第三十六話 撤兵|甲斐の戦、終わる
十二月。
富田城の朝は、日に日に冷え込んでいた。
夜明け前には水桶の表面へ薄い氷が張り、兵たちは火を囲んで手を擦りながら朝の粥を待つ。
甲斐へ入った頃には、まだ夏だった。
今は、口を開けば白い息が出る。
「また減らしたか」
椀を受け取った泰満が、粥を見て眉を寄せた。
「少しだけです」
村越は平然としている。
「少しには見えぬ」
「兵糧はまだございます」
「ならば、なぜ減らす」
「まだあるうちに減らすのでございます」
泰満は露骨に嫌な顔をした。
横から彌太郎が言う。
「なくなってから減らすよりはよろしいでしょう」
「それくらい分かっている」
「でしたら、文句を仰らず」
「寒い上に飯まで減れば、文句くらい言いたくなる」
「兵の前ではお控えください」
「言わぬ」
そう答えて、泰満は粥を口へ運んだ。
富田城は守れる。
兵も残っている。城内には当面の兵糧もあり、武田勢がすぐ攻め寄せてくる気配もなかった。
それでも、日が過ぎるほど、ここに留まっていることそのものが負担になっていく。
兵は食う。
馬も食う。
冬が深くなれば、暖を取る薪も増える。
何もしなくとも、軍勢を置いているだけで物は減っていった。
◇
葛山氏広の前には、毎日似たような報告が積み上がっていた。
残る兵糧。
薪の量。
馬の飼葉。
病人と負傷者。
河内から届いた荷。
道の状態。
そして最後には、決まって同じ報告が付いた。
武田勢、動きなし。
「今日もか」
「はい。斥候によれば、武田勢は北におります。こちらへ大きく動く様子はございませぬ」
氏広は絵図へ目を落とした。
富田城。
武田から見れば、今川勢はまだ甲斐国内に残っている。
本来ならば、早く追い出したいはずだった。
だが信虎は来ない。
「待っておるな」
氏広が呟いた。
「何をでございますか」
「我らが自分で帰るのをだ」
「攻めずに、でございますか」
「ああ」
氏広は兵糧の書付を手に取った。
「攻める必要がない」
富田城に今川兵がいる限り、毎日米が減る。
馬が疲れる。
兵が病む。
駿河から荷を運ぶために人足を出し、その道を守るためにも兵を置かなければならない。
武田は甲斐にいる。
今川は、駿河から山を越えて軍を養わなければならない。
信虎が何もしなくとも、時間が経てば経つほど負担の差は開いていく。
「もう一度、駿府へ使者を出す」
側の者が少し驚いた。
「御屋形様からは、富田を保てとの御下知が出ております」
「あれから状況が見えた」
「何と申し上げます」
氏広はしばらく考えてから筆を取った。
「富田は持てる」
「はい」
「だが、持ち続ける意味が薄くなっている」
◇
数日後。
駿府の今川館へ、富田から二度目の使者が入った。
今川氏親の前には朝比奈時茂、福島盛広、長池親能が座っている。
「申せ」
氏親が促すと、使者は深く頭を下げた。
「富田城、今なお保持しております。武田勢も攻め寄せてはまいりませぬ」
「兵糧は」
「当面はございます」
「当面とは、どれほどだ」
使者が少し言葉に詰まる。
そこで長池親能が口を挟んだ。
「駿河からの荷は、以前と同じように入るのか」
「雪のため、遅れが出ております」
「河内から北の道は」
「難所が増えております」
「馬は」
「疲れが見え始めております」
「人足は交替できているか」
「交替させておりますが、必要な人数が増えております」
長池はそれ以上聞かず、静かに頷いた。
氏親が見る。
「どう思う」
「城そのものは守れます」
「氏広と同じことを言うな」
「ですが、氏広殿の言う通りでもございます」
長池は使者の持参した書状へ目を落とした。
「守れることと、守り続けられることは別にございます」
時茂も黙って聞いている。
「富田に兵を置けば、その兵を食わせるために道を守らねばなりませぬ。道を守る兵にも米が要り、それを運ぶ荷駄と人足が要る。雪が深くなれば、そのすべてがさらに重くなります」
氏親は腕を組んだ。
「城を一つ持つために、か」
「城一つではございませぬ」
長池は答えた。
「そこへ続く道まで持って、初めて城を持ったことになります」
氏親はわずかに笑った。
「親能らしい答えだ」
「城だけでは、城は守れませぬので」
そこで福島盛広が口を開いた。
「御屋形様」
「何だ」
「信虎は、富田へ来ぬと思います」
