第四話 名美|朝比奈泰以、養子を考える
その夜、泰以は屋敷へ戻るなり、五百石の書付を床の間の前へ置いた。
名美は、それを一瞥しただけだった。
「何だ」
「何がでございます」
「もう少し驚くかと思った」
「五百石のことでございましたら、承っております」
泰以の眉が動いた。
「誰から聞いた」
「彌太郎殿から」
「あやつは口が軽い」
「殿が口を開かれませんので」
名美はそう言うと、膳を泰以の前へ寄せた。
戦から戻った夜ほどではないが、今日は駿府から使者が来ていた。酒も出た。掛川城では、それなりの祝いになったという。
それでも泰以の顔は、褒美を受けた男のものには見えなかった。
「それから」
名美が続けた。
「杉山殿と村越殿に加え、彌太郎殿を正式に家臣となされたことも」
泰以は箸を止めた。
「そこまで聞いたか」
「山を登った十二人も被官にされたそうですね」
「……全部ではないか」
「彌太郎殿は、よく話してくださいます」
「明日、黙らせる」
「無駄かと」
「なぜだ」
「殿が何も仰せにならなければ、また私が聞きます」
泰以は諦めたように飯を口へ運んだ。
名美は改めて書付を手に取った。
駿河国内五百石。
掛川朝比奈家への加増とは別に、泰以個人へ与えられた知行である。
「よきことにございます」
「そうか」
「そうでございましょう」
「面倒が増えただけだ」
名美は書付から目を上げた。
「五百石を頂いて、その日のうちに十五人も抱えた方がおっしゃることではございません」
「十五人全員を食わせるわけではない」
「存じております。十二人は普段は村に置くのでしょう」
「ならばよいではないか」
「何がでございます」
「それほど面倒ではない」
「では、なぜ先ほど面倒と」
泰以は黙った。
名美は書付を畳の上へ戻した。
「時茂殿は、何と」
「なぜ時茂の話になる」
「何か仰せになったのでしょう」
「……あやつは、御屋形様がわしを掛川から分けて使うつもりではないかと言っておった」
「やはり」
「やはりとは何だ」
「私も、同じように思いました」
泰以の顔が露骨に嫌そうになった。
「そなたまでか」
「掛川朝比奈家への加増とは別に、殿個人へ五百石。しかも殿は御自身の家臣を持ち始めた」
「家臣は今、決めただけだ」
「だからでございます」
名美は静かに言った。
「御屋形様の御意図がどうであれ、殿の周りには、すでに一つの家の形ができ始めております」
「五百石と十五人でか」
「最初から千人の家臣を抱える家がどこにございます」
泰以は不満そうに酒を飲んだ。
「わしは泰能殿の後見だ」
「今は」
「そなたも同じことを言うのか」
「事実にございます」
泰以は杯を置いた。
「もし御屋形様から別の地を任されたとしても、その時に考えればよい」
「その時になってから、家臣を集め、知行を治め、家を整えるおつもりで?」
「何とかなる」
「殿は戦になると、道も水も兵糧も先に考えられるのに、なぜ御自分の家のことになると何とかなるで済ませるのです」
泰以は答えなかった。
戦場ならば、地を見る。
敵の道を見る。
退き口を見る。
だが名美の前では、その言葉がそのまま自分へ返ってくる。
「では、そなたならどうする」
「まず、家を続けることを考えます」
「続ける?」
「はい」
名美は膝を正した。
「殿。側室をお迎えなされませ」
泰以は庭へ顔を向けた。
「聞こえぬ」
「聞こえておりますね」
「急に耳が悪くなった」
「都合の悪い時だけでございます」
「いらぬ」
「なりませぬ」
「なぜだ」
「知行を持ち、家臣を持ったのです。この先、殿の家を誰が継ぐのです」
「わしが死んだら、今川へ返せばよい」
名美の顔から、わずかに柔らかさが消えた。
「御屋形様が殿個人へお与えになった五百石を、返せばよいで済ませるおつもりですか」
「死んだ後のことまで知らぬ」
「家とは、死んだ後まで考えるものでございます」
「面倒だな」
「先ほど申し上げました」
「戦の方が楽だ」
「戦も十分面倒でございましょう」
「敵ならば斬ればよい」
「斬った後に城を治め、降った者を従え、負傷者を戻し、褒美まで頂いたばかりではございませんか」
泰以は黙った。
「殿」
「何だ」
「側室をお迎えなされませ」
「嫌だ」
「なりませぬ」
「嫌だ」
「理由をお聞かせください」
「いらぬものはいらぬ」
「それでは理由になっておりませぬ」
「そなた以外を側に置く気がない」
今度は名美が黙った。
泰以も黙った。
しばらくして、名美がゆっくり息を吐いた。
「……そういうことを仰せになれば、私が引き下がると思っておられますか」
「少しは」
「引き下がりませぬ」
「そうか」
「そうです」
だが、先ほどより声は少しだけ弱かった。
泰以はそれを聞かなかったことにした。
「では、どうするのです」
「子をもらう」
「はい?」
「側室をもらうくらいなら、子をもらう」
「子は米俵ではございません」
「分かっておる」
「分かっておられぬから、そのような言い方になるのです」
泰以は杯へ酒を注いだ。
「時茂には男子が三人おる」
