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第四十三話 代替わり|紀伊守、新しき主に仕える

 今川仮名目録が、小瀬戸でも少しずつ当たり前のものになり始めた頃だった。

「これは御定めにございます」

 村越がそう言えば、以前なら泰満のところまで持ち込まれていた話が、村役人のところで収まることも増えた。

 山の境。

 用水。

 借銭。

 百姓への取り立て。

 もちろん、何でも解決するわけではない。

 決まりがあっても揉める者は揉めるし、決まりを自分に都合よく読もうとする者もいる。

 それでも、何を基準に話せばよいのかが分かるだけで随分違った。

「前よりは楽になったな」

 泰満が言う。

「紀伊守様が、でございますか」

 彌太郎が尋ねた。

「皆が、だ」

「それなら結構なことで」

「わしも含めてだ」

「やはり御自分ではございませぬか」

「うるさい」

 そんなやり取りをしていた、その日の午後だった。

 駿府から使者が来た。

 いつもの使者ではなかった。

 馬を潰す勢いで駆けてきたことが、姿を見るだけで分かった。

     ◇

「御屋形様が?」

 泰満は聞き返した。

 使者は深く頭を下げたまま、もう一度言った。

「今川修理大夫様」

 一度、息を整える。

「御逝去にございます」

 泰満は動かなかった。

 彌太郎も。

 村越も。

 誰も声を出さない。

 少し前まで聞こえていた城内の音だけが、妙にはっきり聞こえた。

「いつだ」

 ようやく泰満が尋ねた。

 使者が答えた。

 泰満は、その日を頭の中でもう一度繰り返した。

 氏親が病んでいることは知っていた。

 以前より痩せた。

 政務の時間も短くなった。

 横になることも増えた。

 それでも会えば、氏親は氏親だった。

 決める。

 命じる。

 人を見る。

 土地を見る。

 戦でも政でも、最後に何をするべきなのかを決める。

 泰満にとって、今川家の上には、ずっとその男がいた。

「……そうか」

 結局、それしか言えなかった。

     ◇

 その夜。

 泰満は一人で、今川仮名目録の写しを開いていた。

 三十三条。

 ほんの少し前、駿府から届いたばかりのものだった。

 あの時、氏親がいつまでも生きるとは思っていなかった。

 身体を見れば分かっていた。

 だが、本当にその時が来ることと、頭で分かっていることは別だった。

 最後まで開く。

 氏親の印。

 その隣には、御台の「歸」の印がある。

 泰満は、氏親の印の近くへ指を置いた。

「最後まで」

 小さく呟いた。

「仕事をしておられたのだな」

 この三十三条もそうだった。

 氏親が一つ一つ裁かなくても、国が動くようにする。

 誰が奉行になっても。

 当主が若くても。

 少なくとも同じ基準で裁きが続くようにする。

 少し前には、そこまで深く考えていなかった。

 今は、その意味が違って見える。

「若」

 いつの間にか、彌太郎が戸口に立っていた。

「何だ」

「まだ起きておられたので」

「ああ」

 彌太郎が近くへ座る。

「駿府へは」

「行く」

「いつ」

「明朝だ」

「承知しました」

 しばらく、どちらも話さなかった。

「彌太郎」

「はい」

「わしは」

 泰満はそこで止まった。

 何を言いたかったのか、自分でも分からない。

「御屋形様に」

 また言葉が止まる。

 舟形山。

 曳馬。

 三河。

 甲斐。

 見性寺。

 小瀬戸。

 善得寺分五十貫。

 自分が今持っているものの多くは、氏親の代に得たものだった。

 名を認められた。

 城を預かった。

 兵を預かった。

 働きを見てもらった。

「随分」

 泰満は言った。

「いただいたな」

 彌太郎は何も言わなかった。

「返せたのか」

 今度も、すぐには返事がなかった。

 やがて彌太郎が言う。

「それを」

「何だ」

「これから返されるのではございませぬか」

 泰満が見る。

「御屋形様は、もうおられぬぞ」

「今川家はございます」

 泰満は黙った。

 その言葉を、しばらく考えた。

「そうか」

「はい」

「そういうものか」

「武家に仕えるとは、そういうことではございませぬか」

 泰満は、もう一度仮名目録を見た。

 氏親は死んだ。

 だが、今川家は続く。

     ◇

 駿府には、多くの人が集まっていた。

 駿河から。

 遠江から。

 国衆。

 寺社。

 商人。

 今川家と関わる者たちが、次々と駿府へ入ってくる。

 氏親の死は、一人の武将が死んだというだけでは済まなかった。

 何十年もこの国の上にいた男がいなくなった。

 その男を送る葬儀は、今川家を挙げたものになった。

 泰満は朝比奈の列にいた。

 前には時茂。

 少し離れて泰能。

 そして泰以も来ていた。

 身体を支えられながら参列する姿を見つけた時、泰満は少し驚いた。

「叔父上」

「来たか」

 泰以の声は、以前より小さかった。

「御身体は」

「この日くらいは来る」

「ですが」

 泰以は泰満を見た。

「乳兄弟だぞ」

 それ以上、泰満は何も言えなかった。

 氏親と泰以。

 幼い頃からともに育った。

 主君であり。

 乳兄弟でもあった。

 泰以は、棺のある方を長く見ていた。

「先に行きおった」

 それだけだった。

 だが、その一言に、泰満には分からない長さの時間があった。

 返す言葉はなかった。

     ◇

 葬儀が終わっても、駿府から人はすぐには帰らなかった。

 次のことがある。

 当主が死ねば、新しい当主が立つ。

 今川氏輝。

 氏親の嫡男だった。

 まだ若い。

 だが今、この瞬間から今川家を率いる者は氏輝だった。

 そして、もう一人。