氏親が盛広を見る。
「なぜだ」
「待てばよいからにございます」
盛広の声は静かだった。
「こちらは兵を食わせねばなりませぬ。信虎は自国におります。わざわざ兵を損じて城を攻めずとも、冬を越させればこちらが苦しくなる」
氏親はしばらく盛広を見た。
「助春を討った後だから、そう思うか」
一瞬、盛広の顔が固くなる。
「それも、ないとは申しませぬ」
「福島としては」
氏親は続けた。
「もう一度、信虎を討ちたいか」
部屋が静かになった。
盛広はすぐには答えなかった。
「……福島の者として申し上げるならば」
「うむ」
「左衛門尉の仇を返したいと存じます」
「そうだろうな」
「ですが」
盛広は顔を上げた。
「御屋形様の奉行として申し上げるならば、兵を出すべきではございませぬ」
氏親は黙って先を待った。
「左衛門尉を失ったために、さらに一万を集めて甲斐へ送り直す。それでは、この戦を始めた理由が変わります」
時茂が盛広を見る。
氏親はゆっくり頷いた。
「助春を取り返す戦になる」
「はい」
「死んだ者は戻らぬ」
「はい」
「そこへ、生きている者をさらに足す意味はないか」
盛広は深く頭を下げた。
「左様に存じます」
◇
氏親は甲斐の絵図を開かせた。
河内から大島、富田、勝山、飯田、上条。
指が、今川軍の進んだ道をゆっくり辿る。
「始めは、信虎を河内へ出さぬためだった」
「はい」
時茂が答える。
「河内は今もこちら側にある。穴山も離れておらぬ。信虎は甲府にいる」
氏親の指は、甲府近くで止まった。
「我らは一度、ここまで押した」
誰も何も言わない。
「だが、武田は折れなかった。助春を失い、兵も失った。それでも富田までは持っている」
長池が静かに言った。
「ですが、持つことで得られるものが、今はほとんどございませぬ」
氏親の指が富田へ戻る。
「富田を持っておれば、信虎は困るか」
時茂が答えた。
「多少は困るでしょう」
「こちらは」
長池が答える。
「それ以上に困ります」
氏親が笑った。
「ならば、分かりやすい」
絵図から手を離した。
「捨てる」
時茂が顔を上げる。
「撤兵なされますか」
「ああ」
「ただ退けば、武田に追われる恐れがございます」
盛広が言うと、氏親はすぐに頷いた。
「だから、話をつけてから帰る」
使者へ向き直る。
「氏広へ伝えよ。富田は明け渡してよい」
「はっ」
「だが、勝手に城を出るな。信虎と話をつけろ」
「どのような条件を」
「第一は、兵を無事に帰すことだ。撤兵中の軍を追わせるな」
「はい」
「捕らえられた兵がおれば返させる。こちらに武田方の捕虜がおれば、こちらも返す」
「承知しました」
「富田城そのものは要らぬ」
時茂が尋ねる。
「穴山と河内はいかがいたします」
氏親は少し考えた。
「取れるなら話せ」
「はい」
「だが、その条件を取るために兵を帰せなくなるなら、捨てろ」
時茂が頷く。
氏親は皆を見回した。
「何のために戦を始めたかを、最後になって間違えるな」
その声は静かだった。
「城を惜しんで兵を失う必要はない」
◇
使者が出た後、氏親はすぐには絵図を片づけさせなかった。
甲斐と駿河の境をしばらく見つめてから、長池親能へ声を掛けた。
「親能」
「はっ」
「一つ覚えておけ」
「何でございましょう」
「境で敵を待つというのは、高くつく」
長池は黙って氏親を見る。
「最初は、兵を置けば済むと思っていた」
「兵を置けば、米が要ります」
「ああ」
「荷を運ぶ道も要ります」
「ああ」
「道を守る兵も要ります。その兵にも米が要ります」
氏親は苦笑した。
「一つ城を置けば、一つ城だけでは済まぬな」
「左様にございます」
氏親は甲斐の絵図から目を離し、西を向いた。
「遠江も同じだ」
時茂が顔を上げる。
「西にございますか」
「ああ」
遠江の先には浜名湖がある。
その向こうには三河がある。
今はまだ、三河から大軍が駿河へ押し寄せてくる状況ではない。
だが、それがこれからも続くとは限らない。
「敵が国境へ来てから兵を集め、城を探し、道を整えていたのでは遅い」
長池が答える。
「平時のうちに考えておくべきと」
「そうだ」
氏親は甲斐で起きたことを思い返しているようだった。
「国境は、敵が来た時だけ国境になるのではない」
時茂も黙って聞いている。
