第2話 勇者の家と、隅へ押しやられる姉
ヴァレイン家、という名前は、どうやらこの世界ではひどく重いらしい。
それはアルトが目を覚ましてすぐ、誰かに説明されたわけではなかった。
むしろ逆だ。
誰もわざわざ説明しない。
廊下を行き交う使用人たちの腰の折り方や、部屋の調度の質、窓から見える広すぎる庭と、その向こうに続く石造りの棟の数を見ているだけで、自然と察せられてしまう種類の『重さ』だった。
寝台の上にいるだけでも分かる。
天蓋付きの広いベッド。
枕元の小机。
磨き込まれた床板。
壁に飾られた古い絵や紋章。
どれも新しさで威圧するものではない。
むしろ古い。
長く使われ、長く守られ、何代にもわたって当然のように受け継がれてきたものばかりだ。
派手ではない。
だが、薄っぺらい見栄とも違う。
良い家だ、と平助は思った。
良家で、そしてたぶん、かなり面倒くさい家でもある。
それは、身体の奥に残っている幼い記憶の断片とも結びついていた。
夜、乳母か誰かが聞かせてくれた話。
古い勇者の名。
魔王を斬った祖。
国を護った先代。
代々、王国の危機に立ち上がる血。
剣と魔を継ぎ、神託に応えた家。
そうした伝承の断片が、この幼い身体にはもう染み込んでいる。
完全に理解しているわけではない。
だが、「ヴァレイン」という姓が、幼子にとってすら誇りであり、同時に重荷でもあることくらいは、感覚として知っていた。
勇者の家。
なるほど、と思う。
そりゃ屋敷も広いはずだ。
使用人も多いはずだ。
そして、家の中を流れる空気そのものが、妙に張っているのも当然なのだろう。
アルトが目覚めたあと、部屋には人の出入りが増えた。
医師らしき男。
年嵩の使用人。
侍女。
薬湯や布を運ぶ者。
その誰もが、幼いアルトに対してひどく丁重だった。
それは可愛い子どもを気遣う態度というより、『この家において失われてはならない大事なもの』を扱う慎重さに近い。
ああ、自分は期待されているのだな、と平助は冷静に理解した。
そしてその理解と同時に、別のものにも意識が向いてしまうあたり、自分という魂の業の深さを少しだけ恨みたくなる。
使用人のお姉さんである。
いや、本当にどうしようもない。
目覚めたばかりだろうが。
知らない異世界だろうが。
フィレイアと別れた直後だろうが。
使用人として働くお姉さんが、疲れを押し隠して微笑みながら薬湯を運んできたり、濡らした布を替えたり、寝具を整えたりする様子を見ると、心のどこかが即座に反応してしまう。
この日も、年の頃二十代前半ほどの世話係の女性が、銀盆を持って部屋へ入ってきた。
髪は後ろでまとめられている。
顔立ちは素朴だが、近くで見ると意外なほど整っている。
ただ、それを自分で誇る気はまったくなさそうだ。
目元には少しだけ疲れがあり、でも仕事の手は丁寧で、口元には控えめな笑みを忘れない。
「お目覚めになられて、本当によかったです」
彼女はそう言って、薬の入った小さな杯を用意する。
声も柔らかい。
良い。
とても良い。
働くお姉さん。
しかも、由緒ある家に仕えることで育った慎ましい所作。
その上で、疲れを押し隠しつつ業務へ励み、幼い主へ微笑みを向ける。
かなり良い。
と、そこまで思ったところで、平助は脳内で自分に強めのツッコミを入れた。
待て。
いまはそういう時ではない。
状況把握をしろ。
屋敷の構造を見ろ。
家の空気を読め。
お姉さんの良さはあとでもいい。
いや、良くはないが、いま優先順位の一位に置くべきではない。
そう理性で叱責しても、目はつい、そのお姉さんの所作を追ってしまう。
茶器を置く位置。
袖口を乱さない手首の返し。
