第三十三話 上条河原|大将が消える
勝山城へ入って十日余り。
今川軍は、再び軍の形を取り戻していた。
飯田で傷んだ久野勢は人数を減らして組み直された。
欠けた隊はまとめられた。
負傷者は富田や河内へ送られた。
兵糧も勝山へ集め直した。
馬を休ませ。
槍を補い。
弓弦を替える。
一度伸びた軍を縮め、もう一度前へ出られる形へ戻していく。
小瀬戸衆も同じだった。
三百で甲斐へ入った兵は、もう三百ではない。
死んだ者。
傷を負って後ろへ下がった者。
病んだ者。
行方の分からぬ者。
それでも各家の隊を組み直せば、まだ十分に戦える。
「二百七十を少し切ります」
彌太郎が紙を見ながら言った。
「そんなに減ったか」
「戦死ばかりではございませぬ」
「分かっている」
「歩けぬ者まで連れて戦うわけにはまいりません」
「ああ」
泰満は十二家の名を見る。
初めて駿府で会った時とは違う。
今では、どの家が何人ほど残っているかも分かる。
誰が傷を負った。
誰が後ろへ送られた。
誰の隊だけが大きく減った。
それも分かるようになった。
「組を変える」
「やはり?」
「減った家だけで一つにすると弱くなる」
「四家ずつ、にはこだわらぬので」
「最初と同じ必要はない」
泰満は紙の上で組み合わせを変えた。
「今いる兵で作り直す」
彌太郎が頷く。
「それがよろしいでしょう」
「一度作った軍も、ずっと同じではないのだな」
「人が減りますから」
「嫌な言い方をする」
「戦でございます」
泰満は何も言えなかった。
戦えば減る。
減れば組み直す。
また戦う。
言葉にすれば、それだけだった。
◇
同じ頃。
勝山城の一室では、福島助春と葛山氏広が向かい合っていた。
間には甲斐の絵図がある。
「信虎から、何か来たか」
助春が尋ねた。
「何も」
氏広は答えた。
「国衆からは」
「探りを入れてくる者はおります」
「武田を離れると?」
「そこまでは」
助春が鼻を鳴らした。
「こちらは大島で勝った」
「はい」
「富田を取った」
「はい」
「勝山も押さえた」
「はい」
「飯田で一度やられたとはいえ、こちらの主力は残っておる」
「その通りです」
「それでも信虎は話をしてこぬ」
「飯田で勝ちましたからな」
助春は氏広を見る。
「一隊を破っただけだぞ」
「こちらにはそう見えます」
「向こうには違うと」
「今川勢を甲府の目前から勝山まで下げた。その事実は残ります」
助春は黙った。
氏広の指が勝山の上で止まる。
「このまま冬を越しますか」
「まさか」
「ならば、こちらにも時間は多くございませぬ」
「米か」
「米も」
「ほかには」
「人も馬もです」
氏広は静かに続けた。
「他国で一万近い兵を冬まで養う。その間、駿河も遠江も兵を取られたままになる」
「ああ」
「城を守る兵も要る。道も守る。荷も運ぶ」
「分かっておる」
「信虎は待っていればよい」
助春が氏広を見る。
「こちらだけが食う」
「そういうことです」
助春は絵図を見た。
「では、こちらから和議を申し入れるか」
氏広は首を振った。
「今は悪い」
「飯田か」
「はい」
「こちらから話を持っていけば」
「信虎は、自分が押し返したと思うでしょう」
「条件を吊り上げる」
「少なくとも、河内について簡単には引きますまい」
助春の指が絵図の北へ進んだ。
「一度勝つしかないか」
「私も、そう思います」
助春が顔を上げた。
「そなたから言うとは思わなかった」
「戦を続けたいわけではございませぬ」
「なら」
「終わらせるためです」
氏広の指も北へ動く。
「一度、信虎を退ける」
「その後」
「こちらから使者を出してもよい」
「信虎から来れば、なおよい」
「はい」
助春は少し笑った。
「前は宗長殿がいた」
「おりましたな」
「甲府まで行って、信虎と話をしてくれた」
「今回はおりませぬ」
「便利な者がいないと困るな」
「宗長殿に聞かれれば怒られますぞ」
「なら言うな」
氏広も少し笑った。
