第六話 泰満|朝比奈彌一郎、二人の父から名を受ける
泰以が養子の申し入れをしてから、数日が過ぎた。
時茂の屋敷では、今度は元服の支度とは別の慌ただしさが始まっていた。
彌一郎自身には、何をどこまで決めているのか分からない。
父と母が話している。
兄の孝茂も呼ばれている。
泰以の屋敷からは、何度か彌太郎が使いに来た。
そのたびに母は何かを確かめ、父は返事を書かせた。
泰以は、すぐにでも決めたいらしい。
名美は、そうさせる気がないらしい。
「叔父上の家へ行くのか」
孝茂が尋ねた。
兄弟は庭先に並んで座っていた。
「まだ正式には決まっておりませぬ」
「お前は受けると言ったのであろう」
「言いました」
「ならば、ほとんど決まったようなものだ」
彌一郎は庭を見る。
「兄上は、嫌ではありませんか」
「何が」
「私が養子に出ることです」
孝茂は少し考えた。
「嫌か嫌でないかで言えば、嫌だな」
彌一郎は顔を上げた。
「そうなのですか」
「弟が家からいなくなるのだ。喜ぶ兄がおるか」
「では」
「だが、お前がずっと私の後ろにいる方がよいとも思わぬ」
孝茂は庭の木へ目を向けた。
「私はこの家を継ぐ」
「はい」
「お前は私を支える。それでよいと思っていた」
「私もです」
「だが、叔父上の家を継げるなら、そちらの方がお前には大きな道だろう」
彌一郎は、父にも似たことを言われたと思った。
道。
このところ、その言葉をよく聞く。
「兄上」
「何だ」
「私が叔父上の家へ行っても、兄上の弟でよいのですよね」
孝茂は呆れた顔をした。
「養子に出たら兄弟でなくなると思っておったのか」
「いえ」
「ならば聞くな」
そう言って、孝茂は彌一郎の肩を軽く叩いた。
「ただし」
「はい」
「叔父上に似すぎるな」
「なぜです」
「二人もいたら面倒だ」
彌一郎は笑った。
その日の午後、泰以と名美が時茂の屋敷を訪れた。
今度は彌太郎だけではない。
杉山と村越も供として来ていた。
先日の申し入れとは違う。
正式に、家と家との話をするためである。
奥の間には時茂夫妻が座った。
その下に孝茂と彌一郎。
向かいには泰以と名美がいる。
彌太郎、杉山、村越はさらに下がって控えた。
泰以は妙に姿勢よく座っている。
彌一郎には、それだけで名美から何か言われてきたことが分かった。
「兄上」
時茂が口を開いた。
「改めて、御話を伺いましょう」
「うむ」
泰以は一度、名美を見た。
名美は何も言わない。
だが、その視線だけで続きを促している。
泰以は時茂夫妻へ向き直った。
「彌一郎を、わしの養子として迎えたい」
先日のような軽さはなかった。
「わしには子がない。御屋形様から五百石を頂き、わし自身に仕える者もできた。この先、どこを任されるかは分からぬが、家を続ける者が必要になった」
時茂は黙って聞いている。
「彌一郎ならば、わしの家を任せられるよう育てられると思っておる」
そこで泰以は、時茂の妻へ頭を下げた。
「大切な子を頂くことになる」
彌一郎は少し驚いた。
叔父がここまで改まって頭を下げる姿は、ほとんど見たことがない。
「勝手な願いとは承知しておる。だが、許していただきたい」
母はすぐには答えなかった。
彌一郎を見た。
「あなたは、どうしたいのです」
母に直接聞かれたのは初めてだった。
彌一郎は姿勢を正した。
「泰以叔父上の養子となり、その家を継ぎたいと思っております」
「本当に、自分で決めたのですね」
「はい」
「父上に言われたからでも、叔父上に言われたからでもなく?」
「はい」
母はしばらく彌一郎を見ていた。
それから泰以へ顔を向けた。
「この子は、まだ何も知りません」
「承知しております」
「戦も、家を治めることも、人を抱えることも」
「これから教えます」
「厳しくなさいますか」
「必要ならば」
「無茶をさせますか」
彌太郎の肩がわずかに動いた。
