第8話 期限を告げる女神
百年も経てば、さすがに空気は変わる。
もちろん白い空間は相変わらず白い。
床も、壁も、距離感も、どこまで行っても曖昧なままだ。
書庫の棚は静かに立ち並び、頁の匂いは深まり、フィレイアの差し出す茶は少しずつ安定し、焼き菓子はもはや完全に『上手い』領域へ届いていた。
変わったのは、そこに住む二人の呼吸だった。
平助は、本を読む。
フィレイアは、その少し先にいる。
この構図だけなら、最初の頃と同じに見えるかもしれない。
だが百年という時間は、その『少し先』の意味をじわじわと変えてしまうには十分すぎた。
たとえば。
平助がある本へ手を伸ばすより先に、フィレイアは次に必要な一冊を差し出せるようになっていた。
しかもそれは、単に体系を把握しているからではない。平助がどの手の論理展開に引っかかり、どの書き手の不器用さに好意を示し、どこで脚注へ沈み込み、どの瞬間に理論ではなく『そこに滲んだ人間の癖』へ目を奪われるのかまで知っているからこそできる選び方だった。
そして、平助の方もまた。
フィレイアがその日どんな温度で本を差し出してきたか。
焼き菓子の焼き色が今日は少し濃いこと。
言い訳に使った理屈がいつもより一段雑なこと。
頁をめくる速度が遅いこと。
自分から会話を切り出したいのに、その切り口だけが見つからず、結局「……それ、どう?」みたいな不器用極まりない問いへ着地してしまうこと。
その全部を、もう、読むまでもなく知っていた。
知りすぎていた。
言ってしまえば、それは共犯関係だった。
知識を与える女神と、それを欲しがる転生者。
という建前は、百年のどこかでとうに崩れている。
崩れているのに、二人とも明確にはそこへ触れない。
フィレイアは『加護の運用』だとか『知識欲の補助』だとか、毎回少しずつ形を変えた言い訳を手元へ置き続けた。
平助はそれを毎回見抜き、そのたびに愛で、そのたびに嬉しそうに受け取った。
つまり、もはやどうしようもない。
白い書庫の奥、読書用に整えられた一角には、平助の定位置ができていた。
最初はただの椅子だった。
そこへ読書用の台が置かれ、筆記具じみた補助具が増え、書きかけの整理メモめいたものが生まれ、気づけば『平助が最も効率よく本へ沈める場所』として完全に整っていた。
それを整えたのは誰か。
言うまでもない。
フィレイアである。
もちろん本人は、その事実を認めない。
認めないが、現実としてそこはもう、フィレイアが平助のために作り上げた席だった。
その日も平助はそこにいた。
手元には、かなり古い理論書が二冊。
片方は理論が粗く、片方はその粗さを嫌って組み上げ直した後代の本だ。
平助は交互に頁を追いながら、時折、ふっと笑う。
「……楽しい?」
フィレイアが訊いた。
少し離れた位置。
白い卓の向こうで、彼女は茶器を整えている。
その所作は昔よりずっと滑らかになったが、それでも稀に、自分でも気づかない程度の小さなためらいを残す。そこがいいのだと平助は百年前から言っている。
「かなり」
平助は本から顔を上げずに言う。
「前時代の理論の雑さって、やっぱりいいですね」
「またそれ」
「だって、完成されてないからこそ見えるものがある」
「はいはい」
「フィレイアさん、いま流しましたね」
「流した」
「ひどい」
「あなたの好みの傾向に関しては、もう百年分くらい聞いてるの」
「ではご理解いただけて」
「気持ち悪いくらいには」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
このやり取りも、百年続けば、もはや呼吸に近い。
フィレイアは茶を置く。
平助は本を閉じる。
閉じる前に栞を挟む位置すら、フィレイアはもう知っている。
どこで切ればこの男が次に再開しやすいか、理解しているからだ。
「今日は少し苦め」
