第三十九話 宇津山|今川氏親、湖西の城を改める
大永四年、八月。
宇苅の一件についての報告が終わったあとも、三人はその場に残されていた。
長池左衛門尉親能。
朝比奈下野守時茂。
福島盛広。
今川氏親は、三人から差し出された書付をもう一度確認してから脇へ置いた。
「これでよい」
「はっ」
時茂が頭を下げる。
「宇苅については、この通り進めます」
「ああ」
本来なら、それで終わるはずだった。
三人が退出しようとしたところで、氏親が呼び止めた。
「まだ帰るな」
長池が顔を上げる。
「ほかに何かございますか」
「ある」
氏親は側の者へ命じた。
「遠江の絵図を持て」
やがて広げられたのは、遠江の西。
浜名湖と、その西岸一帯を描いた絵図だった。
時茂がわずかに眉を動かす。
「浜名の西にございますか」
「ああ」
氏親の指が湖の西岸を辿った。
舟形山。
中之郷。
そのさらに内側。
「宇津山」
長池が、その名を見た。
「城がございましたな」
「ある」
「小さなものと聞いております」
「今はな」
氏親は絵図から顔を上げた。
「以前、泰以が申しておった」
時茂が少し笑う。
「兄上が?」
「ああ。舟形山から戻った折にな」
氏親は宇津山の位置を指した。
「この城は、いずれ手を入れた方がよい、と」
「兄上らしい」
「何がだ」
「一度見れば、どこか直したくなる男でございます」
盛広が小さく笑った。
氏親も笑ったが、すぐに表情を戻した。
「あの時は、覚えておくと答えた」
「はい」
「そろそろ、覚えているだけでは足りぬ」
時茂も絵図へ目を落とした。
「舟形山のことがございますか」
「それもある」
氏親は頷いた。
「西から来る敵は、舟形山で一度止められると思っていた」
「ですが、戸田に抜かれました」
「ああ」
舟形山が破られれば、その先には浜名湖がある。
そして、そこから先は今川領の内側だった。
「外で一度受けるだけでは足りぬ」
氏親が言った。
「抜かれた時、その内側でもう一度受けられる場所が要る」
時茂の指が絵図を南へ動いた。
「中之郷では」
「足りぬか」
氏親が尋ねる。
時茂はすぐには答えなかった。
「守れぬとは申しませぬ」
「では」
「ですが、中之郷だけで西を見るには、少し狭いかと」
そこまで聞いていた長池が、宇津山へ目を移した。
「ここは湖へ出ておりますな」
「ああ」
「高い場所から、浜名湖を見られるので?」
「泰以はそう申していた」
長池はしばらく絵図を見た。
舟形山。
中之郷。
宇津山。
三つを順に見比べる。
「見るものが違いますな」
氏親が長池を見る。
「申してみろ」
「舟形山は、外から入ってくる兵を見る場所」
「うむ」
「中之郷は、その内側を通る者を見る場所」
「うむ」
長池の指が宇津山へ移る。
「ここは、その二つより広く見られるのではございませんか」
北。
東。
そして浜名湖の水面。
「湖上の船も」
「見えるだろうな」
「ならば」
長池は少し考えてから続けた。
「敵を受ける城としてだけ使うのは惜しゅうございます」
氏親が笑った。
「泰以と同じことを言う」
「そうでございますか」
「あやつも、浜名湖を見る目になる、と申した」
「なるほど」
長池は再び宇津山を見た。
「それならば、一度現地を見てみたいところにございます」
◇
福島盛広が口を開いた。
「御屋形様」
「何だ」
「城へ手を入れるとして、どの程度までをお考えで」
「まだ決めておらぬ」
「城そのものだけならば、それほど難しくはございませぬ」
氏親が盛広を見る。
「城だけなら、か」
「はい」
盛広は宇津山の周囲へ目を落とした。
「土を動かす。柵を立てる。曲輪を広げる。それだけなら、人を集めればできます」
「その先があるな」
「ございます」
盛広は淡々と続けた。
「人を集めれば、その間、田畑の仕事が止まります。木を切れば、山を使う者との話が要ります。道を広げれば、その道を使う村にも負担が出ます」
氏親は黙って聞いている。
「船を使うのであれば」
長池が続けた。
「岸も見ねばなりませぬ」
「そうだな」
「どこへ着ける。どこから荷を上げる。城へ続く道が使えるか。それも見ておく必要がございます」
盛広が頷いた。
「城を一つ作るつもりでも、実際には周りの土地まで動きます」
氏親は二人を見た。
「甲斐でも似た話を聞いたな」
長池が顔を上げる。
「富田でございますか」
「ああ」
甲斐では、城を一つ持つだけでも米が要った。
