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第1話 目覚めた先にも、お姉さんはいた

 最初にあったのは、喪失だった。


 痛みではない。

 苦しみでもない。

 もっと静かで、もっと深く、もっとどうしようもない種類の空白。


 白い書庫がない。


 その事実が、意識の底へ最初に沈んでいた。


 頁の匂いも。

 棚の群れも。

 自分の読む席も。

 少し苦めの茶も。

 不慣れさを残した焼き菓子も。

 気だるげなくせに、どうしようもなく優しい知識の女神も。


 もう、そこにはいない。


 いや、『そこ』そのものがない。


 それはたぶん、普通の意味での悲しみとは少し違っていた。

 胸を掻きむしるような激しさではない。

 叫びたくなるような熱でもない。

 ただ、絶頂のあとにだけ訪れる、ひどく静かな虚脱に似ていた。


 あまりにも満ちていた時間が終わったあと、人はその落差にすぐには追いつけない。


 百年。


 長すぎるほど長くて、けれど平助にとっては一続きの呼吸にも似た百年。

 読んで、語って、見つけて、見つけられて、赤くなったフィレイアを愛でて、茶を飲んで、本を受け取って、また読み、また見つける。

 変態性と知識欲が手を取り合い、もうどこまでが読書でどこからが恋なのか分からなくなるほど濃く煮詰められた時間。


 それが、終わった。


 最後に唇へ落ちた静かな熱だけを残して。


 平助の意識は、その名残を抱えたまま、しばらく暗い水底みたいな場所に沈んでいた。


 沈んでいる間にも、何かが少しずつ寄ってくる。


 空気。


 重さ。


 匂い。


 白ではない世界の気配。


 まぶたの向こうに、やわらかい明るさがある。

 肌には布の感触。

 頬の横には枕。

 遠くで人の声。

 何かを煮出したような、薬草にも似た薄い匂い。

 それらが一つずつ、白い狭間の無音と無重力を押しのけてくる。


 ああ、と思う。


 来たのだ。


 来てしまったのだ。

 別の世界が。

 フィレイアのいない、次の時間が。


 その事実だけで、平助の胸の奥はまた少しだけ痛んだ。

 だがその痛みも、完全に広がる前に、別の感覚が割って入ってくる。


 身体だ。


 自分のものではない身体の感覚。


 軽い。

 小さい。

 骨の位置も、呼吸の浅さも、手足の長さも、全部が違う。

 大人の男として何年も生きた平助の身体ではない。

 もっと幼い。

 未完成で、細くて、けれどどこか無駄に良いところの子どもらしい、柔らかな身体。


 その違和感と一緒に、断片的な記憶が浮かんだ。


 高い。


 風。


 陽射し。


 笑い声。


 誰かの気を引きたかったのだ。

 そう、思い出す。

 下を通る使用人の女性に向かって、何かを叫んだ。

 いや、叫んだというより、幼い自分なりの悪ふざけで、手すりの上に体重を預けたのだ。


 見てほしかった。


 ただそれだけだった。


 その時の自分には、それがどれほど危ないか分からなかった。

 分からないまま、少しだけ身を乗り出して、使用人の女性が慌てて顔を上げるのを見て、たぶん面白がった。


 その次の瞬間、足が滑った。


 視界が傾く。

 空がひっくり返る。

 風が耳元で鳴る。

 下から誰かの悲鳴が上がる。


 それが、転落までの最後の記憶。


 そしてたぶん、そこから二日ほど、この身体は眠っていたのだろう。


 平助はそこで、ようやく自分が何をしようとしているのか理解した。


 目を開けるのだ。


 新しい世界を、見るのだ。


 フィレイアと別れたあとで。

 まだ胸の中は喪失感だらけなのに。

 それでも、自分はここからまた始めなければならない。


 平助はゆっくりと、まぶたを持ち上げた。


 最初に見えたのは、天蓋だった。


 白ではない白。

 布の揺らぎがある、実体のある白。

 刺繍が入っている。

 質の良い布だ。

 その向こうに、木組みの細工。

 天井は高く、窓から柔らかな光が差している。


 豪奢な部屋だった。


 成金じみたぎらつきではない。

 もっと古くて、家柄のある者が当然のように使う、落ち着いた華やかさ。

 良い木材。

 重いカーテン。

 整った調度。

 そして、寝台のすぐ傍に置かれた椅子。


 そこに、人がいた。


 少女だった。


 いや、少女、と呼ぶには少し大人びている。

 女性、と言い切るにはまだ若い。

 年齢は十代半ばか、それより少し上に見える。


 黒髪ではない。

 落ち着いた栗色寄りの髪が、肩のあたりでやわらかく流れている。

 派手な美しさではない。

 だが、その顔立ちは驚くほど整っていた。

