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第6話 小一時間のはずだったもの

 普通、転生相談なんて小一時間で終わるのよ。


 フィレイアがその台詞を口にしたのは、たしか三度目の焼き菓子を持ってきた日のことだった。


 焼き色は前回より均一になっていた。

 丸め方も少しだけ安定している。

 だが、まだどこか不慣れで、丁寧さの中に微妙なぎこちなさが残る。

 それを平助が「試行錯誤の痕跡がきれいに出ていて大変よいですね」と褒めた直後、フィレイアは頬を赤くしながら、しかし話題を強引にずらすようにそう言ったのだ。


 普通、転生相談なんて小一時間で終わる。


 その台詞を聞いた時、平助は思った。


 ああ、この人はまだ、自分たちがどれだけおかしくなり始めているかを、職務の言葉で囲おうとしているのだな、と。


 実際、本来の転生相談というものはそうなのだろう。

 死亡確認。

 精神状態の調整。

 転生先の大枠。

 加護と特性の付与。

 注意事項。

 送り出し。

 そのくらいで終わるはずだ。


 終わるはずなのに、平助とフィレイアの間では、そこへ蔵書の開放が挟まり、加護の運用が少し広く解釈され、感想の交換が始まり、ついでのように焼き菓子と茶と会話が添えられ、そして気づけば『終わらせる理由』の方が見当たらなくなっていた。


