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第9話 口づけは、最後にいちばん面倒な頁で

 別れが現実になると、人は急に足元を失う。


 それが薄々分かっていたことであっても。

 いつか来ると知っていたことであっても。

 言葉として突きつけられ、輪郭を持った瞬間、それまでどうにか立っていた床の意味が一気に変わってしまう。


 白い書庫は、相変わらず静かだった。


 棚は並んでいる。

 頁の匂いもある。

 平助の読む席も、フィレイアが茶を置く卓も、途中まで読みかけた本も、積まれた理論書も、脇に避けられた焼き菓子の皿も、何一つ壊れてはいない。


 なのに、もう、同じではなかった。


 ここを離れるのだ。


 そう思った瞬間から、この静かな白と書架の群れは、手を伸ばせば届くものではなく、指の隙間からすでに零れ始めている何かへ変わってしまっていた。


 平助は黙っていた。


 言葉を探していたわけではない。

 むしろ言葉にしてしまえば駄目になる気がした。

 この空間は、言葉のために築かれたようでいて、同時に言葉にしすぎないことで守られてきた時間でもある。

 茶の濃さ。

 棚の並び。

 何気ない補助線。

 焼き菓子の焼き色。

 視線を逸らすまでの一拍。

 そういうものの方が、きっとずっと多くを語ってきた。


 その全部を、もう、日常としては受け取れなくなる。


 胸の奥に、どうしようもなく重いものが落ちていく。


 平助は立っている。

 立ってはいるが、内側では、ほんの少しでも気を抜けば膝から崩れそうだった。


 崩れたら、たぶんそのまま動けなくなる。

 この白い空間に額をつけて、「やっぱりもう少し読ませてほしい」とか、「いや、読書ではなくあなたのそばにいたいのだと思います」とか、そういう類の最低で本当の本音が全部溢れ出してしまう。


