第五話 養子|朝比奈彌一郎、泰以の家へ
彌一郎の元服が近づいていた。
時茂の屋敷では、朝から女たちが慌ただしく動いている。
小袖を広げ、袴を改め、必要なものを書き出している。兄の孝茂が元服した時に使った品も、蔵からいくつか出されていた。
彌一郎は、その様子を庭先から眺めていた。
「何をぼんやり見ておる」
孝茂が声をかけた。
「私のことなのに、皆の方が忙しそうだと思いまして」
「お前が自分で縫うわけではないからな」
「兄上の時も、こんなでしたか」
「もっと大変だった」
「なぜです」
「嫡男だからだ」
孝茂は平然と言った。
彌一郎も、それには納得した。
兄は時茂の家を継ぐ。
自分は次男である。
元服すれば父や兄を支え、戦になれば兵を率いる。いずれ知行の一部を預けられることはあるかもしれない。
それ以上のことは、あまり考えたことがなかった。
「名は決まったのですか」
彌一郎が尋ねる。
「父上なら考えておられるだろう」
「教えてくれません」
「元服の日まで隠しておきたいのではないか」
「兄上は知っているのですか」
「知らぬ」
「本当に?」
「知らぬ」
孝茂は少し間を置いた。
「ただ、お前にも『茂』は入るのではないか」
彌一郎は自分の名を頭の中で考えてみた。
父は時茂。
兄は孝茂。
自分にも茂の一字が入る。
それは何となく自然な気がした。
「少しは大人しく見える名にしてもらえ」
「名で変わりますか」
「変わらぬだろうな」
「ならば言わないでください」
二人がそんな話をしているところへ、門の方から家人が走ってきた。
「時茂様に御客人にございます」
「誰だ」
孝茂が尋ねる。
「泰以様にございます」
彌一郎は少し驚いた。
叔父がこの屋敷へ来ること自体は珍しくない。
だが今日は、先触れもなく、供もほとんど連れていないという。
「父上は」
「すでに奥へお通しするようにと」
家人が戻っていく。
ほどなく泰以が庭の向こうを通った。
後ろには彌太郎が一人だけついている。
泰以はいつも通りだった。
だが彌太郎の顔だけが、妙に落ち着かなかった。
彌一郎と目が合う。
彌太郎は何か言いたそうな顔をした。
「どうなさいました」
「いえ」
「何かありますか」
「私から申し上げることではございませぬ」
「余計に気になります」
「ならば、気にしていてくだされ」
そう言って、彌太郎は泰以の後を追った。
彌一郎は首を傾げた。
「何だと思います」
「知らぬ」
孝茂も泰以の背を見ていた。
「だが、叔父上が改まって父上に会いに来る時は、ろくなことではない気がする」
「兄上」
「冗談だ」
「顔が冗談ではありません」
「半分は本気だ」
しばらくして、彌一郎は父に呼ばれた。
ただし、すぐ奥へ入るのではなく、隣の間で待つように言われた。
元服の話だろうと思った。
父と泰以が相談することがあるのかもしれない。
彌一郎は襖の向こうに座った。
奥では、時茂と泰以が向かい合っている。
彌太郎も控えているらしい。
「兄上が改まって来られるとは、珍しい」
時茂の声がした。
「頼みがある」
泰以は座るなり本題へ入ったらしい。
「また急ですな」
「急ではない」
「では、いつから考えておられたので」
少し沈黙した。
「数日前からだ」
「十分急です」
「名美とは話した」
「それは進歩ですな」
「何だ、その言い方は」
「兄上が一人で全部決めてから知らせに来なかっただけでも進歩でしょう」
彌太郎が小さく咳をした。
泰以はそれを無視した。
「彌一郎を、わしの養子に欲しい」
彌一郎は息を止めた。
一瞬、意味が分からなかった。
自分の名が出た。
養子。
泰以の。
膝の上に置いていた手へ、無意識に力が入った。
奥の間でも、すぐには返事がなかった。
庭の鳥の声だけが聞こえる。
「兄上」
やがて時茂が言った。
「何分、急な話にございます」
「だから名美とも話した」
「それで急でなくなるわけではありません」
「悪い話ではあるまい」
「それとこれは別です」
泰以は少し不満そうな声を出した。
「氏親様から五百石を頂いた」
「存じております」
「杉山と村越がおる。彌太郎も正式に家臣にした」
「それも聞きました」
「山を登った十二人も被官にした」
「兄上」
「何だ」
