第三十五話 富田へ|敗軍、御屋形様の指図を待つ
勝山城へ戻った夜、誰もすぐには休めなかった。
城門をくぐった兵から順に人数を数え、傷を負った者を分ける。腹を空かせた者には飯を与え、動けぬ者には横になる場所を作った。
そして、戻ってこない者の名を書き出していく。
昼まで隣を歩いていた者がいない。
同じ隊にいたはずの者が見つからない。
別の道を通って戻ってくるかもしれない者もいれば、上条河原に残されたことが分かっている者もいた。
城内のあちこちで、同じ確認が夜遅くまで続いていた。
葛山氏広も、ほとんど休んでいなかった。
「岡部勢、確認が終わりました」
「何人残った」
報告を聞き、書付へ目を通す。
それが終われば、すぐ次が来る。
「庵原勢も、おおよその数が出ましてございます」
「申せ」
「遠江勢は、まだ戻っている隊がございます」
氏広は顔を上げた。
「城門は閉めるな。夜になっても入れろ。戻った者は、まず所属を確かめよ」
「はっ」
福島勢も次々と戻ってきていた。
だが、その中央にいるはずの男はいない。
福島助春の姿も、その旗もなかった。
氏広は書付の上に残った空白へ一度だけ目を落とした。
今は、それを埋めることはできない。
「葛山殿」
側にいた者が遠慮がちに声を掛けた。
「このまま勝山で軍を立て直しますか」
氏広はすぐには答えなかった。
勝山城には水がある。兵糧も残っている。一度は今川軍が甲府へ攻め上がるための前線拠点として使った城でもあった。
籠もろうと思えば籠もれる。
だが、それと今ここに残るべきかは別だった。
「近すぎるな」
「甲府に、でございますか」
「ああ」
武田信虎は、今川軍が上条河原から敗れて戻ったことを知っている。
福島助春が討たれたことも、遠からず伝わるだろう。
勝山は甲府に近い。
ここへ再び武田の大軍を寄せられれば、今川方には戦う以外の選択がなくなる。
「富田まで下げる」
側の者が驚いた。
「さらに退くのでございますか」
「退く」
氏広は迷わなかった。
「今は前へ出ることより、残った軍を軍のまま残す方が先だ」
◇
翌朝。
勝山城の一室へ、諸将が集められた。
岡部、庵原、小原親高。遠江から加わった者たちもいる。
泰満も末席に座っていた。
身体が重かった。
昨夜は戻った小瀬戸衆と十二家の兵を確認し、自分の隊から誰が戻らなかったのかを聞いている。横になったのは夜も深くなってからだった。
それでも眠れた気はしなかった。
氏広は皆が揃うと、余計な前置きをせず告げた。
「富田まで退きます」
部屋が静かになった。
最初に口を開いたのは岡部の将だった。
「勝山では持ちませぬか」
「持てます」
「ならば、ここで立て直すことも」
「持てることと、ここで持つべきかは別です」
泰満がわずかに顔を上げた。
どこかで聞いたような考え方だった。
城があるから守る。
敵がいるから戦う。
それだけで動けば、いつの間にか相手に戦う場所を決められる。
「勝山は甲府に近すぎます」
氏広は続けた。
「武田がもう一度大軍を寄せれば、我らはここで戦わねばならなくなる」
「戦えませぬか」
「戦うことはできます」
氏広は否定しなかった。
「ですが、今の我らには総大将がおりませぬ」
空気が変わった。
誰も福島助春の名を口にしなかった。
言う必要もなかった。
「この場での軍の指図は、私がいたします。ですが、この戦そのものを今後どうするかまで、私が決めるべきではありません」
岡部の将が頷いた。
「御屋形様へ伺うので」
「使者を出します」
氏広は皆を見回した。
「上条河原で敗れたこと。福島殿が討死されたこと。そして、我らの軍そのものはまだ残っていること。それをすべて駿府へ伝えます」
敗れた。
大将も失った。
だが、軍まで消えたわけではない。
泰満はその言葉を黙って聞いていた。
昨夜、自分が殿を務めた意味もそこにある。
勝つためではなかった。
一人でも多く、軍へ戻すためだった。
「富田まで軍を収め、その後は御屋形様の御下知を待ちます」
小原親高が腕を組んだ。
「ならば、それまではこちらから戦を始めぬということでございますな」
「そうです」
「武田が来れば守る」
「守ります」
「退けば追わぬ」
「追いませぬ」
親高が頷いた。
「分かりやすい」
泰満は思わず口を開いた。
「福島殿が聞いたら、随分嫌がりそうですね」
一瞬の沈黙の後、何人かが笑った。
ほんの短い笑いだった。
泰満自身、笑った後で胸の奥が重くなった。
助春なら、本当に嫌そうな顔をしただろう。
◇
駿府への使者は、その日のうちに勝山を発った。