 そんなのは駄目だ。


 駄目なのだ。


 ここまできて、最後にただ縋りつくみたいな形で終わるのは、あまりにもこの空間に対して失礼だと、変なところで育った平助の変態的倫理観が静かに告げていた。


 だから彼は、持ち前の思考へ逃げ込んだ。


 逃げ込む、というと響きは悪い。

 だが実際、平助にとって変態的思考とは、時に理性そのものでもある。


 この書庫は何だったか。


 知識の女神が管理する無限の蔵書。

 しかし、百年を経た平助にとっては、それだけではない。


 フィレイアの選び方。

 フィレイアの置き方。

 フィレイアの残し方。

 フィレイアがどの異説を捨てず、どの未完成を許し、どの不器用な理論へ静かに居場所を与えるか。

 それら全部が、この空間に染みついている。


 つまりこれは、もはや書庫ではない。


 フィレイアの身体の延長だ。


 いや、身体というと少し生々しすぎるかもしれない。

 だが、彼女が知識をどう愛し、どう守り、どう差し出すか、その内側がそのまま空間になっている以上、平助にとってはそうとしか言いようがなかった。


 白い棚の一つひとつが、彼女の思考だ。

 並びは彼女の呼吸だ。

 差し出された一冊一冊は、百年ぶんの眼差しそのものだ。


 そこから離れるのだ。


 愛する者の身体から、ゆっくりと引き剥がされるようなものではないか。


 そこまで思考が辿り着いた瞬間、平助は危うく本当に膝を折りそうになった。


 あまりにも。


 あまりにも、つらい。


 つらいが、ここで沈んではならない。

 沈めばきっと、フィレイアをもっと苦しめる。

 彼女だって、平助がこの空間をどれほど深く読んでいたか知っている。

 知っているからこそ、いまここで平助が崩れれば、その意味を誰より先に理解してしまう。


 それは、あまりにも痛い。


 だから平助は立っていた。


 立って、白い棚の群れを見て、これまでの百年を、ひどく丁寧に胸へ押し込んでいく。


 最初の一冊。

 右の列から読めと言われた日のこと。

 知識の加護で文字が自然にほどけた瞬間。

 焼き色のむらがある不慣れな焼き菓子。

 そこへ出たフィレイアの性格。

 少しずつ増えていった会話。

 自分のためにずらされた棚。

 『嫌いじゃない』と、顔を赤くして落とされた一言。

 自分を前提に、少しずつ変わっていった彼女の時間。


 全部、ここにある。


 だからこそ、離れるのが苦しい。


 平助はそこで、静かに息を吸った。


 吸いながら、自分の喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じる。

 泣く、というのとは違う。

 自分はたぶん、泣くのがうまくない。

 だが、泣けないから平気なわけでもない。

 ただ熱だけが、胸の内側でゆっくりと満ちていく。


「……平助」


 呼ばれて、平助は顔を上げた。


 フィレイアが、少し離れた場所に立っている。

 本を持っていない。

 茶器もない。

 いつものような『何かのついで』の顔でもない。


 ただ、まっすぐこちらを見ていた。


 その目を見た瞬間、平助は思う。


 やはり、この人は全部分かっている。


 分からないわけがない。

 百年も、こちらの変態的で濃密な熱を浴び続けてきたのだ。

 ページをめくる速度の違いすら読む女が、この期に及んで平助の一挙手一投足を見落とすはずがない。


 いま自分が、どれほど必死に立っているか。

 どれほど胸の内側で引き裂かれそうになっているか。

 どれほどこの書庫から、そして彼女から離れがたいと思っているか。


 全部、分かってしまっている。


 それを思うと、平助は、少しだけ笑いたくなった。


 最後まで、読まれている。


 知識の女神に、読む側のすべてを。


 その事実が、ひどく苦しく、同時にどうしようもなく嬉しかった。


 フィレイアは一歩、近づいた。


 それはとても自然な動きだった。

 ためらいがなかったわけではない。

 だが、ためらいより先に身体が動いてしまったような歩みだった。


 たぶん、彼女の中で愛おしさが勝ったのだ。


 役割より。

 理屈より。

 転生の手順より。

 知識の女神としての線引きより。


 目の前で、今にも崩れそうなのに、それでも最後まで『ちゃんと立とうとしている平助』の姿が、どうしようもなく愛おしかったのだろう。


 その歩みがあまりにも自然で、あまりにも切実で、平助は逆に動けなかった。


 フィレイアはさらに近づく。


 白い衣が、わずかに揺れる。

 長い髪が肩を滑る。

 その表情は、もう百年前の『面倒な転生者を相手にする女神』ではない。