泰以は少し考えた。
「必要ならば」
名美が泰以を見る。
「殿」
「死なぬ程度にする」
「そういう意味ではございませぬ」
母の口元にも、わずかに笑みが浮かんだ。
「分かりました」
その一言に、彌一郎は無意識に息を吐いた。
「この子を、お願いいたします」
泰以は深く頭を下げた。
「大切に預かります」
「預かるのではございません」
母が言った。
「今日からは、殿の子になるのでしょう」
泰以は一瞬、言葉を止めた。
「……そうでしたな」
時茂が苦笑した。
「兄上。そこは間違えてはなりませぬ」
「分かっておる」
「今、間違えました」
「言葉の話だ」
「大事な言葉です」
名美が言った。
「そなたまで」
「大事にございます」
泰以は諦めたように頷いた。
「分かった。わしの子として迎える」
その言葉を聞いた時、彌一郎の中で何かが変わった。
昨日までと何も変わっていない。
父もいる。
母もいる。
兄もいる。
だが、もう一人の父ができる。
「孝茂」
時茂が呼んだ。
「はい」
「お前はどうだ」
「私ですか」
「弟が養子に出るのだ。何かあるだろう」
孝茂は彌一郎を見る。
「先ほど本人にも言いました」
「何と」
「嫌ではあります」
泰以が眉を上げた。
「反対か」
「最後まで聞いてくだされ」
「うむ」
「弟が家を出るのですから、寂しくないとは申しませぬ」
孝茂は続けた。
「ですが、彌一郎に自分の家を継ぐ道ができるなら、私は賛成いたします」
そして泰以へ頭を下げた。
「弟を、よろしくお願いいたします」
「任せておけ」
「山には登らせすぎぬように」
「お前までそれを言うか」
彌太郎が小さく咳をした。
「彌太郎」
「はい」
「後で話がある」
「なぜ私にございますか」
「知らぬ」
少しだけ場が和らいだ。
話は、それだけでは終わらなかった。
名美は用意していた書付を出した。
「では、養子として迎えた後のことを決めましょう」
泰以の顔が曇った。
「まだあるのか」
「ここからでございます」
「養子になると決まったではないか」
「決めただけでは家は動きませぬ」
名美は一つずつ確認していった。
彌一郎が当面は掛川で暮らすこと。
泰以の家臣たちとは、少しずつ主従として顔を合わせること。
五百石の知行についても、すぐに彌一郎へ何かを任せるのではなく、まずは泰以について学ばせること。
杉山と村越は、彌一郎を若殿として支える。
彌太郎も同じである。
「私もでございますか」
彌太郎が尋ねた。
「当然であろう」
泰以が答える。
「泰以様のお世話だけでも手いっぱいなのですが」
「誰が世話をされておる」
「そこから説明が必要でしょうか」
「必要ない」
「では彌一郎様のお世話も承ります」
彌一郎は頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
彌太郎が丁寧に頭を下げた。
泰以が少し不満そうな顔をする。
「わしに対する時より丁寧ではないか」
「気のせいにございます」
話が一段落した頃、時茂が言った。
「もう一つ、決めねばならぬことがあります」
「何だ」
「元服です」
彌一郎の背筋が伸びた。
もともと、その準備をしている最中だった。
「養子入りが決まった以上、誰の子として元服させるかを決めねばなりませぬ」
泰以は即答した。
「わしの子としてだ」
時茂は頷いた。
「私も、それがよいと思います」
彌一郎は父を見る。
「父上」
「何だ」
「よろしいのですか」
「何がだ」
「私の元服を、父上の子としてではなく」
時茂は少し黙った。
「本音を言えば」
その言葉に、彌一郎は緊張した。
「少し惜しい」
時茂は笑った。
「お前の名は、もう考えてあった」
「名を?」
「ああ」
「何という名です」
時茂はすぐには答えなかった。
「満茂」
彌一郎は、その名を胸の中で繰り返した。
満茂。
