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第8話 縁談の屋敷と、夜分に働くお姉さん

 平助の中には、変態なりの倫理観がある。


 それは世間一般で通用するかと言われるとかなり怪しい。

 むしろ大半の場面では「言い方を選べ」と怒られる側の倫理観だ。

 だが少なくとも、平助自身の中では一貫している。


 主役でない者であっても、望みもしないまま都合よく押しやられるのは、よくない。


 引き立て役だから。

 大人しいから。

 反対しなさそうだから。

 扱いやすそうだから。


 そういう理由で、半歩後ろに立たされてきた人間が、そのまま人生の大事な局面まで『周囲にとって都合のいい配置』へ収められていくのは、どうしても気に入らない。


 エルミナ本人が本当に望んでいるなら別だ。

 心から、この縁談でいいと思っているなら、平助は全力で背を押すつもりでいた。


 だが、そうではない。


 それがまずかった。


 何の根拠もない段階から、すでに平助の中では警鐘が鳴っていた。

 というより、エルミナ本人が前向きでない時点で、かなり赤信号だった。


 穏やかに受け入れようとしている。

 断ってはいない。

 だが嬉しそうではない。

 未来を思って少しでも頬を染めるような気配もない。

 ただ『そういうものだから』と、自分を収めようとしているだけだ。


 それは駄目だ。


 非常に駄目だ。


 と、平助の変態的倫理観は強く告げていた。


 問題は、幼いアルトの身体で何ができるかだった。


 正面から父母に訊く?

 論外である。

 兄姉や侍女へ探りを入れる?

 幼子の不自然さが出る。

 縁談相手の家について堂々と情報を集める?