笑顔はあるが出すぎていない。
主へ向ける距離感を守りながら、でも幼子を不安がらせない程度には柔らかい。
良家の使用人、というのもまた一つの完成された美ではないか、と平助は思った。
そしてすぐにまた我に返る。
駄目だ。
この屋敷、危険が多すぎる。
そんなふうにアルトが無言で世話係のお姉さんの美点を拾っていると、不意に廊下が騒がしくなった。
足音。
複数。
軽く、しかし遠慮がない。
子どものそれではない。年若い少女たちの、抑えきれない勢いを持った足音だ。
扉が開く。
「アルト!」
「起きたの!?」
「本当に!?」
次の瞬間、部屋へ雪崩れ込んできたのは、少女たちだった。
いや、少女というには少し年上だ。
アルトよりずっと成長している。
十代の初めから半ばあたりだろうか。
姉たちだ。
それも、一人ではない。
髪色も顔立ちも少しずつ違う。
だが共通しているものがある。
整っている。
そして、明らかに育ちがよく、能力の片鱗が立ち居振る舞いに滲んでいる。
長女格らしい少女は、落ち着いた色の髪を丁寧に結い上げ、入ってきた勢いに反してすぐに姿勢を正した。
別の姉は活発そうで、ぱっと見で剣の鍛錬でもしていると分かる芯のある体つきをしている。
さらにもう一人は、魔術師系なのか、細い指と静かな目の光り方が印象的だった。
全員、美しい。
しかもただ顔がいいだけではない。
期待され、磨かれ、家の中で将来を見込まれている者の空気がある。
アルトはそこで、幼い脳の奥に残っていた断片がまた繋がるのを感じた。
この家には子どもが多い。
兄も姉もいる。
そして彼ら彼女らは、日中、学院や家庭教師や修練で忙しい。
勇者の家に生まれた者として、それぞれに学び、鍛えられ、期待されている。
「よかった……!」
「ほんとうに、びっくりしたのよ」
「もう少しで……」
姉たちは口々に言いながら、アルトの寝台の周りへ寄ってくる。
その熱量は本物だった。
好きなのだ。
この弟のことが。
かなり本気で。
アルトはすぐにそれを理解した。
たぶんこの身体の元の意識も、姉たちに可愛がられていたのだろう。
だからこそ、ふざけて手すりへ乗って気を引こうなどという愚行に走ったのかもしれない。
だが、そこでアルトの胸を強く抉ったのは、別のものだった。
エルミナだ。
ついさっきまで、寝台の一番近くにいたのは彼女だった。
目覚めた瞬間の、あの心からの安堵も、涙の混じった声も、確かに本物だった。
なのに姉たちが駆け込んできた途端、エルミナは自然に一歩、二歩と引いた。
遠慮したのだ。
笑顔を崩さないまま。
困ったような、でも優しい笑みを浮かべたまま。
寝台のすぐ脇から離れ、部屋の端へ控えるように立つ。
誰かに押しのけられたわけではない。
姉たちも悪気はない。
ただ、あまりにも当然に『自分たちが近くに行く』前提で動いているだけだ。
そしてエルミナもまた、あまりにも自然に、そこを譲る。
その仕草が、平助の心を強く抉った。
痛いほどに。
ああ、この人は、こうやって身を引くことに慣れているのだ。
そう分かってしまったからだ。
姉たちはアルトへ次々と声をかける。
額へ触れ、無事を確かめ、心配したのだと口々に訴える。
その感情は疑いようがない。
彼女たちにとってアルトは、大事な弟なのだ。
だがその輪の外に、エルミナはいる。
一番長く看病していたはずなのに。
目覚めた瞬間に一番近くで泣きそうになっていたはずなのに。
いまは部屋の隅で、少しだけ困ったように、でも誰を責めるでもなく、静かに笑っている。
最悪だった。
いや、この場合の『最悪』は、平助にとってかなり強い『刺さる』でもある。
不遇。
