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「ふう...間一髪だったな」
洗面台で手を洗いながら一息吐く。実に晴れ晴れとした気分だ。人間の身体とは何故こうも、ありふれた事柄に解放感を覚えるのか。すっかり心身ともに軽くなった。
「急いでピアニャンの元へ戻らなくては」
蛇口を閉めて、お気に入りのハンカチで手を包む。水を得た事で、隅っこに映る緑の勇者が嬉しそうに見えた。
「きっと彼女は今、こんな風に喜びを感じたりはしないのだろうな...」
その言葉はごく自然に漏れた気がした。自己抑制に劣等感。そして罪悪感。深く絡み付いた鎖は、何らかのきっかけがないと断ち切れないものだ。それがどんなに苦しいことなのか、私は身を以て知っている。
──今のピアニャンは当時の私にそっくりだ。
お父様と上手くいかず、家にも学園にも居場所がないと悩んでいたあの頃。それが全て自分の勘違いだと知る事が出来たのは、かけがえのない親友が教えてくれたからに他ならない。
──あの時は勇敢なマングースが助けに来てくれたんだったな。
感情の渦は否が応でも付き纏う。その底なし沼から解放してあげられるのは、きっと身近にいる者なのだ。それが今出来るのは私以外にいない。
私は彼女を助けたい。
あの日、ロザンナが救ってくれたように、今度は私が悩める友人を救うカエルとなるのだ!
決心した私は早足で化粧室を出ると、白い廊下の突き当りにある空き教室へと戻る。
「待たせたね」
「...別に待ってないわよ」
教室に入ると、ぶっきらぼうな返事が返ってくる。彼女はこちらの姿を見ようともせず、窓際で外の景色を眺めていた。
彼女の素の言動を聞いていると、如何に普段から口調に気を遣っているのかが理解出来る。
時には甘え上手なか弱い令嬢。時には良識ある慎ましい淑女。仮面の使い分けが実に巧妙だ。将来は舞台女優を目指せるのではないだろうか。
──...なんて感想を胸に抱きながら、教室の窓際へと目を向ける。
桃色の髪の毛の向こう側。空は真っ赤な茜色に染まっている。外はすっかり夕暮れだ。
「綺麗な夕焼けだね」
「...そうね。もう冬なのに、こんな夕焼けが出るのね」
美しい空は桃色と重なり合い、更に鮮やかな景色に色を付けては、世界の何処迄も彩っていく。
教室内は時が止まったように静まり返っており、時計の針だけが進んでいるようだった。
「ピアニャン、私達は友達だ」
「急にどうしたのよ?」
「いや、特に意味はないよ。ただ言ってみただけさ」
「何よそれ...変なの」
夕焼けから目を離さず、彼女が声だけで応える。口調はぶっきらぼうなまま。けれど、その声色は少し柔らかい気がした。
「私ね。あんたとロザンナ様に認めて貰いたかったのよ」
「私とロザンナに?」
彼女が静かに頷く。
「秋季パーティでロザンナ様を陥れようとした時、誰もが遠巻きに眺めるだけで傍観してた。貴族同士の揉め事は家の沽券に関わるもの。当然よね」
彼女の言う通り、確かに貴族同士のやり取りには体面が付き纏う。一度不祥事を起こせば、当人だけでなく実家までもが責任を問われてしまう。それは成人してからも変わらず、一個人としてだけでなく、家の看板も背負って生きていかなければならない。今でこそそれが常識だと理解出来るが、当時の私はその重責に何度も押し潰されそうになってきたものだ。
触らぬ神に祟りなし。厄介事にはまず口を挟まないのが貴族という生き物なのだ。だからこそ、秋季パーティのあの場でロザンナを庇う令嬢など居なかった。でも────。
「......でも、そんな状況の中で、あんたはロザンナ様を助けようと前に出た。その時に思ったの。ああ、この二人は深い絆で結ばれているんだなっ...て。何だかそれが無性に羨ましくってね」
「ピアニャン...」
茜色に照らされた瞳が寂しげに伏せられる。眩しい光で反射する瞳の奥には、美しさの他に切なさが滲んでいた。
──確か、あの時はロザンナがお父様と話し合うべきだと諭してくれた。それがきっかけとなって、私は和解の道を辿る事が出来たのだ。
意思の疎通に会話は不可欠だ。多少不格好になってしまうかも知れないが、そんなものは関係ない。私もこの胸の内に溢れる友人への想いを言葉にするべきだろう。
「ピアニャン、君は優しい人なのだね」
「......優しいのはあんたの方でしょ。私みたいな厄介な女とも普通に接してくれて...」
「君から見たらそうなのかもしれないね。でも、私は君が厄介な人だなんて思った事は一度もないよ」
「そんなの嘘よ」
「嘘じゃないよ。君は私に勉強を教えてくれようとしたり、丁寧にハンカチを洗って返してくれたり、着ぐるみを作ってきてくれたじゃないか。優しくもなく、厄介な人間はそんな事はしないよ」
「それは、ただの罪滅ぼしのつもりで...」
「君はもう十分に罪を償った。これ以上責任を感じる必要はないんだよ」
「......そんなの無理よ」
その声は消え入りそうなものだった。
まさかここまで似ているとは思わなかったが、急に諭されても納得出来ない気持ちは分かる。胸の奥に突っ掛る葛藤は簡単には自由にしてくれない。しかし、そこさえ抜けてしまえば世界は広がる筈。私はこの迷える子豚を自由にしてやりたい。
「無理じゃないよ。あれ以来、君は周りの生徒にも気さくに接しているし、こうして補習の罰も受けている。私は身近でその姿を見てきた。とっくに君の事は友人として認めているんだよ」
「......っ...」
「それはロザンナも同じで、きっと君の事を一人の友人と思っている筈だよ。じゃないと、信頼出来ない人を自分の事業に携わらせようとはしないだろうからね」
「私が...信頼出来る人...」
「正直な話ね。私は君のした事はもうどうでも...──特に気にしていないんだ」
「いま、どうでもいいって言おうとしなかった?」
「気のせいだよ」
うっかり口を滑らせそうになり、慌てて蓋をする。そんな様子を白い目で見つめるピアニャンだったが、徐ろに深い溜息を吐いた。
「あんたを見ていると、何だか悩んでいたのがアホらしくなってきたわ」
「ありがとう。褒められるのは大好物だ」
「ええ、褒めてるわよ」
そう告げる彼女の瞳に憂いは無く、澄んだものへと変わっていた。晴れ晴れとした表情はお手洗い直後の自分に近しいものだったが、それ以上に意欲に満ちているように見えた。重たい憑き物が取れたようだ。
「でもそっか!私って認めて貰えてたんだ。......うん!あんたのお陰で吹っ切れたわ。ありがと」
「礼には及ばないよ。せっかく友人と一緒にいるのだから、助け合うのが合理的ではないか。カエルも繁殖期には集団で鳴き交わしては、同期現象を取って協力し合う生き物だからね」
「まーたカエルに例えてる。ミルス様って本当にブレないわよね」
「私にとってカエルは神様みたいな存在だからね。信仰心が溢れて止まないのさ。良かったら君も一緒にカエルを信仰してみないかい?」
「なによそれ、スケールが大きすぎるんですけど。まあ、一応考えておいてあげます!」
「......年頃の娘とは難しいものだね」
屈託のない笑顔が向けられる。茜色に映える表情は、これまで見てきたどんな夕焼けよりも美しかった。
つづく




