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第三十四話 帰る戦|紀伊守、殿を務める

 福島助春が討たれた。

 その報せは、命令より早く戦場を走った。

「福島様、討死!」

「本陣が崩れた!」

「下がれ!」

「誰の命だ!」

 声が重なる。

 同じ今川勢の中で。

 前へ出る者。

 下がる者。

 その場に止まる者。

 命令を待つ者。

 動きがばらばらになり始めていた。

 小瀬戸衆の前でも、一つの隊が崩れかけていた。

「退くな!」

 泰満が叫ぶ。

「前を向け!」

 武田勢が押してくる。

 槍がぶつかる。

 前列の兵が一人倒れた。

 その隣が下がる。

「詰めろ!」

 泰満自身も前へ出る。

 だが右側が薄い。

 十二家から預かった兵の一つが、武田勢に押されて後ろへ下がり始めていた。

「右を支えろ!」

 彌太郎が走る。

「紀伊守様!」

「何だ!」

「もう一組回さねば持ちませぬ!」

「回せ!」

「中央が薄くなります!」

「なら――」

 泰満が言葉を止めた。

 どこかを支えれば。

 別のところが薄くなる。

 三百近くいた兵も、今はもっと少ない。

 それでも本陣左を保たねばならない。

 自分の隊だけ見ていればよい戦ではなかった。

「中央を少し下げろ!」

「下げるので?」

「崩れるよりよい!」

 前へ出ることだけが戦ではない。

 今は線を保つ方が大事だった。

 その時だった。

 後方から新しい声が上がった。

「道を開けろ!」

 兵の列が割れる。

 別の旗が入ってきた。

「小原勢!」

 彌太郎が叫ぶ。

 小原親高率いる兵だった。

「紀伊守!」

 親高が馬上から怒鳴る。

「右が開いておるぞ!」

「分かっております!」

「分かっておる者の陣ではない!」

「今直しております!」

「なら、わしが入る!」

 小原勢が右へ回った。

 崩れかけていた兵の間へ入る。

「押し返せ!」

 新しい兵が加わり、武田勢の動きが止まった。

 泰満もすぐに声を上げる。

「中央、前へ!」

 小瀬戸衆が一歩戻す。

 さらに一歩。

 ようやく線が揃った。

「紀伊守!」

 親高が叫ぶ。

「前だけを見るな!」

「見ております!」

「後ろもだ!」

 泰満が振り返る。

 そこで初めて気づいた。

 敗兵が増えていた。

 一隊。

 また一隊。

 福島本陣の周囲から下がってくる。

 旗の向きも揃っていない。

 誰かに追われているというより。

 それぞれが、自分の判断で南へ動き始めている。

「……まずいな」

 親高が言った。

 泰満も否定できなかった。

     ◇

 葛山氏広の周囲には、次々と報告が入っていた。

「岡部勢、まだ戦っております!」

「庵原勢も持っております!」

「遠江勢、一部後退!」

「福島殿の与力、二隊が南へ!」

 氏広は絵図を見る余裕さえなかった。

「岡部へ使いを!」

「すでに!」

「庵原は」

「戻しております!」

「遠江勢は勝手に走らせるな!」

「はっ!」

 命令を出す。

 だが全てには届かない。

 福島助春が死んだ。

 その瞬間から、誰が全軍の大将なのか分からなくなった。

 氏広は副将だった。

 だから命令を出せる。

 だが。

 福島の代わりになったと、すべての家が同時に理解するわけではない。

 そこが問題だった。

「葛山殿!」

 岡部方の使者が駆け込んだ。

「岡部殿より、いかにいたすべきかと!」

 氏広は一瞬だけ目を閉じた。

 まだ戦える。

 兵はいる。

 岡部も庵原も健在。

 遠江勢も大半が残っている。

 福島を討った武田勢も、決して無傷ではない。

 ここで全軍をまとめ直せれば。

 戦える。

 だが。

 まとめ直すための時間がない。

 福島の死を知った兵から、軍がほどけ始めている。

「葛山殿」

 側にいた者が声を落とした。

「勝ちますか」

 氏広は顔を上げた。

「違う」

「は」

「今、考えるべきはそこではない」

 戦場を見る。

 福島の旗はもうない。

「兵を帰す」

 側の者が息を呑んだ。

「勝山へ?」

「まず南へ軍を動かす」

