第三話 五百石|今川氏親から朝比奈泰以への恩賞
井伊が降ってから、半月ほどが過ぎた。
掛川城には、いつもの音が戻っていた。
朝になれば門が開き、城下から荷が入る。普請場では槌が鳴り、人夫が土を運ぶ。泰以が連れ帰った兵たちも、それぞれの役目へ戻っていた。
戦に出ていた者の中には、まだ傷を抱えた者もいる。
腕を吊ったまま歩く者。額に布を巻いた者。足を引きずりながら、それでも厩へ顔を出す者。
彌一郎は、以前ならそうした者を見れば、まず傷の大きさに目がいった。
今は少し違う。
この者は山のどこにいたのだろう。
どの道を登ったのだろう。
敵からは何が見えていたのだろう。
そんなことを考えるようになっていた。
理由は分かっている。
彌太郎である。
泰以に十二人ばかりを預けられ、道とも呼べぬ山腹を夜のうちに登らされた男だ。
井伊方が正面の道を固めていると見るや、泰以は城の脇へ回り、山を見上げた。
誰もが、そこから兵を上げるのは無理だと思った。
泰以だけが、十二人なら登れると言った。
そして自分では登らず、彌太郎を登らせた。
翌朝、井伊方の背後の尾根に朝比奈の旗が立った。
たった十二人。
城を攻め落とせる数ではない。
だが、下から人数までは見えない。
正面には泰以。
背後には朝比奈の旗。
退路を断たれたと思わせたうえで、泰以は降伏を促した。
十二人で城を落としたわけではない。
だが十二人がいなければ、同じようには終わらなかった。
「また考えておるのか」
声をかけられ、彌一郎は振り返った。
庭先に孝茂が立っていた。
「何をです」
「井伊の山だ」
「兄上には分かるのですか」
「ここ数日、山を見る顔をしておる」
「山を見る顔とは、どんな顔です」
「今のお前の顔だ」
孝茂は笑った。
彌一郎は不満だったが、言い返せなかった。
「彌太郎殿は、よく登りましたね」
「命じられたからな」
「私なら登れたでしょうか」
「やめておけ」
「なぜです」
「叔父上が聞いたら、本当に登らされる」
それはあり得る。
彌一郎が黙ると、孝茂がまた笑った。
そのとき、屋敷の外が騒がしくなった。
馬が入ってきたらしい。
戦の報せが届くときとは違う。
慌ただしさの中に、どこか改まったものがあった。
ほどなく家臣が庭へ姿を見せた。
「孝茂様、彌一郎様」
「何だ」
「駿府より御使者にございます」
二人は顔を見合わせた。
「御屋形様からか」
「はっ」
孝茂の顔から笑みが消えた。
「父上のところへ行くぞ」
掛川城へ入ると、すでに迎えの準備が始まっていた。
今川氏親の使者である。
ただの客として扱うわけにはいかない。
広間には泰能が上座につき、その近くに泰以と時茂が控えた。
孝茂と彌一郎はさらに下がった場所に座る。
柱際には彌太郎の姿もあった。
やがて使者が入ってきた。
挨拶が交わされ、書状が差し出された。
使者が口を開く。
「このたびの井伊降伏につきまして、御屋形様には大いに御喜びにございます」
泰能が頭を下げた。
「恐れ入ります」
「掛川朝比奈家には、その働きに対する加増が仰せ出されました」
広間の空気は、それほど動かなかった。
井伊を降したのは掛川勢である。
その功に対して、泰熙の跡を継いだ泰能の家が加増される。
それは誰もがある程度予想していたことだった。
だが、使者はそこで言葉を切らなかった。
「また、朝比奈泰以殿には、御屋形様より別に御恩賞がございます」
今度は空気が変わった。
泰以がわずかに眉を動かす。
「私に、でございますか」
「左様にございます」
使者がもう一通の書付を差し出した。
「駿河国内にて五百石。朝比奈泰以殿へ与えるとの仰せにございます」
五百石。
彌一郎は、その数字を頭の中でもう一度繰り返した。
少ないとは思わない。
だが掛川一城を動かすほどの大きさでもない。
それでも、掛川朝比奈家への加増とは別に、泰以個人へ知行が与えられた。
泰以は書付を受け取ると、両手をついて頭を下げた。
「ありがたく頂戴いたします」
「今後も御屋形様のため、変わらぬ働きをとのことでございます」
「承知いたしました」
使者はそれ以上のことを言わなかった。
なぜ泰以個人へ五百石を与えるのか。
その先に何を考えているのか。
氏親の言葉として伝えられたのは、そこまでだった。
その日は使者をもてなすため、城内が慌ただしくなった。
彌一郎は父に尋ねる機会を探したが、時茂は使者への応対や書付の確認に追われている。