だが、すぐに真顔へ戻る。
「今回は、間に立ってくれる者がおりませぬ」
「ああ」
「ならば我ら自身で、話のできるところまで戦を動かすしかない」
助春が頷いた。
「勝って終わらせる」
「はい」
「今度こそな」
◇
十一月下旬。
今川軍は再び勝山城を出た。
以前とは違う。
飯田河原の後、軍を大きく伸ばしすぎないよう隊列を詰めた。
先鋒。
本隊。
後備え。
互いの間を、以前より短くする。
荷駄も必要以上に前へ出さない。
道を守る兵も、前へ出る軍から離しすぎない。
飯田で学んだことを、そのまま形にした。
泰満の隊は、前と同じく葛山勢の近くに置かれた。
「今回は見えるな」
泰満が前を見る。
葛山の旗がある。
さらに先には福島の旗も、時折見える。
「飯田の時より詰めておりますから」
彌太郎が答える。
「これなら切られぬか」
「切られにくくはなるでしょう」
「言い切らぬな」
「相手が武田ですから」
泰満は前を見る。
「嫌な言い方だ」
「甲斐へ来てから、嫌なことばかり覚えました」
「それはわしもだ」
軍は北へ進んだ。
武田勢は、すぐには姿を見せなかった。
だが今度は、それを逃げているとは思わなかった。
◇
上条の辺りへ近づいた時。
先鋒から報せが来た。
「武田勢、前方にあり!」
福島の本陣が止まる。
「数は」
「多くはございませぬ!」
「またか」
助春が絵図を見る。
飯田の時と同じようにも見える。
少数を見せ。
こちらが前へ出れば下がる。
その先で切り取る。
「追うな」
命令は早かった。
「先鋒はその場を保て」
「はっ!」
氏広が助春を見る。
「学ばれましたな」
「誰のせいだと思っておる」
「信虎殿でしょう」
「そなたもだ」
助春は周囲を見た。
「今日は全軍を離さぬ」
「それがよろしいかと」
「武田が出てくるなら、こちらの前で戦わせる」
今川軍は慎重に進んだ。
先鋒だけを先へ出さない。
本隊が追いつく。
その後ろに葛山勢。
さらに諸隊が続く。
前後の旗が、互いに見えるほどの間を保つ。
「これなら」
助春が言った。
「飯田のようにはならぬ」
氏広も否定しなかった。
「少なくとも、同じ手では」
助春が少し笑う。
「ならよい」
◇
武田勢が動いたのは、昼を過ぎた頃だった。
先鋒の前にいた兵が、少しずつ下がる。
今川側は追わない。
すると別の場所から武田勢が現れた。
「右に敵!」
報せが飛ぶ。
「数は」
「五百ほど!」
「庵原を向けろ!」
助春が命じる。
庵原勢が動く。
武田勢は、ぶつかる前に少し下がった。
「逃げるぞ!」
「追うな!」
助春が止める。
「列を崩すな!」
今度は左。
「左手に武田勢!」
「岡部を回せ!」
岡部勢が動く。
また武田が下がる。
氏広の表情が少し変わった。
「福島殿」
「分かっておる」
「こちらを動かしております」
「ああ」
「前ではなく」
助春が周囲を見る。
今川軍はまだ崩れていない。
だが。
右へ庵原が動いた。
左へ岡部が動いた。
先鋒は前にいる。
後備えは後ろ。
軍を詰めてきたつもりだった。
それでも、一つの命令で隊が動けば、その場所には隙間ができる。
そして、その中央に。
福島の本陣がある。
「本陣を詰めろ」
助春が言った。
「旗本を寄せろ!」
その命令が出た直後だった。
「前方より敵!」
「どこだ!」
「本陣正面!」
助春が顔を上げた。
今まで見えていた武田勢とは違う。
数が多い。
旗も多い。
そして速い。
「来たか」
助春の顔から笑みが消えた。
信虎は飯田と同じ手を使ったのではない。
飯田で今川軍が学んだことまで見たうえで。
その形を崩しに来た。
◇
泰満にも異変が分かった。
前方の音が急に変わった。
これまで散発的だった太鼓や声が、一つに重なった。
「何だ」
「本陣の方です」
彌太郎が答える。
「福島殿の?」
「おそらく」
すぐに伝令が来た。
「葛山勢、前へ!」
氏広の兵が動く。
「小瀬戸衆も続け!」
泰満が声を上げる。
「前へ!」