「しかし、まだ戦っている隊が」

「だから順に下げる」

 氏広は言い切った。

「今ここで勝とうとすれば、全軍を失う」

 周囲が静かになる。

「全軍に伝えよ」

「はっ」

「戦を続けるな」

 使者が顔を上げる。

「勝山へ退く」

     ◇

 命令を受けた泰満は、親高の顔を見た。

「退くそうです」

「そうか」

 親高は驚かなかった。

「小原殿は」

「聞こえなかったか」

「いえ」

「なら退くぞ」

 泰満は周囲を見る。

 まだ武田勢と組み合っている。

「どうやって」

 親高が泰満を見る。

「前から順に逃げるつもりか」

「まさか」

「なら、後ろから下げる」

 親高が声を上げた。

「小原勢、半分下がれ!」

 兵が動く。

 泰満が意味を理解する。

「交代で下げるので」

「そうだ」

「なら小瀬戸も」

「一度に下げるな」

「分かっております」

「本当に?」

「小原殿」

「何だ」

「少し黙ってください」

 親高が笑った。

「まだ口が動くなら大丈夫だな」

 泰満も声を上げる。

「第三組、後ろへ!」

 十二家からなる一隊が下がる。

 残った兵が前を支える。

 武田勢が押してくる。

「下がった者は後ろで止まれ!」

「はっ!」

「向きを変えるな! 次の列を作れ!」

 少しずつ下げる。

 逃げない。

 前を向いたまま下がる。

 武田勢が踏み込めば止める。

 止まれば、また下がる。

「次、第二組!」

 また一つ下がる。

「若」

 彌太郎が声を掛ける。

「何だ」

「これは」

「何だ」

「三河でやった戦と似ておりますな」

 泰満は一瞬考えた。

 今橋と二連木の間。

 敵を追わず。

 ただ道を通さない。

「あの時は止めるだけだった」

「今日は下がりながら止めます」

「余計に面倒だな」

「戦より面倒がお好きになったのでは」

「誰がだ」

     ◇

 戦場の中央では、葛山氏広が各隊を下げ始めていた。

 まず荷駄。

 次に負傷者。

 傷んだ隊。

 その後ろへ遠江勢。

 まだ戦える隊が、その外側を守る。

 岡部。

 庵原。

 武田と接触しながら少しずつ引く。

 一度に動けば敗走になる。

 一つずつ。

 前を向いたまま。

 武田に背中を見せすぎない。

 問題は最後だった。

「誰を残す」

 氏広が尋ねた。

 側の者が答えない。

 殿。

 追ってくる武田を抑えながら、本隊を先に逃がす役。

 最後まで残る。

 最も危険な場所だった。

 崩れれば、そのまま全軍が追いつかれる。

「小原殿はまだ持っております」

「紀伊守も一緒です」

 氏広が顔を上げる。

「二人とも?」

「はい」

 氏広は少し考えた。

 小原は経験がある。

 紀伊守の隊は、先ほどから崩れずに持っている。

 そして二隊は、今すでに隣で戦っている。

「ほかに動ける隊を集めろ」

「どれほど」

「千はいらぬ」

「では」

「八百ほどあればよい」

「小原、紀伊守に」

「ああ」

 氏広は使者を見る。

「伝えろ」

「はっ」

「無理に勝つな」

 使者が少し戸惑う。

「何と」

「そのまま言え」

「はい」

「本隊が離れるまで武田を止めろ」

「はっ!」

「その後は必ず下がれ」

 氏広は強く言った。

「死ねとは申しておらぬ」

     ◇

「殿?」

 泰満が聞き返した。

「左様にございます」

 葛山の使者が答える。

「小原殿、紀伊守殿を中心に、動ける兵八百ほどを残します」

 親高が腕を組んだ。

「八百か」

「葛山様より」

「何と」

 使者が言う。

「無理に勝つな」

 親高が笑った。

「珍しい命令だな」

「続きがございます」

「何だ」

「本隊が離れるまで武田を止め、その後は必ず下がれ」

 泰満が使者を見る。

「必ず?」

「はい」

「死ねとは申しておらぬ、と」

 親高の笑みが消えた。

「分かった」

 泰満も頷く。

「承知しました」

 使者が去る。

 彌太郎が泰満を見る。

「若」

「分かっている」

「まだ何も言っておりませぬ」

「どうせ止めるのであろう」

「何を」

「わしが前へ出るのを」

「よくお分かりで」

 親高が二人を見る。

「何の話だ」