 目元は少し疲れている。

 寝ていなかったのだろう。

 頬もほんの少し痩せて見える。

 それでも、いや、だからこそ、見るからに『魅力的なお姉さん』だった。


 しかもその少女は、平助――いや、この身体の少年――の手を取るような距離で、じっとこちらを見守っていた。


 目が合う。


 その瞬間、少女の瞳が大きく見開かれた。


「……っ」


 息を呑む音。


 次いで、抑えきれない歓喜と安堵が、そのまま顔に溢れた。


「アルト……?」


 声が震えている。


 アルト。


 そうか、と平助は思う。

 これが自分の新しい名か。

 いや、正確にはこの身体に元から与えられていた名なのだろう。

 そして、目の前の少女は、それをひどく大事そうに呼んだ。


 その呼び方だけで分かる。


 この人は、心配していた。

 かなり本気で。

 たぶん二日間、ほとんどここを離れなかったのだろう。

 椅子の位置。

 目元の疲れ。

 着衣の乱れは少ないのに、どうしても消せない睡眠不足の影。

 全部がその証拠だった。


 平助は、その事実に胸を打たれ――そして次の瞬間、自分の変態性のたくましさに少しだけ呆れた。


 いや、ちょっと待て。


 フィレイアと別れた直後だぞ。

 さっきまで白い書庫で口づけを受け、胸が張り裂けそうな喪失感のまま、ようやく別の世界へ意識を寄せ始めたばかりではなかったか。

 普通ならもう少し、哀しみに沈んでいてもいいはずだ。

 だが何だこれは。


 目を開けた途端に、お姉さんがいる。


 しかも、見るからに疲れた魅力がある。

 看病で寝不足。

 気丈に座っていたのに、目覚めた瞬間だけ感情が崩れる。

 そういう『支える側の女性』として、あまりにも強い。


 変態性というものは、本当に生命力が強い。


 フィレイアを失った喪失感の海から引き上げられたばかりだというのに、もう目の前の少女の魅力へ反応し始めている。

 この魂、少しは節操というものを学ばないのか。


 だが、平助はそこで、ふと気づいた。


 これは裏切りではない。


 違う。


 このたくましさこそが、むしろフィレイアからもらったものを、この世界で生かすための器なのだ。


 百年のあいだ、知識の女神は平助へ、自分の蔵書と時間と眼差しを惜しみなく注いだ。

 平助はそれを受け取り、読み、飲み込み、血肉にした。

 ならば、その結晶は、この世界で使い切らなければならない。


 誰かを見つける目。

 誰かの『脇』にある美しさを拾う目。

 生活と疲れと不器用さの中に滲む魅力を見逃さない目。

 それを全部ひっくるめて、フィレイアにも轟くように、生きてやらねばならない。


 白の狭間に残した知識の女神へ。

 おまえが与えすぎた愛は、ちゃんと異世界でも暴れているぞ、と。


 その誓いに近いものが、平助の胸の中で静かに燃えた。


「アルト……! 本当に、分かるの? 私のこと……」


 目の前の少女が、今度はもっと近くへ身を寄せた。


 かなり近い。


 よく見ると、顔立ちはかなり整っている。

 だが主張は強すぎない。

 睫毛は長い。

 目元は寝不足の影で少し重い。

 そのくせ、いまは喜びのせいで瞳だけが強く光っている。


 良い。


 非常に良い。


 看病してくれていた『魅力的なお姉さん』が、目覚めた自分へ感情を隠しきれずに近寄ってくる構図。

 しかも家柄のある寝台の傍らで。

 これはかなり良い。


 平助は心の中で、自分へ軽く引いた。

 大丈夫か、本当に。

 喪失感はどこへ行った。

 いや、ある。

 ちゃんとある。

 胸の一番深いところには、フィレイアを失った空白がずっと残っている。

 その上でなお、目の前のお姉さんへこれだけ反応できるのだから、変態性とはつくづく逞しい。


 それでも、顔にはあまり出さないよう努力しながら、平助――アルトは口を開いた。


「……あなた、は」


 声が幼い。


 自分でも驚くほど幼く、高い。

 それがまた少し可笑しくて、同時に新しい現実味を与えた。


 少女は泣きそうな顔で笑った。


「エルミナよ」

 彼女は言う。

「エルミナ。あなたの姉よ、アルト」


 姉。


 ああ、と平助は思う。


 それは、ひどく納得のいく答えだった。


 ただの使用人ではない。

 ただの世話係でもない。

 もっと近くて、もっと自然にこの場へ居続けられる関係。

 しかも看病できる位置にいて、なおかつこれほど感情が動く立場。


 姉。


 しかも見るからに『魅力的なお姉さん』。


 いけない。


 かなりいけない。


 新世界一発目が姉属性付きなのは、さすがにだいぶ攻めている。

