第四十一話 仮名目録|氏親、国の決まりを作る
大永六年四月。
今川館の一室には、朝から書付が積まれていた。
一枚や二枚ではない。
所領。
山野。
用水。
借米。
借銭。
喧嘩。
百姓。
寺社。
駿府の町。
さらには、国境を越える婚姻まである。
一つ一つを見れば、どれも別の話だった。
だが、今川氏親の前へ持ち込まれるという点では同じだった。
氏親は、その束をしばらく眺めていた。
以前ならば、上座へ座ったまま、朝から日が暮れるまで政務を続けることも珍しくなかった。
今は違う。
背には脇息が置かれている。
顔は以前より痩せた。
長く座っているだけでも、時折身体を休ませなければならない。
それでも。
「次」
声には、まだ力があった。
朝比奈下野守時茂が一枚を手に取る。
「山野争いにございます」
「どこだ」
「駿河東部。境の山を、隣の地頭が古くから自分のものだと申し立てております」
「証文は」
「ございませぬ」
氏親が眉を寄せた。
「では、何を根拠に」
「昔はその家の者が木を切っていた、と」
「いつの昔だ」
「それが分かりませぬ」
氏親は一度、目を閉じた。
こういう話は初めてではなかった。
「去年も似たものがあったな」
「ございました」
「一昨年は」
「ございました」
「人は違うのか」
「違います」
「話は」
「ほとんど同じにございます」
氏親は黙った。
横では福島盛広が別の束を整えている。
その隣には長池左衛門尉親能。
少し離れたところには御台が座っていた。
氏親がすべての政務を一人で見られなくなってから、御台がこうした席にいることも増えている。
「毎年」
氏親が言った。
「同じようなことを一から裁いておるのだな」
「左様にございます」
「ならば、先に決めておけ」
時茂が筆を取った。
「古い証もなく、新しく他人の田畑や山野を欲しいと言い出した者には、咎を置く」
時茂が顔を上げる。
「訴えることそのものを咎めますか」
「違う」
氏親は首を振った。
「正しい訴えまで止めるな」
「はい」
「だが、何の根拠もなく人の所領を欲しがる者には、自分も失うと分からせろ」
盛広が尋ねた。
「所領の三分の一ほどを召し上げますか」
氏親は少し考えた。
「ああ」
時茂が書き始める。
「田畑、山野の新儀を申し立て、道理なき場合には――」
「難しくするな」
時茂の筆が止まる。
「まだ書き始めたところでございます」
「なら最初から、読めば意味が分かるように書け」
時茂が困った顔をした。
長池がわずかに笑う。
「下野守殿、今日は長くなりそうですな」
「そなたも他人事ではないぞ」
氏親が言った。
「私もでございますか」
「山と水は、そなたが見ろ」
長池は諦めたように頭を下げた。
「承知しました」
◇
次に長池が取ったのは、用水の訴えだった。
「新しく井を掘りたい者がおります」
「掘ればよい」
「他人の知行を通ります」
「それは勝手に掘るな」
「ですが、通さなければ下の田へ水が届きませぬ」
氏親は紙へ目を落とした。
「通される方は、何と」
「田を削られる、と」
「実際に削るのか」
「少しは」
「なら、その分を埋めろ」
長池が頷く。
「替地か、井料を出すので」
「ああ」
「双方で決まらぬ時は」
「奉行が決めろ」
長池が少し笑った。
「すぐに、でございますか」
氏親が顔を上げる。
「田は水を待つのか」
「待ちませぬ」
「なら、急げ」
「御屋形様に普請を任される時と同じですな」
「何がだ」
「必要なら、揉め事が終わるまで待たずに先へ進めろ、と」
「揉めたまま進めとは言っておらぬ」
「似たようなものでございます」
「違う」
御台が小さく笑った。
氏親が見る。
「何だ」
「何でもございませぬ」
「笑っただろう」
「笑っておりませぬ」
時茂が筆を伏せた。
「御屋形様」
「何だ」
「続けてもよろしいでしょうか」
「続けろ」
◇
次は借米だった。
これも何度も見た話だった。
米を借りる。
利をつけて返す。
返せなければ、また利がつく。
それが何年も続き、気がつけば最初に借りた量とは比べものにならないほど膨らんでいる。
「一年のうちなら、約束した利でよい」
氏親が言った。
「はい」
「だが、何年も利を重ね、元の米より何倍にもするのは止めろ」
盛広が考える。
「五年ほどで限りを置きますか」
「その頃には、どれほどになる」
「合わせて六割ほどで」
「それ以上は」
「奉行へ持ち込ませます」
「そうしろ」
「借銭も同じにいたしますか」
「違うのか」