身を引くことに慣れている。
立場を弁えている。
遠慮が先に出る。
でも本当は一番そばにいたかったはずだ。
そこまで見えてしまうと、もはや平助の審美眼は容赦がなかった。
あまりにも、良い。
いけない種類に良い。
ただの『優しい姉』ではない。
ちゃんと不遇がある。
ちゃんと半歩引かされている。
ちゃんと、家の空気の中で自分の立ち位置をわきまえてしまっている。
そこまで分かった瞬間、平助はこの家の構造をもう少し見なければならないと思った。
それから数日、アルトは体調の回復を理由に、屋敷の中をゆっくり観察する時間を得た。
広い。
本当に、広い。
廊下は長く、棟は複数あり、中庭だけでもいくつあるのか分からない。
古い石造りの回廊。
木と石を組み合わせた広間。
先祖の肖像。
武具の飾り。
祈りの場。
訓練用の庭。
書物を収めた部屋。
どこを見ても、『積み重なった家』の重みがある。
そして、使用人も多い。
侍女、執事、庭師、料理人、世話係、護衛。
皆がそれぞれの役割をこなし、無駄なく動いている。
その中で、兄や姉たちの姿も何度か見かけた。
朝から家庭教師と学んでいる姉。
中庭で剣の訓練を受ける兄。
魔法の講義を受ける姉。
皆、忙しい。
そして、明らかに期待されている。
父らしき男と廊下ですれ違った兄へ向けられる、わずかながら誇らしげな目。
母らしき女性が、勉学へ向かう姉の肩へ置く手の重さ。
言葉は短い。
だがその短さの中に、期待と信頼と、『おまえはこの家を背負う側だ』という温度がちゃんとある。
それに対して、エルミナへ向けられるものは違った。
無視ではない。
冷酷でもない。
軽く言葉をかける。
体調を気遣う。
穏やかだ。
だが、その先がない。
期待の重さがない。
訓練の話も、学びの話も、将来への眼差しも向けられない。
『いること』は認められている。
けれど、『前へ出るもの』としては見られていない。
そこにある温度差を、平助は見逃せなかった。
エルミナだけが、日中でも自由にしている。
いや、自由というのも少し違う。
時間があるのだ。
兄姉たちが学院や家庭教師や修練へ忙殺される時間にも、彼女は比較的、身の回りのことや屋敷内の雑事に手を貸しながら過ごしている。
それは一見、穏やかで余裕のある立場にも見える。
だが、実際は違う。
割り当てられていないのだ。
『期待される側の時間』が。
アルトはそこで、ひどく静かに考えた。
複雑な事情があるのかもしれない。
能力が低いからか。
体が弱いからか。
あるいは、もっと家そのものの事情か。
妾の子。
その可能性が、自然と頭をよぎった。
この手の由緒ある家では、別に珍しい話でもない。
表向き丁重に扱われながら、中心からは少しだけ外される。
血は認める。
だが『背負わせる側』には置かない。
そういう半端な位置。
もしそうだとしたら。
エルミナの、あの身の引き方。
あの困ったような笑み。
あの『一歩退くのが自然』みたいな在り方。
全部に説明がついてしまう。
そして、それが分かってしまうと、平助の審美眼はもう完全に駄目だった。
あまりにも、良い。
いや、人の不遇を『良い』と言うのは倫理的にどうなのか。
自分でも分かっている。
分かってはいる。
だが平助の愛は、いつだって『そこへ押しやられた美しさ』に反応してしまうのだ。
前へ立てない。
でも立てるだけのものを持っている。
期待される側の輪から少し外されている。
それでも優しく、穏やかに、身近な誰かへ心を尽くしている。
そんなもの、好きにならない方が無理だろう。
もちろん、その好きは肉欲だけではない。
いや、肉欲がゼロとは言わないが、それよりずっと深い。
