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第三十一話 勝山|今川軍、甲府へ迫る

 富田城を取った翌朝から、城の中には米俵が運び込まれた。

 戦に勝った翌日とは思えないほど、地味な仕事だった。

 城門を直す。

 壊れた柵を立てる。

 井戸を調べる。

 蔵に残った米を数える。

 負傷者を寝かせる場所を決める。

 河内から届いた荷を受け取り、次にどこへ送るかを書き留める。

 城外では、馬から荷が下ろされ。

 空になった荷駄には、今度は負傷者や壊れた武具が積まれる。

 北へ運ぶ物。

 南へ戻す物。

 富田城は、取ったその日から別の役目を持ち始めていた。

 泰満は城内を歩き回った末に、ついに言った。

「わしらは、いつ北へ行くのだ」

 村越が米俵の数を書きながら答える。

「この米を置く場所が決まってからではございませぬか」

「昨日、福島殿はまだ行くと言っていたぞ」

「兵が歩けば、米も歩きます」

「米は歩かぬ」

「だから運ぶ者が要るのでございます」

 彌太郎が横から口を挟んだ。

「若は、城を取ればそのまま次へ行けると思っておられたので?」

「そこまでではない」

「では、どこまで」

「……もう少し早いと思っていた」

 彌太郎が笑った。

「小瀬戸を預かって、少しは分かられたと思っておりましたが」

「うるさい」

 富田城の外には、さらに兵が集まっている。

 城へ入れる者。

 北へ出す者。

 河内へ戻す者。

 道を守らせる者。

 荷駄につける者。

 一万近い軍勢は、一万のまま動くわけではなかった。

 前へ進めば進むほど、後ろへ残す兵が増える。

 城を一つ取れば、その城を守る兵が要る。

 道が伸びれば、その道を守る兵も要る。

「前へ進むほど減るのか」

 泰満が呟いた。

 村越が顔を上げる。

「何がでございます」

「前へ出られる兵だ」

 村越は少し考えた。

「そうなりましょうな」

「一万いてもか」

「一万いるから、残せるのでございましょう」

 泰満は何も言わなかった。

 それもまた、一万の使い方らしい。

     ◇

 三日後。

 福島助春の前に、再び絵図が広げられた。

「次はここだ」

 助春が指したのは、富田から東寄りにある城だった。

「勝山」

 葛山氏広が言った。

「先に押さえますか」

「ああ」

「甲府へ向かうなら、もっと北へ出ることもできます」

「できる」

「では、なぜ」

「後ろへ残したくない」

 助春は答えた。

「富田だけでは、こちらへ伸ばした道を守りきれぬ」

 岡部の将が絵図を見る。

「勝山も押さえれば、盆地の南を二つの城で支えられますな」

「そういうことだ」

 富田。

 勝山。

 二つを押さえれば、河内から伸びてきた道の先に、より広い足場ができる。

 兵糧を置く。

 負傷者を休ませる。

 兵を残す。

 使者を出す。

 そして、その先へ軍を進める。

 氏広が頷いた。

「それに、勝山なら我らも知らぬ城ではない」

 泰満が顔を上げる。

「以前にも今川勢が入ったことが?」

「ああ」

 氏広が答えた。

「まだ信虎と大井が争っていた頃だ」

「では、城の様子も」

「多少は分かる」

 助春が言った。

「多少、で十分だ」

 氏広が助春を見る。

「富田の時と同じことを仰いますな」

「実際、役に立った」

「城というものは変わります」

「それも前に聞いた」

 助春は絵図を叩いた。

「だから見てから攻める。だが、何日も囲むつもりはない」

「武田本隊が戻る前に」

「ああ」

 助春の指が勝山からさらに北へ伸びる。

「わしが欲しいのは城ではない」

 泰満は、その言葉を黙って聞いた。

「ここを足場にして、もっと北へ出る」

「信虎を追うために」

「ああ」

 氏広が一度だけ助春を見る。

「城を取り始めると、城を取ることそのものが目的になりがちでございます」

「だから言っておる」

 助春は答えた。

「忘れるな。信虎を追っている」

 泰満は、その言葉も覚えておこうと思った。

     ◇

 勝山城の守りは、富田よりさらに薄かった。

 今川軍が近づくと、城兵は門を閉じた。

 矢も飛んだ。

 だが、岡部勢が城の周囲へ姿を見せ、庵原勢が別の道へ回ると、守備側の動きが目に見えて変わった。

 兵が少ない。

 それは遠くからでも分かった。

「本気で守るつもりでしょうか」

 泰満が尋ねる。

 助春は城を見たまま答えた。

「守りたいとは思っておるだろう」

「では」

「守れると思っているかは別だ」

 泰満は城を見る。

 富田で今川軍が何をしたか。

 大島でどれほどの兵がいたか。

 武田側も知っている。

 この城に数百を置いたところで、一万に囲まれれば長くは持たない。

 それでも、すぐ門を開けるわけにはいかない。

 城を預かる者には、城を預かる者の事情がある。

 昼前。

 城の一角から煙が上がった。

 一瞬、火攻めかと思った。

