第一話 掛川の留守|朝比奈泰以、井伊谷へ
掛川城の西の空は、薄く霞んでいた。
春とも冬ともつかぬ冷たい風が、土塁の上を渡っていく。
城下からは、朝早くから槌の音が響いていた。
掛川城は、まだ新しい。
堀は掘られ、土塁は固められ、城下には新しい屋敷が次々と建っている。城としての形はすでに整っていたが、普請の手が止まることはなかった。
彌一郎は、西の土塁に立っていた。
遠く、幾重にも山が重なっている。
その向こうに井伊谷がある。
十日余り前、叔父の泰以は兵を率いて掛川を発った。
井伊方が籠もる山城を攻めるためだった。
途中から短い報せはいくつか届いている。
軍勢は予定どおり進んでいる。
井伊方と対峙した。
攻め口を定めた。
だが、城を落としたとも、井伊が降ったとも聞いていない。
彌一郎には、その先が気になって仕方がなかった。
自分も行きたかった。
まだ戦場へ連れていってもらえる年ではない。それは分かっている。それでも、鎧を着けた兵たちが城門から次々と出ていくのを見送り、自分だけ掛川に残されたことが面白くなかった。
「朝からそこにおったのか」
背後から声がした。
振り返ると、父の時茂が土塁へ上がってくるところだった。
鎧は着けていない。だが腰には、いつものように刀がある。
「父上」
「西を見ても、兄上は見えぬぞ」
「分かっております」
「ならばよい」
時茂は彌一郎の隣まで来ると、同じように西を眺めた。
城の中は、いつもより静かだった。
泰以が連れていった兵の分だけ、人が少ない。
その一方で、残された者たちは忙しく動いている。
城門には番兵が立ち、厩では馬の世話が続いている。蔵の前では荷が改められ、人夫たちは普請のための土や木材を運んでいた。
戦になったからといって、城の営みまで止まるわけではない。
「叔父上は、いつ頃お戻りになりますか」
「それが分かれば苦労はせぬ」
「もう十日以上です」
「掛川から井伊谷まで兵を連れて行き、そのうえ山城を攻めるのだ。十日で長いなどと言っておったら戦はできぬ」
「井伊の城は、それほど手強いのでしょうか」
時茂は西の山を見ながら答えた。
「山城を攻めるのは面倒だ」
「高いからですか」
「それもある。道が狭い。兵を並べられぬ。上から弓を射られれば身を隠す場所も少ない。石を落とされるだけでも死人が出る」
彌一郎は山並みを見直した。
ここから見れば、ただ霞んだ山にしか見えない。
「叔父上でも、苦戦することがあるのですか」
「あるだろう」
意外な返事だった。
「父上は、泰以叔父上は今川家でも一、二を争う戦上手だと」
「戦上手なら苦戦せぬと思っておるのか」
「違うのですか」
「苦しいところで負けぬから、戦上手なのだ」
彌一郎は少し考えてから、父を見た。
「では、もう一人は誰なのです」
「何がだ」
「一、二を争うのでしょう。叔父上が一人なら、もう一人がおります」
時茂が苦笑した。
「妙なところだけよく覚えておるな」
「誰ですか」
「福島助春殿であろうな」
「高天神の」
「そうだ」
その名なら彌一郎も知っていた。
高天神城を任されている福島助春。
遠江で戦があれば、朝比奈と並んで耳にすることの多い名だった。
「叔父上と、どちらがお強いのでしょう」
「比べてどうする」
「気になります」
「ならば、戦い方が違うと覚えておけ」
時茂は再び西へ目を向けた。
「泰以兄上は地を見る。道を見て、川を見て、敵がどこから来て、どこへ退くかを見る。福島殿は、敵の腹を裂いて勝つ。どちらも御屋形様が遠江で頼みにしておられる御仁だ」
「だから、掛川と高天神を任されているのですか」
時茂は眼下の城下へ視線を落とした。
「掛川は、駿河から遠江へ兵を通す要だ。高天神は、その南を押さえる。どちらも失ってよい場所ではない」
「だから朝比奈と福島が」
「要の城は、誰にでも預けられるものではない」
時茂はそれだけ言った。
彌一郎は掛川の城下を見下ろした。
城を任される。
これまで、その意味を深く考えたことはなかった。
「泰以兄上は、地を見て勝つ」
時茂が言った。
その言葉が、妙に胸に残った。
やがて時茂は土塁を下り始めた。
「彌一郎。来い」
「どちらへ」
「城を預かっておる者が、一日中西を見ているわけにもいかぬ」
城内を歩いていくと、掛川がまだ造りかけの城であることがよく分かった。
人夫が土を運び、大工が柱を立てている。
炊事の女たちが桶を抱えて通り過ぎ、その横を木材を積んだ荷車が軋みながら進んでいった。
泰以が出陣していても、普請は続いている。
西門まで来ると、炭俵と薪を積んだ荷車が三台止められていた。
村人たちが困った顔をしている。
「何事だ」
時茂が声をかけると、門番が慌てて頭を下げた。
