第6話 未来の断片と、発狂する姉
平助は、未来を考えるのが苦手な人間だった。
これは前世からそうだ。
明日の業務なら考えられる。
週の進行も、締切があれば何とか組める。
だが、一年後の自分、五年後の自分、十年後の自分となると、途端に輪郭がぼやけた。
別に夢がなかったわけではない。
ただ、仕事に追われ、日々を切り抜けるだけで精一杯の生活は、人間から『遠い未来を思い描く余白』を静かに奪っていく。
当面の目標も、趣味も、何かへ向かって積み上げていく実感も、司書お姉さんを見出すまでの平助には、ほとんどなかった。
その意味では、図書館の司書お姉さんは、平助に改めて『自分の中の変態性』を教えてくれた存在でもあった。
だが同時に、平助は知っている。
未来を考えないことは、時に楽だ。
目の前だけ見ていればいい。
積まれた仕事を片づけ、今日を終えればそれでいい。
けれど、その思考停止こそが、永続的な社畜生活を生み、自分を少しずつ削り続ける土台になっていた。
だからアルトになったいま、平助は決めた。
この異世界では、計画的でいよう、と。
やるなら徹底的に。
どうせなら、アルト・ヴァレインとして死を迎えるまで、できる限り緻密に設計してみよう。
どれだけ鍛え、どこで何を学び、どのタイミングで何を得るべきか。
死ぬまでの道筋を、先回りして定める。
かなり不穏な決意ではある。
だが平助にとって、これはむしろ健全な試みだった。
未来を考えないまま流されるのではなく、自分の将来を自分で読み、組み、潰していく。
もっとも、平助という男は、そこへ行き着くと、決まってやり方を間違える。
未来を計画する。
その発想そのものはいい。
だが、では未来をどう読むかとなった時、彼はまたしてもフィレイアの蔵書を参照してしまった。
未来予知。
その語を頭の中で転がした時点で、平助は少し後ろめたかった。
運命を読む。
先を知る。
そういう行為には、どこか『やってはいけないことに手を出す』ような感覚がつきまとう。
だがフィレイアの蔵書にあったのは、単純な神託や定められた未来の読みではなかった。
予め書かれた運命を覗くのではない。
現時点の世界に対し、自分の意識を限界まで薄く、細かく、広く分散させる。
世界全体と一時的に同化するような感覚で、いまこの瞬間の膨大な可能性へ触れる。
そこで共鳴した余波を、『暫定の未来』として拾い上げる。
運命ではない。
あくまで現在の延長線上にある、可能性の濃淡だ。
それでも危険な術であることに変わりはない。
意識が広がりすぎれば、自我の輪郭がほどける。
世界へ溶けたまま戻れなくなる可能性だってある。
だが、アルトはできると分かってしまった。
いや、できるだろう、と。
魔法練度はすでに、幼子としてはかなりおかしい域にある。
座禅と変態性の濃縮によって魔力密度は高まり、器の拡張も危うい方向へ進んでいる。
今なら、触れられるかもしれない。
その夜、アルトは部屋を閉めた。
寝台。
机。
窓。
幼子の部屋としては広すぎる空間。
そして、いつものように簡易防御結界を薄く張る。
これはもう習慣だった。
座禅にしろ魔力枯渇の訓練にしろ、最近のアルトの自主練は、だいぶ人に見せられない方向へ進んでいる。
背筋を伸ばす。
呼吸を整える。
瞼を閉じる。
座禅だ。
エルミナの困った笑み。
世話係のお姉さんの疲れを隠した柔らかな声。
それらを静けさの中へ沈め、濃縮された偏愛を核にして魔力を練る。
その状態から、さらに意識だけを薄く伸ばす。
世界へ。
床へ。
壁へ。
屋敷へ。
庭へ。
夜気へ。
遠くの灯りへ。
眠る人々へ。
まだ眠らない使用人たちの足音へ。
空へ。
地へ。
広がる。
怖いほど、広がる。
自分の輪郭が少しずつ薄くなる。
だが完全には消さない。
消したら戻れない。
細く、遠く、細く、遠く。
世界と一時的に共鳴する。
その瞬間、未来が見えた。
否。
未来の破片が、脳裏へ一気に還ってきた。
血。
炎。
