第三十八話 五十貫|紀伊守、妻を迎える
甲斐から戻って、十日ほどが過ぎた。
小瀬戸は、もういつもの小瀬戸だった。
泰満の前には、甲斐へ行っている間に溜まった書付が積まれている。
「まだあるのか」
「ございます」
杉山は平然と答えた。
「昨日もそう言ったな」
「昨日よりは減っております」
泰満は積まれた紙を見る。
「減ったようには見えぬ」
「紀伊守様が一枚読む間に、二枚増えることもございますので」
「それでは減らぬではないか」
「ですから、お早くお読みください」
泰満が嫌な顔をしたところで、廊下から声がした。
「駿府より御使者にございます」
手が止まった。
「御屋形様からか」
「はい」
泰満は杉山を見る。
「甲斐のことで、まだ何かあるのか」
「お会いになれば分かります」
「皆、それを言うな」
◇
使者は一人だった。
供もわずかで、大仰なものではない。
泰満が座につくと、使者は書状を前へ置いた。
「朝比奈紀伊守殿」
「はっ」
「御屋形様より御沙汰にございます」
泰満は頭を下げた。
「此度、甲斐において上条河原より軍を退くに際し、よく兵をまとめ、小原親高殿らとともに殿を務めたこと、御屋形様がお聞き届けになりました」
泰満は黙って聞く。
「よって、駿河国善得寺分にて五十貫文をお与えになるとの御沙汰にございます」
泰満が顔を上げた。
「……善得寺?」
「はい」
「五十貫文」
「左様にございます」
差し出された書状を受け取る。
確かに、そう書かれていた。
だが、素直に喜ぶより先に、一つ引っ掛かった。
「甲斐は」
泰満は書状を見たまま言った。
「勝った戦ではございませぬ」
「承知しております」
「福島殿も討死なされました」
「はい」
「それでも、褒美をいただくので」
使者は少し間を置いた。
「甲斐へ攻め入ったことへの褒美とは、御屋形様も申されておりませぬ」
泰満が使者を見る。
「敗れた後、兵をまとめ、帰した働きへの御沙汰にございましょう」
泰満はしばらく黙ってから、小さく頷いた。
「……なるほど」
「ゆえに、大きく披露されるものでもございませぬ」
戦勝を祝って諸将を集めるわけではない。
恩賞を並べて読み上げるわけでもない。
使者が小瀬戸まで来て、書状を一通渡す。
それだけだった。
だが泰満には、その方がかえってありがたかった。
「ありがたく頂戴いたします」
深く頭を下げた。
◇
「遠いな」
使者が帰ったあと。
泰満は絵図を広げ、善得寺の辺りを見ていた。
「善得寺でございますからな」
村越が答える。
「小瀬戸とは何のつながりもないではないか」
「だからよろしいのでは」
杉山が言った。
「何がだ」
「小瀬戸は、紀伊守様が御屋形様より預かっておられるところでございます」
「そうだ」
「善得寺分は、小瀬戸に付けられた知行ではございませぬ」
泰満はもう一度書状を見る。
「私に付いた、ということか」
「そう考えるのがよろしいでしょう」
「小瀬戸を離れても?」
「小瀬戸の役目とは別でございます」
彌太郎も頷いた。
「若御自身の知行ができた、ということでしょうな」
「五十貫だけだぞ」
「五十貫も、でございます」
泰満は絵図の善得寺を見た。
離れている。
だからこそ、小瀬戸城主だから与えられた土地ではない。
朝比奈紀伊守泰満という一人の武将に与えられたものだった。
小瀬戸を預かる。
寺を再興する。
紀伊守を名乗る。
そして今、自分自身の知行を持つ。
掛川を出た時には、どれも自分とは遠い話に思えていた。
「叔父上が喜びそうだ」
「間違いなく」
彌太郎が答えた。
泰満は嫌そうに顔をしかめる。
「嫌な予感がする」
「なぜでございます」
「叔父上が喜んで、それだけで終わったことがあるか」
彌太郎は少し考えた。
「ございませぬな」
「だろう」
◇
数日後。
泰満は善得寺分の書状を持って、泰以の屋敷を訪れた。
「五十貫か」
泰以は書状をじっくり見た。