「原谷の者にございます。炭と薪を運んでまいりましたが、泰以様より、西から入る者はよく改めよとの御命令がございましたので」
「中は見たか」
「はっ。炭と薪のほかには何も」
「ならば通せ」
門番が一瞬迷った。
「よろしいので」
「何のための薪だ」
「城中で使うものにございます」
「ならば止めてどうする」
「しかし、戦の最中ゆえ」
「だから改めよと命じられたのだ。すべて止めよとは言われておらぬ」
時茂は荷車へ目を向けた。
「戦をしていても、人は飯を炊く。湯も沸かす。普請もする。怪しい者は止めよ。必要な物まで止めれば、こちらが困るだけだ」
「はっ」
門番が道を開ける。
村人たちは何度も頭を下げながら、荷車を押して城内へ入っていった。
彌一郎は、その後ろ姿を見ていた。
「戦になれば、城は戦うことだけをするものかと思っておりました」
「兵も飯を食わねば動けぬ」
時茂は歩き出した。
「馬には草が要る。傷を負えば薬も要る。刀ばかり見ておると、戦は分からぬぞ」
「では、叔父上も戦場でそのようなことを考えているのですか」
「兄上は、そういうものをよく見る」
「そういうもの?」
「道だ。水だ。兵糧だ。敵がどこへ逃げるか。こちらがどこを通れば楽か。何日そこにいられるか」
「地を見る、ということですか」
「そうだ」
先ほどの言葉が、今度は少し分かった気がした。
昼を過ぎても、新しい報せは来なかった。
彌一郎は屋敷へ戻ったものの、落ち着かなかった。
書を開いても頭に入らず、庭で木刀を振ってみても、いつの間にか西の方角を見ている。
夕刻が近づく頃には、再び土塁へ上がっていた。
今度は時茂が先にいた。
「やはり来たか」
「父上こそ」
「わしはここを預かっておる」
泰以が戦に出ている間、掛川の留守を担っているのは時茂だった。
掛川城を築いた泰熙は、すでに亡い。
城はその子の泰能が継いでいる。
だが泰能はまだ若い。
そこで泰熙の弟である泰以が後見となり、軍事をはじめ掛川を支えていた。
泰以が軍勢を率いて外へ出れば、もう一人の弟である時茂が城に残る。
彌一郎にとっては父と叔父である。
だが掛川の者たちから見れば、泰熙の死後もこの城を支えている朝比奈の一族だった。
「泰能殿は、御城主なのですよね」
「そうだ」
「けれど、戦には叔父上が出ます」
「泰能殿は、これから覚えればよい」
時茂は言った。
「父を失ったからといって、その翌日から何もかも一人でできるようになるわけではない」
「泰熙叔父上は、この城を築いたのでしょう」
「そうだ」
時茂は眼下の城下を見た。
「氏親様が遠江を押さえるには、掛川が要る。駿河から西へ兵を動かすにも、ここが要る。だから泰熙兄上に、この地が任された」
彌一郎は先ほど聞いた話を思い出した。
「高天神の福島殿も、同じなのですね」
「そういうことだ」
「御屋形様が、大事な場所を任せられる家だから」
「うむ」
時茂は頷いた。
「朝比奈も福島も、今川に古くから仕える家だ。だが、古いだけでは足りぬ。役に立たねば城は任せられぬ」
「泰以叔父上も、氏親様の御信頼が厚い」
「兄上は御屋形様の乳兄弟でもあるしな」
「父上もですよね」
「そうだ」
「では父上も」
「わしの話はよい」
時茂が苦笑した。
「今は兄上の心配でもしておれ」
「父上は心配ではないのですか」
「心配して勝つなら、いくらでもする」
その時だった。
時茂が顔を上げた。
彌一郎にも、少し遅れて聞こえた。
馬の蹄の音。
一騎だった。
西門の方で番兵が声を上げる。
「伝令!」
時茂はすぐに土塁を下りた。
彌一郎も後を追う。
馬は汗に濡れていた。
乗っていた兵も、衣服のあちこちを泥で汚している。
男は馬から降りると、時茂の前まで来て膝をついた。
「泰以様より、急ぎの御報せにございます」
「泰能殿へお通しせよ」
時茂は即座に命じた。
彌一郎は一瞬、父の顔を見た。
父が城を預かっているのだから、ここで報せを聞くのかと思っていた。
だが、掛川城の主は泰能である。
間もなく、城の広間に泰能が姿を現した。
彌一郎より年長ではあるが、隣に座る時茂と比べれば、まだ若さが目につく。
それでも上座につくと、表情を引き締めて伝令を見た。
「申せ」
「はっ」
伝令が深く頭を下げた。
「井伊方の山城、落城いたしました。井伊、降伏にございます」
広間の空気が変わった。
泰能が小さく息を吐く。
「叔父上は」
「御無事にございます」
その答えを聞いて、泰能の肩からわずかに力が抜けた。
「そうか」
そこで時茂が口を開いた。
「味方の損害は」
「死傷者が出ております。まだ取りまとめの途中にございます」
「多いのか」
「そこまでは、私には分かりませぬ」
「井伊方は」
「城兵は降りました。ただし、周辺の者どもへの沙汰はこれからにございます」
泰能が尋ねた。
「叔父上は、すぐ戻られるのか」