名美の手が止まった。
「殿」
「三人もおるのだ。一人くらい」
「その言い方を時茂殿の前でなさったら、私は知りませぬよ」
「怒らせておけ」
「奥方にも怒られます」
「二人に怒られるだけだ」
「彌一郎殿にも聞かねばなりません」
そこで泰以が名美を見た。
「彌一郎がよいと思うか」
「今、殿が申されたのではございませんか」
「三人のうち誰とは言っておらぬ」
「では、誰をお考えで」
泰以は少し考えた。
「孝茂は嫡男だ」
「はい」
「末の子は、まだ幼い」
「そうですね」
「ならば彌一郎だろう」
名美はすぐには答えなかった。
彌一郎。
時茂の次男。
兄がいる以上、時茂の家を継ぐ立場ではない。
年も、これから育てるには悪くない。
何より泰以は、以前からあの少年をよく見ている。
「悪い話ではございませぬ」
名美は言った。
泰以の顔が明るくなった。
「そうであろう」
「ただし、殿が勝手に連れてきてよいという意味ではございませぬ」
「分かっておる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんでは困ります」
名美は息を吐いた。
「時茂殿に話を通し、奥方にもお願いし、彌一郎殿本人にも話をする。兄弟にも筋を通さねばなりませぬ」
「面倒だな」
「養子とはそういうものでございます」
「では、そなたが話してくれ」
「なぜ私が」
「得意であろう」
「時茂殿と同じ扱いをしないでください」
泰以が少し笑った。
「ですが、養子を迎えれば終わりではありませぬぞ」
名美が言った。
「まだ何かあるのか」
「その養子が、いずれこの家を継ぐのでしょう」
「そのつもりだ」
「ならば、妻も必要になります」
泰以が止まった。
「嫁か」
「今すぐという話ではございませぬ」
「そうか」
「ですが、家を続けるならば、いずれ必要です」
泰以は少し考えた。
そして、何かを思いついた顔をした。
名美は嫌な予感がした。
「何です」
「そなたの姪がおるだろう」
「おりますが」
「それでよい」
「何がでございます」
「彌一郎の嫁だ」
名美は目を閉じた。
「殿」
「何だ」
「今、私が申し上げたばかりでしょう。人の縁組は、殿一人で決めるものではございませぬ」
「だが悪くない」
「悪いかどうか以前の問題です」
「由比の家につながるなら、悪くなかろう」
「私の実家は西山です」
「由比の一族であろう」
「それでも、まず先方へ話を通します」
「ならば通せばよい」
「殿」
「何だ」
「一晩で養子と嫁まで決めるおつもりですか」
「早い方がよい」
「戦ではないのです」
「戦は早い方がよい」
「だから戦ではございません」
名美は額へ手を当てた。
泰以は何が悪いのか分からない顔をしている。
「殿」
「うむ」
「養子を迎えることには反対いたしません」
「そうか」
「彌一郎殿も、悪いお方ではないと思います」
「ならば決まりだ」
「まだです」
「なぜだ」
「殿が決めただけだからです」
泰以はまた不満そうな顔になった。
「迎えるならば、礼を尽くしてください」
「礼?」
「時茂殿に。奥方に。兄弟に。そして彌一郎殿本人に」
「分かった」
「本当に分かっておられますか」
「今度は、たぶんではない」
「信用いたします」
名美はそう言ってから、五百石の書付へ目を落とした。
「それから、殿」
「まだあるのか」
「あります」
「今日は多いな」
「あの方を迎えるならば、ただ養子にするだけでは足りませぬ」
「何が要る」
「殿の家を継ぐだけのものを用意してください」
「五百石がある」
「知行だけではございませぬ」
名美は指を折った。
「名。家臣。縁。殿がこれまで得てきたもの。いずれは、それを彌一郎殿へ渡すのでしょう」
泰以は書付を見た。
五百石。
杉山。
村越。
彌太郎。
山を登った十二人。
昼までは、ただ増えたものだと思っていた。
だが、それを受け取る者がいるのだと考えると、少し違って見えた。
「面倒だな」
泰以が言った。
名美は笑わなかった。
「家とは、だいたい面倒にございます」
泰以は名美を見る。
「それ、誰かにも言われたな」
「では、よほど殿に必要な言葉なのでしょう」
名美は五百石の書付を畳み、泰以の前へ戻した。
戦場で得た褒美。
その紙一枚から、家臣が増え、養子の話が生まれ、まだ見ぬ縁組の話まで始まっている。
泰以はしばらく書付を見つめた。
戦より面倒なのは、本当かもしれなかった。
史料・創作メモ
名美について
朝比奈泰以の妻については、具体的な名や出自を示す史料は確認できていません。
本作では、泰以の妻を**「名美」**とし、駿河の有力家臣・由比氏の庶流にあたる西山家の出身として描いています。これは小説上の設定です。
名美は『今川クロニクル』の既刊作**『掛川朝比奈記』**にも登場しており、同作で描いた「泰以が名美に一目惚れし、妻に迎えた」という設定を『宇津山朝比奈記』でも引き継いでいます。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