泰以も同じだった。
ようやく身内だけで話せるようになったのは、日が傾いてからだった。
泰能の居所に、泰以と時茂が残った。
孝茂と彌一郎も呼ばれた。
彌太郎は泰以の後ろに控えている。
昼間とは違い、皆の座り方も少し崩れていた。
泰以は例の書付を前に置き、腕を組んでいる。
「五百石か」
誰に言うでもなく呟いた。
時茂が答えた。
「御屋形様としては、かなりはっきりした御褒美でしょう」
「掛川への加増だけでよかったではないか」
「それでは兄上個人への恩賞になりませぬ」
「井伊を降したのは、わし一人ではない」
彌太郎が小さく頷いた。
泰以がそれに気づいた。
「何だ」
「いえ」
「何か言いたそうだな」
「今はまだ結構にございます」
「妙な言い方をするな」
時茂は、前に置かれた書付へ目を戻した。
「掛川への加増と、兄上への五百石は、分けて考えるべきでしょう」
泰能が尋ねた。
「どういう意味です」
「掛川への加増は、掛川朝比奈家へのものにございます。泰能殿が泰熙兄上の跡を継ぎ、その家が井伊降伏に功を立てた。それに対する御恩賞です」
「うむ」
「ですが、こちらは違う」
時茂は五百石の書付を指した。
「これは泰以兄上個人へ与えられております」
泰以が眉を寄せた。
「褒美であろう」
「それだけなら、掛川への加増に含めてもよかったはずです」
「御屋形様が、わしにも褒美をくださった。それではいかんのか」
「いかぬとは申しておりませぬ」
時茂は静かに続けた。
「ただ、御屋形様は兄上を、いつまでも掛川朝比奈の後見としてだけ使うおつもりではないのかもしれませぬ」
泰能の表情が変わった。
「叔父上を、掛川から離すということですか」
「今すぐそのような話ではございませぬ」
時茂は泰能へ向き直った。
「掛川には朝比奈、高天神には福島。御屋形様は遠江の要となる場所を、古くから仕える家に任せておられます」
彌一郎は、以前父から聞いた話を思い出した。
掛川は東西をつなぐ要。
高天神は南を押さえる要。
どちらも失ってよい城ではない。
「遠江をさらに西へ押さえていくなら、また別の要が必要になります」
時茂は言った。
「その時、兄上を掛川から分けて使うおつもりなのではないか。五百石は、そのための足場とも考えられます」
「考えすぎだ」
泰以は即座に言った。
「兄上は考えなさすぎるのです」
「わしは泰能殿の後見だ」
「今は」
「またその言い方をする」
「事実でございましょう」
泰能が泰以を見る。
「叔父上がいなくなるのは困ります」
「御心配なく」
泰以は迷わず答えた。
「まだ、どこへ行けとも命じられておりませぬ。五百石を頂いただけです」
「ですが」
「御屋形様から命があれば、その時に考えればよろしい」
「その時では遅いこともあります」
時茂が言う。
「先のことを考えすぎても仕方がない」
「考えておかねば、急に命じられた時に困ります」
「その時はお前が考えろ」
「兄上」
「得意であろう」
時茂が呆れた顔をする。
泰能は二人を見比べていた。
彌一郎には、どちらが正しいのか分からない。
泰以の言う通り、まだ掛川を離れろとは命じられていない。
だが時茂の言うことも分かる。
氏親が、意味もなく泰以個人へ五百石を与えたとは思えなかった。
掛川ではなく、泰以へ。
それが何かの始まりなのではないか。
「ところで」
彌太郎が口を開いた。
泰以が振り向く。
「何だ」
「先ほど言いかけたことでございますが」
「申せ」
「十二人で山を登った者にも、多少は御褒美があってよいかと」
「そうだな」
泰以はあっさり頷いた。
「では、わしの家臣にしてやろう」
彌太郎が目を瞬いた。
時茂も顔を上げた。
「十二人とも、でございますか」
「何だ。不満か」
「いえ。ですが、全員を掛川へ置くおつもりで?」
「そんなことはせぬ」
泰以はあっさり答えた。
「普段は今までどおりでよい。村へ戻る者は戻れ。田を作る者は田を作れ。だが、わしが呼べば来い。それでよい」
時茂が口を開いた。
「被官として抱える、ということですか」
「そうなるな」
「五百石を頂いたその日に」
「ちょうどよいではないか」
彌太郎が横から言った。
「杉山殿と村越殿もおります」
「そうだ」
泰以は頷いた。
「杉山と村越。それにお前」
「私も入っておりますか」
「入っておる」
「正式に聞いた覚えがございませぬ」
