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第7話 百年かけて、君を読む

 百年、という言葉は便利だ。


 長さだけを伝えるなら、それで足りる。

 ひどく長い。

 人の一生より長いこともある。

 想像するだけで気が遠くなる時間。

 そういう意味では、たしかに便利だ。


 だが、実際にそこへいた側からすると、百年という単語は少し雑すぎる。


 そこには、もっと細かい積み重ねがある。


 一冊目の本を開いた日の沈黙。

 二十冊目を読み終えて、フィレイアの棚の癖に初めて確信を持った時の興奮。

 三百冊目くらいで、もう感想を口にする前からフィレイアが「そこに引っかかったのね」と分かるようになったこと。

 焼き菓子の焦げが減っていったこと。

 会話の切り出しが少しずつ不自然でなくなっていったこと。

 それでも、たまに妙な遠回りをしてしまうところは最後まで直らなかったこと。


 百年とは、そういうものの集積だった。


 出芭平助は、読んだ。


 本当に、読むだけの時間が与えられたなら、人間はどこまで読むのか。

 その実験を死後の空間で延々と続けたようなものだった。


 理論書を読む。

 その理論の前史を読む。

 反証を読む。

 反証への再反論を読む。

 そこから派生した別流派を読む。

 ある地域だけで独自に育った解釈体系を読む。

 異種族の認識論に手を出し、途中で前提となる感覚器官の差に頭を抱え、フィレイアから「だから先にこっちを読めと言ったのに」と静かに刺される。

 古い魔導書を読み、粗い理論の中にだけある直感的な鋭さへ痺れる。

 新しい実践書を読み、洗練されたぶん失われた熱量の不格好さに寂しさすら覚える。


 そして、その全部の途中途中で、フィレイアがいる。


 最初の頃、彼女は『様子を見に来る女神』だった。


「……それ、どう?」

「かなり良いです」

「そう」

「特に後半、急に脚注が人格を持ち始めるところが」

「そこを見るのね」

「見ます」

「でしょうね」


 その程度の、まだ距離のあるやり取り。


 だが、本を重ねるごとに、その距離は少しずつ変わっていった。


 フィレイアは、平助が何を読むと喜ぶかを把握していく。

 どこで躓き、どこで目を輝かせ、どの手の書き手に対して「この不器用な理論構築、すごく好きです」と危険な好意を向けるのかを知る。

 平助の方も、フィレイアがどの本を『残す側』の判断で置いているのか、その選び方がどういう時に少し甘くなるのか、逆にどういう思想へは容赦なく批判的になるのかを読み取っていく。


