第三十七話 帰還|紀伊守、兵を返す
駿府へ戻った時、泰満の手元にいる兵は、甲斐へ入った時より随分少なくなっていた。
小瀬戸から連れてきた百。
駿府で預けられた十二家の二百。
合わせて三百を率いて甲斐へ入ったが、富田城を出る時、その列にいたのは二百五十八人だった。
ただし、いなくなった四十二人すべてが死んだわけではない。
傷を負い、河内へ下げた者がいる。そこからさらに駿府へ送られた者もいる。まだ歩けるほどに回復せず、療養を続けている者もいた。
そして、そのどれにも当てはまらない者もいる。
討死した者。
いまだ所在の分からない者。
甲斐へ入る時には三百という一つの数だった兵が、帰ってみれば、同じようには数えられなくなっていた。
駿府へ入ると、まず十二家から預かった兵を、それぞれの家へ返すことになった。
◇
十二人の頭が、泰満の前に並んだ。
甲斐へ向かう前にも、同じ顔を見ている。
あの時は、互いの名と家を知っている程度だった。
今は違う。
どの男が兵をまとめるのがうまいか。
誰が慎重で、誰が前へ出たがるか。
誰が負傷した兵を置いていけず、自分まで最後尾へ残ろうとする男なのか。
泰満は知っていた。
向こうもまた、泰満がどんな大将なのかを知っている。
「此度は、長くお預かりいたしました」
泰満が頭を下げると、十二人も揃って頭を下げた。
「富田より私とともに戻った兵は、こちらにございます」
後ろには、百八十五人が並んでいる。
だが、それだけを返して終わりにはできなかった。
泰満の前には、もう一枚の書付が置かれていた。
「このほか、河内で療養している者がおります」
一人ずつ名を読む。
続いて、すでに駿府へ下げられた者。重傷のため、まだ家へ戻れない者。
十二人は黙って聞いていた。
そして最後に、泰満の声が少し低くなる。
「討死が確認された者」
名を読む。
「それから、いまだ所在の分からぬ者」
それも一人ずつ、家ごとに分けてある。
すべてを読み終えると、泰満は書付を置いた。
「お預かりした二百を、そのまま二百でお返しすることはできませなんだ」
深く頭を下げる。
「申し訳ございませぬ」
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて十二人の中でもっとも年長の男が言った。
「紀伊守殿」
「はい」
「我らは、戦へ兵を出したのでございます」
泰満は顔を上げた。
「討たれた者が出たことまで、紀伊守殿お一人の責めにはできませぬ」
「ですが」
「飯田では崩れた兵を受け入れ、上条では殿まで務められました」
別の男も頷いた。
「我らの兵を捨ててはおられませぬ」
泰満は答えなかった。
年長の男も、簡単な慰めを言うつもりはないらしい。
「それで十分だったとは申しませぬ」
「はい」
「死んだ者の家にとって、十分などということはございますまい」
「……はい」
「ですが、我らも何があったかは聞いております」
男は深く頭を下げた。
「兵を預かっていただき、ありがとうございました」
ほかの十一人も、それに続いた。
泰満も、もう一度頭を下げた。
「こちらこそ」
そして顔を上げる。
「まだ河内に残る者がおります。駿府で療養している者もおります」
「はい」
「その者たちについても、こちらで最後まで様子を追います」
それをもって、十二家の兵は泰満の隊ではなくなった。
百八十五人が家ごとに分かれ、それぞれの主のもとへ戻っていく。
甲斐では一つの隊として並んでいた兵が、少しずつ泰満の前から消えていった。
◇
その日のうちに、泰満は朝比奈泰以のもとへ向かった。
「戻りました」
部屋へ入り、頭を下げる。
久しぶりに見る泰以は、以前よりさらに痩せていた。
身体の動きも、まだ昔のようには戻っていない。
ただし、口だけは変わらなかった。
「遅かったな」
「甲斐で年を越しましたので」
「知っておる」
「ならば言わないでください」
「帰ってきた甥に一言くらい言わせろ」
横にいた名美が笑った。
「まず、お座りなさい」
「はい」
泰満が腰を下ろすと、泰以はすぐ本題へ入った。
「何人連れていった」
「三百にございます」
「何人連れて戻った」
「富田から一緒に戻ったのは二百五十八です」
泰以が泰満を見る。
「死んだのは四十二か」
「違います」
泰満は即座に答えた。
「河内に残した負傷者がおります。駿府へ先に送った者もおります」