フィレイアが言った。
「さっきの本、妙に熱量が高かったから」
「調整ですか」
「知識欲のため」
「なるほど」
「……何」
「いえ」
「絶対に何か思ってる」
「思ってます」
「言わなくていい」
「だいぶ生活の一部ですね」
「……」
「私の」
「……そうね」
「認めました」
「お茶が、ね」
「惜しい」
「全然惜しくない」
フィレイアはそう言って、茶器を置いた。
その横顔を見て、平助は思う。
本当に、この人は変わった。
最初の頃は、必要最低限の言葉しか使わなかった。
ため息は多かったし、気怠げだったし、こちらを『今回の転生者』として処理しようとしていた。
いまも気怠げではある。ため息もつく。
だが、その内側の温度が違う。
平助が読む時の姿勢を知っている。
好きな茶の濃さを知っている。
沈み込みすぎた時にどんな本を差し出せば視野が広がるかも知っている。
そして何より、自分が何かを差し出した時、平助がどれほど嬉しそうな顔をするかを、知りきってしまっている。
それが、この空間を完全に壊していた。
女神と転生者の距離ではない。
管理者と利用者の距離でもない。
もっと、ひどく私的だ。
もっと、説明しづらい。
その時だった。
白い空間に、ひどく場違いな色が差した。
金。
いや、金というだけでは足りない。
もっと明るく、もっとあからさまに『見てくれ』と主張する光だ。
白の中では異物でしかない、完成された美の輪郭。
平助が顔を上げるより先に、フィレイアの手が止まった。
それだけで十分だった。
ああ、と平助は思う。
これは、外から来た。
しかも、フィレイアにとって、あまり歓迎しづらい種類の『外』だ。
白の向こうから現れた女性は、文字通り、美しかった。
誰がどう見ても、主役級どころではない。
前へ出ることを前提に造られたような顔立ち。
金色の髪は光を編んだみたいに滑らかで、瞳は眩しいほど整った色をしている。
装いもまた、フィレイアのそれとは正反対だった。華美だが下品ではない。豪奢だが重すぎない。
美を司る神格が『私はここにいる』と沈黙だけで言い切るための存在感。
アウレリア。
美の女神は、白い書庫とその中心にいる二人を眺め、そして、かなりあからさまに眉を上げた。
「……まあ」
第一声がそれだった。
驚き半分、呆れ半分。
いや、呆れが七割くらいあったかもしれない。
「これはまた、ずいぶんと……」
アウレリアが視線を巡らせる。
「濃い空間にしてくれたわね」
その表現はかなり控えめだった。
実際のところ、この白い書庫の一角には、もう完全に『二人の生活』が染みついている。
平助の読む席。
フィレイアが茶を置く位置。
焼き菓子の皿。
読みかけの本の山。
会話の残り香。
百年ぶんの知識と変態性が、静かな熱として充満しきっている空間だった。
美の女神からすれば、許容範囲を大幅に超えているのも無理はない。
「アウレリア」
フィレイアが言った。
声は平坦だったが、ほんの少しだけ硬い。
「何しに来たの」
「何しに来たの、じゃないでしょう」
アウレリアは即答した。
「むしろ、ようやく来た、でしょ」
「……」
「期限切れよ、フィレイア」
その一言で、空気が変わった。
白い空間は相変わらず白い。
棚も動かない。
頁の匂いもある。
だがその中へ、『終わり』の輪郭だけが急に差し込んだ。
平助は黙って二人を見た。
期限切れ。
つまり、そういうことか。
本来なら小一時間で終わるはずだった転生相談。
それが百年。
普通に考えれば、あり得ない。
あり得ないが、ここまで来ると平助もだいぶ感覚が壊れていた。読む本があり、フィレイアがいて、会話があり、茶があり、生活がある。それが続くことを、どこか当然みたいに受け取り始めていた。
だが、外から見れば異常だ。
アウレリアは一歩、書庫の方へ入ってくる。
その存在感だけで、白の均一さがわずかに押しのけられる。