 書庫とは、いつの間にか二人の会話そのものになっていた。


 平助は本を読む。

 フィレイアは本を置く。

 平助が感想を述べる。

 フィレイアが補足する。

 平助がその補足にある『説明の癖』を見つける。

 フィレイアが少し赤くなる。

 その赤さに平助の変態性がまた磨かれる。


 危険な循環だった。


 だが何より危険なのは、フィレイアがそれを、途中からかなり楽しんでいたことだ。


 もちろん彼女はそんなふうには言わない。


 言わないし、自分でも最初のうちは認めていなかっただろう。

 あくまでこれは、転生者への知識付与であり、知識の加護の運用であり、自分の蔵書を理解できる相手が現れたことへの、管理者としての当然の対応でしかない。

 そう思おうとしていた。


 だが、無理だった。


 平助は本を読むだけでなく、読むことそのものを誰かと共有する喜びを、フィレイアへ容赦なく返してしまう男だったからだ。


「これ」

 ある時、平助が言った。

「この並び、途中で変えました?」

「……どうしてそう思うの」

「百三十七番目の列、最初に見た時より、理論書と実践書の距離が近い」

「……」

「たぶん、私が実践側から入る癖があるのを見て寄せた」

「……気のせい」

「気のせいなら、後ろの注釈書まで一緒に移動してるのは説明がつかない」

「……」

「フィレイアさん」

「なに」

「だいぶ、甘いですね」

「違う」

「でも寄せてる」

「効率のため」

「その効率の最適化が私仕様なんですよ」

「……」

「最高です」

「気持ち悪い」

「ありがとうございます」


 その時、フィレイアは頬を赤くしながらも、本を戻さなかった。


 そこが大事だった。


 恥ずかしがる。

 否定する。

 気持ち悪いとも言う。

 だが、したこと自体は取り消さない。


 つまり、そこには確かな意志がある。


 平助のために棚を動かした。

 平助がより読めるように。

 より深く沈めるように。

 その事実が、平助の心を静かに、しかし確実に狂わせていく。


 読書生活の中で、フィレイアの異変はますます増えた。


 最初は焼き菓子。

 次に飲み物。

 その次は料理。

 さらに進むと、本そのものの差し出し方まで変わる。


 初期のフィレイアは、「右から見た方がいい」だとか「それはまだ早い」だとか、必要最低限の導線しか示さなかった。

 だが、いつからか彼女は、本を持ってくるようになった。


「……これ」

「はい」

「たぶん、次はこれを読む」

「なぜ分かるんですか」

「分かるわよ、それくらい」

「怖いですね」

「あなたにだけは言われたくない」

「でも」

「……」

「嬉しいです」

「……そう」


 嬉しい、と言われるたび、フィレイアは少しだけ反応に困る。

 困るくせに、次もまた持ってくる。

 平助の変態性に言わせれば、それはもう十分すぎるくらい愛情に似ていた。


 似ていたが、まだ名はついていなかった。


 フィレイアは、きっと恋というものを知らない。

 少なくとも、平助はそう感じていた。


 彼女には、熱がある。

 本と知識に対する熱がある。

 だが、その熱を誰か特定の人間へ向ける方法を知らない。

 だから、相手が好きな本を置く。

 読みやすい導線へ棚を整える。

 感想を聞きたくて会話を切り出す。

 不慣れな料理を作る。

 その全部を『知識欲を満たすため』とか『加護の運用』とかいう言葉で包もうとする。


 だが包み切れない。


 包み切れないから、様子がおかしくなる。


 手料理はどんどん上達した。

 そして上達するほど、フィレイア自身がそのことを気にし始める。


「……今日は」

 ある日、彼女が言った。

「前より、たぶん、ちゃんと焼けてる」

「誇らしげですね」

「誇らしげではない」

「でも言いましたよね、いま」

「……」

「『ちゃんと焼けてる』って」

「……確認」

「確認したかったんですか」

「……」

「私の反応」

「……うるさい」

「かなり可愛いですね」

「本当にうるさい」


 そして、怒る時の声も少し変わっていった。


 最初の頃は、完全に『面倒な転生者をあしらう女神』の声だった。

 だが、長い時間を経るうちに、それは『平助にだけ向ける声』になっていく。


 少し低い。

 少し親しい。

 少し甘い。

 そのくせ、本人だけは平静のつもりでいる。


 恐ろしいことだった。


 平助の変態性は、そこでとうとう新しい段階へ入った。


 彼はもう、フィレイアの『見た目』や『いじらしさ』だけを鑑賞しているのではなかった。


 生活そのものを愛でている。


 書庫を歩く足音。

 料理を置く時のためらい。

 会話を切り出す前の、ほんの半秒の間。

 何か言い返したくて、でもうまい言葉が見つからず、唇だけが少し動く癖。

 読んでいた本の話をする時だけ、目の奥が深くなる瞬間。

 そして、自分へ向ける気配だけが、年月とともにわずかに変わっていくこと。


 それら全部を、平助は読んだ。


 本を読むように。

 脚注を拾うように。

 意味を、構造を、変化を、拾い続けた。


 だから気づいてしまった。


 フィレイアは、もう、平助のいない時間をうまく想像できなくなり始めている。


 その証拠はいくつもあった。


 書庫の一角に、平助が読みかけの本を置く定位置が自然にできたこと。

 焼き菓子の味が、平助の好みに寄っていったこと。

 会話の最初に、『今日は何を読んでるの』ではなく、『今日はそれなのね』と言うようになったこと。

 つまり、彼が何を選ぶか予測していること。

 そして何より、平助が少し長く一人で没頭していると、フィレイアの方から必ず現れること。


「……静かすぎると思ったら」

「すみません。集中してました」

「知ってる」

「迎えに来たんですか」

「違う」

「でも来た」

「……たまたま」

「その『たまたま』の頻度がかなり高いんですが」

「……」

「寂しかったですか」

「……っ」


 フィレイアが、見事に言葉を失った。


 その沈黙が答えに近すぎて、平助は危うくその場で天を仰ぎそうになった。