 御台も姿を変えた。

 髪を落とし、名を改める。

 寿桂尼。

 氏親の妻であった女は、今度は新しい当主の母として、その後ろに立つことになる。

「寿桂尼様、か」

 泰満が小さく言った。

 隣にいた時茂が見る。

「まだ慣れぬか」

「はい」

「わしもだ」

 少し前まで、御台だった。

 仮名目録の末に、氏親の印と並んで「歸」の印を据えていた女。

 その時には、まだ氏親がいた。

 今はいない。

 同じ印でも、その意味は以前とは違って見えた。

「下野守殿」

 声を掛けられた。

 泰能だった。

「備中守」

 時茂が答える。

 泰満も頭を下げた。

「泰満」

「はい」

「久しいな」

「先日の葬儀でお会いしております」

「話してはおらぬだろう」

「それもそうですね」

 ほんの少しだけ、以前と同じ空気が戻った。

 だが泰満は、泰能の周囲が以前とは違うことに気づいた。

 声を掛ける者が多い。

 話を待つ者もいる。

 掛川城主だから。

 もちろん、それもある。

 だが、それだけではなかった。

 泰能の妻は、寿桂尼の姪にあたる。

 以前から今川家との縁は深かった。

 しかし氏親が亡くなり、寿桂尼が若い氏輝を支える位置へ移ったことで、その縁を周囲が見る目も変わっていた。

「備中守殿」

 別の者が声を掛ける。

「少し、お時間を」

「後で参る」

 泰能が答える。

 また別の者が頭を下げた。

 泰満はその様子を見ていた。

「何だ」

 泰能が気づいた。

「いえ」

「何かある顔だな」

「人気者になられたと思いまして」

 泰能が嫌そうな顔をした。

「やめてくれ」

「実際、そう見えます」

「御台――」

 一度言葉を止める。

「寿桂尼様との縁を、皆が勝手に重く見ているだけだ」

「重くないのですか」

「軽くもない」

 泰満が笑った。

「どちらです」

「そういうものは、自分で決めることではない」

 時茂が口を挟んだ。

「泰能」

「はい」

「慣れておけ」

「何にです」

「人が寄ってくることにだ」

「嫌でございます」

「掛川城主が何を申す」

「城主だからこそ、余計な者まで来るのでございます」

 泰満は、小瀬戸へ来たばかりの頃を思い出した。

 水。

 道。

 年貢。

 馬。

 何でも持ってこられた。

「分かります」

 泰能が泰満を見る。

「何がだ」

「何でも持ってこられると面倒です」

「だろう」

「おまえたち」

 時茂が呆れた。

「そこで意気投合するな」

     ◇

 やがて、今川家中の者たちが氏輝の前へ出る時が来た。

 一人ずつ。

 新しい主へ。

 今までと変わらぬ奉公を誓う。

 時茂。

 泰能。

 そのほかの重臣たち。

 そして、泰満の番が来た。

 前へ出る。

 今川氏輝。

 以前にも何度か会ったことはある。

 だが今日は違う。

 氏親の嫡男として座っているのではない。

 今川家の当主として、そこにいる。

 泰満は深く頭を下げた。

「朝比奈紀伊守泰満にございます」

 氏輝が泰満を見る。

「紀伊守」

「はっ」

「父より、そなたの話は聞いておる」

 泰満がわずかに顔を上げた。

「私のことを」

「ああ」

 氏輝は短く頷いた。

「甲斐でも働いたそうだな」

「皆の力にございます」

「小瀬戸も預かっておる」

「はい」

「これからも頼む」

 短い言葉だった。

 氏親のような重みは、まだない。

 それは当然だった。

 氏親は何十年も今川家を背負ってきた。

 戦い。

 裁き。

 土地を広げ。

 人を使い。

 国をまとめてきた。

 氏輝は今、そこへ立ったばかりだった。

 泰満は頭を下げたまま、少しだけ考えた。

 氏親に仕えた。

 だからその子にも、そのまま仕える。

 それだけでよいのか。

 違う気がした。

 氏親はもういない。

 今、目の前にいるこの男が主なのだ。

 氏親の代から仕えているからこそ、自分で改めて決めなければならない。

 泰満は顔を上げず、そのまま言った。

「これまで御先代にお仕えしたものと変わらず」

 一度、言葉を切る。

「今後は、御屋形様に奉公いたします」

 氏輝が頷いた。

「頼む」

「はっ」

 それだけだった。

 だが泰満には、それで十分だった。

 この瞬間。

 氏親の家臣であった朝比奈紀伊守泰満は。

 今川氏輝の家臣になった。

     ◇

 駿府を出る前。

 泰満は、もう一度今川館の方を振り返った。

 氏親はいない。

 氏輝がいる。

 御台はいない。

 寿桂尼がいる。

 同じ今川家。

 同じ駿府。

 建物も。

 道も。

 そこにいる人間の多くも変わらない。

 それでも、何かは確かに変わった。

「若」

 彌太郎が呼んだ。

「何だ」

「帰りませぬか」

「ああ」

 泰満は馬を進めた。

 小瀬戸へ帰る。

 美代がいる。

 孫太郎がいる。

 家臣がいる。

 預かった土地がある。

 そして今度から、そのすべての上にいる主は今川氏輝だった。

 氏親から受けたものを、氏親へ返すことはもうできない。

 ならば、その家へ返していけばよい。

 氏親が残した国へ。

 氏親の子へ。

 今川家へ。

 泰満は、そう考えた。

 代が変わった。

 今川家も。

 朝比奈の家も。

 それでも、家は人が替わりながら続いていく。


今川クロニクル『宇津山朝比奈記』

史料・創作メモは上記参照。

関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。


本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。

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