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第四十話 孫太郎|紀伊守、父になる

 その朝、小瀬戸城はいつもと違っていた。

 廊下を人が走り、女たちが水を運ぶ。

 湯を沸かし、布を用意し、奥の部屋へ何度も出入りしている。

 城の中で多くの者が忙しく動いているというのに、泰満だけには何もすることがなかった。

「彌太郎」

「はい」

「本当に、何かすることはないのか」

「ございませぬ」

「水を運ぶとか」

「足りております」

「湯は」

「もう沸いております」

「では、ほかに何か」

 彌太郎は少し考えた。

「若」

「何だ」

「邪魔になります」

 泰満が顔をしかめた。

「もう少し言い方というものがあるだろう」

「では」

 彌太郎は言い直した。

「ここで静かにお待ちになることが、若のお役目にございます」

「同じではないか」

「柔らかく申しました」

 その時、奥から声が聞こえた。

 泰満が反射的に立ち上がる。

「今のは」

「お座りください」

「美代では」

「だからこそです」

「だが」

「若が行かれて、何ができます」

 泰満は答えられなかった。

 甲斐では三百人の兵を預かり、その動きを考えた。

 小瀬戸では村や寺の揉め事にも口を出す。

 だが今日に限っては、自分の妻が苦しんでいるというのに、何一つできない。

 彌太郎が笑った。

「甲斐では三百を動かされたというのに、今日はお一人も動かせませんな」

「うるさい」

     ◇

 昼を過ぎても、まだ終わらなかった。

 泰満は座っては立ち、庭へ出ては戻った。

 廊下の奥を見る。

 何も分からない。

「落ち着きませぬな」

 杉山が言った。

「おまえは落ち着いているな」

「私が慌てても仕方ございませぬ」

「皆それを言う」

「皆、正しいのでしょう」

 泰満は不満そうに座り直した。

「戦なら」

「はい」

「敵がどこにいるか分かる」

「はい」

「何をすればよいかも、だいたい分かる」

「はい」

「これは何も分からぬ」

 杉山は少し笑った。

「そういうものにございましょう」

「おまえも経験があるのか」

「ございます」

「先に言え」

「何をでございます」

「何か役に立つことを」

 杉山はしばらく考えた。

「待つことです」

 泰満はすぐ顔をしかめた。

「それは、もう聞いた」

     ◇

 夕方近くになって、ようやく奥から人が出てきた。

「紀伊守様」

 泰満はすぐに立ち上がった。

「どうした」

「お生まれになりました」

「美代は」

「御無事にございます」

 それを聞いた瞬間、泰満は大きく息を吐いた。

 まず美代が無事だった。

 そのことに安堵してから、もう一つ思い出す。

「子は」

「男のお子にございます」

 泰満は一度瞬きをした。

「男子?」

「はい」

 横にいた彌太郎の顔がほころんだ。

「若」

「何だ」

「おめでとうございます」

「ああ」

 答えたものの、まだ実感がない。

「会えるのか」

「もう少しお待ちください」

 泰満が嫌な顔をする。

「また待つのか」

「もう少しだけにございます」

 彌太郎が笑った。

「今日一日で、随分と待つことを覚えられましたな」

「黙れ」

     ◇

 赤子は、泰満が思っていたよりずっと小さかった。

 恐る恐る腕に抱く。

「これで大丈夫なのか」

 横になっていた美代が笑った。

「何がでございます」

「小さすぎる」

「赤子でございますから」

「手も小さい」

「紀伊守様も、生まれた時はそうであったはずです」

「覚えておらぬ」

「覚えておられたら怖いです」

 泰満は腕の中を見た。

 赤子は目を閉じている。

 ときどき口が小さく動く。

「男なのだな」

「はい」

 しばらく見てから、泰満が言った。

「孫太郎か」

 美代が顔を向ける。

「もう決められますか」

「決めたというより」

 泰満は答えた。

「この家の嫡男なら、まず孫太郎でよいだろう」

「では、孫太郎様ですね」

「様はいらぬだろう」

「私には息子ですが、城の者には若君でございますよ」

「そういうものか」

「そういうものです」

 泰満は困ったように赤子を見る。

 甲斐で兵を抱えて退いた時より、よほど慎重に腕を動かしている。

「重くないな」

「今は」

「そのうち重くなるのか」

「なっていただかねば困ります」

「それもそうだ」

 美代が笑った。

 泰満も、ようやく少し笑った。

     ◇

 孫太郎誕生の知らせは、すぐ泰以のもとへ送られた。

 返事も早かった。

 泰満が書状を開く。

「何と」

 彌太郎が尋ねた。

「男子でよかった、と」

「それは、まあ」

「その次だ」

「まだございますか」

「これで家が続く、と」

 泰満はしばらく書状を見た。

「泰以様らしいですな」

「ああ」

 養子に迎えられた頃のことを思い出す。

 泰以は、自分の家を継がせると言った。

 名美は、名も、家臣も、縁も、いずれ泰満へ渡すものだと話した。

 あの頃には、自分が妻を迎え、さらに子まで持つことなど、まだ遠い話だった。

 今では、その遠かった話が一つずつ現実になっている。

「若」

「何だ」

「嬉しそうですな」

「そう見えるか」

「少し」

「そうか」

 泰満は書状を畳んだ。

 そして一度だけ奥を見る。

「まあ」