悲鳴。
知らない空。
知らない街。
見知らぬ女性が倒れている。
しかも、一人だけではない。
それぞれ違う。
見知らぬ顔。
だがどの女性にも共通しているものがある。
刺さるのだ。
アルト――平助の審美眼に。
どれも、未来に出会うはずの、見知らぬモブヒロインたちだった。
その一人が死ぬ。
その瞬間、自分は冷静さを失う。
激昂し、判断を誤り、自滅する。
別の未来。
今よりずっと強くなっていてもなお、強大な敵の前に単純に力負けして潰れる。
別の未来。
空間そのものが閉じる。
亜空間。
封印。
自由を奪われる。
魔法を封じられる。
思考だけが生きたまま、どうしようもなく詰む。
別の未来。
仲間の死。
庇い損ねる。
怒り。
暴走。
破滅。
どの未来にも、平穏無事に老後を迎える自分がいない。
どの未来にも、平和な終わりがない。
ただ無惨な死。
取り返しのつかない敗北。
救いようのない断末魔。
それが幾通りも、幾通りも、幼い脳裏へ雪崩れ込んでくる。
「……っ」
意識が戻った時、アルトは床に片手をついていた。
息が乱れている。
全身が冷たい。
汗がじっとりと背を濡らしている。
見てしまった。
このままでは死ぬ。
しかもたぶん、ただ死ぬだけではない。
見過ごせない何かを前に、冷静さを失い、無惨に。
救いがない。
だが同時に、答えは明白だった。
今のままでは足りない。
圧倒的に足りない。
ならば、加速するしかない。
その時点で、もうアルトの修練は正常な範囲を越えていた。
未来予知の結果を受けて、冷静に段階を踏もうとは思えなかった。
いや、思おうとしたのかもしれない。
だが、未来にあった数々の死が、その理性を押し潰した。
強大な相手。
封印。
取り返しのつかない喪失。
それらに対抗するには、器も、密度も、技術も、いまの延長では足りない。
だからアルトは、一時的固定を使った器の拡張を、さらに危険な方向へ押し進めた。
もう『限界まで削る』だけでは足りない。
器そのものを壊す。
そう決めた。
それは、文字通りだった。
魔力の流路だけではない。
精神も、肉体も、全部いったん破壊する。
壊して、さらに広く、深く、大きく再構築する。
一時固定の機能が、幸いにも『器の形状記憶』の役割を果たすことは、ここまでの無茶で確認済みだ。
まったく別の人格になることは避けられる。
肉体も、原型へ戻る方向へ自己修復する。
だから――やれる。
そう考えてしまった時点で、だいぶ終わっている。
アルトは、その夜も結界を張った。
暴発した魔力が部屋を壊さないため。
飛び散った肉片が家具や寝具を汚しすぎないため。
最低限の防御。
最低限の配慮。
そこが逆に怖い。
やること自体は完全に狂っているのに、その前処理だけは妙に冷静なのだ。
深く呼吸する。
座禅。
濃縮。
未来の断片。
死のイメージ。
エルミナ。
まだ見ぬ女性たち。
守れない未来。
潰れる未来。
それら全部を、まるで研磨剤みたいに魔力へ混ぜ込む。
圧縮。
圧縮。
さらに圧縮。
そして限界を越えた。
最初に来たのは、激しい頭痛だった。
次いで吐き気。
視界が暗くなり、耳鳴りが鳴る。
だが止めない。
一時固定を走らせる。
魂と器の最後の接点だけを、世界へ仮留めする。
その上で、さらに魔力を押し込む。
次の瞬間、アルトの身体は内部から弾けた。
音は、思ったより鈍かった。
幼い身体ゆえの柔らかさがある。
だが、それが逆に、破壊の感触を生々しくした。
腕が裂ける。
胸が割れる。
脚が千切れる。
肉片が宙へ散る。
血が飛び、だが結界がそれを薄く受け止める。
頭部だけは強固な結界で保護していたため、脳味噌が飛び散ることはない。
意識は途切れそうで、途切れない。
固定が働いている。
最悪のかたちで。
中空に浮かぶ頭部。
そこから下は、もはや肉片だ。
なのに、意識だけはある。
朦朧としながらも、自分がやったことの狂気がよく分かる。
自己修復が始まる。
肉片が、魔力の糸に引かれるように集まっていく。