持たされた書状には、上条河原で何が起きたかができる限り細かく記されていた。
福島助春の討死。
各隊のおおよその残兵。
負傷者の数。
失われた旗や荷。
残っている兵糧。
そして、富田城まで後退する予定であること。
最後には、今後の御下知を願う言葉が添えられていた。
「急げ」
氏広は使者に言った。
「ただし、馬を潰すな。途中で替えられる場所では替えろ」
「心得ております」
使者が南へ向かう。
泰満は、城門からその姿が見えなくなるまで眺めていた。
「駿府まで、どれほどかかりましょう」
「数日は見た方がよいな」
親高が答えた。
「その間は待つしかありませんか」
「そうなる」
「また待つので」
「紀伊守は待つのが嫌いか」
泰満は少し考えた。
「福島殿ほどではありません」
親高が笑った。
「それなら大丈夫だ」
◇
勝山城を出た今川軍は、甲府へ向かっていた時とはまるで違う軍になっていた。
敗走ではない。
氏広の指図の下で隊列を整え、負傷者と荷駄を先へ送り、その後を諸隊が続いた。後方にも兵を置き、武田勢が追ってきた時に備えている。
形だけを見れば、まだ軍だった。
だが、兵の顔は北を向いていなかった。
甲府を目指して進んでいた頃の勢いはもうない。誰もが南へ続く道を見ていた。
泰満は自分の隊の前を進みながら、彌太郎に尋ねた。
「人数は出たか」
「おおよそで二百六十余にございます。まだ数え直しておりますが」
「十二家は」
「どの家も減っております」
「小瀬戸から連れてきた百は」
彌太郎が少し間を置いた。
「七十余です」
泰満は前を向いたまま黙った。
三百ほど連れて甲斐へ来た。
そのうち四十近くが、もうここにはいない。
もちろん、全員が討死したわけではない。傷を負って別の場所にいる者もいる。ほかの隊とともに戻ったまま、まだ合流できていない者もいた。
それでも、来た時と同じ人数では帰れない。
「若」
「何だ」
「帰したいのでしょう」
彌太郎には分かっていたらしい。
「ああ」
「三百全員を?」
「できるならな」
「それは、もうできませぬ」
「分かっている」
泰満は少しだけ手綱を握る手に力を込めた。
「だから、残っている者は帰したい」
彌太郎はしばらく黙ってから頷いた。
「それでよろしいかと存じます」
泰満はもう何も言わなかった。
戦へ出る前には、三百をどう使うかを考えていた。
今は違う。
二百六十をどう戻すかを考えている。
◇
富田城へ戻った時、泰満は妙な感覚を覚えた。
以前、この城へ来た時の今川軍は北へ進んでいた。
武田勢を大島で破り、富田を取り、勝山を押さえ、そのまま甲府へ近づいた。
取った城だった。
今は、その同じ城へ南へ退きながら入ろうとしている。
「妙なものだな」
泰満は城門を見上げた。
「前は取った城だった」
隣の村越が答える。
「今も今川方の城でございます」
「だが、今度はここへ戻ってきた」
「逃げ込んだわけではございませぬ」
「では何と言う」
村越は少し考えた。
「戻る場所があった、とでも」
泰満は城門を見上げたまま苦笑した。
「それも妙だな」
「細かいことを気になされますな」
城内へ入ると、すぐに仕事が始まった。
兵糧がどれほど残っているかを確かめ、井戸を調べる。傷病者を入れる場所を作り、誰がどこを守るのかを決める。
城外へ広く兵を置いていた以前とは違い、今度は守りやすい形へ縮めていった。
同じ富田城でも、使い方がまるで違う。
以前は、さらに北へ進むための城だった。
今は、残った軍を守り、戦を終えるまで持ちこたえるための城になろうとしていた。
◇
駿府へ急使が入った時、今川氏親は朝比奈時茂と政務の途中だった。
「甲斐より急使にございます」
その声を聞いた瞬間、時茂の筆が止まった。
氏親はすぐに使者を通させた。
入ってきた男は、ひどく疲れていた。
衣には旅の汚れが残り、顔にも疲労が浮かんでいる。それでも氏親の前まで進むと、深く頭を下げた。
「葛山氏広様より、急ぎ御報告にございます」
「申せ」
「十一月二十三日、上条河原にて武田勢と合戦。御味方――敗れましてございます」
時茂の表情が固くなった。
氏親は何も言わない。
使者は続けようとして、一度だけ息を詰まらせた。
「福島助春様、討死にございます」
時茂が目を閉じた。
氏親は動かなかった。
助春を甲斐へ送った日のことを思い出していたのかもしれない。
長く待つ戦になる。
武田が来なければ、それでよい。
来れば止めろ。
そう命じて送り出した男だった。
「確かか」
「はい」
「遺骸は」
「取り戻せておりませぬ」
「そうか」
氏親は一度だけ息を吐いた。
それ以上、助春については何も言わなかった。