 困っている。

 赤くもなっている。

 震えてもいる。

 それでも、目だけは逸らさない。


 ああ、と平助は思う。


 この人は今、知識の女神ではなく、一人の女性としてこちらへ来ている。


「……平助」

 もう一度、フィレイアが名を呼ぶ。

 その響きは、今まで何度も聞いたはずなのに、今日は違っていた。

「はい」

 平助は答える。

 答えながら、自分の声が少しだけ掠れていることに気づいた。


 フィレイアは、そのわずかな掠れにさえきっと気づいている。


「あなた」

 彼女が言う。

「……本当に、最後まで」

「はい」

「そういう顔をするのね」

「……どういう顔ですか」

「行きたくないくせに、ちゃんと行こうとする顔」

「……」

「読めなくなるのがつらいくせに、それだけじゃないって、隠しきれてない顔」


 平助は、そこでほんの少しだけ目を閉じた。


 駄目だ。


 やはり全部見抜かれている。


 見抜かれて、なお、その言い方に棘がない。

 責めるでもなく、からかうでもなく、ただ『分かっている』と伝えるだけの声。


 それが、胸に深く刺さる。


「……フィレイアさん」

「なに」

「そういうところです」

「……」

「本当に」

「……最後まで、それを言うの」

「言います」

「気持ち悪い」

「ありがとうございます」

「褒めてない」

「知ってます」


 フィレイアの唇が、ほんの少しだけ震えた。


 笑ったのではない。

 泣き出しそうなのを、たぶん堪えたのだ。


 その震えを見た瞬間、平助の中で最後の理性がひどく静かに溶けた。


 ああ。


 もう、これは。


 たぶん、愛なのだろう。


 好きだとか、刺さるとか、そういう変態的な語彙だけではもう足りない。

 百年かけて本を読み、彼女を読み、彼女の空間に棲みつき、彼女に棲みつかれて、そうして最後にこの顔を見るのだ。

 それを愛と呼ばずに、何と呼べばいいのか、平助にはもう分からなかった。


 フィレイアはさらに一歩だけ近づいた。


 平助との距離が、ほとんど呼吸の届くところまで縮まる。


 その瞬間、白い書庫の匂いが少しだけ変わった気がした。

 いや、変わったのではない。

 彼女の匂いが、近づいたのだ。


 紙と茶と、焼き菓子に移った甘さと、でもそれだけではない、ごく薄い、フィレイア自身の匂い。


 平助の心臓が、痛いほど鳴る。


「……私」

 フィレイアが言う。

 声が少し震えている。

「本当は、ちゃんと送り出すべきなの」

「……」

「知識の女神として」

「はい」

「そうするのが、正しい」

「はい」

「分かってる」

「……」

「でも」

「……」

「いま、それだけじゃ……無理」


 その『無理』が落ちた瞬間、平助は、ほとんど息を呑むこともできなかった。


 フィレイアの頬が赤い。

 耳も。

 目元も少しだけ熱を持っている。

 知識を司り、理屈で自分を支えてきた女性が、その理屈の外側で、いま、ただ溢れたものへ従っている。


 それがどれほどすごいことか、百年かけて彼女を読んできた平助には、痛いほど分かった。


 だから、次の動きが起こった時、平助はもう、ただ受け取ることしかできなかった。


 フィレイアが、そっと手を伸ばす。


 平助の胸元に触れる。

 服越しのその感触は、ごく軽い。

 けれど彼女の指先は少し冷えていて、微かに震えていた。


 それから、彼女は平助の顔を見上げる。


 そして、ごく自然に――本当に、ごく自然に――その唇を重ねた。


 くちづけだった。


 百年分の理屈が、そこで静かに終わる。


 甘い、とか、熱い、とか、そういう分かりやすい感覚より先に、平助は『静かだ』と思った。

 静かで、でもまったく冷たくない。

 震えていて、でも逃げない。

 不器用で、でもこれ以上ないくらい真っ直ぐだった。


 フィレイアの口づけは、彼女そのものだった。


 前に出ることに慣れていない。

 華やかに奪うことも知らない。

 けれど、一度だけ、自分の全部を差し出すと決めた時の強さが、そこにはあった。


 平助の胸が、ぐしゃりと音を立てて崩れそうになる。


 膝から落ちる寸前、彼はかろうじて立っていた。

 立っていられたのは、たぶん、その口づけの中に、百年ぶんの知識と生活と愛しさが詰まっていたからだ。


 フィレイアが唇を離す。


 距離はまだ近い。

 近いまま、彼女は目を伏せ、それからまた少しだけ見上げた。


「……行って」

 小さく、震える声で言う。

「ちゃんと、行って」

「……はい」

「あなたは、行くべきだから」