フィレイアの気配とは真逆だ。隅へ沈むのではなく、いるだけで空間の中央を奪う美。
それを見て、平助は素直に思った。
なるほど。
美の女神だ。
分かりやすい。
極めて分かりやすい。
その分、フィレイアの良さとは対極にある。
「……久しぶりね」
アウレリアが平助を見た。
「あなたが例の転生者?」
「おそらく」
「おそらく、って」
「もう百年くらい経ってるので、だいぶ感覚が曖昧で」
「……本当にやったのね」
「何を」
「百年」
「読みたかったので」
「そういう問題じゃないのよ」
アウレリアはそこで、はっきりと溜息をついた。
その溜息は、フィレイアのものと違って少し芝居がかっている。
見せるための溜息だ。
それ自体が美しく収まるようにできている。
悪くはない。
悪くはないが、平助の嗜好の中心には来ない。
そういう意味では、平助はこんな場面でも変態として一貫していた。
アウレリアは視線をフィレイアへ戻す。
「あなたもよ」
「……」
「転生者一人に、どれだけ居つかせる気だったの」
「別に、居つかせたわけじゃ」
「読ませたんでしょう」
「加護の運用で」
「焼き菓子まで?」
「……」
「料理まで?」
「……」
「棚の最適化まで?」
「……」
「ねえフィレイア」
アウレリアが言う。
「自分で言ってて無理があると思わなかった?」
フィレイアの耳が、すっと赤くなった。
それを見た瞬間、平助の胸が熱くなる。
ああ、駄目だ。
こういうところだ。
外から言語化されてしまうと一気に恥ずかしくなる。
自分では『加護の運用』で押し切ってきたのに、他の女神に『それ、甘やかしでしょう』と真正面から指摘されると、誤魔化しが利かない。
その崩れ方が、たまらなく愛おしい。
「……必要だったの」
フィレイアが言った。
小さく、だがはっきりと。
「知識を定着させるには、単調さを崩した方が効率がいいし」
「まだ言うのね」
「それに、彼は本当に読むから」
「ええ、見れば分かるわ」
「なら」
「でも、百年は長いのよ」
そこへ、平助が静かに口を挟んだ。
「私は、かなり感謝しています」
アウレリアがこちらを見る。
「聞いてない」
「でも言います」
「図太いわね」
「わりと」
「ええ、見れば分かる」
平助は本を閉じ、椅子から立ち上がった。
美の女神を前にしても、別に気後れはない。
もちろん、美しいとは思う。
だが、だからといって平助の熱が引くわけではなかった。
むしろ、ここでフィレイアが少し後ろへ引きそうになっているなら、その分だけ前へ出るべきなのだと、百年かけて鍛えられた変態的倫理観が静かに告げていた。
「フィレイアさんの加護は、私の来世をかなり大きく変えると思います」
「……」
「蔵書も、棚も、差し出してくれた本も、全部」
「……」
「それに」
「まだあるの」
「あります」
平助は真顔で続けた。
「自己評価の低い知識の女神が、加護と言い張りながら不慣れな料理を差し出してくる過程は、かなり」
「平助」
フィレイアが低く呼んだ。
かなり赤い。
「黙って」
「はい」
「遅い」
アウレリアはそれを見て、数秒、完全に黙った。
そして次の瞬間、呆れを通り越した顔で額へ手を当てた。
「……本当に、そういう関係になってるじゃない」
「違う」
フィレイアが即答する。
「違わないわよ」
「違う」
「百年も引き留めておいて?」
「引き留めてない」
「棚を動かして?」
「効率のため」
「料理までして?」
「知識欲のため」
「赤くなって?」
「それは」
「それは?」
フィレイアが口を噤む。
言えない。
言えないが、答えはかなりはっきり出ている。
アウレリアはそこで、少しだけ視線をやわらげた。
美しいだけの女ではないらしい。
少なくとも、フィレイアへ向ける目には、呆れと同時に長年の付き合いが滲んでいた。
「……フィレイア」
「……」