 それこそ無理だ。


 ならば、答えは一つしかない。


 魔法を乱用する。


 かなりどうかしている結論だった。

 だが、平助という男は、追い込まれると理屈と無茶をだいたい同時にやる。


 まず必要なのは潜入だった。


 自身へ隠蔽魔法。

 音の散逸。

 気配の薄化。

 魔力反応の平坦化。

 それらを組み合わせて、少なくとも屋敷の一般人にはまず気づかれない程度の秘匿状態を作る。


 問題は移動手段である。


 飛翔魔法はまだ練習中だ。

 転移も、短距離ならともかく、長距離は幼い身体には不安定要素が大きい。

 座標の誤差、身体への負荷、魔力消費。

 どれをとっても、まだ完成とは言い難い。


 ならば、走るしかない。


 魔法で。


 夕食後、アルトはいつものように自室へ引っ込むふりをした。

 侍女へ「今日は早く寝る」と幼い声で告げる。

 実際、病み上がりで訓練も始まったばかりの子どもが、早く寝ると言えば誰も疑わない。


 部屋へ戻り、扉が閉まる。

 そこで結界。

 簡易的な気配偽装。

 寝台に『寝ているように見える気配』だけを薄く置く。

 完璧ではない。

 だが、夜の巡回がざっと気配を確かめる程度なら、すぐには破れない。


 そして窓から出る。


 外気はひやりとしていた。

 空はもう暗い。

 星がある。

 白い書庫にはなかった種類の夜だ。


 アルトは一度、深く呼吸した。


 行くしかない。


 身体強化を重ねる。


 ただし、普通に重ねれば幼い身体は耐えられない。

 だから、かなり気持ち悪い工夫をした。


 心臓へ限界近くまで負荷をかける。

 だが潰さない。

 血流は暴力的に加速する。

 そのままでは熱が上がりすぎるので、血液そのものへ薄く氷属性の冷却を噛ませる。

 ただし冷やしすぎると末端が死ぬため、ごく細く制御する。

 負荷に耐えきれない骨や関節、特に膝、足首、腰、肩には結界を薄くまとわせて補強する。

 自分の肉体を、人間というより『高速移動用の壊れかけの魔導具』として扱うような発想だった。


 我ながらろくでもない。


 だが、動く。


 最初の一歩で、地面が軽く抉れた。


 速い。


 速いが、荒い。

 風圧が顔を殴る。

 呼吸が乱れる。

 結界の補強が軋む。

 それでも足は前へ出る。


 森を抜ける。

 街道を避ける。

 人目を避け、気配を薄くしながら、夜の野をひたすら走る。


 途中、何度か飛翔魔法を試した。

 身体をふわりと持ち上げる。

 だがまだ不安定だ。

 幼い身体は空中での姿勢制御が甘く、魔力消費も読みにくい。

 少し浮いてはすぐ降りる。


 転移も試す。

 短い距離を刻むように。

 だが、空間座標への意識がまだ荒い。

 足場の認識が甘くなると危険すぎる。

 使える。

 だが、今の主軸にはできない。


 結局、アルトは走った。


 五時間ほど。

 それもただの子どもの五時間ではない。

 心臓が潰れる一歩手前を維持し、血を冷やし、骨を補強し、魔力で身体を無理やり運び続ける、かなり終わっている五時間である。


 到着した時には、屋敷は夜更けの静けさの中に沈んでいた。


 縁談相手の家。


 ヴァレイン家ほど古格ではない。

 だが、かなりの規模だ。

 外壁は堅実。

 庭の手入れも行き届いている。

 金をかけるところと削るところを知っている家の匂いがする。

 つまり、見栄だけではない。

 地力はある。


 アルトは気配を殺したまま、まず外縁を巡る。


 魔力探知の気配が薄くある。

 やはりいる。

 屋敷付きの魔法師か、それに類する警戒役。

 油断はできない。


 窓。

 通用口。

 裏手。

 使用人の導線。

 夜の屋敷を見る時、平助の目はどうしても『人がどう働いているか』へ向く。


 そして、その夜もまた、予想外のものへ目を奪われた。


 実務に励む使用人の女性だ。


 いやらしい意味ではない。

 本当に。

 少なくとも本人の主観では、最初は違う。


 夜も更けているというのに、帳簿と銀器の確認を並行してこなしている女性がいた。

 三十代くらいだろうか。

 顔立ちは整っている。

 衣服もきちんとしている。

 髪も崩れていない。

 だが、その表情には薄い影があった。


 疲れている。

 しかし崩れない。

 崩れないまま、実務を回している。

 指先は正確で、歩みに無駄がなく、声は低く抑えられている。

 派手な美しさではない。

 だが、『夜更けにも崩れずに働く女性』として、あまりにも完成度が高い。


 しまった、と思った。


 刺さる。


 かなり刺さる。


 こんなところで予想外の属性を踏むな。

 いまは潜入と情報収集だろう。

 何をしている。

 だが目が行ってしまう。

 しかも彼女の表情の影が、単なる疲労だけではなく、もっと家の内側を知る者の沈黙にも見えるからなお悪い。


 その一瞬、アルトの魔力がほんのわずかに揺れた。


 ひやりとする。


 屋敷の奥で、微細な探知の気配がこちらを掠めた。


 魔法師だ。


 探られた。


 まずい。


 アルトは即座に呼吸を落とし、魔力の波形を平らに撫でつける。

 座禅。

 変態性の濃縮。

 それを今度は隠蔽へ転用する。

 散らすのではなく、逆に『何もない静けさ』として押し込む。