骨。
筋。
皮膚。
まだ完成しない。
時間がかかる。
その、最悪のタイミングだった。
扉が開いた。
「アルト、夜食を――」
エルミナだった。
銀盆を持っていた。
たぶん、幼い弟が訓練で疲れているだろうと思って、何か軽く食べられるものでも用意してきたのだろう。
その声が途中で止まる。
目が見開かれる。
銀盆が指から滑る。
金属音。
皿が割れる。
果物か焼き菓子か、そういう小さなものが床へ散る。
彼女の視界に映ったのは、何もない中空に、結界で守られた幼子の頭部だけが浮かんでいる光景だった。
周囲の結界には、アルトだった肉片が張り付き、ぴくぴくと震えながら自己修復へ向かっている。
血の匂い。
肉の断片。
それなのに意識だけはある、虚ろな目。
最悪だった。
エルミナは、その場で膝から崩れ落ちた。
最初は音が出なかった。
ただ口だけが開いている。
呼吸がうまくできていない。
目の焦点が合わない。
それから一拍遅れて、喉の奥から聞いたこともないような嗚咽が漏れた。
「ぁ……あ……」
顔が歪む。
涙が溢れる。
涎まで垂れている。
それを拭うことすらできず、彼女は首を振った。
理解が追いつかないのだ。
目の前にあるのが、弟なのか。
死体なのか。
まだ生きているのか。
呪いなのか。
悪夢なのか。
そのどれもが混ざって、彼女の理性を一気に吹き飛ばした。
「いや、いやああああああああああああッ!!」
悲鳴が部屋を裂く。
エルミナは床を掻き、涙と涎に濡れた顔を振り乱しながら、ただ壊れたように泣き叫んだ。
そこに知識の女神はいない。
冷静な観察もない。
ただ、愛していた弟が意味の分からないかたちで破壊されている光景に、心を真っ二つにされた一人の少女がいるだけだった。
アルトはその声を、朦朧とする意識の中で聞いた。
やってしまった。
心底そう思った。
これは駄目だ。
完全に駄目だ。
未来の死を恐れて、別の破滅を、しかもエルミナの心へ直接叩き込んでしまった。
自己修復を急がせる。
痛み。
再構築。
吐き気。
骨が戻る。
肉が繋がる。
皮膚が閉じる。
完全ではない。
だが最低限、動ける。
アルトは修復を終えると同時に、自身へ治癒魔法を重ね掛けした。
血の気はまだ足りない。
視界も揺れる。
だが動ける。
エルミナの方を見る。
彼女はまだ床に崩れ、頭を抱えて唸っていた。
呼吸が乱れ、目は虚ろで、完全に壊れかけている。
アルトは這うように近づいた。
「エルミナ」
声をかける。
届かない。
「エルミナ」
もう一度。
やはり届かない。
だから、懸命にしがみついた。
幼い腕で、彼女の身体へ。
震える肩へ。
その瞬間、アルトはためらった。
忘却魔法。
それが頭に浮かぶ。
一時記憶を吹き飛ばす。
完全ではない。
だが少なくとも、この光景の輪郭だけを曖昧にすることはできる。
やるしかない。
でも、それはエルミナの心へ、こちらの都合で手を突っ込む行為でもある。
ためらいがあった。
当然だ。
だが、ためらっている時間はない。
「ごめん」
アルトは小さく呟いた。
「ごめん、エルミナ」
そして、魔法を発動した。
やわらかく。
乱暴に砕かないように。
ただ、この数分の記憶だけを、霧の向こうへ追いやるように。
エルミナの身体から力が抜けた。
目の焦点が一度、すっと消える。
それから、深く息を吐いて、眠るように意識を落とした。
アルトはすぐに彼女を寝台へ運んだ。
自分もふらつく。
だが運ぶ。
床の血を急ぎ処理する。
結界へ張り付いた肉片の名残も、魔法で消す。
割れた皿を片づける。
銀盆を置く。
夜食は……半ば潰れてしまったが、まだ形のあるものだけを小皿へまとめる。
証拠を消す。
何もなかったように。
そこまでやって、ようやくアルトは寝台の脇でへたり込んだ。
最悪だ。
本当に最悪だった。
未来の破滅を避けようとして、いま目の前の人間を壊しかけた。
これはもう、計画性とか探求心とか、そういう次元の話ではない。