「では今言う。今日から家臣だ」
彌太郎はしばらく泰以を見た。
「随分と軽く決まるものでございますな」
「嫌なのか」
「いえ」
「ならば決まりだ」
「せめて一度くらい、私の返事を待っていただいても」
「嫌なら山へ戻すぞ」
「謹んでお仕えいたします」
孝茂が顔を伏せた。
彌一郎も笑った。
泰能まで口元を緩めている。
時茂だけは笑わなかった。
「兄上」
「何だ」
「先ほど私が何を申したか、もうお忘れですか」
「何の話だ」
「御屋形様が、兄上を掛川から分けて使うおつもりかもしれぬ、と」
「聞いておった」
「その直後に、自分の家臣を増やしておりますが」
泰以は少し考えた。
「偶然だな」
「そういうことにしておきましょう」
時茂は小さく息を吐いた。
「兄上にも、いよいよ家らしいものができ始めましたな」
「大げさだ」
「杉山、村越、彌太郎。それに十二人の被官」
時茂は指を折った。
「全員が常にそばにいるわけではありませぬが、兄上の名で呼べば集まる者です」
「十五人だ」
泰以が言った。
「まだ十五人しかおらぬ」
「最初から百人抱えるつもりですか」
「五百石では無理だろう」
「そこは分かっておられるのですね」
「わしを何だと思っておる」
「兄上です」
「答えになっておらぬ」
彌一郎は、二人のやり取りを聞きながら考えていた。
朝まで泰以は、泰能の叔父であり、掛川を支える後見だった。
それが今は、五百石を持った。
自分の名で仕える者もいる。
杉山。
村越。
彌太郎。
そして戦になれば泰以のもとへ集まる十二人。
まだ小さい。
掛川朝比奈家とは比べものにならない。
だが、一つの家が形を持ち始めているように見えた。
時茂が言った。
「御屋形様の御考えがどうであれ、兄上自身が先に準備を始めてしまったようですな」
「人聞きが悪い」
「家臣を抱えたのは兄上です」
「働いた者に褒美をやっただけだ」
「五百石も褒美。家臣も褒美。兄上の周りだけ、ずいぶんと形が整ってまいりました」
泰以が黙った。
書付を見る。
それから彌太郎を見る。
庭の向こうを見る。
何かを考えているらしい。
「ところで」
やがて泰以が言った。
妙に軽い声だった。
時茂が眉を上げる。
「何です、兄上」
「一つ、困ったことに気づいた」
「五百石に何か」
「いや」
泰以は、自分の指を見た。
「杉山がおる」
「おりますな」
「村越もおる」
「はい」
「彌太郎も家臣にした」
「勝手に決められましたが」
「十二人も抱えた」
「常に仕えるわけではございませぬが」
「それでも、わしに仕える者だ」
泰以はそこで黙った。
時茂が、嫌な予感でもしたように兄を見る。
「何です」
泰以は五百石の書付をひらりと持ち上げた。
「家臣はできた」
「はい」
「知行もできた」
「はい」
「だが」
泰以は困ったような顔をした。
「わし、子がおらぬのだが」
広間が静まり返った。
時茂は目を閉じた。
泰能は口を開きかけ、そのまま止まった。
孝茂は父と泰以を交互に見る。
彌太郎は、なぜか庭の方へ顔を向けた。
彌一郎だけが、すぐには皆の沈黙の意味を飲み込めなかった。
「家臣を抱えて、知行まで頂いたはよいが」
泰以は書付を膝へ置いた。
「この家、誰に継がせるのだ」
今度は、誰も答えなかった。
外では普請を終える槌の音がしていた。
乾いた音が一つ。
少し間を置いて、また一つ。
五百石と、十数人の家臣。
形になり始めたばかりの泰以の家には、その先を継ぐ者だけがいなかった。
史料・創作メモ
朝比奈泰以の駿河の土地について
朝比奈泰以については、駿河国内の土地を買得し、寺へ寄進したことを示す一次史料が残されています。少なくとも泰以が、掛川朝比奈家とは別に、駿河国内で土地を取得し処分できる立場にあったことは史料から確認できます。
本作での創作・考察
本話で描いた「井伊氏降伏の恩賞として、今川氏親から泰以個人へ駿河五百石が与えられた」という出来事と、五百石という具体的な数字は本作の創作です。
また、その知行を「氏親が泰以を掛川朝比奈家から将来的に分け、別の要地へ配置するための準備ではないか」と時茂が考える部分も、当時の今川氏による家臣配置や、その後の泰以・朝比奈氏の動きをもとにした本作の考察です。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