「もう時間よ」
「……」
「転生者は送り出さなきゃいけない」
「……分かってる」
「本当に?」
「分かってる」
その『分かってる』は、今まで平助が聞いてきたどのフィレイアの声よりも静かで、弱かった。
平助の胸が、ひどくきしんだ。
ああ、と彼は思う。
来たのだ。
ついに、本当に。
読書生活の終わりが。
白い空間の、二人だけで濃密に煮詰めてきた時間の終わりが。
それはどこかで分かっていた。
本来なら小一時間。
百年も続いた方がおかしい。
いまさらそんなことは、平助にだって分かる。
分かる。
分かるのだが。
いざ、それが外からはっきり言葉になると、想像していたよりずっと、きつい。
フィレイアは本を抱えたまま立っている。
逃げない。
誤魔化さない。
だが、その指先には少しだけ力が入っていた。
平助はその手を見てしまう。
見て、そして、どうしようもなく思ってしまう。
離したくないんだな、と。
その感情を、フィレイア本人より先に読み取ってしまう自分の変態性も相変わらずだが、仕方がない。百年もかけて読んできたのだ。
頁の折れ方みたいな小さな変化すら見逃せない。
「……アウレリアさん」
平助が言う。
「何かしら」
「少しだけ質問を」
「少しだけなら」
「フィレイアさんは、私に何を与えますか」
「今さら?」
「今だからです」
アウレリアは一瞬だけフィレイアを見る。
フィレイアは目を伏せた。
それから、アウレリアが答える。
「私からは『容姿端麗』」
「なるほど」
「ええ」
「分かりやすい」
「そういうものよ」
アウレリアがわずかに唇を上げた。
自負がある。
そこは隠さない。
「でも」
平助が言う。
「一番大きいのは、やっぱりフィレイアさんの方ですね」
「……」
「知識の加護」
「……そうね」
アウレリアが先に答える。
「その点に関しては、私も異論はないわ」
「なら十分です」
「潔いのね」
「かなり」
「……変わってる」
「よく言われます」
「でしょうね」
アウレリアはそこで、初めて少しだけ面白そうに笑った。
美の女神の笑みは、当然ながら綺麗だった。
だが平助の心を深く持っていくのは、やはりその隣で赤くなったまま言葉を探しているフィレイアの方だった。
堂々としている。
美の女神を前にしても、自分の変態性は少しも揺るがない。
その事実に、平助は妙な誇りすら感じていた。
大事なのは、見つけるべきものを見失わないことだ。
相手が美の女神だろうと何だろうと、自分にとって最も尊いものは、いま目の前で、知識と不器用さと自己評価の低さを抱えたまま立っているこの女性なのだから。
「……平助」
フィレイアが言った。
百年の間、何度も呼ばれた名前。
だが今日は少し響きが違う。
「もう、準備をしないと」
「はい」
「……」
「フィレイアさん」
「なに」
「いま、かなり嫌そうですね」
「……」
「そこが」
「言わなくていい」
「愛しいです」
「……っ」
また赤くなる。
最後まで本当に、それである。
アウレリアはそのやり取りを見て、とうとう肩をすくめた。
「……あなたたち、本当に救いがないわね」
「光栄です」
「褒めてないのよ」
「今日はそういう方が多いですね」
「よくそれで生きてこられたわね」
「一度死んでます」
「そうだったわね」
白い空間に、短い沈黙が落ちる。
そしてその沈黙の中で、終わりだけが、じわじわと輪郭を持ちはじめる。
もう読めないのだろうか。
この書庫を、今までみたいには。
もう、フィレイアの差し出す本も、茶も、焼き菓子も、日常としては受け取れないのだろうか。
思った瞬間、平助は、自分の中でそれが想像以上に大きな痛みになっていることを知った。
知識の女神の書庫に棲みつき、百年も読んだ変態。
その実、いちばん深く根を張っていたのは、知識だけではなかったのだ。
それに、ようやく気づき始めていた。




