第四十二話 仮名目録|紀伊守、決まりを受け取る
大永六年四月。
小瀬戸城へ、駿府から使いが来た。
急使ではない。
戦の知らせでもない。
それでも、使者が差し出した包みを見て、泰満は少し姿勢を正した。
「御屋形様より?」
「今川家中へ広く御沙汰にございます」
「家中へ」
「はい」
受け取ってみると、思っていたより厚い。
泰満はその場で包みを開いた。
一枚。
また一枚。
さらに続く。
「何だ、これは」
横にいた彌太郎が覗き込んだ。
「随分ございますな」
「読んでみろ」
「紀伊守様がお読みになれば」
「一緒に見ろ」
「はい」
村越も呼ばれた。
三人で書付を広げる。
最初に、今川家からの正式な沙汰であることを示す文言がある。
その先へ目を移し、泰満が眉を寄せた。
「三十三条?」
「そのようでございます」
「何の三十三だ」
「御定め、ではございませぬか」
「それは見れば分かる」
泰満は先を読んだ。
譜代の名田地頭。
田畑。
山野。
川成。
海成。
訴訟。
被官。
召使い。
喧嘩。
知行。
借米。
借銭。
百姓。
不入地。
津料。
漂着船。
寺。
婚姻。
他国への加勢。
座敷の席次。
商人。
扱うものは、ばらばらだった。
だが読み進めるうちに、泰満の顔から最初の戸惑いが消えていく。
「……なるほど」
彌太郎が横を見る。
「何か分かりましたか」
「分かったというより」
泰満は一枚を指で押さえた。
「これだ」
「山野の争い」
「ああ」
すぐに思い出した。
見性寺を再興した時のことだった。
寺領の山を巡って、寺と村が揉めた。
寺側は、寺領なのだから勝手に入るなと言った。
村の者は、昔から薪を拾い、落葉を取り、草を刈ってきたと言った。
誰が正しいのか。
どこまで許すのか。
書付だけでは分からず、泰満自身が山へ入った。
境を見た。
切り株を見た。
寺と村の双方から話を聞いた。
その上で、生木は勝手に切らせず、薪や落葉は一定の範囲で使わせると決めた。
「この時に、こういう決まりがあれば」
「少しは楽でございましたか」
「少しどころではない」
次の紙へ目を移す。
「用水もある」
「ございますな」
「小瀬戸へ来て、最初に持ち込まれたのも水だった」
「上の村が多く取る、と」
「ああ」
「まだ揉めてはいなかったのですが」
「揉める前から来た」
「紀伊守様なら話を聞いてくださると思ったのでしょう」
泰満は頷いた。
「今となっては、それも分かる」
さらに先へ進む。
借米。
借銭。
百姓への直接取り立て。
そして喧嘩。
彌太郎が少し顔をしかめた。
「これは随分厳しゅうございますな」
「双方成敗か」
「理非を論ぜず、とございます」
「先に殴られた方も?」
「喧嘩にした以上は、ということでございましょう」
泰満はしばらくその条文を見た。
「怖いな」
「何がです」
「これを知っていれば、刀を抜く前に考える」
「それが狙いでは」
「そうなのだろうな」
また一枚。
他人の知行にいる百姓へ勝手に手を出してはならない。
借りがあるからといって、領主へ断りもなく米を持っていくことも許されない。
必要なら奉行へ申し立てる。
泰満は紙を置いた。
「これは助かる」
「どの辺りが」
「勝手に人のところへ行って、米を持ってくる者が減る」
「減ればよろしいですが」
「減らぬか」
「御定めを破る者がおらねば、御定めそのものが要りませぬ」
「嫌なことを言うな」
「事実にございます」
◇
読み進めるうちに、泰満は別のことを考え始めていた。
「彌太郎」
「はい」
「これは、ありがたいな」
「そう思われますか」
「ああ」
基準がある。
迷った時に見るものがある。
それだけでも、土地を預かる側にはありがたい。
「では、よろしいではございませぬか」
「だが」
彌太郎が待つ。
「わしが決められることも減る」
村越が顔を上げた。
「と申しますと」
「今までなら、山で揉めれば、わしが山へ行った」
「はい」
「水で揉めれば、双方を呼んだ」
「はい」
「寺と村が揉めれば、どこまで使ってよいか、わしが考えて決めた」
「はい」
「これからは、その前に」
泰満は三十三条を指した。
「まず、これを見る」
彌太郎が少し考えた。
「それが御定めでは」
「分かっている」
泰満は腕を組んだ。
「便利だ」
「はい」
「だが、便利だから何もかも良いという話でもない」
「と申しますと」
「わしが、この土地ならこうした方がよいと思っても」
「御定めに反すれば」
「できぬ」
「はい」
「今までより楽になる」
「はい」
「今までより、好きにはできなくなる」
彌太郎は頷いた。
「そうなりますな」
泰満は少し考えた。
城主になった時、自分で決められることが増えたと思った。
実際、その通りだった。
水。
山。
道。
寺。
村同士の争い。
最後には自分のところへ話が来た。
だが今度は、その自分にも先に守るべき基準が置かれた。