 平助は読む。


 本当に読む。


 最初のうちは、フィレイアの導線に従って、基礎から順に、理論を押さえ、世界の構造と言語と魔法の土台を理解するつもりだった。

 そのつもりでは、あった。


 だが、平助は元来、構造を見つけてしまうと止まれない男だった。


 モブヒロイン論がそうであったように。

 司書お姉さんの棚づくりや疲れた目元の意味を考え始めたら止まらなかったように。

 いま、彼は『知識の体系そのもの』へ向かって、同種の執着を発揮し始めていた。


 ある概念を読む。

 それが別の概念を呼ぶ。

 その脚注がさらに前提理論を指す。

 前提理論の書き手の癖が気になって、同じ著者の別の書へ手が伸びる。

 そこに反論する流派の本が隣にあり、フィレイアの棚づくりへの信頼がまた一段深まる。

 読み終えた後にフィレイアへ感想をぶつけると、彼女は呆れ顔をしつつも、ぴたりと刺さる補助線を一本差し込んでくる。

 その一本が次の十冊を開く。


 終わるわけがなかった。


 しかも、平助の変態性は、読書という行為へ接続されることで、以前よりもはるかに厄介な深みを得ていた。


 ただ好きなのではない。

 ただ綺麗だと思うのでもない。

 理解したいのだ。

 どうしてそうなのか、どこがそうなのか、何を持ち、何を持たず、その不足や癖や選び方がどう人格へ繋がるのか。

 知識を通してそれを見つけてしまうと、平助はもう戻れない。


 そしてフィレイアは、そんな平助に対して、最悪なほど相性がよかった。


 彼女の書庫には、彼女の性格が出ている。

 棚の並びに出る。

 本の選び方に出る。

 何を残し、何を脇へ置き、どの異説をどういう距離で並べるかに出る。

 脚注を好むのか、本文の流れを重視するのか、読み手に先回りして助け舟を置くのか、それとも少しだけ不親切にして自力で届く余地を残すのか。

 その全部が、平助にとっては『フィレイアそのもの』だった。


 つまり、読むほどに、彼女を読むことになる。


 危険だった。


 あまりにも。


「……またそっち?」

 ある時、フィレイアが言った。

 平助の手元には、基礎理論からだいぶ外れた、かなり古い時代の魔導書がある。

「はい」

「それ、まだ早いと思うのだけど」

「でもここ、いいんですよ」

「どこが」

「理論は粗いのに、発想だけ異様に鋭い」

「……」

「完成されてないぶん、書き手の癖が露骨に出てる」

「……」

「しかもそれを残してるの、フィレイアさんでしょう」

「管理してるだけ」

「でも捨ててない」

「……」

「未完成でも、発想の核があるものをちゃんと残してる」

「……それは」

「好きなんでしょう、そういうの」

「……」


 フィレイアが黙る。


 その黙り方が、また変わってきていた。


 最初の頃は、言い当てられて困っている沈黙だった。

 いまは少し違う。

 困ってはいる。

 だがその困り方の中に、『この人は本当にそこまで見てしまうのだ』という諦めめいた受容が混じっている。


 平助歓喜である。


 どうしようもなく。


 自分が読む。

 理解する。

 フィレイアの棚や選択や知識の癖を拾う。

 それを言葉にする。

 フィレイアが困る。

 赤くなる。

 でも完全には否定しない。


 この循環が、もはや読書生活の一部になっていた。


 フィレイアの方も、明らかにおかしくなっていた。


 不慣れな会話の切り出しは、いまや習慣になりかけている。


「……それ、昨日の続き?」

「はい」

「飽きないの」

「飽きません」

「……そう」

「フィレイアさんは?」

「私は、管理してるだけ」

「でも再読したことは?」

「……ある」

「何回」

「数えてない」

「いいですね」

「どうして?」

「好きな本って、回数を数えなくなるので」

「……」


 それだけのやり取りのあと、フィレイアは決まって少しだけ近くに残る。


 すぐ立ち去ればいいのに、立ち去らない。

 平助が次のページをめくるまで見ている。

 こちらが何か感想を言い出すと、ふいに椅子へ腰を下ろす。

 その『たまたま腰を下ろしただけ』みたいな顔で、気づけば次の本の話に入っている。


 危険だった。


 知識の女神が、明らかに『会話のついで』を増やしている。


 しかも自分ではそのつもりがない。

 あるいは、少なくともそうだと思い込もうとしている。


 手料理に至っては、もうかなりひどかった。


 焼き菓子が少しずつ安定したと思ったら、今度は料理の種類が増え始めた。

 煮込み。

 焼いた野菜。

 形だけは整っているが切り口の厚みがわずかに不揃いな果物の盛り合わせ。

 スープ。

 そのたびフィレイアは、ほとんど同じ言い訳をする。


「……知識の定着には、単調さを崩すのも大事だから」

「はい」

「脳の……いや、脳って言っていいのか分からないけど」

「はい」

「とにかく、読んでばかりだと偏るでしょう」

「はい」

「だから」

「だから」

「気分転換」

「ありがとうございます」

「……」

「すごく嬉しいです」

「……そう」


 その「そう」の後に、必ず妙な間が入る。


 嬉しい。


 その言葉が、たぶん彼女にはまだ少し重いのだ。

 本が喜ばれるのは分かる。

 知識を求められるのも分かる。

 でも、自分が手をかけて出したものが、相手をこんなにまっすぐ喜ばせることには、まだ慣れていない。


 だから、様子がおかしくなる。


 皿を置く位置が微妙に落ち着かない。

 自分は読書の邪魔をするつもりなどない、という顔をしながら、でも感想は絶対に欲しいので、少し離れた位置で待ってしまう。

 待っているつもりはない、という体裁を守るために、本を一冊持ってくる。

 しかし実際には一文字も読まず、平助のひと口目の反応だけ見ている。


 そこまで分かると、平助の変態性はますます加速した。


 知識の女神が。

