第二話 井伊の山城|朝比奈泰以の奇襲
勝報が掛川へ届いてから四日後。
昼を少し過ぎた頃、西門の物見から声が上がった。
「御帰陣!」
その声は、すぐに城内へ伝わった。
彌一郎は兄の孝茂とともに門へ向かった。
すでに時茂が門の内側に立っている。その少し後ろには、掛川城主の泰能も姿を見せていた。
城下の者たちも、道の脇へ集まり始めている。
やがて坂の下から、兵の列が姿を現した。
先触れの騎馬。
旗。
槍を担いだ足軽たち。
出陣の日と同じ軍勢のはずなのに、まるで違って見えた。
具足には泥がこびりつき、草鞋は黒く汚れている。腕に布を巻いた者がいる。肩を借りて歩く者もいる。
それでも、顔は明るかった。
勝って帰ってきた兵の顔だった。
先頭近くに泰以がいた。
兜は脱いでいる。
肩にかけた具足にも、馬の脚にも、乾いた泥がついていた。
「兄上」
時茂が進み出た。
「御無事の御帰陣、何よりにございます」
「無事ではある」
泰以は馬上から答えた。
「だが、山は好かぬ」
孝茂がわずかに顔を伏せた。
彌一郎は笑ってよいものか迷った。
時茂だけは平然としている。
「その山を落としてこられたのでしょう」
「だから好かぬのだ。落とすには登らねばならぬ」
泰以は馬から降りた。
それから彌一郎を見る。
「彌一郎」
「はい」
「背が伸びたな」
「叔父上が出陣されてから、まだ半月も経っておりませぬ」
「そうであったか」
「はい」
「ならば気のせいだ」
泰以は何事もなかったように歩き出した。
その後ろから、一人の男が馬を降りた。
朝比奈彌太郎だった。
泰以の近くで働くことが多く、軍中でもたびたび使いを任される男である。
彌一郎は、その姿を見て眉をひそめた。
泰以よりひどい。
具足のあちこちに泥がこびりつき、袖には小枝で引っかけたような跡がある。頬にも細い傷が走っていた。
「彌太郎殿」
「何でございます」
「転びましたか」
彌太郎は少し黙った。
「山に聞いてくだされ」
泰以が振り返った。
「何をしておる。泰能殿へ報告するぞ」
「はい」
彌太郎は答えた。
その声に、わずかな恨みが混じっているように彌一郎には聞こえた。
広間では、泰能が上座についた。
泰以と時茂がその前に座り、孝茂と彌一郎はさらに後ろへ控えた。
彌太郎も柱際に座っている。
帰還したばかりの泰以だったが、泰能の前に出ると態度を改めた。
「井伊方の山城、落としましてございます。井伊は降伏いたしました」
「叔父上、大儀でした」
泰能は頭を下げた。
「掛川のため、よう働いてくださいました」
「掛川のためにございます」
「味方の損害は」
「死者七。傷を負った者が三十余り。軽い傷まで数えれば、もう少し増えましょう」
彌一郎は息を呑んだ。
勝った。
その言葉だけを聞いていたときには、そこまで考えていなかった。
七人は帰ってこなかった。
「井伊方は」
「城兵の多くは降りました。周辺の者どもにも人質と誓紙を出させております。しばらくは大人しくするでしょう」
「しばらく、ですか」
「山の者は、降ったからといって翌日から味方になるわけではございませぬ」
泰以は淡々と答えた。
「道を押さえ、人を置き、約束を破ればどうなるかを覚えさせる必要がございます」
泰能は頷いた。
「城は、どのように落としたのです」
彌一郎は思わず顔を上げた。
聞きたかった。
父から聞いた言葉が、ずっと残っている。
泰以は、地を見て勝つ。
それが何を意味するのか。
泰以は少し考えた。
「正面から攻めれば、こちらの死人が増えるだけでした」
「道が狭かったのですか」
「はい。城へ上がる道は井伊方も承知しております。柵を置き、弓を並べ、上から石まで用意しておりました」