まだ報告は終わっていない。
「兵は」
使者が顔を上げた。
「どれほど残った」
「岡部、庵原、遠江諸勢、多くは残っております」
「葛山は」
「御無事にございます」
「紀伊守は」
今度は時茂の顔がわずかに動いた。
「御無事にございます。小原親高殿らと殿を務め、勝山へ戻られました」
時茂は小さく息を吐いた。
氏親は、その様子を一度見ただけで先を促した。
「今はどこにいる」
「葛山様の御判断にて、富田城まで軍を下げるとのことでございます」
「それでよい」
時茂が氏親を見る。
「勝山を捨てても、でございますか」
「ああ」
氏親は迷わなかった。
「助春は戻らぬ。だが、軍まで失ったわけではない」
戦に敗れ、大将を失った後で、さらに軍そのものを失えば取り返しがつかない。
「氏広はよく残した」
氏親は使者へ尋ねた。
「富田なら持つか」
「城も兵糧もございます」
「武田の追撃は」
「今のところ激しくはございませぬ」
「なら、まずはよい」
氏親は甲斐の絵図を引き寄せた。
今回の戦で、今川勢は甲府近くまで進んだ。
それでも、最初から甲斐一国を奪うために始めた戦ではない。
「河内はどうなっておる」
「今川方にございます」
「穴山は」
「変わらず、こちらにございます」
氏親は河内の辺りへ指を置いた。
「ならば、最初の目的は失っておらぬ」
時茂も絵図を見る。
「河内へ信虎を出さぬこと」
「ああ。穴山を残し、武田を駿河のすぐ北まで出さぬ。そのために始めた戦だ」
上条河原で敗れたからといって、それまで得たものがすべて消えたわけではない。
「時茂」
「はっ」
「もう一度大軍を集め、甲府まで攻め上がる必要があると思うか」
時茂はすぐには答えなかった。
兵を集め直す。
新たな総大将を定める。
傷んだ諸隊を立て直し、兵糧を用意して、再び山を越える。
その先で、また武田と戦う。
「……ございませぬ」
「わしもそう思う」
氏親は頷いた。
「だが、今すぐ富田を捨てて帰れとも言わぬ」
使者が顔を上げる。
「氏広へ伝えよ。富田を保て」
「はっ」
「こちらから戦を始めるな。信虎から話が来れば受けよ」
「はい」
「向こうから来なければ、こちらから話す時を待つ」
時茂が聞いた。
「和議をなされますか」
「ああ」
「条件は」
「河内へ出ぬこと。穴山へ手を出さぬこと」
氏親の声は変わらなかった。
「それが取れるなら、甲斐の城など要らぬ」
使者が深く頭を下げた。
「しかと、お伝えいたします」
◇
使者が下がった後も、氏親と時茂はしばらく話さなかった。
甲斐の絵図だけが二人の前に残っている。
やがて時茂が口を開いた。
「助春殿は、惜しいことをいたしました」
「ああ。惜しい」
氏親は短く答えた。
それから、しばらく絵図を見たまま動かなかった。
「わしが河内へ送った」
「はい」
「わしが総大将にした」
時茂は黙って聞いている。
「最後まで、わしの戦をして死んだ」
それだけ言うと、氏親は目を閉じた。
長くはなかった。
再び目を開けた時には、当主の顔へ戻っていた。
「時茂」
「はっ」
「氏広が戻ったら、よく話を聞け」
「承知しました」
「何が悪かったかもだ」
「はい」
氏親は甲斐の絵図を畳まなかった。
「勝った戦は、皆よく覚えておる」
時茂が顔を上げる。
「だが、次に役立つのは、負けた時に何が起きたかだ」
◇
富田城では、今川軍が駿府からの返事を待っていた。
まだ雪はない。
だが、朝夕の空気は明らかに冷たくなっていた。
城壁の上を吹く風にも、甲斐の冬が近づいていることが分かる。
「冬になりますな」
彌太郎が言った。
泰満は嫌そうな顔をした。
「まさか、甲斐で年を越すのではあるまいな」
「御屋形様の御返事次第にございます」
「帰れと言ってほしい」
彌太郎が泰満を見る。
「随分、素直になられましたな」
「三百を連れてきた」
「はい」
「今は二百六十ほどだ」
「はい」
「これ以上、減らしたくない」
彌太郎は何も言わなかった。
泰満は城壁の向こうへ目を向けた。
北には武田がいる。
南には河内があり、その先には駿河がある。
少し前まで、今川軍は甲府を目の前にするところまで進んでいた。
今は富田城で止まっている。
戦はまだ終わっていない。
だが、泰満の中では、もう前へ進むための戦ではなくなっていた。
残った兵を帰す。
小瀬戸へ。
遠江へ。
家族のいる場所へ。
そのために、この戦をどう終わらせるか。
今川軍は富田城で、駿府から届く言葉を待っていた。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