「はい」
「善得寺分」
「はい」
「よいではないか」
「随分離れておりますが」
「それがよい」
泰満はため息をついた。
「杉山と同じことを言いますね」
「あれは分かっておる」
「皆、私より分かっているように言う」
「実際、そうなのではないか」
「叔父上」
横で名美が笑った。
「善得寺なら、こちらからも様子を見られますね」
「代官を置かねばならぬな」
泰以が言う。
「また人が要る」
「知行が増えれば、仕事も増えます」
「褒美なのでしょう」
「褒美です」
「少しくらい楽になっても」
「なりません」
名美は即答した。
「そうですか」
「そういうものです」
泰満は諦めて茶を飲んだ。
その間も、泰以は書状を見ている。
やがて書状を置くと、名美へ顔を向けた。
「名美」
「はい」
「そろそろよいな」
名美はすぐに意味を理解したらしい。
「私も、そう思っておりました」
泰満だけが分からない。
「何の話です」
「昔から決めていた話だ」
泰以が答える。
「私に関係しますか」
「大いに」
「聞きたくなくなってきました」
「聞け」
泰以は一つずつ数え始めた。
「名を持った」
「はい」
「家臣がおる」
「はい」
「小瀬戸を預かった」
「はい」
「紀伊守になった」
「はい」
「寺も立てた」
「はい」
「そして今、自分の知行まで持った」
「はい」
泰満は次を待った。
「それで?」
泰以は当然のように答えた。
「嫁だ」
泰満の手が止まった。
「……はい?」
名美が笑いながら言う。
「あなたを養子に迎える頃から、いずれは、と話していたのです」
「養子になる頃から?」
「そうだ」
泰以は平然としている。
「聞いておりません」
「言っておらぬ」
「なぜです」
「まだ早かった」
「今は早くないので?」
「もう二十一だろう」
泰満は黙った。
そこを言われると、返しにくい。
泰以は続けた。
「それに、前とは違う」
「何がです」
「おまえ一人の話ではなくなった」
泰満が顔を上げた。
「小瀬戸を預かり、家臣を持ち、知行も持った。おまえが倒れれば、困る者が増えた」
泰満は黙る。
「家を続けることも、仕事だ」
その言葉には、いつもの軽さがなかった。
名美が続ける。
「相手も、今になって急に決めたわけではありません」
泰満が名美を見る。
「まさか」
「私の姪です」
「……姪?」
「西山家の娘です」
名美の実家である西山家は、由比氏につながる家だった。
「名は」
「美代と申します」
「美代」
「ただし」
名美は泰以を見る。
「以前も殿には申しましたが、こちらだけで決める話ではございません」
「分かっておる」
「本当に?」
「今回は分かっておる」
「今回は、とは何です」
泰以は聞こえないふりをした。
「西山にも話す」
「はい」
「美代殿にも聞く」
「もちろんです」
名美は泰満を見る。
「そして、あなたにも」
「私にも聞いていただけるのですね」
「当たり前でしょう」
泰満は泰以を見る。
「叔父上だけなら、もう決めていたでしょうな」
「悪い話ではない」
「そういうところです」
◇
それから十日ほどして。
泰満は美代と会った。
場所は泰以の屋敷だった。
二人きりというわけではない。
名美がいる。
西山家からも付き添いが来ている。
そして、なぜか泰以まで座っていた。
「叔父上」
「何だ」
「なぜいるのです」
「わしがいて何が悪い」
「話しづらいでしょう」
「では黙っておる」
「帰るという選択は」
「ない」
名美が泰以を睨んだ。
「殿」
「分かった」
結局、泰以は別の部屋へ追い出された。
泰満は少し疲れた顔で座り直した。
正面には美代がいる。
泰満より少し年下。
華美な装いではない。
顔立ちには、どこか名美に似たところがあった。
「申し訳ありません」
泰満が先に言った。
「何がでございます」
「叔父上が」
美代が少し笑った。
「叔母から聞いております」
