第四十五話 内評定|氏輝、宇津山を誰に預けるか
大永六年。
夏も終わりに近づいた頃、長池左衛門尉親能が宇津山から駿府へ戻った。
今川館へ持ち込んだのは、二年近く続いた普請についての報告だった。
今川氏輝の前には寿桂尼がいる。
左右には朝比奈下野守時茂、福島盛広、長池親能。
少し離れたところには葛山氏広も座っていた。
氏輝は、長池から差し出された書付へ一通り目を通した。
「もう少しか」
「はい」
長池が答える。
「大きな普請は、ほぼ終わっております。あとは細かなところを詰めればよろしいかと」
「城そのものは」
「使えます」
「道は」
「広げるところは広げました。雨で崩れやすいところには、まだ手を入れております」
「水は」
「問題ございませぬ」
「船は」
「湖から荷を入れることもできます。大船を寄せるような場所ではございませぬが、兵糧や知らせを動かすには十分でしょう」
氏輝は頷いた。
父、氏親が普請を命じた城だった。
浜名湖の西岸。
三河との境にも近い。
湖上の動きにも目が届く。
舟形山が破られた時、その内側を支える場所となり、中之郷ともつながる。
最初に宇津山へ目を付けたのは、朝比奈泰以だったという。
氏親がその言葉を覚えており、甲斐から戻った後に長池へ普請を命じた。
城だけではなく、道を直した。
水を見た。
湖から荷を入れる場所まで調べた。
二年近くをかけ、ようやく一つの拠点として形になろうとしている。
「長かったな」
氏輝が言った。
「城だけでよろしければ、もっと早く終わりました」
長池は平然と答えた。
「父も同じことを申したのだろう」
「何とでございます」
「城だけを造るな、と」
「申されました」
長池は少し笑った。
「泰以殿にも、似たようなことを言われました」
時茂が苦笑する。
「兄上なら言うでしょうな」
「実際、よく見ておられました」
そこで寿桂尼が尋ねた。
「では」
皆の目が向く。
「城は、いつ渡せますか」
「ひと月もあれば」
「誰に?」
その一言で、部屋が静かになった。
氏輝が長池を見る。
「まだ決めておらぬのか」
「私が決めることではございませぬ」
「候補くらいは考えただろう」
「考えてはおります」
「では、それを聞こう」
氏輝は居並ぶ者たちを見た。
「せっかく皆がおる。今日、決めたい」
◇
最初に口を開いたのは時茂だった。
「では、私から」
「申せ」
「庵原の一門から出すのがよろしいかと存じます」
氏輝が少し意外そうな顔をした。
「庵原か」
「はい」
「理由は」
「西に偏りすぎます」
時茂は遠江の絵図へ目を落とした。
「掛川には朝比奈がおります」
朝比奈泰能。
掛川城主。
「高天神には福島」
盛広が僅かに頷く。
「この上、浜名湖の西まで朝比奈か福島へ預ければ、西の要地を同じ家が多く持つことになります」
「だから庵原を」
「はい」
宇津山は、もはや小さな城番を一人置けば済む城ではない。
周囲の土地と人をまとめ、三河との境を見なければならない。
「預けるのであれば、それなりの家格も必要でございましょう」
「庵原なら不足はない」
「ございませぬ」
氏輝は寿桂尼を見た。
寿桂尼はまだ何も言わない。
「盛広は」
氏輝が尋ねた。
「どう思う」
福島盛広は少し考えてから答えた。
「私は、急いで一人へ預ける必要はないと思っております」
「置かぬのか」
「当面は直轄でよろしいのでは」
時茂が盛広を見る。
「直轄?」
「はい」
「誰が守る」
「城番を置けばよろしい」
盛広は絵図の宇津山を指した。
「彦五郎様がおられます」
氏輝の弟だった。
「弟を宇津山へ?」
「今すぐではございませぬ」
盛広は首を振った。
「御元服を待ちます」