「銭は商いによって事情が違います」
「なら分けろ」
氏親はあっさり言った。
「返せぬ者を明日から裸にしても、銭は出てこぬ」
「二年ほど待たせますか」
「ああ」
「それでも返さぬ場合」
「いつまでも勝手に取り立てさせるな。奉行へ持ってこさせろ」
盛広が書き込む。
「六年ほどを目安に」
「長いな」
「田を売り、家を売り、それでも足りずに逃げる者もおります」
氏親は以前の訴えを思い出した。
「知行を質へ入れたまま出家した者もいたな」
「ございました」
「欠落した者も」
「はい」
「逃げれば終わりというのは止めろ」
「所帯を召し上げますか」
「そうしなければ」
氏親は言った。
「真面目に返す者が馬鹿を見る」
盛広が顔を上げた。
氏親は積まれた書付を見た。
「決まりとは、悪い者を罰するためだけではない」
「では」
「守っている者が損をしないためでもある」
御台が静かに氏親を見た。
氏親自身も、その言葉を確かめるように、もう一度紙へ目を落とした。
◇
「次は喧嘩にございます」
時茂が新しい紙を出した。
氏親が露骨に嫌な顔をする。
「またか」
「またでございます」
「今度は何だ」
「先に手を出したのはこちら。いや、先に悪口を言ったのはあちらだ、と」
「毎回聞くな」
時茂が止まった。
「ですが、理非を見ずに裁けば」
「理非を見ている間に、親が出てくる」
「出てまいります」
「兄弟も」
「出ます」
「被官も」
「参ります」
「最後には家同士だ」
「左様にございます」
氏親は短く息を吐いた。
小さな喧嘩が、いつの間にか二つの家の争いになる。
それを氏親は何度も見ていた。
「なら、喧嘩した双方を成敗しろ」
室内がわずかに静かになった。
盛広が確認する。
「理非を論ぜず」
「ああ」
「先に手を出した側だけではなく」
「双方だ」
「厳しゅうございますな」
「だから喧嘩をするなという話になる」
時茂は少し考えた。
「止めに入った者は」
「巻き込むな」
「当人と分からず、取り持って傷を負った者は」
「それは様子を見ろ」
氏親は続けた。
「だが、喧嘩に加わって走り回った者まで、後から止めに入ったと言い出すぞ」
「確かに」
「子供は」
盛広が尋ねた。
「子供同士なら、大人と同じにはするな」
「親が煽った場合は」
「親を裁け」
「子が人を死なせた場合」
氏親が眉を寄せる。
「いくつだ」
「童にございます」
「わざとか」
「過ちで」
「なら大人と同じにするな」
時茂が頷いた。
「十五を越える頃ならば」
「その頃になれば、子供では済まぬこともある」
「その辺りは裁許に残します」
「ああ」
氏親は喧嘩の訴状を見た。
「人が争うと」
一度言葉を切る。
「当人より、周りの方が大きくする」
時茂は静かに頷いた。
戦も同じだった。
始める時には、小さな理由がある。
だが人が加わり、家が加わり、意地が加わる。
気がつけば、最初に何を争っていたのかさえ分からなくなる。
甲斐から戻った兵たちの顔を、氏親はまだ覚えていた。
始まりより、終わらせる方が難しい。
◇
昼を過ぎた頃。
掛川から来た朝比奈泰能が通された。
本来は別件での訪問だった。
だが部屋へ入るなり、積み上がった紙の束を見て足を止めた。
「何をしておられるので」
「国の決まりを作っておる」
氏親が答えた。
泰能は一瞬黙った。
「随分、大きな話でございますな」
「座れ」
「私は別件で参ったのですが」
「ちょうどよい」
泰能が時茂を見る。
「下野守殿」
「諦めろ」
「やはり」
泰能は座った。
氏親が一枚を渡す。
「読め」
「用水にございますか」
「ああ」
泰能は目を通した。
「これは助かります」
「掛川でもあるか」
「水の争いがない年の方が珍しゅうございます」
「山は」
「ございます」
「田の境は」
「ございます」
「百姓同士も」
「ございます」
氏親が少し笑う。
「戦より多いか」
「戦より多うございます」
「紀伊守も似たことを申しておった」
時茂が顔を上げる。
「泰満が?」
「ああ」
氏親は小瀬戸での報告を思い出した。
「刀を抜けぬ争いの方が面倒だとな」
泰能も笑った。
「城を預かれば、皆そう思います」
「では、これを掛川でも使え」
「決まれば」
「ああ」
泰能はもう一枚を取った。
「他人の知行にいる百姓へ、勝手に譴責してはならぬ」
「それも多いか」
「ございます」
「借りがあるからと、領主へ断りもなく米を持っていく者など」
「止めさせろ」
「はい」