 これを運命と呼んでいいのか分からないが、少なくとも平助の魂は一瞬で理解していた。

 この世界もまた、なかなか容赦がない。


 エルミナは、アルトの手をそっと包み直した。


「よかった……本当に、よかった……」

 その声は、抑えているのに震えていた。

「もう、起きないんじゃないかって……」


 そこで彼女は、言葉を切る。


 泣かないようにしているのだろう。

 それがまた、良かった。

 完全に崩れるより手前で、必死に気丈でいようとするお姉さん。

 でも感情はもう隠しきれていない。

 その半端さがたまらない。


 平助は、己の変態性へ再度心の中で頭を抱えつつ、それでもエルミナの手の温度を感じた。


 温かい。


 ちゃんと生きた人の温度だ。


 白い書庫にはなかった、現実の熱。

 フィレイアの静かな熱とは別の、生きている者の震える温度。


 その違いに、平助は少しだけ、ようやく異世界の空気へ身体を預け始める。


 自分は本当に来たのだ。

 ここへ。

 フィレイアのいない世界へ。

 しかし同時に、彼女から受け取ったものを携えたまま。


 ならば。


 やることは一つだ。


 知る。

 見る。

 拾う。

 そして、この世界でもちゃんと、脇に押しやられた美しさへ手を伸ばす。


 フィレイア、見ていろ。

 おまえが百年かけて煮詰めた変態は、たぶんもう簡単には止まらない。


 むしろ悪化している可能性すらある。


 そう思いながら、平助は改めてエルミナを見た。


 寝不足。

 きちんとした服だが、長く座っていた皺が少しある。

 髪は整えているのに、ほつれが一筋だけ残っている。

 看病疲れを隠しきれていないのに、それでもきちんとしていようとする感じ。

 主役ではなく、誰かの傍で支えていた女性の匂いが濃い。


 駄目だ。


 刺さる。


 ものすごく刺さる。


「……アルト?」

 エルミナが少し首を傾げた。

 その仕草も柔らかい。

「どうしたの? まだ、ぼんやりする?」


 平助は一瞬、答えに詰まった。


 ぼんやりする。


 まあ、そうだろう。

 普通に考えれば、頭を打って二日寝込んで目覚めた三歳児かなにかが、いきなり姉を凝視して黙り込んでいたら心配にもなる。


 そして今の平助は、まさにその状態だった。


 違うのだ。

 ぼんやりしているわけではない。

 むしろかなり鮮明に見えてしまっている。

 あなたの魅力が。

 その寝不足と疲れと気丈さの混ざった感じが。

 だが、そんなことを言えるわけがない。


 平助は慎重に息を吐き、幼い喉でなんとか無難な言葉を探した。


「……きれい」


 駄目だった。


 全然無難ではなかった。


 言ってから、平助は内心で頭を抱える。

 何をやっている。

 起き抜け一発目からそれか。

 もう少しこう、姉上ありがとうとか、心配かけたとか、あるだろうに。


 だがエルミナは、その言葉に目を丸くした。


「え……?」


 頬が、ほんの少し赤くなる。


 いけない。


 いけないが、かなり良い。


 看病疲れのお姉さんが、目覚めた弟に『きれい』と言われて不意を打たれる。

 この状況、倫理的にはどう整理すべきか若干怪しいが、平助の変態性はすでに静かに拍手していた。


 エルミナは視線をさまよわせ、困ったように笑う。


「ま、まだ寝ぼけてるのね……」

 そう言いながら、どこか少しだけ嬉しそうだった。


 平助は思う。


 ああ、よかった。


 異世界でも、自分はちゃんと駄目だ。


 そして、その駄目さごと抱えて、ここからまた始められる。


 フィレイアとの別れの痛みは、消えない。

 消えるはずもない。

 白い書庫を思い出せば、いまでも胸のどこかがひりつく。

 けれどその痛みの上に、新しい空気はもう降り始めている。


 ならば、それを抱えて進むしかない。


 平助――いや、アルト・ヴァレインは、幼い身体のまま、寝台の上で静かに誓った。


 知識の女神からもらいすぎたものを、この世界で使う。

 彼女の加護も、愛も、書庫も、全部、無駄にしない。

 白の狭間に残る彼女へ届くくらい、ちゃんと濃く、ちゃんと深く、この世界でも生きる。


 そして、できることなら。


 できることなら、この目の前のお姉さんのことも、かなり丁寧に見ていきたい。


 そう思ってしまうあたり、本当に救いがない。


 エルミナはまだ、アルトの手を包んでいた。

 その手のぬくもりを感じながら、アルトは小さく、しかし確かに笑う。


 白い書庫を失った喪失感の底で、それでもなお変態性を失わなかった自分に、少しだけ呆れながら。


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