「よいことなのか」
彌太郎が少し笑う。
「私に聞かれましても」
「おまえなら何と言う」
「紀伊守様が勝手に決められなくなるのは」
一度考えてから言った。
「少し安心でございます」
泰満が睨んだ。
「どういう意味だ」
「深い意味はございませぬ」
「あるだろう」
「冗談にございます」
「半分は本気だな」
村越が顔を伏せている。
「おまえも笑うな」
「笑っておりませぬ」
「笑っている」
◇
泰満は、もう一度最初から読み直した。
今度は内容だけではない。
誰が、この決まりを出しているのかを見る。
最後まで来たところで、手が止まった。
「……ん?」
彌太郎が覗き込む。
「どうされました」
「これ」
泰満が指した。
印がある。
一つは見慣れていた。
今川氏親のもの。
だが、その隣にももう一つある。
「歸」
泰満が小さく読んだ。
彌太郎も目を細める。
「御台様の御印では」
「やはり、そうか」
「はい」
泰満はしばらく、二つの印を見比べた。
「なぜ並んでいる」
村越が答えた。
「御屋形様の御意向にございましょう」
「それはそうだ」
泰満も、氏親の身体が以前ほど強くないことは知っている。
駿府へ行けば、昔より横になる時間が増えた。
長く政務を続けることも難しくなっている。
それでも、最後に決めるのは氏親だった。
だが、その氏親の印の横に、今は御台の印が並んでいる。
「御台様も、沙汰を出されるということか」
彌太郎は慎重に答えた。
「この形で国中へ出ている以上」
「ああ」
「御台様の御印が据えられたものも、今川家の沙汰として扱えということではございませぬか」
泰満は何も言わなかった。
以前なら、御台は氏親の妻であり、氏輝の母だった。
それだけではないことを、この二つの印が示している。
「御屋形様は」
泰満が呟いた。
「随分先まで考えておられるな」
「何がでございます」
「自分が全部を見られなくても、国が動くようにだ」
彌太郎が泰満を見る。
「紀伊守様」
「何だ」
「御屋形様に直接聞かれたので?」
「聞いておらぬ」
「では」
「見れば分かる」
泰満は二つの印を見た。
「先に決まりを置く」
一つ。
「奉行が、それを見て裁く」
二つ。
「御台様の印でも沙汰を出せるようにする」
三つ。
「全部を、一人で抱えなくてもよいようにしている」
部屋が静かになった。
しばらくして、彌太郎が言った。
「……少し、泰以様に似ておりますな」
「何がだ」
「自分がいなくても家が動くように、人を残し、仕事を渡していくところが」
泰満は黙った。
名。
家臣。
知行。
妻。
子。
泰以も、一つずつ泰満へ渡してきた。
「似ておるか」
「乳兄弟でございますから」
「そういうものか」
「さあ」
「適当だな」
◇
「集めるぞ」
泰満が突然言った。
村越が顔を上げる。
「何をでございます」
「小瀬戸の者だ」
「誰まで」
「この御定めが関わる者は全部」
村越が少し困った顔をした。
「全部となりますと、多うございます」
「……全部は多いな」
「はい」
泰満は考えた。
「まず十二家」
「はい」
「村役人」
「はい」
「寺社に関わる者」
「はい」
「土地や年貢を見る者」
「はい」
「それから」
少し考える。
「水を巡って、よく揉めるところ」
村越が苦笑した。
「名指しで呼びますか」
「いや」
「安心しました」
「なぜだ」
「呼ばれた方が怒ります」
「なら村役人に任せる」
「承知しました」
「明日」
「明日?」
「遅いか」
「早いのでございます」
「では明後日」
「そのくらいなら」
彌太郎が言った。
「御屋形様と泰以様の悪いところだけ似てきましたな」
「何がだ」
「すぐ人を集めるところです」
「必要なのだから仕方あるまい」
◇
二日後。
小瀬戸城の広間には、普段より多くの人が集まった。
十二家の者。
村役人。
寺社に関わる者。
土地を預かる者。
年貢を扱う者。
皆、何を言われるのか分からない顔をしている。
泰満はその前へ座った。
横には村越。
その前には三十三条の写しが置かれている。
「今日は」
泰満が言った。
「わしが新しく何かを決めるために集めたのではない」
何人かが顔を見合わせた。
「駿府から、御屋形様の御定めが来た」
一枚を持ち上げる。
「今川仮名目録という」
広間が静かになった。
「三十三条ある」
どこかで小さく息を吐く音がした。
泰満がそちらを見る。
「多いと思ったか」
「いえ」
「わしも思った」
広間に小さな笑いが起きた。
「全部を今日覚えろとは言わぬ」
笑いが収まるのを待ってから続ける。
「だが、知らぬままでよいとも言わぬ」
村越へ目を向ける。
「読め」
「はい」
最初の条が読み上げられた。
一条。
二条。
三条。
聞く者の中には、途中から意味が分からなくなった顔もある。
泰満はその度に止めた。
「今のは」