「そうか」
「はい」
「では、小瀬戸の百は」
泰満は用意していた書付を出した。
「私と一緒に戻った者が七十三。河内で療養中が十二。駿府へ先に送られた者が五おります」
そこまで言って、一度言葉を止める。
「討死を確認した者が八。まだ所在の分からぬ者が二」
合わせて百。
泰以は黙って聞いたあと、小さく頷いた。
「分けておるのだな」
「はい」
「それでよい」
泰満が顔を上げた。
「それだけですか」
「何がだ」
「いえ……もう少し何か言われるかと」
泰以は泰満の書付を見た。
「死んだ者と、傷を負って生きている者を同じ数に入れるな」
泰満が少し驚く。
「家へ伝えることが違う」
「私も同じことを考えておりました」
「誰の甥だと思っておる」
「実父は時茂殿ですが」
「そういうことを言っておるのではない」
名美が吹き出した。
しばらくして、泰以の表情が変わった。
「助春は」
泰満も笑いを消した。
「上条河原で、討死なされました」
「……そうか」
泰以は目を閉じた。
すぐには何も言わなかった。
「あの方をご存じだったので」
「長い」
「そうですか」
「昔から前へ出る男だった」
「最後も」
泰満は上条河原を思い出した。
「前におられました」
「そうか」
泰以は、それ以上助春について尋ねなかった。
また少し沈黙が続く。
「それで」
今度は泰満を見る。
「おまえは何をした」
泰満は考えた。
大島で戦った。
富田を取った。
勝山へ入り、飯田では崩れた兵を受け入れた。
上条河原では武田勢と戦い、小原親高とともに殿も務めた。
話そうと思えば、いくらでも話せる。
だが、最後まで残ったものは一つだった。
「兵を帰しました」
泰以が泰満を見る。
「そうか」
「はい」
「なら、それでよい」
泰満は少し笑った。
「昔、叔父上に言われました」
「何を」
「二十人を預けるなら、二十人連れて帰るつもりで動け、と」
「そんなことを言ったか」
「言いました」
「忘れた」
「私は覚えております」
泰以も、わずかに笑った。
「三百になると」
泰満は言う。
「難しいですね」
「当たり前だ」
「簡単に言いますね」
「三百人を簡単に扱えるなら、誰でも大将になれる」
泰満は黙った。
「全員帰せたか」
「いいえ」
「なら、次は」
泰以は静かに言った。
「一人でも多く帰せ」
「はい」
◇
翌朝。
泰満は小瀬戸へ向かった。
一緒に帰る兵は七十三人。
出陣した時は百人だった。
だが、残る二十七人のうち十七人は生きている。
河内や駿府で療養しているだけで、傷が治れば小瀬戸へ戻ってくる者たちだった。
八人は、もう戻らない。
二人は、まだ分からない。
同じ「二十七人いない」という言葉で括ることはできる。
だが、今の泰満には、それがまったく同じものには思えなかった。
◇
やがて、小瀬戸城が見えてきた。
城門の前に人影が集まっている。
「若」
彌太郎が言った。
「ああ」
「待っておられますな」
杉山がいた。
城に残していった兵もいる。
村の者もいる。
そして、兵たちの家族がいた。
七十三人の列が城へ近づくにつれ、人の群れが動き始める。
名前を呼ぶ声が聞こえた。
父親を見つけて走り出す子供。
夫の前で頭を下げる妻。
息子の姿を見つけ、何度も手を合わせる老いた母親。
兵たちは一人、また一人と列を離れていった。
泰満も馬から降りる。
「お帰りなさいませ」
杉山が深く頭を下げた。
「戻った」
「御無事で何よりにございます」
「ああ」
そこで泰満は、一人の女に目を留めた。
兵の列を見ている。
前から後ろまで、何度も顔を探していた。
「杉山」
「はい」
「あの者は」
杉山が女を見て、一瞬言葉を選んだ。
「河内で療養している者の母にございます」
泰満は小さく息を吐いた。
「知らせは」
「届いております」
「生きていることも」
「はい」
「ならよい」
そう答えたものの、女はまだ兵の列を見ていた。
生きていると分かっていても、姿を見るまでは安心できないのだろう。
少し先には、また別の家族がいた。
待っている。
だが、誰かを探してはいなかった。
泰満には、その違いも分かった。
「杉山」
「はい」
「後で、戻らぬ者の家を全部教えてくれ」
「承知しました」
「療養中の者もだ」
「はい」
「一緒にするな。討死、療養、行方不明。分けておけ」
杉山が泰満を見る。
「すでに分けております」