「こちらの話です」

「若い者は面倒だな」

「小原殿まで叔父上のようなことを言わないでください」

「泰以殿もそう申すのか」

「毎日のように」

「なら正しいのだろう」

「なぜです」

 親高は答えず、兵を見た。

「紀伊守」

「はい」

「そなたは左を持て」

「小原殿は」

「右」

「中央は」

「集めた兵を置く」

 親高は地面へ線を引いた。

「ここで武田を止める」

「勝つのではなく」

「ああ」

「本隊が離れるまで」

「ああ」

「その後、一緒に退く」

 親高が泰満を見る。

「一緒に?」

「小原殿だけ残すつもりはありません」

 親高が少し笑った。

「先ほどまで崩れそうだった者が言うことか」

「助けていただいたので」

「なら借りは返せ」

「返します」

「生きてな」

 泰満も笑った。

「そのつもりです」

     ◇

 武田勢は追ってきた。

 当然だった。

 総大将を討った。

 今川軍が下がっている。

 ここで追えば、さらに崩せる。

 勝山まで追い込めば、今川軍そのものを甲斐から追い出せるかもしれない。

「来ます!」

 泰満が前を見る。

「弓!」

 矢が飛ぶ。

 武田勢が少し止まる。

「槍!」

 前列が揃う。

 ぶつかった。

「押し返すな!」

 泰満が叫ぶ。

「ここを保て!」

 兵たちが踏みとどまる。

 勝つためなら。

 前へ出る。

 敵を押す。

 追う。

 だが今日は違う。

 一歩前へ出れば。

 その一歩を、後で戻らなければならない。

「右、押されます!」

「小原殿がいる!」

 右では親高の兵が武田勢を止めている。

 中央も持っている。

 泰満の左もまだ崩れていない。

「後ろは」

 村越が答える。

「本隊、かなり離れました!」

「どれほど」

「旗が見えぬほどに!」

 泰満が後ろを見る。

 本当に見えない。

 少し前まで。

 どこにでも今川の旗があった。

 今は、この八百ほどだけだった。

 自分たちが最後だった。

「小原殿へ伝えろ!」

「何と」

「もう下がれる!」

 使者が走る。

 武田勢がまた押す。

「もう少し持て!」

 泰満が叫んだ。

     ◇

 小原親高から返事が来た。

「小原殿より!」

「申せ!」

「右から先に下げる!」

「分かった!」

「紀伊守殿は左をあと少し!」

 泰満が嫌な顔をする。

「なぜこちらが最後なのだ」

 彌太郎が言った。

「先ほど助けていただいた借りでは」

「返すには早すぎないか」

「借りは早く返した方がよろしいかと」

「覚えておれ」

「帰ったらで」

 右側の兵が少しずつ下がる。

 中央も続く。

 武田勢がそこへ入ろうとする。

「左、前へ!」

 泰満は一度だけ兵を押し出した。

 武田勢が止まる。

 追う勢いを削る。

「今だ!」

「小瀬戸衆、下がれ!」

 走らない。

 向きを変えない。

 一組ずつ。

 少しずつ。

「第一組!」

「下がれ!」

「第二!」

「下がれ!」

 下がった隊は、さらに後ろで止まる。

 向きを変え。

 次の線を作る。

 最後に泰満たちが残る。

「若!」

「分かっている!」

「もうよろしい!」

「あと少し!」

「その少しで死ぬのでございます!」

 彌太郎が泰満の馬を引いた。

「下がりますぞ!」

「引っ張るな!」

「なら御自分で下がってください!」

 泰満は武田勢を見る。

 近い。

 だが。

 小原勢はすでに後ろで次の列を作っている。

 そのさらに後ろには、下がった自分の兵もいる。

「退く!」

 小瀬戸衆が下がった。

 武田勢が追う。

 今度は小原勢が矢を射る。

 止まる。

 泰満たちがさらに下がる。

 また小原勢が下がる。

 今度は泰満が止める。

 交互に。

 少しずつ。

 南へ。

 勝つためではない。

 帰るために。

     ◇

 日が傾く頃。

 武田の追撃は弱くなった。

 今川の本隊までは、もう距離がある。

 殿の兵も、ようやく足を速めることができた。

「追ってきませぬ」

 彌太郎が後ろを見る。

「本当か」

「今のところ」

 泰満は馬を止めなかった。

「止まるな」

「はい」