馬が要った。
人足が要り、その荷を運ぶ道を守る兵まで必要になった。
「城があっても、米が届かなければ持たぬ」
「はい」
「道が切れれば、城だけが残る」
「はい」
氏親は宇津山を指した。
「ならば、最初から城だけを見るな」
長池が頭を下げた。
「承知しました」
◇
時茂が腕を組んだ。
「御屋形様」
「何だ」
「本格的に手を入れるのであれば、いずれ城番だけでは足りなくなります」
「分かっておる」
「城だけではなく、周りの土地までまとめて見る者が必要になります」
「泰以にも同じことを言われた」
時茂が笑った。
「そこまで申しておりましたか」
「ああ」
「誰を置くかまで?」
「そこまでは言っておらぬ」
「ならば珍しい」
「何がだ」
「兄上なら、そこまで勝手に決めそうでございます」
氏親が笑った。
「さすがに、わしの城主まで勝手には決めぬ」
「それなら安心いたしました」
「だが」
氏親は絵図へ目を戻した。
「城もできておらぬうちから、人だけ決めても仕方がない」
「はい」
「まず、使えるものにする」
長池が尋ねた。
「どの程度まで」
「それを見てもらう」
長池が顔を上げる。
「私が?」
「ああ」
氏親は長池を見る。
「親能」
「はっ」
「宇津山へ行け」
長池はすぐに頭を下げた。
「現地を見てまいります」
「見るだけではない」
長池が顔を上げる。
「普請を預ける」
一瞬、部屋が静かになった。
「私に、でございますか」
「そなたにだ」
長池は少しだけ考えた。
それから深く頭を下げる。
「承知しました」
「ただし」
「はい」
「泰以が言った通りに造れとは申さぬ」
氏親は宇津山の名を指で押さえた。
「あれは、あれが一度見た時の見立てだ」
「では」
「そなたの目で見ろ」
長池は黙って聞いている。
「地を見ろ。道を見ろ。人がどこから来るのかを見ろ」
「はい」
「湖も見ろ」
「はい」
「船がどこへ着けられるかもな」
「承知しました」
「城から何が見えるか。それだけでは足りぬ」
氏親は続けた。
「城へ何が運べるか。どこから人が来られるか。戦になった時に、何日持たせられるか」
長池の表情が変わった。
「そこまで見て」
「ああ」
氏親は言った。
「本当に使える城になると思ったなら、造れ」
長池は深く頭を下げた。
「お預かりいたします」
◇
話が決まったあとも、長池は絵図の前から動かなかった。
「どうした」
時茂が尋ねる。
「いや」
「嫌になったか」
「逆です」
「では」
長池は宇津山の周囲を見た。
「分からぬことが多すぎる」
盛広が言う。
「だから現地へ行くのでしょう」
「そうなのだが」
長池の指は、まず舟形山から宇津山までの間を辿った。
「舟形山が破られた時、どの道を使ってここへ入る」
次に中之郷を見る。
「中之郷とは、どの程度互いを見られる」
そして、湖岸へ指を動かした。
「船から荷を下ろせる場所はあるか。そこから城まで、どの道を使う」
さらに宇津山の周囲へ目を移す。
「水は足りるか。普請に使う木はどこから取る。人を出す村はどこになる」
時茂が笑った。
「もう始まっておるな」
「何が」
「普請だ」
「まだ何も見ておらぬ」
「だから頭の中で造っている」
長池は少し笑った。
「それをやめるためにも、早く見に行きます」
◇
三人が退出したあと。
時茂と盛広は駿府に残った。
長池だけが、その日のうちに旅支度の手配を始めた。
浜名湖西岸。
宇津山。
これまで小さな城番を置いていた程度の城を、今川の西を支える拠点へ造り替える。
舟形山が破られた時、その内側でもう一度敵を受ける城。
浜名湖を見渡し、湖上の動きまで見る場所。
そして、いずれ周囲の土地までまとめて預かる者が置かれる城。
だが、まだ城主は決まっていない。
誰をそこへ入れるのか。
どこまでの土地を預けるのか。
その話は、まだ先だった。
小瀬戸にいる泰満は、その頃も溜まった政務を片づけ、妻を迎えたばかりの城で暮らしている。
自分とは何の関係もないところで、次の役目へ続く城の話が始まっていることなど知らない。
ただ数年前。
舟形山から戻る途中、泰以が一度だけ足を止めて見た城へ。
今度は長池親能が向かう。
宇津山を、本当に使える城へ変えるために。
この日、その普請が正式に動き始めた。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