 だが違った。

「武田方、城を退きます!」

 斥候が駆けてくる。

「北側より兵が出ております!」

「数は」

「二百にも届きませぬ!」

 助春はすぐに命じた。

「追うな」

 岡部の将が振り返る。

「よろしいので」

「城を取れ」

「しかし」

「二百を追って、別の武田勢へ突っ込む方が馬鹿らしい」

 岡部は頷いた。

「承知」

 泰満は少し驚いていた。

 彌太郎が気づく。

「また意外そうなお顔で」

「福島殿は、もっと追う方だと思っていた」

「河内で半年待たされ、大島も越え、富田まで来られましたからな」

「人は変わるものだな」

 前方で、勝山城の門が開いた。

「もっとも」

 彌太郎が続ける。

「北へ進むこと自体は、まったく諦めておられませんが」

 泰満は助春の背中を見る。

「そこは変わらぬか」

「そこまで変われば、福島殿ではなくなります」

     ◇

 勝山城を押さえると、氏広の仕事が増えた。

 周囲の村。

 寺。

 小さな国衆。

 そこへ次々と使者を出す。

 誰が武田に近い。

 誰が大井と縁がある。

 どの村が兵糧を出せる。

 どの道なら荷駄が通れる。

 城を取っただけでは、その土地を使えるわけではない。

 ある日の夕刻。

 泰満が勝山城へ戻ると、氏広の前には三人の男が座っていた。

 近くの村の者らしい。

 泰満は邪魔をしないよう、少し離れたところへ座った。

「今川勢が村の田を荒らしたと」

 氏広が尋ねる。

「はい」

 村役人が答える。

「馬を入れた者がおります」

「どこの兵だ」

「旗までは」

「分からぬか」

「申し訳ございませぬ」

 氏広は怒らなかった。

「分かった」

 横にいた者へ言う。

「各隊へ触れを出せ。田畑へ勝手に馬を入れるな。薪も同じだ」

「はっ」

「必要なら村役人を通せ」

 村人が頭を下げる。

「ありがたく」

「ただし」

 氏広が続けた。

「今川の軍も食わねばならぬ」

「はい」

「米、人足、馬。必要なものは出してもらう」

 三人の顔が少し固くなる。

「取らぬとは言わぬ」

 氏広は淡々としていた。

「勝手には取らせぬ、と言っている」

 泰満は見性寺の山を思い出した。

 寺領だから村人を入れない。

 村が使っていたから寺に使わせない。

 どちらかだけでは済まなかった。

 軍も同じらしい。

 今川軍が勝っているからといって、好きに取ればよいわけではない。

 だが、一万近い兵がこの土地にいる以上、何も出さずに済ませることもできない。

 必要なものは取る。

 ただし、勝手には取らせない。

 氏広が泰満に気づいた。

「紀伊守」

「はい」

「何か」

「いえ」

「顔に出ておるぞ」

 泰満は少し迷った。

「戦より、こういうことの方が多いのだなと思いまして」

 氏広が笑った。

「戦っている時間など、長い戦の中ではわずかなものだ」

「では、残りは」

「兵を食わせ、人を動かし、道を守り、揉め事を片づける」

「面倒ですね」

「泰以殿の甥らしい」

「どういう意味です」

「泰以殿も同じ顔をしていた」

 彌太郎が後ろで吹き出した。

「笑うな」

「血は争えませぬな」

「叔父上とは血はつながっておらぬ」

 一瞬、氏広も黙った。

 それから少し笑う。

「では、育てられたのでしょうな」

 泰満は嫌そうな顔をした。

     ◇

 日が進むにつれて、富田城から勝山城へ運ばれる物が増えた。

 米。

 矢。

 縄。

 薬。

 馬の飼葉。

 勝山からは、さらに前方へ荷が送られる。

 同時に、軍も北へ伸びていった。

 最初は斥候。

 次に岡部。

 庵原。

 その後ろへ福島本隊。

 葛山。

 泰満。

 遠江勢。

 だが、全員が一緒に動く日は少なくなった。

 富田に残る兵がいる。

 勝山を守る兵がいる。

 道の途中にも兵を置く。

 荷駄を護衛する隊もいる。

 負傷者を河内へ戻す兵もいる。

 一万という軍は、前へ進むほど長く伸びていった。

 泰満はある日、勝山城の高みから北を見ていた。

「一万、もういないな」

 彌太郎が隣へ来る。

「おりますぞ」

「ここには、だ」

「それは最初からそうでしょう」

「大島の時より、もっとばらけた」

「前へ進みましたから」

 泰満は南を見る。

 富田城は見えない。

 そのさらに向こうが河内。

 河内から、さらに駿河へ続く。

「長いな」

「何が」

「駿河までだ」

 ここまで来る前は、一万という数の大きさばかりを見ていた。

 今は、その一万をつなぐ道の長さの方が気になった。

「この道のどこか一つ切られれば」

 泰満が言った。

「荷が来なくなりますな」

「米も」

「矢も」

「薬も」

「人も」

 泰満は黙って南を見た。

 前へ進むということは、後ろを遠くすることでもある。

 勝っているからこそ、道は長くなっていた。

     ◇

 十月に入る頃には、武田勢の大きな抵抗は見えなくなっていた。