エルミナはしばらくして、ゆっくりと目を開けた。
寝台の上。
ややぼんやりとした顔。
それから、状況を確認するように瞬く。
「……あれ……?」
彼女は小さく額へ手を当てた。
「私……」
アルトは寝台のそばから、じっと彼女を見上げる。
「……寝ちゃった?」
エルミナが呟く。
次の瞬間、少しだけ顔が赤くなった。
「や、やだ……ごめんなさい、アルト。夜食を持ってきたのに、私ったら……」
そこで彼女の視線が、幼いアルトと正面からぶつかる。
彼女はさらに赤くなる。
「し、しかも……あなたに、そんなに近くで見られて……」
困ったように笑い、耳まで染める。
アルトは、その様子に胸の奥がぎゅっと掴まれるのを感じた。
忘れている。
少なくとも、あの惨劇は。
よかった、と思うべきなのだろう。
だがその安堵の底には、重い罪悪感が混ざっている。
自分の都合で、彼女の記憶へ触れたのだから。
「……だいじょうぶ?」
アルトが訊くと、エルミナは少し恥ずかしそうに笑った。
「ええ、大丈夫」
「ほんとに?」
「ほんとに」
それから彼女は、少しだけ首を傾げる。
「でも、変ね。なんだか、すごく嫌な夢を見た気がするのに、思い出せないわ」
その言葉に、アルトは胸の奥で静かに痛んだ。
だが、二度と同じことは起こさない。
そう心に決める。
この方法は危険すぎる。
いや、未来視をやめるつもりはもうない。
見てしまったからだ。
あの無数の死を。
あの亜空間封印を。
あの、自分の力不足が招く破滅の数々を。
ならば必要なのは、破壊の加速だけではない。
対策だ。
特に亜空間封印。
あれはまずい。
身体の自由を奪われ、魔法の行使を封じられる未来。
あれへの対処を持たねば、この先どれだけ力を得ても詰む可能性がある。
だからアルトは、その夜の失敗を経て、修練へ新たな系統を組み込むことを決めた。
亜空間魔法。
空間の折り畳み。
位相のずれ。
空間識の固定。
自分の位置情報を世界へ係留する術。
封印に対抗するための逆算。
未来視で見た破滅を、未来視で得た危機感と、フィレイアの蔵書由来の理論で潰していく。
その方向へ舵を切るしかない。
そして同時に。
こうして訓練を積む最中にも、エルミナの縁談の気配が、アルトの中では静かに輪郭を持ち始めていた。
それは、誰かが明言したわけではない。
だが、平助の観察眼はそういう『空気のずれ』を見逃さない。
エルミナの前でだけ少し声色を変える年配の侍女。
廊下で交わされる、「年頃」「落ち着いた先」「よいお話」といった断片。
父や母たちがエルミナへ向ける、期待ではなく『処遇を考えている』側の目。
そして、この家での彼女の不遇。
期待されない娘。
前へ出すつもりのない娘。
だが、家の外へ穏便に出すにはちょうどいい年頃の娘。
話が出ていても、おかしくない。
いや、出ているのだろう。
その推測に至った瞬間、アルトの胸の中でまた、深く粘つく熱が広がった。
ああ。
そう来るのか。
この家は、エルミナをそうやって手放すつもりなのかもしれない。
それが本人にとって幸福な話ならまだいい。
だが、もしそうでないなら。
あるいは、彼女の『不遇な立ち位置』ごと処理するための縁談なら。
平助の変態的観察眼は、静かに牙を研ぎ始める。
フィレイア。
見ているか。
未来の破滅だけではなく、この家の中の小さな運命の流れも、どうやら放っておけそうにない。
エルミナはまだ、寝台の上で少し赤い顔をしていた。
自分がうたた寝をしてしまったことを恥じている。
あの発狂も、涙も、何も知らないまま。
アルトはその姿を見上げながら、胸の奥で重く誓う。
二度と、こんな形で彼女を壊しかけたりしない。
未来の死も、亜空間封印も、縁談の件も、全部まとめて対処する。
できるだけ計画的に。
そして、できるだけ徹底的に。
もちろん、その根っこにあるものが、勇者の使命よりも、もっと濃くて私的で業深い偏愛であることは、もう否定しようもなかった。