 少し考えてから言った。

「悪くはない」

     ◇

 孫太郎が生まれてから、ひと月ほど経った頃。

 小瀬戸へ、西から来た商人が立ち寄った。

 浜名湖沿いを回り、そのまま掛川へ向かう途中だという。

 その男から聞いた話を、村越が持ってきた。

「紀伊守様」

「何だ」

「西で、大きな普請が始まったそうです」

 泰満が帳面から顔を上げる。

「西?」

「浜名湖の向こう側にございます」

「どこだ」

「宇津山」

 泰満の手が止まった。

「宇津山?」

「はい」

 その名は覚えている。

 舟形山城を取り返した帰り。

 泰以とともに立ち寄った、小さな城だった。

 浜名湖へ突き出すような地形。

 高いところから見下ろした湖。

 まだ城として十分使い切れていない、と泰以は言っていた。

「誰が普請を」

「長池左衛門尉殿が入られたとか」

「長池殿が?」

「人足を集め、木を入れ、道にも手を入れているそうです」

 泰満は帳面を閉じた。

「本当に広げるのか」

「御存じだったので?」

「以前、叔父上が御屋形様へ話していた」

「宇津山を?」

「ああ」

 あの時、泰以は宇津山を見ながら話していた。

 舟形山が破られれば、その内側で敵を受ける場所がいる。

 中之郷は近くを見る。

 宇津山なら、もっと広く浜名湖を見られる。

 船も使える。

 兵糧も動かせる。

 そして、城を大きく使うのであれば、いずれ周囲の土地までまとめて見る者が必要になる。

 泰満は、わずかに笑った。

「御屋形様」

「はい?」

「本当に覚えておられたのだな」

     ◇

 数日後。

 泰満は美代と孫太郎を連れ、泰以のもとを訪れた。

 泰以は名美の腕の中にいる赤子を覗き込んだ。

「小さいな」

 泰満がすぐ反応する。

「叔父上も同じことを言いますか」

「何がだ」

「私も最初に言いました」

「誰でも思うだろう」

 名美が笑った。

「ですが、元気ですよ」

「そうか」

 泰以の顔は、見るからに緩んでいた。

 泰満がそれを見逃さない。

「嬉しそうですね」

「何が悪い」

「悪いとは言っておりません」

「これで一安心だ」

「何がです」

「家だ」

 泰満は黙った。

「おまえを養子にもらった」

「はい」

「嫁を取らせた」

「はい」

「子までできた」

「はい」

「これで、ようやく先ができた」

 泰満は少し笑った。

「ずいぶん先まで考えておられたのですね」

「当たり前だ」

「私には何も聞かず」

「聞けば嫌だと言っただろう」

「言ったかもしれません」

「なら、聞かなくて正解だ」

 名美がすぐに口を挟んだ。

「違います」

「二人して言うな」

 少し笑いが起きた。

 だが泰以は、もう一度孫太郎を見た。

 その顔には、単に赤子を喜ぶだけではないものがあった。

 泰満には分かった。

 泰以には子がない。

 だから自分を養子にした。

 その自分に子が生まれた。

 泰以が残そうとしてきた家が、ようやくその先へつながった。

「叔父上」

「何だ」

「ちゃんと育てます」

 泰以は少しだけ顔を上げた。

「当たり前だ」

 それだけ言った。

     ◇

 帰る前。

 泰満は思い出したように尋ねた。

「叔父上」

「何だ」

「宇津山のことですが」

 泰以の目が泰満へ向く。

「何かあったか」

「普請が始まったそうです」

 一瞬だけ、泰以は黙った。

「そうか」

「驚かないのですか」

「なぜ驚く」

「御存じだったので?」

「知らぬ」

「では」

「わしが勧めたのだ」

 泰以は平然と言った。

「いずれは手を入れると思っておった」

「長池殿が普請を預かったそうです」

「親能か」

「はい」

「ならば、まともなものを造るだろう」

「随分信用しておられますね」

「あれは地を見る」

「叔父上もそうでしょう」

「わしは地を見て、さらに口も出す」

「知っております」

 泰以が笑った。

「宇津山を見た時」

 泰満が言う。

「叔父上は、まだ地を使い切っていないと申されました」

「言ったな」

「どこまで広げるのでしょう」

「それは親能が決めることだ」

「気になりませんか」

「なる」

「では、見に行きますか」

「今の身体でか」

 泰満は言葉に詰まった。

 泰以は気にする様子もなく続けた。

「そのうち見ればよい」

「そうですね」

「城は逃げぬ」

 そして泰以は、名美の腕の中にいる孫太郎へ目を向けた。

「それより、おまえには今、見るものがあるだろう」

「何を」

「孫太郎だ」

 その時。

 赤子が小さく声を上げた。

 泰満もそちらを見る。

 小瀬戸では、一つの家に新しい命が加わった。

 遠く浜名湖の西では、長池親能が新しい城を造り始めている。

 一方は、朝比奈泰満の家の先を作るもの。

 もう一方は、今川の西の先を作るもの。

 まだ、その二つは何の関係もない。

 少なくとも。

 この時の泰満は、そう思っていた。



今川クロニクル『宇津山朝比奈記』

史料・創作メモは上記参照。

関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。


本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。

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