「何をです」
「泰以様のことを」
「どこまで」
「いろいろと」
泰満は名美を見る。
名美は知らぬ顔をしていた。
「私のことも?」
「少し」
「何と」
美代は少し考えてから答えた。
「泰以様に、よく振り回されておられると」
「そこは間違っておりません」
名美が笑った。
美代も笑う。
それを見て、泰満も少し肩の力を抜いた。
しばらく当たり障りのない話をしたあと、泰満は美代へ向き直った。
「美代殿」
「はい」
「この話は、叔父上たちが以前から考えていたそうですが」
「はい」
「嫌なら断ってください」
美代は少し意外そうに泰満を見た。
「紀伊守様は」
「はい」
「嫌なのでございますか」
「いや」
泰満は言葉に詰まった。
「そういう意味ではなく」
「では、私だけに断れと言われましても困ります」
「……確かに」
美代は少し笑った。
「私も」
一度だけ名美を見た。
「嫌ではございません」
それ以上、大げさな言葉はなかった。
だが、それで十分だった。
話は思っていたより、ずっと簡単にまとまった。
◇
春。
西山家から、美代が小瀬戸へ入った。
大きな婚礼ではない。
それでも城内は朝からいつもと違っていた。
膳が運び込まれ、酒が用意され、普段は見かけない女たちが何人も廊下を行き来している。
「落ち着かぬな」
泰満が言う。
「戦よりは静かでございましょう」
彌太郎が答えた。
「戦なら、何をすればよいか分かる」
「今日は座っておられればよろしい」
「それが難しい」
「困った大将ですな」
夕刻。
泰満と美代は向かい合った。
二人の間に盃が置かれる。
泰満が飲み、美代へ渡す。
美代が飲み、また戻す。
三献。
そのやり取りを重ねる。
それだけのことなのに、甲斐で何百人もの前に立った時より、泰満には妙に落ち着かなかった。
少し離れた場所では、泰以が満足そうに二人を見ている。
名美が小声で言った。
「殿」
「何だ」
「嬉しそうですね」
「ようやく片づいた」
「片づいたと言わないでください」
「では何と言えばよい」
「泰満殿の前では、何も言わぬのが一番です」
だが、その声は泰満にも聞こえていた。
「叔父上」
「何だ」
「あとで話があります」
「今日くらい許せ」
美代が声を立てずに笑った。
◇
翌日。
泰満は美代を連れて小瀬戸を出た。
「どちらへ」
「見せたいところがあります」
それほど遠くはない。
楠谷へ入り、山裾の道を進む。
やがて見性寺が見えてきた。
「ここですか」
「ああ」
二人は境内へ入った。
泰満が再興に関わった寺である。
完成したばかりの頃とは違い、今では境内にも人の出入りが増えていた。
道も踏み固められている。
寺が、この土地の一部として馴染み始めていた。
「叔母から聞きました」
美代が言う。
「紀伊守様が、この寺を建て直されたと」
「建てたのは大工だ」
美代が泰満を見る。
「そういう意味ではございません」
泰満は一瞬黙った。
「名美殿にも、似たようなことを言われた気がする」
「叔母の姪ですので」
「先が思いやられるな」
「嫌なら、今からでも西山へ戻りましょうか」
「それは困る」
美代が笑った。
二人は本堂へ上がった。
並んで手を合わせる。
泰満は、寺を初めて見に来た日のことを思い出していた。
荒れた土地。
崩れた石。
草に埋もれた道。
あの時は、ここに寺を戻すだけでも、自分には大きな仕事に思えた。
それから甲斐へ行った。
兵を預かり、失い、帰した。
知行をもらった。
そして今、隣には妻がいる。
少しずつ、自分の周りに残るものが増えている。
本堂を出ると、春の風が楠谷を抜けていった。
「帰りましょうか」
美代が言った。
「ああ」
「小瀬戸へ」
泰満は頷いた。
「帰ろう」
今度は、一人で戻る城ではなかった。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




