。
日が落ちかけていて、光は柔らかい。
その横顔には、昼間よりもさらに静かな影があった。
アルトは近づく。
「エルミナ」
「……あら」
彼女は振り返る。
「どうしたの、こんなところまで」
「さがした」
「私を?」
「うん」
それだけのやり取りで、エルミナは少し笑った。
その笑みにはちゃんと嬉しさがある。
だが、どこかで『こんなことで喜んではいけない』みたいな引き算も残っている。
良い。
駄目だ。
今そういうことを考えるな。
だが、考えてしまう。
アルトはそのまま彼女の隣へ座り込んだ。
幼子らしい無遠慮さを装えるのは、こういう時に便利だった。
「つかれてる?」
ふいにそう訊くと、エルミナは目を丸くした。
「……そう見える?」
「ちょっと」
「やだ。隠せてないのね」
隠せていない。
だが、周囲の大人たちはたぶん見ようとしていないだけだ。
アルトは花壇の土を指先で少しだけいじりながら、幼い声を保ったまま言う。
「いやなこと、ある?」
エルミナの指が、ぴくりと動いた。
そこだ、と平助は思う。
ある。
絶対にある。
だがエルミナはすぐ、困ったように笑う。
「そんな顔して訊くことじゃないわよ」
「どんな顔?」
「……すごく心配してる顔」
「しんぱいしてる」
「ありがとう」
彼女はそう言って、アルトの頭をそっと撫でた。
「でも、大丈夫」
大丈夫ではない。
その『でも大丈夫』の言い方で分かる。
それは本当に平気な人の言葉ではない。
自分に言い聞かせるための『大丈夫』だ。
アルトの胸の奥で、また熱が膨らむ。
ああ、もう。
本当にこの人は、そうやって全部飲み込むのか。
エルミナが本心から望むなら、背中を押したい。
だが今の反応は、望んでいる人のそれではない。
ただ、そう言うしかない人の声音だ。
アルトはそこで、幼い仕草を装ったまま、じっと彼女を見上げた。
「エルミナ」
「なあに?」
「……いやなら、いやっていっていいよ」
言ってしまったあとで、少し危ういと思った。
幼子の言葉としては、少しだけまっすぐすぎる。
しかも文脈がない。
それなのに、エルミナは笑わなかった。
笑わず、ただ静かに目を見開く。
その一瞬の沈黙が、すべてを物語っていた。
やはり、縁談はある。
そして彼女の中には、少なくとも『いや』な感情が存在している。
だがエルミナはすぐに視線を伏せ、花壇の方を見る。
「……アルトは、本当に優しいのね」
小さく言う。
「でも、そういうのはね」
「……」
「大人が決めることも、多いのよ」
その答えに、アルトは静かに息を吐いた。
大人が決める。
つまり本人の意思が中心ではない。
そしてエルミナは、それを受け入れる側へもう半歩ほど踏み出してしまっている。
良くない。
非常に良くない。
しかも、本人が『仕方ないこと』として飲み込もうとしているのが、一番良くない。
平助の変態性は、そういう『諦めの手前で静かに笑う女性』に対して本当に弱い。
弱いというより、もはや致命的に刺さる。
アルトはそこで、幼いふりをする限界を少しだけ感じた。
いまの一言は、かなりギリギリだった。
幼子の無邪気な正論として押し通せるかもしれない。
だが、これ以上踏み込めば、『賢すぎる』や『不自然に人の心を読みすぎる』側へ傾いてしまう。
ならば、まだ直接は言えない。
言えないが、決意は固まる。
放っておかない。
絶対にそのままにはさせない。
ただし、エルミナが本当に望むなら話は別だ。
そこは見極める。
見極めた上で、彼女がただ流されようとしているだけなら、何としても手を打つ。
アルトは立ち上がり、小さな手でエルミナの袖を引いた。
「かえろ」
「え?」
「さむくなる」
エルミナは一瞬だけ呆けて、それからふっと笑う。
「そうね」
立ち上がる時のその仕草にも、少しだけ疲れが滲む。
なのに、それを見せまいとする。
ああ、本当に良くない。
帰り道、エルミナはアルトの歩幅に合わせて歩いた。
その歩幅の合わせ方が、いかにも『慣れている人』のそれで、平助の胸はまた静かに抉られる。
この人は、誰かに歩幅を合わせることばかり上手くなってしまったのだ。
自分の速さではなく。
自分の望みではなく。
相手に合わせることで、物事を穏やかに終わらせることばかり。
ならば、その穏やかさを壊す役目は、自分が引き受けるしかない。
もちろん、変態として。
そしてできれば、姉を本気で愛する弟として。
アルトは歩きながら、小さく、しかし内側ではかなり重く決意を重ねた。
未来の破滅の阻止。
器の拡張。
亜空間への対処。
それらに加えて、エルミナの縁談。
対処すべきことは増える一方だ。
だがむしろ、その方が平助には向いているのかもしれなかった。
目の前に積まれた課題を、一つずつ、しかし異様な執念で潰していくことなら、前世からわりと得意だったのだ。
違うのは、その中心に、これほど深く愛でたい対象がいることだけだ。