「そうか」
「紀伊守様がお戻りになる前から」
泰満は少し笑った。
「さすがだな」
「城を預けられましたので」
「何かあったか」
「いくらでも」
「今日は聞きたくない」
「明日には聞いていただきます」
「甲斐から帰ったばかりだぞ」
「小瀬戸の仕事は、紀伊守様が甲斐へ行っている間も止まりませぬ」
横で彌太郎が笑った。
「戻ってまいりましたな」
「何がだ」
「いつもの小瀬戸にございます」
◇
翌日。
泰満の前には、一冊の帳面が置かれていた。
甲斐へ連れていった小瀬戸の百人。
その名が、一人ずつ書かれている。
七十三人が帰還。
十二人が河内で療養中。
五人が駿府で療養。
八人が討死。
二人が所在不明。
昨日まで何度も聞いた数字だった。
だが帳面に一人ずつ名が並ぶと、まるで違うものに見えた。
「この二人は」
泰満が所在不明の欄を指した。
「まだ探しております」
杉山が答える。
「武田方の捕虜には」
「名はございませんでした」
「もう一度確かめてくれ」
「はい」
「河内の十二人は」
「七人は、春までには戻れるだろうとのことです」
「残りは」
「まだ分かりませぬ」
「家には」
「すべて伝えてあります」
泰満は頷いた。
そして、討死した八人の欄へ目を移す。
その中に見覚えのある名があった。
「この者」
「はい」
「兄弟の兄だな」
杉山が頷いた。
甲斐へ出る前のことを、泰満は覚えている。
兄も弟も行きたいと言った。
だが父親はすでに亡く、家には母親が残されていた。
二人とも連れていけば、家から男がいなくなる。
それで泰満は弟を残した。
「弟は」
「城におります」
「呼んでくれ」
◇
若い男が部屋へ入ってきた。
甲斐へ行かせてほしいと頼みに来た時の顔を、泰満は覚えていた。
男は泰満の前へ座り、頭を下げた。
「兄のことでございますか」
「ああ」
すでに兄の死は知らされている。
泰満が改めて告げる必要はなかった。
「どこで死んだかは聞いているか」
「上条河原と」
「そうだ」
男は黙った。
泰満は、あの日のことを思い出す。
福島助春が討たれ、軍が崩れ始めた。
武田勢が押してきた。
皆が帰るために、誰かがそこへ残らなければならなかった。
「逃げて死んだのではない」
男が顔を上げた。
「最後まで、わしの命を聞いていた。武田が押してきても、持ち場を離れなかった」
男は唇を結んだ。
「……はい」
「わしが退けと言うまで残った」
それ以上、泰満には言えることがなかった。
男は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
泰満は少し困った。
「礼を言われることではない」
「兄の最期を教えていただきました」
「そうか」
「それで十分です」
男はもう一度頭を下げ、部屋を出ていった。
戸が閉まってからもしばらく、泰満は何も言わなかった。
やがて彌太郎が口を開く。
「あの時」
「何だ」
「弟を残されて、よろしゅうございましたな」
泰満は帳面を見たまま答えた。
「よかったとは言えぬ」
「はい」
「兄が死んだのだから」
「はい」
「だが」
そこで言葉を止めた。
「二人とも連れていかなくてよかったとは思う」
彌太郎は何も言わなかった。
泰満も、それ以上は言わなかった。
◇
夕刻。
泰満は一人、帳面を開いていた。
百人。
甲斐へ出る時には、それで済んでいた。
百を預かる。
百を率いる。
百をどう動かすか。
だが今は、その百が一つの数には見えない。
帰ってきた者がいる。
まだ帰れない者がいる。
もう帰らない者がいる。
どこにいるのかさえ分からない者がいる。
その一人一人に名があり、その名を待っていた家がある。
泰満は帳面を閉じた。
「杉山」
「はっ」
「明日から、小瀬戸の話を聞く」
「承知しました」
「多いのか」
「いくらでも」
泰満が嫌そうな顔をした。
「少しくらい休ませろ」
「甲斐では、随分長く小瀬戸を空けられましたので」
「遊んでいたわけではないぞ」
「存じております」
杉山がわずかに笑った。
「ですが、ここにも紀伊守様の仕事が残っております」
泰満はため息をついた。
「分かった」
閉じた帳面を脇へ置く。
「戻ったのだからな」
外には、いつもの小瀬戸の夕暮れが広がっていた。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