「……」

「でも」

「……」

「忘れないで」


 その言葉に、平助は笑った。


 泣く代わりみたいに。

 いや、もしかすると少し泣いていたのかもしれない。

 だが少なくとも、その笑みは、最初に死んだ時の恍惚とも違った。


「忘れません」

 平助は言う。

「無理です」

「……そう」

「だって、ここまで読ませてもらって」

「……」

「ここまで、あなたを読んでしまったので」

「……っ」


 フィレイアの目が、そこで決定的に潤んだ。


 平助は最後に、その顔を見た。


 赤くて。

 震えていて。

 知識の女神の理性がもうほとんど意味を持たないほど、一人の女性として溢れてしまっている顔。


 そして、白い空間が揺らぐ。


 転生の力だろう。

 アウレリアが、少し離れた位置で静かに見ている気配がある。

 彼女ももう、何も言わない。

 この二人に挟まって何かを差し挟むには、今この場はあまりにも濃密すぎたのだろう。


 白が強くなる。

 書棚の輪郭が少しずつほどける。

 フィレイアの顔だけが最後まで残る。


 平助は、その残像に向かって、ただ一つだけ思った。


 ああ。


 この人と出会えてよかった。


 司書のお姉さんを庇って死んだことも。

 死後にこの書庫へ迷い込んだことも。

 変態のまま百年読み続けたことも。

 全部、きっとここへ繋がっていたのだ。


 そして次の瞬間、平助の姿は、白の中から消えた。


      *


 静寂が落ちた。


 書庫は相変わらず白く、棚は並んでいる。

 頁の匂いもある。

 茶器も、読みかけの本も、平助がさっきまでいた席も、そのままだ。


 そのままなのに、そこだけが決定的に空いていた。


 フィレイアはしばらく立っていた。


 立ったまま、何も言わない。

 いや、言えないのだ。


 百年。

 百年ものあいだ、自分の知識と書庫と時間へ棲みついていた男が、もうここにはいない。


 その事実が、少し遅れて、だが容赦なく、彼女の胸の中へ広がっていく。


 空いた席。

 置きっぱなしの本。

 その本へ自然に伸びかけて、でももう取る人がいないことに気づく手。

 次に差し出すつもりで、半ば選びかけていた一冊。

 全部が、遅れて喪失へ変わる。


「……っ」


 フィレイアの喉から、ひどく小さな音が漏れた。


 それを合図みたいに、足から力が抜ける。


 彼女は平助がいた場所へ歩き、そして、その場に膝をついた。


 白い床へ、指先が触れる。

 何もない。

 当然だ。

 そこにはもう、何も残っていない。


 それでもフィレイアは、その『何もない場所』へ手を置いたまま、静かに泣き崩れた。


 知識の女神ではない。

 役割でもない。

 理屈でもない。


 ただ、一人の女として。


 百年かけて好きになってしまった男を送り出した場所で、ようやく、その喪失に身体ごと追いついてしまった女として。


「……っ、平助……」


 初めて、彼の名がそんな音になる。


 静かに、壊れるみたいに。


 アウレリアはその姿を見て、しばらく何も言わなかった。


 言えなかったのかもしれない。

 美を司る女神として、恋も愛も、飾り立てられた熱情も数多く見てきただろう。

 けれど、これほど静かで、これほど深く、これほど不器用に煮詰められた愛は、さすがの彼女にも想定の外だったのだ。


 やがて、アウレリアはゆっくりと歩み寄る。


 白い床に膝をつき、泣き崩れるフィレイアの背後へまわる。

 そして、何も言わずに、そっとその身体を抱きしめた。


 フィレイアは抵抗しなかった。

 振りほどく余裕もなかったのだろう。


 アウレリアの腕は温かかった。

 華やかな美の女神の抱擁は、思っていたよりずっと静かだった。


「……よく我慢したわね」

 アウレリアが、小さく言う。

「百年も」

「……」

「よく、送り出した」

「……っ」

「えらい、とは言わないけど」

「……」

「でも、ちゃんと愛していたのね」


 フィレイアは答えない。

 答えないまま、肩を震わせる。


 その震えを、アウレリアはただ受け止めた。


 白い書庫の中に、もう平助はいない。

 けれど、彼が読んだ本も、触れた棚も、置き残した時間も、全部ここにある。


 そしてそれを一番深く知っているのは、泣き崩れるフィレイア自身だった。


 だから、彼女はしばらく、泣いた。


 知識の女神としてではなく。

 ようやく、自分の愛が何であったのかを知ってしまった、一人の女として。


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