「では別の道を」
「道はございませんでした」
泰能が首を傾げた。
「道がない?」
「はい」
そこで柱際から、小さな声がした。
「ございませんでした」
彌太郎だった。
泰以が横を見る。
「何だ」
「念のため申し上げておこうかと」
「何をだ」
「道は、ございませんでした」
「登れたではないか」
「登れることと、道があることは別にございます」
広間に、わずかな笑いが起きた。
泰能まで口元を緩めている。
時茂が彌太郎を見た。
「何があった」
彌太郎は一度、泰以を見た。
「申し上げても?」
「勝手にせよ」
「では」
彌太郎は姿勢を正した。
「正面の攻め口を見た泰以様が、これは割に合わぬと申されまして」
「その言い方はしておらぬ」
「似たようなものでございました」
「続けろ」
「それで城の脇へ回りました。北だったか西だったか」
「北西だ」
「だそうでございます」
彌太郎は続けた。
「そこに急な斜面がございました。岩と木ばかりで、人の通った跡もほとんどありませぬ」
彌一郎は泰以を見る。
「そこを登ったのですか」
「わしは登っておらぬ」
「では誰が」
彌太郎が静かに手を上げた。
「私にございます」
「何人で」
「十二人」
「十二人?」
今度は泰能が聞き返した。
泰以が答えた。
「大勢では見つかる」
「十二人で城を攻めたのですか」
「攻めてはおりませぬ」
「では何を」
泰以は床に指を置いた。
「城がここにあるとする」
全員の視線が集まる。
泰以は指先を動かした。
「正面の道がこちら。井伊方の兵は、ほとんどこちらを見ていた」
別の指を城の横へ回す。
「この裏に尾根があった」
「そこへ彌太郎殿を?」
「そうだ」
彌太郎が補った。
「泰以様は簡単に申されました。十二人連れて、夜のうちにあそこへ登れ、と」
「簡単ではない。ちゃんと説明した」
「『登って夜明けに旗を立てろ』でございました」
「十分ではないか」
「どこから登るかは」
「自分で見つけろと言った」
「ほら」
今度は孝茂も顔を伏せた。
彌一郎は堪えきれず、少し笑った。
泰以がこちらを見る。
「何がおかしい」
「いえ」
「ならばよい」
泰能が尋ねた。
「それで、十二人は尾根まで?」
「登りました」
彌太郎が答えた。
「夜半に出て、夜明け前にどうにか」
「よく見つからなかったな」
時茂が言う。
「見張りも、あの斜面を登る者がいるとは思っていなかったのでしょう」
「普通は思わぬ」
彌太郎が言った。
「私も思いませぬ」
「だが登った」
泰以が言う。
「それはもう結構でございます」
泰以は構わず続けた。
「夜が明けたところで、彌太郎たちに旗を立てさせた」
「十二人なのに?」
彌一郎が尋ねた。
「下から人数など分かるものか」
泰以は答えた。
「井伊方から見えるのは、背後の尾根に朝比奈の旗が立ったということだけだ」
彌一郎は、ようやく分かった。
「大勢が回り込んだと思わせた」
「そうだ」
「でも、近くまで見に来られたら」
「その前に正面から動いた」
泰以の指が再び床を進む。
「夜明けと同時に正面の兵を上げた。今度は攻めるためではない。弓を射かけ、鬨の声を上げ、こちらも動くぞと見せた」
「前には叔父上。後ろには朝比奈の旗」
泰以が頷く。
「井伊方には、退く道がなくなったように見える」
時茂が言った。
「実際には、背後には十二人しかいない」
「十二人でも刃物は持っております」
彌太郎が言う。
「黙っておれ」
「はい」
「そこで降伏を勧めた」
泰以は続けた。
「このまま戦えば、正面から攻める。背後にも兵がいる。だが今降れば、城兵の命は取らぬとな」
泰能が感心したように息を吐いた。
「それで降ったのですか」
「すぐには」