「その百姓に非があるなら、領主か奉行へ申し立てる」
「左様に」
「それでよい」
泰能は紙を置いた。
「これなら、城主にも都合がよろしいですな」
「都合?」
「何でも最後に城主のところへ持ってこられるより、先にしてよいことと悪いことが決まっていた方が楽です」
時茂が笑った。
「皆、同じことを言う」
氏親は笑わなかった。
積まれた紙へ目を落とす。
「だから作る」
泰能が氏親を見る。
「御屋形様が、すべて御覧にならずともよいように?」
少しだけ。
室内が静かになった。
「ああ」
氏親は答えた。
「わしが全部裁かねば動かぬ国では困る」
泰能は口を閉じた。
「今までは、わしが見た方が早かった」
「はい」
「だが」
氏親は一度だけ、自分の身体へ目を落とした。
「今は、全部は見られぬ」
「御屋形様」
「死ぬ話ではない」
泰能は黙った。
御台も何も言わない。
「当主が病むこともある」
「はい」
「戦へ出ることもある」
「はい」
「若いこともある」
誰も氏輝の名を出さなかった。
「そのたびに、国の裁きが変わるのでは困る」
氏親は紙の束を指した。
「だから、先に置く」
「決まりを」
「ああ」
「奉行がこれを見て調べる」
「そうだ」
「決まりで済むものは、そこで済ませる」
「それでも決まらぬものだけ、上へ上げる」
泰能が深く頷いた。
「掛川にも伝えます」
「そなた一人が覚えて終わるな」
「はい」
「読めぬ者には、読める者が話せ」
「村にも」
「そうだ」
氏親は言った。
「決まりは、知っておる者だけが得をするものではない」
◇
葛山氏広が顔を出したのは、その日の午後だった。
本来の用は、まったく別の報告だった。
それを終え、立ち上がろうとしたところで、氏親が呼び止めた。
「氏広」
「はい」
「座れ」
氏広が嫌な予感のする顔をした。
「まだ何か」
「これを見ろ」
「何でございます」
「国の決まりだ」
紙を受け取った氏広が困った顔をする。
「私は奉行ではございませぬが」
「国衆と話すだろう」
「話します」
「なら読め」
「逃げ道がございませぬな」
「ない」
氏広は諦めて読み始めた。
何枚か進んだところで、手が止まる。
「他国との婚姻を止めますか」
「ああ」
「駿河、遠江の者が」
「勝手に他国へ娘を出し、他国から嫁を取れば、いつの間にか向こうとの縁ができる」
「確かに」
「縁ができれば、次は何が起きる」
氏広は少し考えた。
「頼まれますな」
「何を」
「争いへの加勢などを」
「なら、それも止める」
氏広が次の紙を見る。
「私に他国勢へ加勢することを禁ず」
「ああ」
「一戦だけでも?」
「一戦だけならよい、と書けば、皆そう言う」
氏広が少し笑った。
「御屋形様は人を信用しておられぬ」
「信用しておるから決まりを作らぬ、という方が馬鹿だ」
「それもそうです」
氏広は婚姻と加勢の二枚を並べた。
「これは山や借銭とは、随分違いますな」
「そう見えるか」
「はい」
氏親は少し考えた。
「違わぬ」
氏広が顔を上げる。
「山を勝手に取るな」
「はい」
「他人の知行の百姓へ、勝手に手を出すな」
「はい」
「勝手に喧嘩をするな」
「はい」
「勝手に他国へ縁を作るな」
「はい」
「勝手に他国の戦へ出るな」
氏親は紙を指で軽く叩いた。
「全部同じだ」
氏広が目を細める。
「勝手に動くな、と」
「ああ」
「何かあれば」
「今川へ持ってこい」
「奉行を通せ」
「そうだ」
氏広はしばらく紙を見た。
「なるほど」
「何だ」
「これは、揉め事を裁くためだけの決まりではございませぬな」
氏親は答えず、先を待った。
「誰が、どこまで自分で決めてよいのか」
「そうだ」
「それを決める」
「ああ」
氏広が頷いた。
「なら、国衆と話す時にも使えます」
「どう使う」
「何をすれば罰せられるか分かるということは」
氏広は紙を置いた。
「何を守ればよいかも分かるということでございます」
氏親がわずかに笑った。
「甲斐から戻って、少し賢くなったな」
「随分高い授業料でございました」
その一言で。
ほんの一瞬。
福島助春の顔が、そこにいる者たちの間を通った。
誰も、その名を口にはしなかった。
氏親は紙へ目を落とした。
「だからこそだ」
氏広が見る。
「何がでございます」
「人が死んでから決めることを減らす」
それだけ言った。
◇
日は傾き始めていた。
それでも書付は、まだ残っている。
「寄船にございます」
盛広が新しい紙を取った。
「浦へ流れ着いた船の荷を、浜の者が取ることがございます」