「どこに兵を置く。どこから米を運ぶ。どの道を使う。誰にその土地を預ける。先に決めておかなければ、戦になった時に間に合わぬ」
「西を見直しますか」
時茂が尋ねると、氏親は頷いた。
「今すぐ何かを造れという話ではない」
「はい」
「だが、見ておけ」
氏親は言った。
「浜名湖の周りをな」
◇
富田城へ、氏親の返書が届いた。
葛山氏広は最後まで読み終えると、一度だけ大きく息を吐いた。
「撤兵ですか」
小原親高が尋ねる。
「ああ」
「ようやく帰れますな」
「まだだ」
親高が露骨に嫌そうな顔をした。
「まだ何かございますか」
「武田と話をつける」
「帰るだけでも話が要るので」
「勝手に出れば、後ろから追われる」
「なるほど」
泰満もその場にいた。
「では、信虎へ使者を」
「ああ」
「葛山殿が行かれるので?」
「行かぬ」
氏広は即答した。
「そこまで安くはない」
親高が笑った。
「それでよろしい」
「こちらから使者を出す。向こうからも来させる」
「条件は」
「富田を明ける。その代わり、撤兵を妨げぬ」
泰満が尋ねた。
「それだけでよろしいので」
「今は、それが一番大事だ」
氏広は答えた。
「ここで何か一つ余計に欲しがれば、また戦になる」
泰満は黙った。
取れるものを取るのではない。
今、取るべきものだけを取る。
それは氏親がこれまで何度も見せてきた考え方だった。
そして今、何より取るべきものは城でも土地でもない。
残った兵を無事に帰すことだった。
◇
武田方との交渉は、すぐには終わらなかった。
使者が富田を出て、戻る。
返答を持って、また出ていく。
いつ城を明けるのか。
どの道を通るのか。
武田勢はどこまで近づかないのか。
捕虜はいつ、どこで返すのか。
戦場では槍一本で決まるように見えることも、戦を終えるとなれば一つずつ言葉にしなければならなかった。
「戦より長いな」
やり取りを聞いていた泰満が言った。
「またそれでございますか」
彌太郎が呆れたように返す。
「実際そうではないか」
「槍で決められぬこともございます」
「槍なら早い」
「死ぬのも早いですが」
泰満は返事をしかけて、やめた。
少し前なら、そのまま何か言い返したかもしれない。
上条河原から四十余の兵を失って戻った今は、その言葉を笑えなかった。
「……そうだな」
◇
年が明けた。
大永二年正月十四日。
富田城の門が開いた。
今川の軍勢が、南へ向けて列を作っている。
先に出るのは荷駄と負傷者。
その後へ各家の兵が続き、最後に残った者たちが火の始末と蔵の確認をした。
城は焼かない。
壊さない。
ただ、そのまま置いていく。
泰満は自分が預かる兵を並べた。
「数は」
彌太郎が書付を見る。
「二百五十八」
泰満は少し黙った。
「小瀬戸は」
「七十三」
「十二家は」
「合わせて百八十五。合計二百五十八にございます」
数字は合っていた。
甲斐へ入った時は三百だった。
「四十二か」
「はい」
「死んだ者だけではないな」
「傷を負って先に後ろへ下げた者もおります。病んだ者もおります」
「分かっている」
分かってはいる。
それでも、今この列にはいない。
三百人を連れて甲斐へ入り、二百五十八人とともに帰る。
泰満は兵たちの顔を見渡した。
甲斐へ入った時より、どの顔も痩せ、日に焼け、疲れていた。
自分も、おそらく同じ顔をしている。
「紀伊守様」
十二家の一人が声を掛けた。
「何だ」
「出立できます」
泰満は頷いた。
「分かった」
城門へ向かう途中で、一度だけ振り返る。
富田城。
初めは攻めて取った。
次は敗れて戻った。
そして今は、自分たちの手で明け渡して帰る。
「若」
「何だ」
「名残惜しいのでございますか」
「まさか」
泰満は前を向いた。
「帰るぞ」
「はい」
列がゆっくりと動き始める。
武田勢は現れなかった。
交わした約束どおり、追ってもこない。
富田から南へ。
河内へ。
さらに山を越えれば駿河がある。
泰満は馬上から、前へ延びる兵の列を見た。
勝って帰るわけではない。
城を持ち帰るわけでもない。
だが、生きている兵を連れて帰る。
今は、それでよかった。
夏に始まった甲斐の戦は、冬を越えた。
そしてようやく、終わった。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