村越を見る。
「簡単に言え」
「田畑や山を、根拠もなく自分のものだと言い張るな、ということでございます」
「そういうことだ」
次は用水。
泰満が補う。
「他人の土地を通さなければ水が届かぬなら、勝手に掘るな。必要なら替地や井料を出せ。決まらぬなら奉行へ持ってこい」
何人かが頷いた。
次は喧嘩。
村越が読み上げると、それまでより明らかに広間の空気が固くなった。
一人の男が恐る恐る尋ねる。
「双方成敗、でございますか」
「ああ」
「先に手を出された場合も?」
「喧嘩にしたら、だ」
「では」
泰満は男を見る。
「刀を抜く前に来い」
男が黙る。
「わしでも村役人でもよい。揉めた時点で話せ。斬り合ってから、どちらが悪かったと言われても遅い」
「承知しました」
男は頭を下げた。
借米。
借銭。
百姓への直接取り立て。
婚姻。
他国への加勢。
一つずつ読む。
意味を言い換える。
疑問があれば止める。
全部を読み終える頃には、集まった者たちの顔も、最初とは少し変わっていた。
自分たちを罰する話だけではない。
何をしてよいか。
何をしてはならないか。
揉めた時、どこへ話を持っていけばよいか。
それを示すものなのだと、少しずつ分かり始めているようだった。
◇
「紀伊守様」
一人の村役人が手をついた。
「一つ、よろしいでしょうか」
「何だ」
「今後は」
男は三十三条を見る。
「この通りに、すべて決まるのでございますか」
「基本はな」
「では」
一度言い淀んでから、男は尋ねた。
「紀伊守様がお決めになるのではないので?」
泰満は少し黙った。
彌太郎が横を見る。
村越も、集まった者たちも、泰満の返事を待った。
「決める」
泰満は言った。
「今までと同じように、わしが話を聞くこともある」
「はい」
「現地を見ることもある」
「はい」
「双方を呼ぶこともある」
村役人が頷いた。
「だが」
泰満は三十三条へ手を置いた。
「好きに決めるわけではなくなった」
広間が静かになった。
「わしも、この御定めに従う」
その言葉を口にした時。
泰満自身も、改めて意味を考えた。
この決まりは村人だけを縛るものではない。
十二家だけでもない。
寺だけでもない。
小瀬戸を預かる自分も、その中にいる。
「おまえたちだけに守れという話ではない」
泰満は続けた。
「わしも守る」
広間の空気が、わずかに変わった。
先ほどまで三十三条を警戒するように見ていた者たちの中に、少し違う表情が混じった。
「だから、写しを置く」
村越が用意していた紙を前へ出す。
「各村で回せ」
「はい」
「読める者は読め」
「はい」
「読めぬ者には、読んで聞かせろ」
「はい」
「意味が分からぬところがあれば、勝手に決めず聞け」
何人かが頭を下げた。
「知らなかった、という者を」
泰満は一度言葉を切った。
「できるだけ減らしておけ」
◇
皆が帰ったあと。
広間には、三十三条の写しが一部だけ残っていた。
泰満はそれを手に取った。
「どうでした」
彌太郎が聞く。
「何がだ」
「御定めができて」
泰満は少し考えた。
「楽になる」
「はい」
「面倒にもなる」
「はい」
「どちらだ」
「何がでございます」
「よいのか、悪いのか」
彌太郎は首を傾げた。
「両方ではございませぬか」
「またそれか」
「世の中、大抵そういうものでございましょう」
泰満は紙を広げた。
基準がある。
迷った時に見るものがある。
それはありがたい。
だが、自分の考えだけで決められる範囲は、少し狭くなった。
城主になれば、好きにできることが増えるのだと思っていた。
実際には違った。
預かる土地が増える。
預かる人が増える。
その分、守るべきものも増える。
そして今度は、自分が従うべきものまで増えた。
泰満は最後のところまで紙を開いた。
氏親の印。
その隣には、御台の「歸」の印。
二つが並んでいる。
「御屋形様は」
泰満が言った。
「城主まで縛るつもりなのだな」
彌太郎が答えた。
「御自分も、ではございませぬか」
泰満が顔を上げる。
「御定めを出した以上」
彌太郎は続けた。
「御屋形様だけ別というわけにもまいりますまい」
泰満はしばらく考えた。
「そうか」
その考えはなかった。
人を縛る決まりを作る。
同時に、自分もその決まりの中へ入る。
そういうことなら。
泰満は少し笑った。
「文句も言いづらいな」
「言うおつもりでしたか」
「言わぬ」
「安心しました」
泰満は三十三条を畳んだ。
明日から、小瀬戸で何かを裁く時。
見るものが一つ増える。
人を見る。
土地を見る。
道を見る。
そして。
決まりを見る。
それが今川家の土地を預かるということなのだろう。
泰満は、ようやくその意味を考え始めていた。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