氏輝は少し考えた。
「今川一門を境目へ置くということか」
「はい」
「重くないか」
「だからこそでございます」
盛広の指が浜名湖の西へ動く。
「三河との境。舟形山。中之郷。湖上の道。これから先、松平がどこまで伸びるかも分かりませぬ」
氏広が僅かに頷いた。
「宇津山を直轄にしておけば、どこか一つの家へ属する城にはなりませぬ」
盛広は続けた。
「彦五郎様が御元服された時、必要とあればそのままお預けできます」
「それまでは」
「長池殿が作った仕組みを使い、城番を置けばよろしいかと」
長池が少し嫌そうな顔をした。
「私をいつまで宇津山へ置くつもりです」
「普請が終われば駿府へ戻っていただきます」
「安心しました」
「城番は別に置きます」
「それならば」
氏輝は絵図を見た。
悪い案ではない。
城を今川家の手に残し、将来弟へ渡す。
一門を西の境目へ置くという考えにも筋は通っている。
「長池は」
氏輝が尋ねた。
「誰を考えておった」
「小原親高殿を」
「小原か」
氏広が長池を見る。
長池は続けた。
「小原殿は、現在、宇津山城の守備を預かっております。普請にも立ち会い、城の造りも、周辺の地形もよく承知しております」
「そのまま城主に据えるのがよいと申すか」
「はい。宇津山は、ただ強い者を置けばよい城ではございませぬ」
「どういう意味だ」
「境目です」
長池は答えた。
「戦うこともあるでしょう。しかし、実際には戦わずに済ませる仕事の方が多くなる。三河から人が来る。こちらからも人が行く。商人も通る。船も動く。舟形山、中之郷、新居とも話を合わせねばなりませぬ」
「小原なら、それができると」
「少なくとも、戦うことばかり考える男ではございませぬ。甲斐で見ました」
長池は言った。
「上条河原で我らが退いた折にも、あの男は慌てず兵をまとめておりました。退く時ほど、落ち着いております」
氏広が少し笑った。
「褒めているので?」
「褒めております」
「本人が聞けば、戦う時は落ち着いていないように聞こえると言いそうですな」
「それは氏広殿からお伝えください」
「嫌です」
氏輝が僅かに笑った。
長池は言葉を続けた。
「すでに城を守り、土地を知っている。甲斐での働きも申し分ありませぬ。新たに城主を迎え、一から土地を覚えさせるより、小原殿にそのまま任せるのがよいと考えます」
氏輝は頷き、再び絵図へ目を落とした。
小原親高。
甲斐でも働いた。
崩れた軍をまとめ、撤退にも加わった。
今は宇津山の守備を預かり、築かれたばかりの城を守っている。
境目を預ける者として、経験は十分にある。
「氏広」
氏輝が呼んだ。
「はい」
「そなたは、誰がよい」
◇
葛山氏広は、すぐには答えなかった。
宇津山を見る。
舟形山。
浜名湖。
三河。
そこへ続く道。
やがて口を開いた。
「朝比奈紀伊守を」
時茂が顔を上げた。
「泰満を?」
「はい」
氏広は平然としている。
氏輝も少し意外そうだった。
「理由を聞こう」
「甲斐で一緒に戦いました」
「知っておる」
「ならば話は早い」
「早すぎる。申せ」
氏広が少し笑った。
「上条河原で敗れた時」
部屋の空気が僅かに変わった。
福島助春が討死した戦だった。
「軍が崩れました」
誰も否定しない。
「福島殿が討たれ、前と後ろが切れ、武田が押してきた」
氏広自身、あの時残った軍をまとめていた。
「紀伊守には、その時三百ほどがおりました」
「聞いておる」
「逃げようと思えば、逃げられました」
時茂が氏広を見る。
「だが、逃げなかった」
「はい」
氏広は頷いた。
「小原殿らと残り、崩れた兵を通してから下がりました」
「殿を務めたと」
「それだけなら、勇のある者ならやるでしょう」