「船主が分かるなら返せ」
「分からぬ場合は」
「寺社の修理にでも使え」
「浜の者には」
氏親が眉を寄せる。
「なぜ浜へ流れ着いただけで、その者のものになる」
「仰せの通りで」
「次」
「川を流れてきた木材」
氏親が嫌そうな顔をした。
「それも争うのか」
「争います」
「誰の知行を流れてきたかで?」
「左様にございます」
「よくそんなことで争えるな」
長池が口を挟んだ。
「木一本でも、木は木でございます」
「そなたは普請をしておるから、そう言うのだ」
「宇津山では一本でも惜しゅうございます」
氏親が長池を見る。
「普請はどうだ」
「進んでおります」
「城だけ造っておらぬだろうな」
「道を直し、水を見て、船を寄せる場所も調べております」
「ならよい」
長池が少し笑う。
「泰以殿と同じことを仰せになりますな」
「泰以が先に言ったのだ」
「存じております」
時茂が口を挟む。
「兄上なら、この中へあと十条ほど増やしそうですな」
「増やすな」
氏親が即答した。
盛広が笑う。
「これでも随分まとめてございます」
「何条になった」
「三十三にございます」
「多い」
「山野から婚姻まで入れれば、これでも少ない方かと」
「増やす理由にするな」
「増やしませぬ」
時茂が一枚を見る。
「座敷の席次もございます」
氏親が顔をしかめる。
「そんなものまで決めるのか」
「争いになりますので」
「誰がだ」
「三浦、朝比奈など」
氏親が時茂を見る。
「そなたの家ではないか」
「私が争っているわけではございませぬ」
「泰能」
まだ残っていた泰能が顔を上げる。
「はい」
「朝比奈は、そんなに席が好きか」
「私に聞かれましても」
氏広が笑った。
時茂は不満そうだった。
「弓矢で先を争うならまだ分かる」
氏親は言った。
「座敷で誰が上かなど、決めたところで国が広がるわけでもあるまい」
「では、そのように」
「書くのか」
「意味は整えます」
「そうしてくれ」
◇
最後の紙が置かれた頃には、外はもう薄暗くなっていた。
三十三条。
田畑。
山野。
川。
海。
喧嘩。
奉公人。
借米。
借銭。
質。
百姓。
不入地。
津料。
漂着船。
寺。
婚姻。
他国への加勢。
商人。
扱っているものは、ばらばらに見える。
だが氏親には、もう同じものに見えていた。
誰が、どこまで自分で動いてよいのか。
どこから先は、奉行へ持ってくるのか。
何をすれば罰せられ、何を守れば国に守られるのか。
それを先に示す。
そのための三十三条だった。
「これでよい」
時茂が顔を上げる。
「御屋形様」
「ああ」
「では、この三十三条を」
「出せ」
盛広が深く頭を下げた。
長池も。
泰能も。
氏広も続く。
御台だけは、氏親を見ていた。
「殿」
「何だ」
「お疲れでしょう」
「疲れた」
珍しく。
氏親は素直に答えた。
「では、今日はもう」
「まだ一つある」
御台の眉が寄る。
「まだ?」
「ああ」
氏親は、出来上がった三十三条を見た。
「決まりはできた」
「はい」
「奉行もおる」
「はい」
「これなら、わしが一から全部を裁かずとも国は動く」
「そのために、お作りになったのでしょう」
「ああ」
氏親は頷いた。
だが、そこで視線を落とした。
自分の前に置かれている印。
「最後には、沙汰を出さねばならぬ」
室内が静かになった。
「わしが座っておる日はよい」
誰も答えない。
「わしが書付を読み、印を据えられる日もよい」
御台の顔から、わずかに笑みが消えた。
「殿」
「だから死ぬ話ではない」
「今日は、そればかり仰せになります」
「そなたたちが、そういう顔をするからだ」
氏親は時茂を見る。
「下野」
「はっ」
「明日、印を二つ用意しろ」
時茂は一瞬、意味を測りかねた。
「二つにございますか」
「ああ」
「御屋形様の御印と」
「もう一つは」
氏親は御台を見る。
御台も氏親を見る。
「御台のものだ」
御台の眉が動いた。
「私の?」
「ああ」
「何に使うのでございます」
氏親はすぐには答えなかった。
目の前には、三十三条の書付。
その横には、自分がこれまで沙汰を出すために使ってきた印がある。
自分がすべてを見る。
自分がすべて決める。
それで国が動いてきた。
だが、それでは自分が止まれば国も止まる。
氏親は御台を見た。
「国を止めぬためだ」
それだけ言った。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