泰以は首を振った。
「向こうにも意地がある。一度は断った」
「では」
「昼まで待った」
「攻めずに?」
「攻める必要がない」
泰以はあっさりと言った。
「井伊方は、背後の兵がどれほどいるか分からぬ。こちらは正面からいつでも攻められる。時間が経てば経つほど、向こうが勝手に考える」
彌一郎には不思議だった。
戦とは、刀を振るい、弓を射て、敵を倒すものだと思っていた。
だが泰以は、敵に考えさせて勝った。
「昼を過ぎた頃、もう一度使者を入れた」
「それで」
「降った」
あまりにも簡単に言うので、彌一郎は拍子抜けした。
「それだけですか」
「それだけだ」
彌太郎が口を開いた。
「私は半日ほど、尾根で十二人きりで震えておりましたが」
「寒かったか」
「そういう意味ではございませぬ」
「敵が来たら逃げろと言ったであろう」
「逃げ道がございません」
「登ったところを下りればよい」
「泰以様」
「何だ」
「あの斜面を一度登ってみてくだされ」
「嫌だ」
即答だった。
広間に笑いが起きた。
今度は泰以も止めなかった。
ただ、時茂だけは少し考える顔をしていた。
「兄上」
「何だ」
「もし井伊方が降らなかったら」
「正面から攻めるしかなかった」
「彌太郎たちは」
「頃合いを見て下ろす」
「下りられたでしょうか」
彌太郎が時茂を見る。
「そこをもう少し強く聞いていただけますか」
泰以が面倒そうに眉を寄せた。
「だから戻ってきただろう」
「結果の話をしております」
父から聞いた言葉を、彌一郎は思い出していた。
山は人を守らぬ。
山を知る者だけを守る。
そして、地を見て勝つ。
泰以が見ていたのは、正面の敵だけではなかった。
道がどこにあるか。
道がないところを、人が通れるか。
敵には何が見えるか。
何が見えないか。
十二人を百人にも、二百人にも見せる方法がある。
「叔父上」
彌一郎が呼んだ。
「何だ」
「あの山を見たとき、最初から彌太郎殿を登らせようと思ったのですか」
「いや」
「では」
「山を見てから考えた」
「なぜ、あそこなら登れると」
泰以は少しだけ考えた。
「木が生えていた」
「木?」
「本当に人が登れぬ崖なら、大きな木はあれほど生えぬ。土があり、根がある。根があれば掴める」
彌太郎が呆れたような顔で泰以を見る。
「その理屈で私を登らせたのでございますか」
「登れたであろう」
「もう何も申しませぬ」
泰以は彌一郎へ顔を戻した。
「戦場では、敵ばかり見るな」
「はい」
「山も、川も、道も見る。味方がどこまで歩けるかも見る」
そこで泰以は、柱際の彌太郎をちらりと見た。
「たまに、思ったより歩く者もいる」
「二度目はございません」
「そう申すな。次も頼むぞ」
「お断りいたします」
彌一郎は笑った。
今度は、笑ってよいのだと分かった。
泰以もわずかに笑っていた。
その日の夕暮れ、彌一郎はまた西の土塁に立った。
遠くには山が重なっている。
以前と同じ山並みだった。
だが、もう同じには見えなかった。
道が見えなくても、人が通れる場所がある。
少ない兵でも、多く見せることができる。
城を落とすのは、力だけではない。
彌一郎は山を見ながら、泰以の言葉をもう一度思い返した。
――敵ばかり見るな。
西の空は、ゆっくりと暮れ始めていた。
史料・創作メモ
史料・伝承から
朝比奈泰以が井伊氏を攻め、これを降したことは後世の記録に伝えられています。
創作部分
本話で描いた山城攻略の具体的な戦術、彌太郎ら十二人を背後の尾根へ登らせた作戦、戦闘経過や会話は本作の創作です。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