三百に満たない兵が進む。
だが、すぐに詰まった。
前から兵が戻ってくる。
「何があった!」
「武田が本陣へ!」
「どこから」
「分かりませぬ!」
別の兵が叫ぶ。
「福島様の旗が囲まれております!」
泰満の顔が変わった。
「道を開けろ!」
「前へ行くので?」
「葛山殿から命令が出ている!」
敗兵を脇へ通しながら進む。
押し返そうと前へ行く兵。
下がってくる兵。
使者。
負傷者。
狭い道の上で、すべてがぶつかる。
その先。
初めて見えた。
福島の旗。
その周囲に。
武田の旗が多すぎる。
「本陣だけに集まっているのか」
泰満が呟いた。
彌太郎が答える。
「そのように見えます」
左右へ動かされた今川勢を相手にする必要はない。
中央だけを。
総大将だけを。
武田はそこへ兵を集めていた。
◇
福島助春の周囲では、すでに乱戦になっていた。
「右を閉じろ!」
助春が叫ぶ。
「旗を下げるな!」
武田勢が次々と入ってくる。
だが今川軍全体が負けているわけではない。
岡部勢は左にいる。
庵原勢は右。
後方には遠江勢も残っている。
兵はいる。
数もある。
ただ。
今、助春の周りにはいない。
「葛山は!」
「こちらへ向かっております!」
「岡部を戻せ!」
「使者が出ました!」
「庵原もだ!」
「すでに!」
命令を出す。
だが。
使者が戦場を抜ける。
隊へ届く。
隊の頭が命令を受ける。
兵が向きを変える。
それから戻る。
その間にも武田勢は本陣へ入ってくる。
兵力差は、命令が届くまでの時間を縮めてはくれない。
「福島様!」
旗本の一人が叫ぶ。
「一度お下がりを!」
「どこへだ!」
「葛山殿の方へ!」
「わしが下がれば、この旗も下がる!」
「しかし!」
「ここで持たせろ!」
助春は刀を抜いた。
「岡部も庵原も戻る!」
その判断自体は間違っていなかった。
戻れば、兵数では今川が上回る。
そこまで持てばよい。
助春が考えたのは、それだけだった。
そして信虎が必要としていたのも。
その、わずかな時間だった。
◇
「紀伊守!」
葛山氏広の使者が来た。
「本陣左を支えよ!」
「承知!」
泰満が三隊へ命じる。
「左へ!」
隊が動く。
武田勢とぶつかる。
「押すな!」
泰満が叫ぶ。
「ここを空けるな!」
勝つ必要はない。
福島本陣へ入る武田勢を減らす。
道を開ける。
岡部や庵原が戻るまで持たせる。
それだけでよい。
「彌太郎!」
「はい!」
「右の組が離れた!」
「戻します!」
泰満の目前へ武田兵が来る。
槍がぶつかる。
一人倒れる。
別の兵が前へ入る。
「前へ出すぎるな!」
泰満は何度も同じ命令を出した。
飯田で見た。
前へ出すぎた一隊が切られる。
今は切られるわけにはいかない。
自分の隊も。
福島本陣も。
「本陣は!」
「まだ旗が見えます!」
泰満が見る。
福島の旗は、まだ立っている。
「なら持っている!」
その直後。
旗が大きく揺れた。
◇
助春の馬が倒れた。
助春自身は地面へ転がり、すぐに立った。
「馬を!」
「もうございませぬ!」
「ならよい!」
刀を持ったまま前へ出る。
「福島様!」
「旗を守れ!」
近習が助春の前へ入る。
一人。
倒れる。
もう一人。
武田勢が迫る。
助春が自ら槍を受けた。
身体が揺れる。
それでも倒れない。
「福島様!」
「うるさい!」
助春が怒鳴った。
「まだ死んでおらぬ!」
周囲の兵が笑ったのか。
叫んだのか。
もう分からなかった。
再び武田勢が入る。
助春も斬り返す。
だが、周囲の旗本は減っている。
助春の姿が。
武田の兵の中へ。
少しずつ埋もれていく。
そして見えなくなった。
◇
最初に異変を伝えたのは、命令ではなかった。
声だった。
「福島様が!」
誰かが叫ぶ。
「福島様、討たれた!」
泰満の手が止まった。
「何だと」
彌太郎が叫ぶ。
「誰が言った!」
「本陣の者です!」
「確かなのか!」
返事はない。
だが。
福島の旗が見えない。
先ほどまで、そこにあった旗が。