「勝山まで行く」

「はい」

 親高が前から戻ってきた。

「紀伊守」

「小原殿」

「兵は」

「数えておりません」

「数えろ」

「今?」

「今でなくてよい」

「どちらです」

「勝山へ着いたらだ」

 泰満が少し笑った。

「小原殿」

「何だ」

「助かりました」

「何が」

「最初の戦で」

「そなたが崩れれば、こちらまで困ったから助けただけだ」

「それでもです」

 親高はしばらく泰満を見る。

「なら、今度はわしが助かった」

「何が」

「最後に一人で残らずに済んだ」

 泰満は答えなかった。

 殿は最後に残る役だった。

 だが。

 一人で残る役ではない。

 二人はそのまま南へ進んだ。

     ◇

 夜。

 勝山城には、次々と今川の兵が戻ってきていた。

 岡部。

 庵原。

 遠江勢。

 福島の与力だった者たち。

 旗は揃っていない。

 人数も揃っていない。

 隊の形も崩れている。

 それでも。

 帰ってきた。

 葛山氏広は城門近くに立ち、一隊ずつ見ていた。

 今は数を数えるより。

 戻ってくる旗を見る方が先だった。

「小原勢!」

 声が上がる。

 氏広が顔を上げる。

 親高の旗が見える。

 その後ろ。

「朝比奈紀伊守!」

 泰満の隊も戻ってきた。

 氏広は小さく息を吐いた。

「戻ったか」

 泰満と親高が馬を降りる。

 氏広の前へ進んだ。

「殿、戻りましてございます」

 親高が言った。

「御苦労」

「武田の追撃は、途中で止まりました」

「分かった」

 氏広は泰満を見る。

「紀伊守」

「はい」

「兵は」

 泰満は少し黙った。

「まだ数えておりませぬ」

「そうか」

「すぐに」

「いや」

 氏広が首を振った。

「今夜は休ませろ」

 泰満が顔を上げる。

「よろしいので」

「明日数えればよい」

 氏広は城内を見る。

 疲れ果てた兵。

 傷を負った者。

 仲間を担いできた者。

 武具を失った者。

 地面へ座り込む者。

 それでも。

 自分の足で城へ戻った者。

「今日は」

 氏広が言った。

「帰ってきただけでよい」

 泰満は深く頭を下げた。

「はい」

     ◇

 城内へ入る途中。

 泰満が彌太郎に言った。

「なあ」

「何でございましょう」

「負けたのだよな」

「はい」

「福島殿も死んだ」

「はい」

「甲府まであと少しだった」

「そうでございますな」

「それでも」

 泰満は周囲を見る。

 兵がいる。

 飯を受け取る者。

 傷を洗う者。

 水を飲む者。

 地面へ座り込む者。

 仲間の名を探している者。

 生きて帰ってきた者たちだった。

「帰ってくることはできた」

「はい」

 泰満はしばらく黙った。

 曳馬では。

 二十人を連れて帰れと言われた。

 三河では。

 敵を追わず、道を守った。

 甲斐では。

 勝つことも。

 城を取ることも。

 敵を追うことも経験した。

 だが今日。

 初めて知った。

 戦には。

 勝つためではなく。

 兵を帰すために戦わなければならない時がある。

 そして。

 負けた後ほど、その戦が必要になる。

「彌太郎」

「はい」

「帰る戦というのもあるのだな」

 彌太郎は少しだけ笑った。

「今頃お気づきで」

「おまえは知っていたのか」

「泰以様のお側に長くおりましたので」

「叔父上か」

「はい」

 泰満は嫌そうな顔をした。

「また叔父上に先を越された」

「ずっと先を歩いておられますからな」

「そのうち追いつく」

「ぜひ」

 泰満は城内へ入った。

 最後の兵が通る。

 見張りが周囲を確かめる。

 そして。

 勝山城の門が。

 その後ろで静かに閉じた。


今川クロニクル『宇津山朝比奈記』

史料・創作メモは上記参照。

関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。


本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。

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