守りたい。
支えたい。
この人が、自分を引かなくていい場所を作りたい。
そういう、ひどく真っ当で、それゆえに余計に危うい感情が、平助の内側で静かに根を張り始めていた。
愛そう、とアルトは思った。
姉として。
自分を一番近くで看病してくれた人として。
そして、この家の中で、少しだけ隅へ押しやられている人として。
かなり本気で。
全力で支えよう。
この異世界で最初に自分へ心から手を差し伸べてくれたこの姉を、できる限り大切にしよう。
その誓いは、驚くほど自然に胸の中へ落ちた。
そして同時に、平助は思う。
フィレイア。
見ているか。
おまえが与えた知識も、見つける目も、たぶんもう始まっている。
白の狭間で百年かけて煮詰めた変態は、やはりこの世界でも、見逃してはくれないらしい。
その日の夕方、エルミナはまたアルトの部屋を訪れた。
薬湯と、小さな皿に載せた果物。
表情は穏やかだ。
疲れはまだ抜けていない。
それでも笑う。
「少しずつ顔色がよくなってきたわね」
そう言って、寝台の脇へ座る。
いまは他の姉たちがいない。
だから、彼女は一番近い場所にいていい。
その事実だけで、アルトの胸は妙に満たされた。
「エルミナ」
アルトは呼ぶ。
「なあに?」
「……ずっと、いてくれたの?」
幼い声で問うと、エルミナは少しだけ目を丸くした。
それから、困ったように、でもとても優しく笑う。
「ええ」
「……」
「心配だったもの」
「……」
「あなたが起きるまで、ちゃんとそばにいようって決めていたの」
それはたぶん、本心だった。
望んでそばにいてくれた。
そこに嘘はない。
その上で、この家の中で彼女に与えられている立場が、少しだけ『そうできる側』へ押しやられているのもまた本当なのだろう。
その両方がある。
だからこそ、余計に胸を打つ。
アルトは毛布の上で小さな手を握った。
幼い手だ。
まだ何もできない。
だが内側には平助がいる。
フィレイアの書庫を読破しようとした知識の蓄積がある。
できることは、きっとこれから増える。
「……ぼく」
「うん?」
「つよくなる」
エルミナが瞬く。
「エルミナのこと、まもる」
言ってしまってから、少しだけ早かったかと思った。
三歳児だか四歳児だか分からない幼子の口から出るには、ずいぶん大仰だ。
だがエルミナは笑わなかった。
少しだけ、泣きそうな顔で微笑んだ。
「ありがとう」
彼女は言う。
「でも、今はまだ、守られる側でいてちょうだい」
その言い方も、また良かった。
自分は守られる価値がない、とは言わない。
ただ、いまはまだ子どもだからと言う。
そうやって優しく受け止める。
平助はその返しに胸を射抜かれながら、同時に強く思う。
やはり、この姉は、かなり大切にしなければならない。
かなり本気で。
この家の中で。
この勇者の家系の中で。
半歩引いてしまう癖ごと、ちゃんと支えたい。
そしてもちろん、変態性の方も相変わらず健在だった。
こんなふうに優しく笑われて、看病の名残を目元に残したまま果物の皿を差し出されれば、そりゃ刺さる。
刺さらない方がおかしい。
フィレイアとの別れで胸が裂けそうになった直後だというのに、異世界の姉へ向けて『ああ、良い……』などと思ってしまうあたり、自分という存在の一貫性には、もはや感心すら覚える。
救いようがない。
だが、その救いようのなさごと、きっとこの世界で使い切ってやる。
アルトはエルミナを見上げて、幼い声で、しかし内心ではかなり重く、もう一度誓った。
この姉を、ちゃんと支える。
この家の中で、彼女が引きすぎなくていいように。
そして、フィレイアへ届くくらい、全力で。