氏広は一度言葉を止めた。
「私が見ていたのは、その後です」
「その後?」
「勝山へ戻った時です」
氏広の声は静かだった。
「紀伊守は、次にどう戦うかより先に、残った兵を数えました」
氏輝が黙る。
「傷を見た。戻らぬ者を確かめた。食えるか。動けるか。帰せるか。それを見ていた」
時茂も何も言わなかった。
実の父として聞いている。
「若い武将は」
氏広は続けた。
「負ければ取り返したくなります」
氏輝が僅かに眉を動かす。
「自分だけでも働こうとする。失ったものを、すぐ取り返そうとする」
氏広は甲斐の冬を思い出すように視線を落とした。
「紀伊守は違いました」
「何をした」
「残す方を選びました」
部屋が静かになった。
「境目の城に必要なのは」
氏広は宇津山を指した。
「勝てる者だけではございませぬ」
氏輝が見る。
「では、何だ」
「負けそうな時に、全部を失わぬ者です」
誰もすぐには口を開かなかった。
「敵が来れば戦う」
「はい」
「勝てるなら勝つ」
「はい」
「だが、勝てぬ時には」
「何を残すかを決める」
「それが泰満だと」
「少なくとも、甲斐ではそうでした」
長池が絵図から顔を上げた。
「小瀬戸を預かっておりますな」
「はい」
時茂が答える。
「見性寺も再興したと聞いております」
「そうだ」
「土地を見る経験もある」
氏広が頷いた。
「宇津山は、城だけを預ける場所ではないのでしょう」
長池が答えた。
「そのつもりで造りました」
「なら、なおさらです」
◇
時茂は腕を組んだ。
「氏広殿」
「はい」
「わしの息子だから言いにくいが」
「なら私が言います」
「まだ何も言っておらぬ」
「若すぎる、と」
時茂が少し黙った。
「……それもある」
「若いです」
「二十五ほどだ」
「だからこそ、これから長く置けます」
氏広は即座に答えた。
時茂はさらに言う。
「宇津山を朝比奈へ預けることへの反発もある」
「それも考えました」
「掛川も朝比奈。宇津山も朝比奈となれば、面白く思わぬ者はいる」
「でしょうな」
「だから庵原を推した」
氏広は頷いた。
「筋は通っております」
それから少し間を置いた。
「ですが、朝比奈泰以殿のこともございます」
氏輝が顔を上げた。
「泰以?」
「宇津山に最初に目を付けたのは、あの方でしょう」
「そう聞いておる」
「舟形山を取り返し、曳馬でも働き、長く御先代を支えた」
時茂の表情が少し変わる。
泰以は氏親の乳兄弟だった。
「その泰以殿が、自分のために宇津山を欲しがったわけではない」
「当然だ」
「その甥であり、養子でもある紀伊守を置く」
氏広は言った。
「それならば、朝比奈ばかりを重くするという話だけにはならぬでしょう」
「泰以の働きへの報いとも見える、と」
「そう見る者もいるでしょう」
長池が口を挟んだ。
「本人は嫌がりそうですな」
「泰以殿が?」
「あの方なら、自分の功で養子に城をもらったと言えば怒るでしょう」
時茂が笑った。
「間違いなく」
氏広も僅かに笑った。
「なら、本人には言わなければよろしい」
「そういう問題か」
氏輝まで笑った。
◇
寿桂尼は、ここまでほとんど口を挟んでいなかった。
「母上は」
氏輝が尋ねる。
「どう思われます」
「どの案にも、理由はあります」
「それでは決まらぬ」
「ですから」
寿桂尼は静かに答えた。
「最後に決めるのは御屋形様です」
氏輝が少し困った顔をした。
父が生きていた頃なら、最後には氏親が決めた。
何人が意見を出しても。
どれだけ迷っても。
最後に一つ選ぶのは父だった。
今は、自分がそこに座っている。
氏輝は改めて一つずつ考えた。
「庵原」
「はい」