「私が知らぬと思って順番に説明しておりますか」
「一応だ」
「全部知っております」
「そうか」
「それで?」
「わしの家らしきものができ始めた」
時茂が少し笑った。
「御自分でも認めるようになりましたか」
「名美にも同じことを言われた」
「でしょうな」
「だが、子がおらぬ」
今度は時茂も何も言わなかった。
「側室は取らぬ」
「それも存じております」
「ならば養子を迎える」
「そこまでは分かります」
「そなたには男子が三人おる」
「嫌な言い方ですな」
「一人くらい」
「兄上」
「何だ」
「子は兵糧ではありません」
「名美にも同じことを言われた」
今度は彌太郎が咳をこらえているようだった。
時茂が続けた。
「それで、彌一郎ですか」
「そうだ」
「なぜあの子を」
襖の向こうで、彌一郎は耳を澄ませた。
泰以はすぐには答えなかった。
「孝茂は嫡男だ」
「はい」
「末の子はまだ幼い」
「それだけですか」
「それだけではない」
泰以の声が少し変わった。
「彌一郎は、人の話を聞く」
彌一郎は目を瞬いた。
「それは普通のことでは」
「聞いた後に考える」
「ほう」
「井伊の戦から戻った時もそうだった。山をどう見たか、なぜ十二人だったか、なぜ攻めずに待ったか。あやつは結果より、その前を聞いてきた」
時茂は黙っている。
「戦場へ出せば、覚えるだろう」
「兄上の戦い方を?」
「わしの真似をする必要はない」
泰以は答えた。
「だが、自分で見て考えることは覚えさせられる」
彌一郎の胸が熱くなった。
褒められているのだと気づくまで、少しかかった。
泰以がそんなふうに自分を見ているとは思っていなかった。
「それに」
泰以は続けた。
「わしの家を継がせるなら、今からがよい」
「元服前だからですか」
「そうだ。元服してから家を移すより、最初からわしの子として武士になった方がよかろう」
時茂が静かに息を吐いた。
「そこまで考えて来られたのなら、確かに思いつきだけではなさそうですな」
「最初からそう言っておる」
「数日前からですが」
「日数は関係ない」
「あります」
しばらくして、時茂が言った。
「悪い話ではありません」
彌一郎の背筋が伸びた。
「孝茂が私の跡を継ぐ。彌一郎は次男です。いずれ分ける知行は考えておりましたが、自分の家を持てるとは限らぬ」
「ならば」
「まだです」
泰以の声が止まった。
「家内とも話します。孝茂にも話さねばならぬ」
「孝茂にまで?」
「あの子にとっても弟です」
「そうか」
「何より、彌一郎本人の意思を聞かねばなりません」
「それなら早い」
泰以が言った。
彌一郎は嫌な予感がした。
「そこにおる」
時茂が少し黙った。
「お気づきでしたか」
「足音が軽い」
襖の向こうで彌一郎は自分の足を見る。
「孝茂ではない」
「そういうものですか」
「それに、さっきから息を止めたり吐いたりしておる」
彌一郎は慌てて呼吸を整えた。
「もう遅い」
泰以の声がした。
「彌一郎。出てこい」
逃げるわけにもいかない。
彌一郎は襖を開けた。
奥の間には、父と泰以が向かい合っていた。
彌太郎は少し離れたところに座っている。
案の定、こちらを見ないようにしていた。
彌一郎は進み出て、両手をついた。
「失礼いたしました」
「謝ることではない」
泰以が言った。
「お前の話だ」
彌一郎は顔を上げた。
父の時茂は、普段とあまり変わらぬ顔をしている。
だが、わずかに目が違った。
「聞いておったな」
泰以が尋ねる。
「はい」
「ならば話が早い」
時茂が眉を寄せた。
「兄上。少しは順を踏んでください」
「本人がいるのだから、本人に聞くのが一番早い」
「そういうところです」
泰以は構わず彌一郎を見た。
「わしの養子になる気はあるか」
あまりにも真っ直ぐだった。
彌一郎は返事を忘れた。
父が息を吐く。
彌太郎は天井へ目を向けた。
「兄上」
「何だ」
「もう少し言い方というものが」
「では、どう言えばよい」
「それを私に聞かれても困ります」
泰以は再び彌一郎を見る。
「難しく考えなくてよい」
「難しいことでございます」
「そうか」
「はい」
「では考えろ」
彌一郎は、父を見た。
時茂が静かに頷いた。
「自分で答えよ」