泰満の周囲でも、空気が変わった。
「総大将が」
「福島様が討たれた?」
「退くのか」
「誰の命を聞けばよい!」
「黙れ!」
泰満が怒鳴った。
「ここでは私の命を聞け!」
小瀬戸衆は止まった。
十二家の兵も、まだ泰満を見ている。
自分の隊だけなら。
まだ動かせる。
だが、その外は違った。
福島の与力。
駿河の諸家。
遠江勢。
誰もが同じ命令で動いているわけではない。
ある隊は福島本陣を助けようと前へ出る。
ある隊は自分の旗を守って下がる。
ある隊は葛山の命令を待つ。
ある隊は岡部を探す。
別の隊は、後ろへ走り始めた。
「若」
彌太郎が言う。
「まずい」
「ああ」
泰満にも分かった。
兵はまだいる。
武田より少ないわけでもない。
岡部もいる。
庵原もいる。
遠江勢もいる。
葛山氏広も生きている。
戦える兵は、いくらでもいる。
だが。
全員へ命令を出していた者が消えた。
誰が次の命令を出す。
誰が全軍を動かす。
それを決める時間さえ、戦場は待ってくれない。
◇
「福島殿は!」
葛山氏広が叫ぶ。
戻ってきた旗本が膝をついた。
血まみれだった。
「討死にございます」
氏広が一瞬、目を閉じた。
「遺骸は」
「取り戻せませぬ」
「……分かった」
それだけだった。
すぐに顔を上げる。
「諸将へ使者!」
「はっ!」
「勝手に退くな!」
「はっ!」
「岡部をこちらへ! 庵原にも伝えろ!」
使者が走る。
「遠江勢は後ろを固めよ!」
また走る。
「紀伊守は」
「本陣左におります!」
「そこを保たせろ!」
「はっ!」
氏広は次々と命令を出した。
今、止まれば崩れる。
考える時間はない。
だが。
福島が生きていた時とは違う。
「葛山殿」
側の者が声を落とした。
「何だ」
「福島様の与力の一隊が、すでに下がりました」
「止めろ」
「別の隊も」
「止めろ!」
「はい!」
氏広は周囲を見た。
兵がいないのではない。
いる。
どこにでもいる。
だが、それぞれが自分の家の旗の下へ戻り始めている。
福島が総大将である間。
岡部も。
庵原も。
久野も。
朝比奈も。
皆が一つの軍の中にいた。
その中心が消えた。
一つだった軍が。
少しずつ。
元の家々へ戻っていく。
◇
泰満は武田勢を押し返しながら、後ろを見た。
「また下がってくるぞ!」
敗兵が増えている。
「道を開けろ!」
「ですが」
「止めればこちらまで崩れる!」
飯田河原と同じだった。
違うのは。
今回は一隊ではない。
次々と来る。
駿河勢。
遠江勢。
旗も違う。
命令を出している者も違う。
「葛山殿からの命令は!」
「まだです!」
「ならここを保つ!」
泰満は叫んだ。
「勝手に退くな!」
三百に満たない兵が踏みとどまる。
だが、その脇を別の家の兵が南へ走っていく。
泰満には止める権限がない。
声を掛けても聞かない。
彼らには彼らの主がいる。
それが当たり前だった。
今まで福島が、その当たり前を一つに束ねていただけなのだ。
「紀伊守様!」
ようやく葛山の使者が来た。
泰満が振り返る。
「御命令!」
「申せ!」
使者は息を切らしながら言った。
「葛山様より――」
一度、息を吸う。
「前を捨てます」
泰満が黙った。
「全軍を、南へ戻します」
「勝山へか」
「まず軍をまとめられるところまで!」
泰満は周囲を見た。
今川兵はまだ大勢いる。
戦える兵もいる。
武田を押し返している場所さえある。
ここだけ見れば、負けているようには見えない。
それでも。
もう攻める軍ではなかった。
福島助春が死んだ。
その瞬間。
一万近くいた兵が消えたわけではない。
槍もある。
馬もある。
米もある。
城もある。
兵もいる。
消えたのは。
その兵を一つにしていたものだった。
泰満は初めて、それをはっきりと見た。
兵はいる。
だが。
軍がなくなった。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