 今川軍が一つ進めば、武田は一つ下がる。

 村から入ってくる話も似ている。

 信虎は北にいる。

 兵を集めている。

 だが、正面からは出てこない。

「大島で懲りたか」

 助春が言った。

 軍議の席だった。

 岡部の将が笑う。

「我らとしては、出てきていただいた方が話が早い」

「そうだな」

 氏広だけは笑わなかった。

「出てこないのには、理由がありましょう」

「兵が足りぬ」

「それもあるでしょう」

「では何だ」

「分かりませぬ」

 助春が呆れた顔をする。

「分からぬのか」

「分からぬから斥候を出しております」

 氏広が答える。

「ただ、信虎が何も考えずに下がっているとは思わぬ方がよいかと」

 助春は腕を組む。

「だが、こちらは勝っている」

「はい」

「大島で勝った」

「はい」

「富田を取った」

「はい」

「勝山も取った」

「はい」

「そして今も、こちらが前へ進んでいる」

「その通りです」

「なら」

 助春は絵図の北を指した。

「もう一押しだ」

 氏広は少し黙った。

「そうかもしれませぬ」

 泰満が顔を上げた。

 氏広が否定しなかったことの方が意外だった。

「信虎も、いつまでも下がれません」

 氏広は言う。

「古府中を捨てるわけにはいかぬ」

「だろう」

「ここまで押されれば、和睦を考えてもおかしくない」

「使者は」

「まだ来ませぬ」

 助春が鼻を鳴らした。

「なら、もう少し近くへ行く」

 指が甲府の西へ動いた。

「飯田」

 諸将が絵図を見る。

「ここまで出れば」

 助春は言った。

「信虎も、黙ってはおられぬだろう」

 氏広が絵図を見たまま答える。

「そうでしょうな」

「何だ、その言い方は」

「出てくるとは思います」

「ならよい」

「ただし、こちらの望む形で出てくるとは限りませぬ」

 助春が氏広を見る。

「またそれか」

「大島で、信虎は正面から受けて負けました」

「ああ」

「同じことをもう一度するとは思わぬ方がよい」

 室内が少し静かになる。

 助春はしばらく絵図を見た。

「では、何をする」

「それを探るために斥候を出しております」

「結局それか」

「分からぬものを、分かったふりはできませぬので」

 助春が小さく笑った。

「そなたは本当に面倒だ」

「役目ですので」

 泰満は二人のやり取りを聞きながら、飯田の位置を見た。

 甲府が近い。

 だが。

 近づけば近づくほど、武田が何もしないことの方が気になった。

     ◇

 今川軍が飯田の近くまで進んだ頃。

 甲府の山々は、秋の色を見せ始めていた。

 泰満の三百も前線へ出ていた。

 勝山城は、もう後ろだった。

 富田城はさらに遠い。

 河内は、そのまた先。

「甲府は」

 泰満が尋ねる。

 案内の者が北東を指した。

「そう遠くはございませぬ」

「ここまで来たか」

 泰満は遠くを見る。

 武田の本拠が近い。

 河内へ福島が入った時には、ここまで来るとは思っていなかった。

 周囲の兵にも、どこか余裕があった。

 大島で武田を破った。

 富田を取った。

 勝山を取った。

 そして一か月。

 武田は退き続けている。

 兵たちの間にも、もう一度勝てば終わるという空気があった。

「若」

 彌太郎が声を落とした。

「何だ」

「少し静かすぎませぬか」

 泰満が周囲を見る。

 田。

 道。

 遠くの村。

 人影はある。

 だが武田の旗は見えない。

「逃げているのではないのか」

「ならよいのですが」

「何が気になる」

「大島では、向こうから待っておりました」

「ああ」

「それで負けた」

「そうだ」

「なら、次も同じようにはしないのでは」

 泰満は答えなかった。

 氏広も同じことを言っていた。

 敵もこちらを見ている。

 こちらが何をしたか。

 どう勝ったか。

 どこが強いか。

 武田も知っている。

 泰満は南を振り返った。

 勝山。

 富田。

 大島。

 河内。

 その先に駿河。

 ずいぶん遠くまで来た。

 前には甲府。

 後ろには、長く伸びた道。

 その時。

 前方から馬が一騎、走ってきた。

「武田勢を確認!」

 声が飛ぶ。

 兵たちが一斉に顔を上げる。

「どこだ!」

「飯田の先!」

「数は!」

「まだ分かりませぬ! ですが旗、多数!」

 周囲の空気が変わった。

 泰満は北を見た。

 ようやく。

 退き続けていた武田信虎が、姿を見せた。

 大島とは違う場所で。

 今度は、甲府を背にして。



今川クロニクル『宇津山朝比奈記』

史料・創作メモは上記参照。

関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。


本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。

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