「父上は」
「私の考えを先に聞けば、お前はそれに従うだろう」
その通りだった。
「これは、お前自身の話だ」
彌一郎は膝の上へ目を落とした。
泰以の養子になる。
父の家を出る。
兄と同じ家の子ではなくなる。
そう考えると、胸の奥が少し冷えた。
ここで生まれた。
兄と育った。
父から刀の握り方を教わった。
母に叱られた。
それらが消えるわけではない。
それでも、何かが変わる。
「彌一郎」
時茂が呼んだ。
「はい」
「一つだけ言っておく」
彌一郎は顔を上げた。
「養子に出ることは、父を捨てることではない。兄を捨てることでもない」
時茂はゆっくりと言った。
「お前はこれからも私の子だ。孝茂の弟でもある」
「はい」
「ただ、立つ場所が変わる」
その言葉は、前に聞いた「道」という言葉に似ていた。
「孝茂は、この家を継ぐ」
時茂は続けた。
「お前には、お前の道があってよい」
彌一郎は泰以を見た。
氏親の乳兄弟。
掛川を支える武将。
山を見て、道のないところに道を見つける男。
今は五百石を持ち、わずかだが自分の家臣も持ち始めている。
その家を、自分が継ぐ。
「叔父上」
「何だ」
「なぜ私なのです」
「今、言ったであろう」
「それだけですか」
泰以は少し考えた。
「そなたなら、失敗しても教えれば直す」
「失敗する前提なのですか」
「最初から何でもできる者などおらぬ」
「叔父上も?」
「わしは別だ」
時茂が横から言った。
「兄上」
「冗談だ」
彌一郎は少し笑った。
緊張がわずかに解けた。
「わしには子がない」
泰以は今度は真面目に言った。
「家を継ぐ者が要る。ただ名だけ継ぐ者では困る」
その目は、先ほどまでより鋭かった。
「わしが持つものを渡しても、潰さぬ者がよい」
彌一郎は息を呑んだ。
「今のお前に、それができるとは思っておらぬ」
「はい」
「だから、これから覚えろ」
「……はい」
「わしも教える。時茂もおる。掛川には泰能殿もおる。杉山も村越も彌太郎もおる」
彌太郎が小さく言った。
「私は山登り以外でお願いいたします」
「黙っておれ」
「はい」
また少し空気が緩んだ。
泰以が言う。
「どうする」
彌一郎は、もう一度父を見た。
時茂は何も言わない。
答えを与えるつもりはないらしい。
ならば、自分で決めるしかない。
怖くないと言えば嘘になる。
だが、それ以上に胸の奥に熱いものがあった。
兄の後ろを歩くだけではない。
自分にも、継ぐ家がある。
自分が立つ場所がある。
彌一郎は両手をついた。
「私でよろしければ」
一度、息を吸う。
「お受けしたく存じます」
泰以はすぐには答えなかった。
彌一郎を見ている。
やがて、一つ頷いた。
「そうか」
それだけだった。
だが、その声には満足があった。
時茂はしばらく息子を見ていた。
「まだ正式には決まりではないぞ」
「はい」
「家内にも話す。孝茂にもな」
「分かっております」
泰以が言った。
「名美からも、礼を尽くせと言われておる」
時茂が少し笑った。
「それなら安心しました」
「何がだ」
「兄上だけで来られたのなら、今頃もっと話がこじれております」
「わしは礼を尽くしておる」
彌太郎が小さく咳をした。
「何だ」
「いえ」
「今日はよく咳をするな」
「季節の変わり目にございます」
彌一郎は顔を伏せて笑った。
元服の話をするはずだった一日。
朝まで、自分は時茂の次男として元服するものだと思っていた。
それが今は、泰以の家を継ぐ話をしている。
まだ何も正式には決まっていない。
名も変わっていない。
暮らす場所も変わっていない。
それでも、彌一郎には分かった。
自分の前に、それまでなかった道が一本、開いていた。
史料・創作メモ
朝比奈彌一郎の養子関係について
朝比奈泰以に「彌一郎」という養子がいたことは、一次史料から確認できます。ただし、その彌一郎の実父や出自までは明らかではありません。
本作では、泰以が朝比奈時茂の兄弟であることから、子のない泰以が同族である時茂の子を養子に迎えるのが最も自然な流れと考え、彌一郎を時茂の次男として設定しました。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