 だが、ここで天を仰ぐのは品がない。

 知識の女神の前では、せめてもう少し静かに狂うべきだ。

 平助はそこでかろうじて姿勢を保った。


 フィレイアは視線を逸らし、本を一冊差し出す。


「……これ」

「はい」

「前にあなたが言ってた話に近い」

「……話を逸らしましたね」

「逸らしてない」

「かなり露骨に」

「読まないの」

「読みます」

「ならいいでしょう」

「でも、そうやってすぐ本を差し出して誤魔化すの」

「誤魔化してない」

「フィレイアさんの中で『かなり大きい感情が動いた時の癖』になってませんか」

「なってない」

「なってます」

「なってない」

「いまも」

「なってないわよ」

「なってます」

「……っ」


 耳まで赤い。


 可愛い。

 可愛いが、それだけではもう足りなかった。


 平助は、その赤さの奥にあるものを感じていた。


 自分でも知らないうちに、相手の存在を前提にし始めてしまった人間の戸惑い。

 それは恋に似ている。

 いや、ほとんど恋なのだろう。

 だがフィレイアにはその名前がまだない。ないから、本を差し出す。料理を作る。会話を探す。赤くなる。困る。逃げる。なのにまた来る。


 百年というのは、そういう循環を腐らせず、むしろ深く熟成させるには十分すぎる時間だった。


 平助自身も変わっていた。


 いや、変態性そのものはむしろ研ぎ澄まされたと言っていい。

 フィレイアの目元、声、所作、自己評価の低さ、不慣れな優しさ、知識へ向ける熱、その全部に対する感度は年々上がっていった。

 上がっていったが、それだけではない。


 彼は本当に、本を愛するようになった。


 司書お姉さんを追いかけて図書館へ通った果てに。

 死後、知識の女神の書庫へ棲みついた果てに。

 平助の変態性は、とうとう知そのものへ接続されてしまったのだ。


 誰かを理解したい。

 世界の構造を理解したい。

 言葉の裏にある意図を、理論の癖を、並びの意味を、なぜそれがそこへ置かれたのかを、全部知りたい。

 その欲望はもう、司書お姉さん一人に向いていた時よりずっと大きくなっていた。


 そしてその中心に、フィレイアがいる。


 知識を司り。

 知識を与え。

 知識を通して平助の人生ならぬ来世を変えようとしている女性。


 どう考えても、深くならないわけがない。


 ある時、平助は本を閉じて、静かに言った。


「フィレイアさん」

「なに」

「もし私が、そろそろ転生だって言われたら」

「……」

「たぶん、かなり嫌です」

「……」

「まだ読んでない本があるから、というだけじゃなくて」

「……」

「たぶん、ここを離れたくない」


 フィレイアは、しばらく黙っていた。


 白い書庫の中、背表紙の群れだけが静かにこちらを見ている。

 彼女の手元には、さっきまで整理していたらしい本が数冊ある。

 そのうちの一冊の角を、フィレイアは指先でなぞっていた。


「……私は」

 やがて彼女が言った。

「本来、引き留める側じゃない」

「はい」

「送り出す側」

「はい」

「だから、転生者が留まりたがるのは、たぶん、よくない」

「……」

「よくないの、分かってる」

「……」

「分かってるのだけど」


 そこで彼女は言葉を切った。


 視線が、ほんの少しだけ揺れる。

 それを見た瞬間、平助は悟った。


 ああ。


 この人もだ。


 この人も、離したくないのだ。


 知識の女神としては駄目でも。

 制度の上では不健全でも。

 転生者対応としては逸脱でも。


 でも、離したくない。


 その気持ちが、いま、彼女の中にちゃんとある。


 平助の胸の奥が、静かに満ちた。


 それは勝利感ではない。

 支配でもない。

 もっと、ずっと穏やかで、ずっと深いものだった。


 自分がここにいた時間。

 読んできた本。

 交わしてきた言葉。

 差し出された料理。

 赤くなった頬。

 誤魔化すための本。

 その全部が、ちゃんと彼女の中にも残っているのだという確信。


「……フィレイアさん」

「なに」

「いま、かなり」

「かなり?」

「言いにくいことを飲み込みましたね」

「……」

「そこがまた」

「言わなくていい」

「愛しいです」

「……っ」


 フィレイアがとうとう本を胸へ抱えた。


 防御だ。

 露骨な防御。

 だが逃げない。

 逃げずに、赤くなったまま平助を見ている。


 あまりにも、良かった。


「……あなた」

 フィレイアが言う。

「本当に、どこまで行ってもそうなのね」

「そうですね」

「読んでも読んでも」

「はい」

「知っても知っても」

「はい」

「結局、人のそういうところばかり見つける」

「はい」

「……気持ち悪い」

「ありがとうございます」

「だから褒めてない」

「知ってます」


 フィレイアは、それ以上何も言えなかった。


 だが、その沈黙は以前とは違う。

 いまの彼女は、もう平助を『面倒な転生者』としてだけ見ていない。

 知識を欲しがる男。

 蔵書を理解する男。

 不慣れな料理を喜ぶ男。

 そして、何より、自分が一歩引いて隠していたものばかりを見つけて、愛おしいとまで言ってくる、どうしようもない男。


 手放したくない、と思うには十分すぎた。


 それが職務に反していると分かっていても。

 たぶん、もうだいぶ遅い。


 百年という時間は、たった二人で知と変態を煮詰めるには、長すぎたのだ。


 白い書庫の真ん中で、フィレイアは本を抱えたまま立っている。

 平助は椅子に座って、その姿を見ている。


 見て、そして思う。


 ああ。


 来世ではニートになりたいなんて、死に際に考えた自分はずいぶんと俗だった。

 もちろん、いまでも時間が欲しい気持ちはある。

 だがもし時間だけを願うなら、たぶんその本質はもう違う。


 もっと読みたい。

 もっと知りたい。

 もっと、この女性を見ていたい。


 その三つが、いまの平助の中ではほとんど同義になっていた。


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