「いえ。本日はその地に留まるとのことにございます」
「城の始末か」
「はっ」
今度は泰能もすぐに分かった。
時茂が伝令へ尋ねる。
「出立は」
「早ければ明日。ただ、まだ定まってはおりませぬ」
「掛川へ戻るのは」
「泰以様からは、早くても三日ほどは見てほしいと」
「三日か」
「軍勢にございます。それに負傷者もおりますゆえ」
時茂は頷いた。
掛川から井伊谷まで、身軽な一騎ならともかく、兵と馬と荷を連れた軍勢は簡単には動けない。
まして戦を終えたばかりである。
「分かった」
泰能が伝令に声をかけた。
「大儀であった。まず休め」
「ありがたき幸せ」
伝令が下がる。
広間に残った泰能が、時茂へ顔を向けた。
「叔父上。こちらはどうする」
「今は、軍勢が戻ってきても困らぬよう確かめておけば十分でしょう」
「兵糧か」
「はい。ただし、まだ炊く必要はございませぬ。兄上がいつ発つかも定まっておりません」
泰能は頷いた。
「では任せる」
「承知しました」
広間を出ると、時茂は近くに控えていた家臣を呼んだ。
「蔵の米を改めよ」
「はっ」
「帰還した兵に出せるだけあるか。それだけ確かめておけ。薪と塩もだ。足りぬものがあれば、明日のうちに手配せよ」
「承知しました」
「厩も空きを見ておけ。馬が何頭戻るかは次の報せを待つ」
「負傷者の受け入れは」
「まだ数が分からぬ。今は場所だけ考えておけ。医師を呼ぶのは、次の報せを聞いてからでよい」
家臣が頭を下げ、去っていった。
彌一郎は、その一連のやり取りを黙って見ていた。
「父上」
「何だ」
「泰能殿に報せてから、父上が動くのですね」
「当たり前だ」
「父上が留守を預かっているのに」
「掛川城の主は泰能殿だ」
時茂はあっさりと言った。
「わしは、泰能殿が困らぬよう働けばよい」
彌一郎は少し考えた。
「泰以叔父上も、そうなのですか」
「兄上も同じだ」
「戦に出ているのに」
「戦に出ることと、城主になることは別だ」
時茂は歩き出した。
彌一郎もその後を追う。
朝から聞いてきたことが、少しずつ一つにつながっていた。
城を任される者。
戦に出る者。
留守を守る者。
その下で、米を量る者、薪を運ぶ者、馬を世話する者。
掛川という一つの城だけでも、多くの者がそれぞれの役目を持っている。
「勝ったのに、すぐには帰れないのですね」
「大勢の人間が、馬や荷を連れて動くのだ。まして戦の後だ」
「三日で戻れますか」
「順調ならな」
「もっとかかることも」
「当然ある」
時茂は西の空を見た。
「次の報せを待てばよい」
「それまでは何もしない?」
「違う」
時茂は彌一郎を見る。
「分からぬうちに、分かっているところまで備える」
彌一郎は黙った。
城を攻める泰以。
その帰りを待ちながら掛川を守る時茂。
そして、その二人に支えられながら城主として座る泰能。
南の高天神には福島助春がいる。
今川が遠江を押さえるため、その場所ごとに任された者がいる。
彌一郎は、夕暮れの西を見た。
あの山の向こうには、勝った泰以と、まだ帰れぬ兵たちがいる。
朝にはただ遠く見えていた山並みだった。
だが今は、その向こうにも掛川と同じように、人が動き、道があり、城があり、戦があることが少しだけ見えた気がした。
### 史料・創作メモ
本作では、史料で確認できる事実、後世の記録・地域伝承、作者の考察、物語上の創作を組み合わせて描いています。
**史料・伝承から**
掛川城は今川氏の遠江支配における重要拠点で、朝比奈氏が城主を務めました。朝比奈泰以は今川氏親に近い重臣として活動し、井伊氏との戦いにも関わったとされています。また、高天神城周辺では福島氏が今川方の有力家臣として大きな役割を担っていました。
**本作での考察**
掛川の朝比奈氏、高天神の福島氏という配置を、今川氏親が遠江の要所に信頼できる譜代家臣を置いたものとして描いています。この考え方は、後に宇津山城へ朝比奈氏が置かれる理由を考えるうえでも、本作の重要な軸になります。
**創作部分**
彌一郎と時茂の会話、掛川城での留守居の様子、炭や薪を運ぶ村人とのやり取り、井伊攻めの報せを待つ場面などは小説上の創作です。
**主人公について**
「朝比奈泰満」の名は、宇津山城周辺の地域資料・寺伝に確認できます。ただし、その系譜や他の朝比奈氏との関係は明確ではありません。
本作では、史料に現れる「朝比奈彌一郎」が泰以の養子であることなどを手がかりに、
**彌一郎=朝比奈泰満=後の朝比奈氏泰**
とし、さらに**朝比奈時茂の次男**として描いています。
この人物比定と系譜関係は、本作で採用する作者の仮説です。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