兄の孝茂と同じ「茂」を持つ名。
父の時茂から一字を受けた名。
「よい名にございます」
名美が言った。
「ありがとうございます」
時茂はそう答えたが、その声には少しだけ寂しさが混じっていた。
「孝茂と彌一郎。二人が並んでも分かるようにと思ってな」
彌一郎は何も言えなかった。
父は、自分の知らないところで、自分が大人になる日の名を考えていた。
泰以も黙っている。
いつものように、すぐ口を挟まなかった。
やがて言った。
「ならば、その名を捨てる必要はない」
時茂が顔を上げる。
「どういう意味です」
「満を残す」
「満?」
「満茂の満だ」
泰以は彌一郎を見る。
「わしの名から泰を取る」
彌一郎は息を止めた。
「泰満」
泰以が言った。
部屋が静かになった。
「朝比奈泰満」
名美が、確かめるように口にする。
時茂はしばらく何も言わなかった。
「泰以の泰」
泰以が言う。
「満茂の満」
そして時茂を見る。
「半分ずつでよかろう」
「随分と簡単に申されますな」
「嫌か」
「いえ」
時茂は首を振った。
「よい名です」
泰以が少し得意げな顔をした。
「そうであろう」
「兄上が考えたとは思えぬほど」
「何だと」
孝茂が笑った。
母も口元を緩めている。
名美が言った。
「二人の父から、一字ずつ頂く名になりますね」
「そういうことだ」
泰以は頷いた。
「二人の父を持つのだから、ちょうどよい」
彌一郎は、自分の膝に置いた手を見る。
満茂。
父が自分のために考えてくれた名。
泰満。
そこに、もう一人の父の一字が加わる。
時茂の家に生まれたことは消えない。
泰以の家へ入ることも隠さない。
二つを合わせた名だった。
「彌一郎」
時茂が呼んだ。
「はい」
「どうだ」
彌一郎は両手をついた。
「ありがたく頂きたく存じます」
泰以を見る。
時茂を見る。
「泰満の名に恥じぬよう努めます」
時茂が頷いた。
泰以も頷いた。
「ならば決まりだ」
名美がすぐに言った。
「まだ元服そのものが残っております」
泰以の顔が曇る。
「まだ終わらぬのか」
「これから支度でございます」
「名は決まった」
「名だけで元服はできませぬ」
「面倒だな」
彌太郎が、ほとんど聞こえない声で言った。
「家とは、だいたい面倒にございます」
泰以が振り返る。
「何か言ったか」
「何も」
数日後。
掛川の屋敷で、彌一郎の元服が行われた。
髪を改め、装束を整える。
子供として座っていた場所から、一つ前へ出る。
時茂夫妻。
孝茂。
泰以と名美。
杉山、村越、彌太郎。
家の者たちが見守っている。
彌一郎は姿勢を正した。
泰以が、新しい名を告げる。
「今日より、朝比奈彌一郎泰満と名乗れ」
「はい」
彌一郎は深く頭を下げた。
「朝比奈彌一郎泰満。以後、この名に恥じぬよう努めます」
顔を上げる。
父の時茂がいる。
養父となった泰以がいる。
兄の孝茂がいる。
何も失ったわけではなかった。
ただ、自分の立つ場所が一つ増えた。
朝比奈彌一郎。
そして、朝比奈泰満。
その名が初めて、掛川の屋敷に響いた。
史料・創作メモ
朝比奈彌一郎と「紀伊守泰満」について
湖西市の正太寺の寺伝には、**「宇津山城主・朝比奈紀伊守泰満」の名が伝えられています。
一方、見性寺の開基については、「紀州の太守、朝比奈彌一郎」**とする記録があります。
本作では、この二つの「紀伊守(紀州)」表記に注目し、朝比奈彌一郎=朝比奈泰満と比定しました。
もちろん、両者が同一人物であることを直接示す史料はなく、これは作者の仮説です。ただし、近い世代の朝比奈一族で、従兄弟同士がともに「紀伊守」を称したと考えるよりは、同一人物とみる方が自然ではないかと考え、本作ではこの設定を採用しています。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