「家の釣り合いはよい」
「はい」
「彦五郎を待つ案も分かる」
「はい」
「小原も経験がある」
「はい」
「紀伊守も」
そこで言葉を止めた。
氏親の葬儀が終わった日のことを思い出す。
家臣たちが、新しい当主へ挨拶した。
朝比奈紀伊守泰満も、自分の前へ出た。
『これまで御先代にお仕えしたものと変わらず』
そして。
『今後は、御屋形様に奉公いたします』
氏親の家臣だったから、そのまま息子にも仕える。
そういう言葉ではなかった。
泰満は一度考えてから、自分の意思で頭を下げた。
氏輝には、そう見えた。
「氏広」
「はい」
「紀伊守は、父からどれほど目を掛けられていた」
「それは時茂殿に聞かれた方が」
氏輝が時茂を見る。
時茂は少し考えた。
「善得寺分を五十貫、加増されております」
「甲斐の後か」
「はい」
「小瀬戸も父が預けた」
「左様にございます」
「見性寺も」
「泰以兄上の話から始まったものですが、御先代も承知しておられました」
氏輝は頷いた。
父が使った男。
泰以が育てた男。
甲斐で氏広が働きを見た男。
小瀬戸で土地を預かってきた男。
そして、自分へ改めて仕えると言った男。
氏輝は絵図の宇津山を見た。
父が造らせた城。
泰以が必要だと言った城。
長池が二年をかけて形にした城。
そこへ誰を置くか。
「紀伊守にする」
時茂が僅かに姿勢を正した。
長池も。
盛広も。
氏広も黙って氏輝を見る。
「朝比奈泰満を」
氏輝はもう一度言った。
「宇津山へ置く」
「承知しました」
長池が頭を下げる。
盛広も続いた。
時茂だけが少し遅れて頭を下げた。
「よろしいのでございますか」
「何がだ」
「私の子にございます」
氏輝はすぐに答えた。
「だから決めたのではない」
時茂が顔を上げる。
「氏広が見た働き」
「はい」
「小瀬戸でやってきたこと」
「はい」
「泰以のこともある」
氏輝は一度言葉を止めた。
「それに」
あの日の泰満を思い出す。
「わしに仕えると言った」
時茂は黙った。
「なら」
氏輝が言う。
「仕事をさせる」
寿桂尼が小さく笑った。
「御父上に似てこられましたね」
氏輝が嫌そうな顔をした。
「そうですか」
「少し」
「それは褒めておられるので?」
「どうでしょう」
「母上」
部屋の空気が少しだけ緩んだ。
◇
氏輝はもう一度、宇津山を見た。
「母上は反対ではないので」
「ございません」
寿桂尼は答えた。
「紀伊守ならば、泰以殿も異存はないでしょう」
「本人は」
長池が言った。
「知っているのでございますか」
「知らぬ」
氏輝が答える。
氏広が少し笑った。
「驚くでしょうな」
「嫌だと言うか」
「それはないでしょう」
時茂が答えた。
「御屋形様の御命令です」
氏輝は首を振った。
「それでは分からぬ」
時茂が見る。
「本人は、行きたいのか」
時茂は少し考えた。
「おそらく」
「おそらく?」
「本人も、考えたことがないでしょう」
それには氏広も長池も笑った。
氏輝も少し笑った。
「なら」
側に控えていた者へ顔を向ける。
「考えさせればよい」
「はっ」
「小瀬戸へ使いを出せ」
使者が頭を下げる。
「朝比奈紀伊守泰満」
氏輝はもう一度、絵図の宇津山を見た。
「駿府へ出るよう伝えよ」
「承知しました」
長池親能が二年をかけて造った城は、もうじき完成する。
泰以が見つけ。
氏親が普請を命じ。
長池が形にした城。
そして、その城を預ける者を。
新しい当主である氏輝が決めた。
宇津山城主。
朝比奈紀伊守泰満。
まだ本人だけが。
そのことを知らなかった。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