 自分の蔵書を読み尽くそうとしている男のために。

 知識欲の管理だとか加護の運用だとか、もっともらしい理屈を並べて。

 不慣れな手つきで料理を作り、毎回少しずつ上手くなりながら、それを平然と差し出そうとする。


 そんなもの、好きにならないわけがない。


 いや、もう『好き』では足りないのかもしれない。


 理解したい。

 見届けたい。

 この人がどこまで変わっていくのか。

 そして、その変化が自分のせいであることを、どこまで自覚するのか。

 そんな危うい好奇心と愛着が、読書の熱と一緒に、平助の内側でどんどん深くなっていった。


 ある時、フィレイアは明らかに失敗した焼き菓子を持ってきた。


 形は整っている。

 だが少し焦げていて、食感が妙に硬い。

 いつものように平静を装ってはいるが、差し出し方がいつもより少し速い。早く渡してしまいたい人の動きだ。


「……今日は」

 彼女が言う。

「あまり期待しないで」

「します」

「しなくていい」

「でも、フィレイアさんが持ってきた時点で」

「やめて」

「かなり」

「やめて」

「期待値は高いです」

「どうしてそうなるの……」


 平助は一口食べ、少しだけ目を閉じた。


 硬い。

 そして焦げが先に立つ。

 だが、まずいわけではない。

 材料は良い。火加減だけが失敗している。

 しかも、たぶん焼き上がりを確認しようとして余計に緊張したのだろう。最後の数分で、何度も覗いて迷った形跡がある。

 迷いが、そのまま焼き色になっている。


 平助はそこで、静かに言った。


「今日のは」

 フィレイアの肩が僅かに強張る。

「かなり良い失敗ですね」

「……は?」

「失敗の仕方にフィレイアさんの性格が出てる」

「どうしてそういう感想になるの」

「最後まで丁寧にしようとして、でも途中で不安になって、確認しすぎたでしょう」

「……」

「たぶん一番最後のところで、火を引くか、もう少し待つか迷った」

「……」

「その迷い方がすごく」

「言わなくていい」

「愛おしいです」

「……っ」


 フィレイアが顔を真っ赤にした。


 かなり喜んでいた。


 分かる。

 彼女は本当に、こういうところで嘘が下手だ。

 褒められて困る。

 困るくせに、深いところまで見つけられると嬉しい。

 嬉しいから恥ずかしい。

 恥ずかしいから止めたい。

 止めたいのに、次もまた何か作ってきてしまう。


 終わっていた。


 だが終わっているのは平助だけではない。

 フィレイアの方もだいぶ危うい。


 そして、何よりまずいのは、それが『永遠に続けられるかもしれない』ことだった。


 白い空間では、腹が減らない。

 眠くもならない。

 老いもしない。

 少なくとも、いまの平助にはそう感じられる。


 つまり、読める。


 ずっと読める。


 一冊が二冊になり、十冊が百冊になり、理論が実践へ、実践が禁書へ、禁書が異説へ、異説がまた根本理論へ繋がっていく。

 そのたびフィレイアは現れ、話し、赤くなり、何かを差し出し、去り、また戻ってくる。


 普通は小一時間のはずだった転生相談は、もはや影も形もなかった。


 いまここにあるのは、終わりの見えない読書の生活と、その生活の中で少しずつ深まっていく、二人分の、かなり厄介な変質だけだった。


 ある時、平助はふと口にした。


「これ」

「なに」

「ずっと続く気がしてきました」

「……何が」

「読書」

「あなたが読む気でいるなら、しばらくは」

「しばらく」

「蔵書は尽きないし」

「フィレイアさんも、付き合ってくれますか」

「……」


 フィレイアはそこで、珍しくすぐには答えなかった。


 本を抱えたまま立っている。

 その視線が、書架の向こうへ少しだけ逃げる。

 考えている。

 あるいは、自分の口から出そうとしている答えを測っている。


 やがて彼女は、小さく言った。


「……あなたが、読むなら」

「はい」

「私は、ここにいるから」

「……」

「管理してるもの」


 平助はそこで、胸の奥へゆっくりと何かが沈むのを感じた。


 ここにいるから。


 それは特別な約束ではない。

 愛の告白でもない。

 知識の女神が、自分の場所にいると述べただけだ。

 けれど平助には、それがたまらなく大きかった。


 読むなら。

 自分が読み続ける限り、彼女はここにいる。


 知識の女神として。

 書庫の管理者として。

 そしてたぶん、少しずつ様子がおかしくなっていく、一人の女性として。


「……じゃあ、読みます」

 平助は言った。

「全部」

「全部……」

「全部です」

「……正気?」

「たぶん、だいぶ駄目です」

「でしょうね」


 フィレイアはそう言って、ほんの少しだけ笑った。


 本当に、ほんの少しだけ。


 だがその小さな笑みは、平助にとっては、どんな祝福よりも深く、静かに効いた。


 ああ、と彼は思う。


 これはもう、狂気だ。


 読書という名の、終わりの見えない狂気。

 知識を欲しがる変態と、それを不器用に受け止めてしまった知識の女神が、互いの異常さを少しずつ肯定しながら沈んでいく、ひどく静かな狂気。


 でも。


 もし永遠があるなら、たぶんこういう永遠も悪くない。


 白い書庫の真ん中で、出芭平助は本を開く。

 フィレイアはその少し向こうで、本を抱えたまま立っている。

 会話はまだ足りない。

 読んでいない本は無限に近い。

 赤くなる余地も、変態性が磨かれる余地も、まだ山ほど残っている。


 だから、この小一時間のはずだったものは、たぶんしばらく終わらない。


 いや、もしかすると百年でも足りないのかもしれない、と。


 平助はその時、まだ冗談半分で、そう思っていた。


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