 探知の気配は一瞬迷い、それから離れていった。


 危なかった。


 本当に危なかった。


 夜勤のお姉さんひとりに翻弄されて潜入失敗では、さすがに平助も自分の業の深さへ抗議したくなる。


 だが、立て直した以上、やるべきことはやる。


 アルトは屋敷の中へさらに踏み込んだ。


 使用人たちの噂話。

 書斎に残された書類。

 廊下の足音。

 人の動き。

 誰が偉く、誰が疲れていて、誰が何を恐れているか。

 そうしたものを拾っていく。


 露骨な悪事は、すぐに見つかった。


 金の流れが歪んでいる。

 使用人の扱いも荒い。

 記録上、見えない金が動いている。

 夜ごと何かを処理している形跡。

 しかも屋敷内の空気が、妙に萎縮している。

 上にいる誰かが怖いのだ。


 ああ、これは駄目だな、とアルトは思った。


 エルミナをこんな家へやるつもりなら、だいぶまずい。

 少なくとも『穏やかな家風』などという評判は、外向けの化粧に過ぎない。


 だが、そこで一つだけ、妙なものを見つけた。


 書斎にいた男である。


 年は若い。

 二十代前半ほどか。

 衣服の質と部屋への出入りの自由からして、この家の中心に近い立場。

 そして、使用人の噂話と、残された書類の署名と、部屋の位置から見て、縁談相手その人だった。


 婿となる男。


 彼は、予想していたような俗悪な男ではなかった。


 表情は疲れている。

 だが、疲れ方が『搾取する側の倦怠』ではなく、『家中の歪みに疲弊している側』のそれだった。

 実際、夜更けに彼が老執事らしき男へ向けた言葉には、はっきり微かな嫌悪があった。


「それは、やりすぎだ」

 低く、抑えた声。

「必要な処理です」

「必要でも、やり方がある」

「旦那様も認めておいでです」

「……だからといって、見過ごせるわけじゃない」


 異を唱えている。


 大きな声ではない。

 革命家でもない。

 だが確かに、この家の悪意に対して、ひっそりと嫌悪を示している。


 まともだ。


 少なくとも、完全な同類ではない。


 アルトはその事実に、複雑な気持ちになった。


 最悪の敵なら、潰しやすい。

 分かりやすい悪なら、エルミナを守る理由も単純だ。

 だが、相手が『この家の悪事の中にいて、しかし少しまとも』となると、話が面倒になる。


 しかも、その男がエルミナの婿候補。


 悪人ではない。

 むしろ、かなりまとも寄りだ。

 屋敷の歪みに嫌悪を示している。

 ということは、エルミナが嫁いだ場合、この男自身は彼女を粗末には扱わない可能性がある。


 だが、それでも屋敷全体が腐っているなら、話は別だ。


 アルトは書類を読み、噂を拾い、導線を見て、その結論へ至った。


 この縁談は単純ではない。


 婿本人だけを見れば、まだ救いがある。

 だが、その周囲がひどい。

 そして、エルミナ本人が望んでいない以上、やはりそのまま乗せるわけにはいかない。


 調べるほどに、状況は面倒になっていく。


 そしてその面倒さと並行して、例の使用人の女性のことが、どうしても頭の隅へ残った。


 影のある三十代。

 崩れない。

 実務に励む。

 この家の内実を知りながら、まだ壊れ切っていない顔。

 おそらく、長くここで働いてきたのだろう。

 その長さが、目元の影になっている。


 良くない。


 非常に良くない。


 いまはエルミナだろう。

 分かっている。

 だが、こういう『想定外に刺さる労働お姉さん』を見つけてしまうと、平助の変態性は後ろ髪を引かれずにはいられない。


 屋敷を離れる直前、彼は一度だけその女性の背中を見た。


 帳簿を抱え、夜の廊下を静かに歩く背中。

 疲れている。

 でも、折れてはいない。


 良い。


 あまりにも良い。


 だが、今は戻るしかない。


 アルトは気配をさらに薄くし、来た時と同じように夜の外へ出た。


 帰路も地獄だった。


 五時間走る。

 身体強化。

 冷却。

 結界補強。

 幼い身体に鞭打つ。

 潜入の疲労と情報処理で頭は重い。

 だが止まれない。


 屋敷へ戻る頃には、空がわずかに白み始めていた。


 窓から自室へ戻り、寝台へ気配を馴染ませる。

 結界を解き、身体を横たえる。


 全身が痛い。

 心臓もおかしい。

 筋肉は震え、魔力もかなり削れている。

 だが、得たものは大きい。


 エルミナの縁談相手は、完全な悪ではない。

 だが、家が悪い。

 しかも面倒だ。

 正面から叩き潰すには、まだ情報が足りない。


 そして、エルミナ本人の気持ちは、やはり確認しなければならない。


 アルトは薄く目を閉じる。


 眠気の底で、あの夜勤の使用人女性の影ある顔が一瞬よぎり、ついでエルミナの困った笑みが重なった。


 まったく。


 異世界へ来ても、自分の業は本当に忙しい。


 だが、仕方ない。


 それが平助であり、アルトなのだ。


 エルミナを守るため。

 未来の破滅を避けるため。

 そして、どうしようもなく気になってしまったものを放っておけないため。


 アルトは、夜明け前の寝台の上で、静かに次の一手を練り始めた。


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